城・砦

北海道・東北(北海道・青森県・岩手県・秋田県・山形県・宮城県・福島県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐HD001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐AM001

 

 

所在地 No. 史跡名

ワンポイント・メモ
 

指定
奥州市 C‐IW001 胆沢城跡 802年に坂上田村麻呂により造営され、808年までには多賀城から鎮守府が移された古代城柵である。水沢段丘上の平坦地で規模は一辺約670mの方形である。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐AT001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐YG001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
多賀城市 C‐MG001 多賀城跡 工事中
仙台市 C‐MG002 仙台城跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐FS001

 

関東(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定

東京都

C‐TK001a 江戸城跡:
本丸・二の丸・三の丸
1457年の太田道灌による築城が確かな始まりとされ、1590年に徳川家康が入城。その後、大改修を進め1603年以降は天下普請による拡張に着手し、本丸,二の丸,三の丸,北の丸,西の丸,西の丸下を備えた日本最大面積の城郭になった。

国特別

C‐TK001b 江戸城跡:北の丸 1590年の大規模改修後は、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所であったが、明暦の大火以後は火除け地になった。その後、田安徳川家,清水徳川家が上屋敷を構えた。北に田安門,東に清水門がある。
C‐TK001c 江戸城跡:西の丸 1592年に城を拡張し一郭とし、将軍隠居後の大御所,将軍世子の居城として使用された。三度にわたって焼失し、1868年に朝廷に明け渡された殿舎は4度目に再築された仮御殿であった。遺構としては、半蔵門,坂下門,二重橋,伏見櫓などがある。
C‐TK001d 江戸城跡:西の丸下 1592年から日比谷入江を埋め立てて造られ、大名屋敷,馬場,厩舎が置かれていた。桜田門,和田倉門,馬場先門跡がある。現在は皇居外苑として開放されている。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定

小田原市

C‐KN001a 小田原古城跡
八幡山古郭
室町時代初期、大森頼春が築いた城郭が前身とされる。1500年頃、伊勢盛時(北条早雲)が奪取し、後北条氏の5代にわたる居城となった。東から東曲輪,本曲輪,西曲輪,藤原平,毒榎平と連なる連郭式である。

C‐KN001b 小田原古城跡
三の丸外郭新堀土塁
1587年には既に存在していたことが知られており、1590年に総構ができるまでは小田原城の西端の外郭であったが、総構が構築されると内側の堀として取り込まれた。土塁は2ヶ所を確認できる。
C‐KN001c 小田原古城跡
小峯御鐘ノ台大堀切東堀
北条氏康によって箱根方面と八幡山丘陵の尾根を分断するように築かれた空堀である。総構では内側の堀切として取り込まれた。幅約20~30m,深さ12~15m,傾斜角50~60度と国内最大規模である。
C‐KN001d 小田原古城跡
小峯御鐘ノ台大堀切西堀
1590年に構築された総構の内側の堀切として、東堀,中堀とともに複雑に三重に並べられた。西堀のかなりの部分は埋め立てられているが、その北先端は総構と接続しているのがわかる。
C‐KN001e 小田原古城跡
総構 香林寺山西土塁
豊臣秀吉との合戦に向け、1590年まで築いた総構の一部。小峯鐘ノ台大堀切の西に位置し、かつ総構の最西端となる。土塁の南側には総構の堀切が東西に走っている。
C‐KN001f 小田原古城跡
総構 稲荷森
豊臣秀吉との合戦に向け、1590年まで築いた総構の一部。稲荷森は総構堀が尾根の頂部から下がった部分に構築され、外側にも土塁を築くことで、麓からの敵兵に堀が確認できないように造られている。
C‐KN001g 小田原古城跡
総構 山ノ神堀切
豊臣秀吉との合戦に向け、1590年まで築いた総構の一部。小田原城の北側を守る重要な堀で、谷津丘陵上の通行を制約するために構築された。
C‐KN001h 小田原古城跡
総構 城下張出
豊臣秀吉との合戦に向け、1590年まで築いた総構の一部。ここは総構から張り出す形をとっており、敵兵に横矢掛りができるという効果を生んでいる。また、構造から虎口であった可能性もある。
C‐KN001i

小田原古城跡
蓮上院土塁

C‐KN001j

小田原古城跡
早川口土塁

C‐KN002 小田原城跡 1590年の小田原征伐後、徳川家康は小田原城に大久保忠世を置いた。その後、阿部氏,稲葉氏と続き、1686年には大久保氏が再び入封し明治時代まで居城する。天守,曲輪,城門などが復元されている。
C‐KN003 花岳城跡 鎌倉時代末期に土肥一族が安芸国沼田荘へと移った後、大森頼顕によって築かれたとされる。現在は石碑が立つのみで遺構は残されていない。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐ST001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐CB001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐IR001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐TG001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐GM001

 

甲信越(山梨県・長野県・新潟県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐YN001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
松本市 C‐NN001 松本城 工事中
伊那市 C‐NN002 高遠城跡 工事中
C‐NN003 春日城跡 工事中
駒ヶ根市 C‐NN027 赤須城跡 南北朝時代に片切為幸によって築かれたとされる。為幸は領して赤須氏を称した。武田信玄の勢力が伸びてくると、赤須氏はその家臣となったが、1582年の織田信長の信濃侵攻で滅亡した。
C‐NN028 上穂城跡 戦国時代に上穂氏が居城し、現在の大法寺一帯が城とされるが、現在は宅地となっており明瞭な遺構は残されていない。
C‐NN029 大田切城跡 平安時代、平友則の築城とされる。東山道の固めとしての役割を持ち、平家一門の東国における重要な前線拠点の一つであった。
飯田市 C‐NN005 西平城跡 松尾小笠原氏の久米ヶ城の支城と推測されている。1582年の織田信長の甲斐侵攻の際には小笠原信嶺は織田方へ内通し織田軍先陣が妻籠口から清内路口へ攻め入っている。
C‐NN006 知久平城跡 知久信貞が承久の変の軍功により伴野庄知久平の地頭となり、この地に築城したのが始まりとされる。武田氏滅亡後は菅沼定利が城主となったが、居城を飯田城に移し知久平城を廃城とした。
C‐NN007 鈴岡城跡 小笠原一族内での抗争が激しくなった室町時代後期に築かれたと考えられる。現在は鈴岡城址公園として整備されている。
C‐NN008 松尾城跡 小笠原一族内での抗争が激しくなった室町時代後期に築かれたと考えられる。1582年の織田信長の甲州征伐で落城し小笠原信嶺は信長に降伏する。本能寺の変の後は徳川氏の家臣となり、武蔵国本庄城に移ったことで廃城となった。
C‐NN009a 飯田城跡 室町時代に坂西由政が築いたのが始まりとされる。武田信玄が下伊那に侵入して以後30年間武田氏の領となる。長篠の戦い後、坂西氏は武田氏から離反した。織田軍の伊那侵攻では、信長は飯田城に入り武田勝頼父子の首級を飯田城下に晒している。
C‐NN009b 旧飯田城八間門 飯田城二ノ丸の御門(正門)の櫓門であったが、1871年に飯田藩が廃藩となると松尾羽根庄の木下家へ払い下げられた。
C‐NN010 飯坂城跡
(愛宕城)
飯田城に移る前の坂西氏の居城と伝えられる。
C‐NN015 座光寺北城跡 築城年代は定かではないが、座光寺氏によって築かれたとされる。1585年、座光寺為時は隣の松岡貞利の反徳川行動を伊那郡代に密告し功を挙げた。その後、徳川家康に仕える。
C‐NN030 久米ヶ城跡 南北朝時代に小笠原貞長によって築かれた連郭式山城である。貞長以後、9代続いたが、戦国時代中期に松尾城とともに落城したという。
C‐NN031 伊豆木城跡 工事中

下伊那郡
阿智村

C‐NN004 駒場城跡 室町時代に林氏によって築かれ、戦国天文年間に武田氏によって修築された。1573年、西上途中に病に倒れた武田信玄は、この駒場にて死去したといわれている。

下伊那郡
高森町

C‐NN011 坂牧城跡 天正の頃まで松岡城に付属する松岡80騎の一人であった坂牧氏によって築かれた。天竜川河岸段丘の最下段である天竜新田に突き出した台地上に築かれていた。
C‐NN012 松岡城跡 南北朝時代には北朝方となり、天竜川東岸の南朝方勢力に備えて、強固な松岡城を築城したと考えられる。主郭まで空堀で区画された五郭の曲輪で構成されており主郭は広大である。
C‐NN013 松岡南城跡 松岡氏の隠居城として築かれたともいわれている。松岡城の南側の南東へ張り出した段丘に築かれており、低い台地に三の郭,二の郭があり、空堀の土橋を渡るとほぼ方形の主郭に至る。
C‐NN014 松岡古城跡 築城年代は定かではないが、松岡氏が最初に居を構えた所とされる。松岡平六郎貞則の名があるが明らかではない。松岡城跡の北西約600mにある。
C‐NN016 洞頭城跡 城主は牛牧殿と呼ばれた松岡刑部大輔と伝わる。方形の館とそれを囲む堀形が想定されるが、現在は果樹園となっており遺構は残っていない。
C‐NN017 吉田城山城跡 松岡氏家臣の吉村氏によって築かれたとされる。吉村氏は松岡氏没落と共に没落して城も廃城となった。光専寺の西背後の河岸段丘の先端部に築かれていたが、現在は大きく削られて東端部が城山公園となっている。
C‐NN018 吉田本城跡 松岡氏家臣の吉田七郎の城と考えられている。松岡氏没落と共に没落して城も廃城となった。段丘の東端に築かれた天然の要塞で、主郭,二の郭,出丸によって構成されている。
C‐NN019 吉田古城跡 松岡氏家臣の吉田氏の城と考えられている。松岡氏没落と共に没落して城も廃城となった。方形に近い単郭の城で、西側には堀切、東側には腰曲輪をもつ。
C‐NN020 吉田南城跡 松岡氏家臣の吉田氏の城と考えられている。松岡氏没落と共に没落して城も廃城となった。吉田本城の南の少し離れた位置にあり、現在は果樹園になっている。
C‐NN021 原城跡 戦国時代に松岡氏の家臣である龍口氏が築いた城とされる。大きく3つの曲輪から成るが、曲輪1と曲輪3の間を県道が貫通している。城の南端に二重の空堀が残る。

下伊那郡
松川町

C‐NN022 大島城跡 平安時代末期に片切宗綱が大島氏を名乗り、築城年代は定かではないが大島氏によって築かれたとされる。1582年の織田勢の伊那路侵攻の際は城代の武田逍遥軒信綱が甲斐へと逃走し、自落同然の状態で織田勢に占領されてしまった。
C‐NN023 名子城跡 一説に鎌倉時代末期に片桐章重によって築かれたともいわれる。1582年2月の織田信長による伊那攻略により落城した。本曲輪西隣は、現在は老人福祉施設となっている。
C‐NN024 船山城跡 築城年代は定かではないが、片切氏によって築かれたとされる。瑞応寺の東側一帯が城域で御射山神社の辺りが三の丸、そこから東へ二の丸,本丸と続いた。

上伊那郡
中川村

C‐NN025 大草城跡 南北朝時代に大河原城の支城として築かれたとされる。天竜川の東岸にあり、南側にはその支流が流れる段丘の上に築かれている。現在は大草城址公園となっている。香坂氏が本拠としたが、織田軍によって落城した。

上伊那郡
飯島町

C‐NN026 飯島城跡 飯島氏によって築かれ、戦国時代まで居城とした。当初は小笠原氏に従ったが、武田氏の軍門に降った。織田軍の伊那侵攻では、飯島重家は討死したが、生き残った飯島氏は徳川家康や小笠原氏を頼って落ち延びた。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐NG001

 

東海静岡県愛知県岐阜県三重県

西部地方  浜松市湖西市磐田市森町袋井市掛川市菊川市御前崎市
中部地方  静岡市牧之原市島田市藤枝市榛原郡吉田町焼津市榛原郡川根本町
東部地方  富士市・富士宮市・沼津市・裾野市・御殿場市・駿東郡長泉町・駿東郡清水町・駿東郡小山町
伊豆地方  三島市・田方郡函南町・熱海市・伊豆の国市・伊豆市・伊東市・賀茂郡西伊豆町・賀茂郡東伊豆町・賀茂郡松崎町・賀茂郡河津町・下田市・賀茂郡南伊豆町
所在地 No. 史跡名

ワンポイト・メモ

指定
浜松市 C-SZ001 浜松城跡 前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、1570年に徳川家康が遠江攻略起点として三河国岡崎から移った。家康はここに17年間在城した。野面積みで有名な天守台は1590年以降の堀尾氏による築造である。
C-SZ003 井伊谷城跡 平安時代に井伊氏の祖である井伊共保によって築城された。南北朝時代には宗良親王が在城している。戦国時代には井伊直政を輩出した。本丸,二の丸,三の丸などで構成された山城である。
C-SZ004 犬居城跡 南北朝時代に天野景政によって築かれたとされる。戦国時代になると、その位置関係から今川,武田,徳川の各氏の影響を受け翻弄される。最後は徳川家康を裏切り武田氏へ奔ったことで家康に滅ばされてしまう。武田の手が加わった県内でも有数の山城である。
C-SZ006 大平城跡 南北朝時代、南朝方の三岳城を本拠とする井伊氏の支城で五体力神社の北の山に築かれた尾根式複郭型山城である。仁木義良らの北朝軍の夜襲により落城した。
C-SZ009 笹ヶ嶺城跡 戦国時代に天野虎景によって築かれ、子の天野藤秀が在城した。犬居城の支城の中で最も規模が大きく、蛇行する気田川に挟まれた急峻な尾根の頂部に築かれていた。
C-SZ012 千頭峯城跡 南北朝時代に南朝方の井伊道政によって、摩訶耶寺の北東にある山に築かれ、周辺に多くの城砦群を設けていた。宗良親王とともに籠城したが北朝軍により落城した。
C-SZ014 鳥羽山城跡 長篠の戦い後、武田勢が守る二俣城を奪回するために徳川家康が築城したとされる。同時に毘沙門堂砦,蜷原砦,和田ヶ島砦を築いて二俣城を包囲した。
C-SZ016 曳馬城跡 築城には諸説あるが、遠江を平定した徳川家康が1570年に最初に入った城である。現在は明治時代に創建された東照宮が鎮座する。
C-SZ017 二俣城跡 16世紀初頭に斯波義雄が北東の平坦地に城館を構えたのが始まりとされる。信濃から遠江への入口でもあり、三方原の戦いの前哨戦で武田軍に攻略された。その後、家康の嫡男松平信康が織田信長に自害させられた城でもある。
C-SZ018 堀川城跡 徳川家康の遠江侵攻の際、城に立て籠もる農民,雑兵約1,700人を殺戮したとされる。
C-SZ020 三岳城跡 南朝方の井伊道政の城で急峻な自然地形を利用した中世城郭の典型的な形態を有する。宗良親王とともに籠城したが北朝軍により落城した。
C-SZ040 佐久城跡 南北朝時代に浜名清政によって浜名湖に隣接する猪鼻湖に築かれた水城。徳川家康の遠江侵攻の際、浜名頼広は甲斐武田氏を頼って落ち、大屋政頼が大将となったが開城した。城址として主郭,馬出,堀などの遺構を確認することができる。
C-SZ043 野地城跡 1583年、徳川家康が佐久城の本多信俊,上村庄右衛門に命じて、より街道筋に近い猪鼻湖に面した場所に築かせた。現在は、本丸跡はグランドに、二の丸跡は野地神社となっている。
C-SZ044 志津城跡 993年に遠江へ下向した藤原共資によって築かれた。子の共保は井伊谷城へ移住した。城山は浜名湖を埋め立てるために削られたとされている。
C-SZ045 堀江城跡 貞治年間に大沢基久によって築かれたとされる。1569年、大沢基胤は遠江に進出した徳川家康に対し今川方の最後の拠点として激しく抵抗し家康から和睦を引き出し降伏した。その後は家康のもとで功績をあげ高家旗本となって明治までこの地を治めた。現在は遊園地とホテルの敷地となり遺構は残されていない。
C-SZ046 都田城跡 井伊氏に仕えた都田菅沼家の居城とされる。
C-SZ047 刑部城跡 戦国時代には今川義元の家臣新田美作入道が居城していた。徳川家康が遠江へ侵攻したときには今川方の兵やこの地の人々が立て籠ったが徳川軍に圧倒され落城した。1572年12月、三方原の戦いで家康に勝利した武田信玄がここで年を越している。
C-SZ048 井平城跡 鎌倉時代中頃に井伊直時が井伊家から分家し井平氏と名乗ってこの地を領したとされる。1572年、武田信玄が西上のとき三河方面から侵攻してきた山県昌景によって落城した。現在は、主郭跡に民家が建っているが、帯曲輪,土塁,土濠,井戸跡の遺構が残されている。
C-SZ049 笠井城跡 築城年代は定かではないが、室町時代には存在していた。築城者は武田家臣の笠井氏とされる。
C-SZ050 土居城跡 浜名氏の一族の大屋氏が居城したとされる。徳川家康の遠江侵攻の際、大屋政頼が佐久城に入ったが徳川軍からの降伏勧告を受け入れ開城した。この時期、土居城も廃城になったと考えられる。
C-SZ051 鶴ヶ城跡 1565年に鶴ヶ山大磯之丞によって築かれたとされる。4年後、別所城主の伊藤貞次に攻められ落城した。本曲輪,馬出曲輪,帯曲輪,北曲輪が良好に残されている。本曲輪には一部を除き横堀が巡らされている。
C-SZ052 平尾城跡 築城年代,築城者も定かではない。犬居城,堀之内城山城,平尾城にて三角形を成す。堀切と主郭には土塁跡が残されている。
C-SZ053 裏鹿城跡 残された文献や伝承もなく築城年代,築城者は定かではない。一説には、江戸時代にこの城跡近くに居館を構えていた名主の日名地氏の持ち城ではないかとされている。頂部は農耕地,墓地に転用されており、堀切のみが遺構として確認できる。
C-SZ054 水巻城跡 奥山定之が本城である高根城の支城として築き、二男の奥山定茂を入れた。定茂は1569年に兄・奥山貞益の高根城を焼き、二人の弟の城も攻めている。1575年の設楽ヶ原の戦いに敗れると、水巻城は落城し定茂は信濃へと落ち延びたという。城址は宥泉寺の地か北の河岸段丘上かはっきりしていない。
C-SZ055 大洞若子城跡 高根城の支城の一つとして奥山定吉が城主を務めたが、次兄の水巻城主奥山定茂と対立し、1560年に定茂によって攻め落とされ、定吉は城を追われたという。主郭には定吉の供養碑を覆う社と堀切が残されている。
C-SZ056 高根城跡 (久頭合城跡) 1414年に尹良親王を守るために奥山定則が築いたとされる。1569年、奥山貞益が城主のときに弟の定茂と信州遠山の遠山遠江守,土佐守父子によって攻められ落城している。落城後は武田方により大改修が行われたが、武田氏が滅びると高根城も廃城となった。本曲輪部分に井楼櫓,主殿,城門などが復元されており、二の曲輪,三の曲輪や堀切がよく残されている。
C-SZ057 只来城跡 1572年10月、武田信玄の西上の際に勝頼軍が二俣城へ向かう途中に攻略された。犬居城と二俣城の繋ぎの城として武田氏の遠江制覇にとって重要視されたが、1575年に勝頼が長篠設楽原の戦いで大敗すると、徳川家康によって落城した。
C-SZ058 光明城跡 戦国享禄年間に朝比奈時茂によって築かれ、後に朝比奈又太郎泰方が継いで在城したとされる。もとは山岳寺院の光明寺があった。1575年、徳川家康が本多忠勝,榊原康政に命じて光明城を攻略させ、落城後は大久保忠世の家臣が守備した。武田氏が滅亡すると廃城になったとされる。遺構としては中曲輪と堀切が残る。
C-SZ059 堀之内城山城跡 1574年,1576年、徳川家康が天野景貫の犬居城攻めのために築き本陣を置いた城と考えられている。犬居城からは南東1.4kmの標高330mの山頂に築かれ、山頂に本曲輪とニノ曲輪を置き、北斜面に腰曲輪を備えている。近年、ハイキングコースも整備されている。
C-SZ060 笹岡城跡 築城年代は定かではないが、1500年代初頭に二俣昌長によって築かれたとされる。のちに2km南西の地に新たに二俣城が築城されると笹岡城(二俣古城)と呼ばれるようになり、その存在価値は薄れ、やがて廃城となった。城地の大半を失っているが、本城山に段状の曲輪跡が残る。
C-SZ061 蜷原砦跡 1575年、徳川家康は依田父子が守る二俣城攻略に懸かり、鳥羽山城を本陣としてその周囲に毘沙門堂砦,蜷原砦,和田ヶ島砦を築いて包囲した。蜷原砦は清滝寺の西の丘陵、二俣城の尾根続きの台地上に築かれた。
C‐SZ068 和田ヶ島砦跡 1575年、徳川家康は依田父子が守る二俣城攻略に懸かり、鳥羽山城を本陣としてその周囲に毘沙門堂砦,蜷原砦,和田ヶ島砦を築いて包囲した。砦は渡ヶ島の台地の南端に築かれており、北側の堀切に土橋が架かり土塁が残っている。
C‐SZ069 毘沙門堂砦跡 1575年、徳川家康は依田父子が守る二俣城攻略に懸かり、鳥羽山城を本陣としてその周囲に毘沙門堂砦,蜷原砦,和田ヶ島砦を築いて包囲した。砦は現在の栄林寺の東にある山の南西端にある。南東に続く尾根に堀切があり土塁が残っている。
C‐SZ087 渋川城跡 築城年代は定かではないが、渋川井伊氏歴代の居城である。井伊谷の本家井伊氏に匹敵する力を持っていたと推測されるが、遠江守護をめぐる争いで斯波方に付き敗れたことで衰退した。城跡は南北に細長い丘となっている。
C‐SZ088 日比沢城跡 永正年間(1504~21年)頃、今川氏に属した後藤氏によって築かれた。義元敗死以後、分家の後藤実久は徳川家康に付き、後に城主となる。家康の関東入りとともに廃城になった。東西に並ぶ3つあるいは2つの郭から成る。
C‐SZ089 鴨江城跡 鴨江寺を城塞化したもので、南北朝時代に南朝方についた井伊道政は三岳城を本拠とし、南方面の支城として鴨江城を置いた。1339年、高師泰らの北朝軍に攻められ落城した。城跡は鴨江寺から西小学校の辺りとされる。
C‐SZ090 長岩砦跡 千頭峯城の東斜面にある井戸曲輪を守るために築かれた隠し曲輪とされる。砦跡の位置についても確定できていない。候補地とされるところは、みかん畑となっており遺構は残されていない。
C‐SZ091 中千頭砦跡 千頭峯城の見張所としての砦と考えられる。標高,規模からここが千頭峯城とする主張もある。尾根上に東西約400mに渡り二つの曲輪で構築されるが、現在は一帯がみかん畑となっている。
C‐SZ092 西山砦跡 千頭峯城の見張所として配された砦と考えられる。本坂峠,宇利峠方面や猪鼻湖全体を監視できる要所である。三ヶ日高山ふれあいの森展望台の南に位置し、途中に大堀切を有する。
C‐SZ093 鯉山砦跡 千頭峯城の砦(支城)とされる。1339年、本城とともに落城したと思われる。楕円形に近い主郭とそれを取り巻く腰曲輪がある。また、東側と北西方向にも曲輪と堀切が確認できる。
C‐SZ094 上野砦跡 井伊氏一族の上野氏によって三岳城を守る砦として築かれた。東の街道を監視する役割を持っていたと思われる。東を除く三方を土塁で囲まれていたが、現在は改変により南側の土塁は残されていない。
C‐SZ095 谷津砦跡 井伊氏によって三岳城を守る砦群の一つとして築かれた。旧鳳来寺道の押えの役割を持っていたとされるが、あまり機能しなかった。1340年に三岳城と前後して落城した。現在はみかん畑となっている。
C‐SZ096 今城跡 南北朝争乱期の井伊谷城と三岳城を中心とする城砦群のひとつとして、南方を監視する城砦であった。1340年、三岳城とともに落城した。現在は、みかん畑となっている。
C‐SZ097 尾奈砦跡 南北朝時代に井伊氏に従った県氏によって築かれた千頭峯城の砦(支塁)とされる。1339年に千頭峯城とともに北軍に落とされたものと考えられる。楕円形の主郭で西側に堀切,虎口をもつ。
湖西市 C-SZ005 宇津山城跡 1506年頃、遠州進出を図った今川氏親が浜名湖西岸に築いた水陸両用の城。正太寺を挟み東西二城に分かれている。
C-SZ041 岡城跡 1566年正月、宇津山城中にて兄の城主・朝比奈泰充を殺害した朝比奈真次の居館跡とされる。真次は一旦宇津山城主の座に就くが、翌年、小原鎮実に攻められ討死。遺構は残されていない。
C-SZ042 吉美城跡 (境目城跡) 1567年、今川氏真が徳川勢の遠江侵攻に備えて、妙立寺の地を接収して築城したとされる。翌年には酒井忠次の攻撃によって落城した。比高10mほどの丘陵に3つの曲輪が残されている。
磐田市 C-SZ021 社山城跡 平安時代中期に鷺坂則実が築いたとされるが信憑性が乏しい。1501年、今川氏親の支配となった。永禄年間に今川氏が没落すると徳川家康の支配となり、1572年に武田信玄が遠江国へ侵攻すると落城。翌年、再び家康の手に落ちるが、関東移封に伴い自然廃城となった。遺構の保存状態は良好である。
C-SZ038 匂坂城跡 1532年、匂坂長能が本領匂坂に城を築いた。1568年、徳川家康の掛川城攻略に際して匂坂吉政は今川氏から徳川方に寝返り家康より安堵状を受けている。1571年、武田信玄の高天神城攻めのときに信玄に攻められ落城した。西下の居館跡に城址碑がある。
C-SZ039 向笠城跡 向笠氏の代々の居城とされる。1572年、武田信玄の遠江侵攻に向笠伯耆守は武田氏に降ったが、翌年の徳川家康の遠江侵攻では酒井忠次らが攻め寄り向笠一之宮城とともに落城した。向笠伯耆守の五輪塔が残されている。城は新豊院の西背後にある南北の山に築かれていたとされる。
C-SZ062 仲明城跡 城主に敷地左衛門の名がある。1573年、武田軍の遠江侵攻の際に築城された可能が高い。東側に2本の堀切が穿たれ丘陵上に主郭,2郭をもつ。
C-SZ064 亀井戸城跡 1572年10月、武田信玄西上の際に二俣城を攻撃したときに合代嶋に陣を取ったことが伝えられており、この合代嶋の砦が亀井戸城と比定されている。翌年には徳川家康が合代嶋の砦を修築して武田方の二俣城に備えたという。
C-SZ065 城之崎城跡 1569年、徳川家康が当時の山本帯刀成氏(成行)の縄張を崩して新城を築かせ、掛川城に籠城した今川氏真攻略の前線基地として活用したとされる。氏真を攻略すると城之崎城は未完成のまま廃城となった。現在の磐田城山球場のグランドの位置が本丸で周囲には空堀の跡が残されている。
C-SZ066 見付端城跡 室町時代初期に遠江守護今川範国によって築かれたとされる。今川範氏が駿府に入ると、弟の今川貞世を祖とする遠江今川氏が入部した。1537(天文6)年、今川義元は天野虎景に命じて見附城を攻めさせこれを落としたと記録に残る。遺構は大見寺の境内にわずかに土塁が残っているのみである。
C‐SZ101 家田城跡 1573年、南の仲明城とともに武田軍の遠江侵攻の際に築城された可能が高い。東に堀切で区切り、東西に長い主郭の東側に2段の腰曲輪がある。
袋井市 C-SZ008 久野城跡 戦国時代初めに久野宗隆によって築かれ、位置的に今川,徳川,武田氏の攻防に翻弄された城。丘の頂上部の本丸の周りに二の丸,三の丸,北の丸,東の丸、さらに丘を取り巻く微高地に西の丸,南の丸を配し、周囲には堀が設けられている。1644年に廃城となった。
C-SZ019 馬伏塚城跡 今川氏重臣の小笠原長高によって築城されたとされる。今川氏と斯波氏の戦いの拠点となった。のちに徳川家康の高天神城奪回戦にも活用された。
C-SZ034 岡崎城跡 戦国時代末期に築かれた城で四之宮右近が城主と伝わる。また、高天神城攻略の基地として徳川氏により拡張,補修された可能性が大きい。中央部を南北に空堀で区切られた東西2郭で構成されている。西郭が本曲輪で周囲は土塁が巡らされている。東郭の二の曲輪には北八雲神社が建津。
C-SZ067 堀越城跡 今川貞世を祖とする遠江今川氏の居城とされる。城は海蔵寺一帯にあったとされ、海蔵寺北側の丘陵には祠が建っている。近年まで寺の西側にある市街地に土塁などの遺構が残っていたとされる。
C-SZ112 本庄山砦跡 当郷の村松氏築城説や飯田城の支城説などがあり、詳しいことは不明。1570年代前半の徳川・武田の抗争期の砦である。改変が進んでいるが、曲輪,堀切,横堀が残る。
C-SZ113 宇刈北城跡 築城年は定かではないが、宇刈七騎と称された七氏に関係する城とされる。城は馬蹄形をした丘陵上に築かれ、南域と北域に分かれる。いずれの曲輪も小規模である。
周智郡 森町 C-SZ002 飯田城跡 天方郷から飯田郷に進出した山内道美が築いた。1572年に武田軍に攻め落とされ、約5年後に徳川氏が再び奪還したが、そのまま廃城となった。太田川に面した丘陵の西端に築かれ、本丸跡や堀切が残る。
C-SZ010 真田山城跡 1545年に武藤氏定が築き、今川氏に仕えた後は武田信玄に臣従し城も武田氏によって改修された。1581年、徳川家康に攻められ落城した。
C-SZ015 天方新城跡 (天方城跡) 室町時代に山内道美によって城ヶ平と呼ばれる標高248mの山頂に築かれ、主郭は南を除く三方に横堀を巡らし円形に近い形をしている。戦国時代は今川,武田,徳川氏の争奪戦となる。
C‐SZ063 草ヶ谷城跡 1531年、武藤用定が築いたとされる。1545年には武藤氏定がその跡地に香勝寺を開いた。1581年、氏定は高天神城落城の際に戦死した。丘陵に曲輪らしき跡は見受けられるが遺構かどうかは確定できない。
C‐SZ098 粟倉城跡 築城年,築城者とも定かではなく、歴史についても詳しいことは分からない。1568年に遠江へ侵攻した徳川軍に備えて武藤氏が築いたとも天方城の支城として築かれたとも考えられる。東端に櫓台状の高所がある。
C‐SZ099 米倉城跡 永正年間(1504~21年)に二俣城から移った二俣昌長の居城とされる。二俣氏は今川氏親の代になると反抗する動きをみせたため、米倉城の麓にある極楽寺に蟄居を命じられた。現在は竹林と化している。
C‐SZ100 片瀬城跡 今川氏没落後の武田氏と徳川氏が遠江で覇権争いする中、武藤氏定によって築かれた。南北800ⅿ以上の尾根上に10以上の曲輪が連なるが、高速道路,ゴルフ場で分断,破壊されている。
C‐SZ102 思案坊砦跡 築城年,築城者とも定かではないが、徳川勢と武田方の武藤勢との対峙のなかで構築された砦と推測される。2郭と携帯基地局アンテナが建つ平場、その西側に砦の最高部がある。
C‐SZ103 十王山砦跡 築城年,築城者とも定かではないが、徳川勢と武田方の武藤勢との対峙のなかで構築された砦と推測される。広域農道東側の主郭と農道西側に切通しを挟んで2ヶ所の高所(郭?)がある。
C‐SZ104 鴨山砦跡 築城年,築城者また歴史についても不明であるが、戦国時代の徳川氏と武田氏の攻防のなかで築かれた砦と思われる。玉泉寺背後の丘陵上に築かれ、南西からⅢ郭,Ⅱ郭,Ⅰ郭と続く。
C‐SZ105 森之城跡 永正年間(1504~20年)に駿河草薙神社神主の大森泰守が今川氏親の命によって守衛したという。武田信玄没後には徳川勢と武田勢とが対峙した地域でもある。城はほぼ南北の山稜に6つの郭がある。
C‐SZ106 伏間城跡 1573年頃、徳川勢と武田勢とが対峙していた時期に築かれた陣城の1つとされる。武田氏の駐屯地的な陣城の可能性が高い。全体的に自然地形を活用し加工度が低く、急造された印象が強い。
C‐SZ107 白山城跡 1501年、天方通季らが遠江守護・斯波氏から天方本城を奪還した後、この城を築いた。戦国期には天方通興が天方新城を築き、その支城となった。主郭を中心にしたX字状に細長い曲輪が配されている。
C‐SZ108 天方本城跡 応永年間(1394~1427年)に山内道美が築城し、14世紀後半に山内通秀が天方氏を称した。1494年、天方通季は今川氏に降る。1569年、天方通興は徳川家康に降伏。本庄山山頂が城跡である。
C‐SZ109 小海戸砦跡 戦国時代に犬居への物資輸送の脇往還封鎖のために設置された砦跡と考えられている。築城年は定かではない。最高地の主郭を中心に北に1条、西に2条の堀切を設け、南に向けても尾根が続く。
C‐SZ110 上飯田砦跡 史料,伝承もなく詳細は不明であるが、近隣の城跡から山内氏と関係する砦である可能性が高い。最高地の主郭には熊野神社が鎮座していた。主郭の西下段のⅡ郭、さらにⅡ郭の西下には2段のⅢ郭がある。
C‐SZ111 高平山砦跡 戦国時代にはすでに遍照寺が建立され、戦時には境内が砦として活用されていたと考えられている。砦跡は標高88.5ⅿ,比高63ⅿの丘陵上に位置し、本堂裏など周辺には土塁の一部が残存する。
掛川市 C-SZ007 横須賀城跡 (大須賀城跡) 1578年に徳川家康が高天神城奪回のために大須賀康高に命じて築城させた。海岸線に面して東西に長い連郭式の縄張りで天竜川の玉石垣を用いた玉石積み築城法が特徴である。また、大手門が東西にあり、「両頭の城」といわれた。
C-SZ013 高天神城跡 遠江経営の重要拠点であり、武田軍と徳川軍の壮絶な戦いが行われた。城は東西二つの峯に分かれ、本丸のある東峯は急峻な地形を利用して土塁などで防御する構造、西峯は大堀切や横堀によって防御する構造となっている。
C-SZ030 掛川古城跡 1473年頃に朝比奈泰煕によって築かれた。1513年、泰能のときに南西の龍頭山に掛川城を築き移った。本曲輪には龍華院大猷院霊屋があり、その東端に土塁と堀切、その東側に二の曲輪,三の曲輪が続く。
C-SZ031 掛川城跡 1513年、朝比奈泰能によって築かれた。1569年には石川家成が入り徳川氏の領有となった。1590年、山内一豊が入り近世城郭としての体裁を整えた。日本初の木造復元天守と国重文の御殿がある。
C-SZ032 松葉城跡 河合氏の居城であったが、1496年、河合成信のとき勝間田播磨守と鶴見因幡守に攻められ落城し、成信と妻子は自害したとされる。松葉山山頂に主郭があり、尾根上に曲輪と堀切が残る。
C-SZ033 高藤城跡 室町時代に原田庄一帯を治めていた原氏の本城として築かれた。1494年8月には伊勢長氏(のちの北条早雲)によって攻め落された。現在はゴルフ場開発によって遺構は完全に消滅している。
C-SZ086 小笠山砦 1569年、今川氏真が立てこもる掛川城攻略のため徳川家康の本陣が置かれた。さらに武田方の高天神城奪還のために1576~77年に改修され、石川康通の管轄のもと高天神城への補給路を遮断遮断した。曲輪,横堀,土塁が残る。
C-SZ114 原砦跡 鎌倉時代に原田庄に入った原氏の砦とされるが、歴史については明らかではない。1494年の伊勢長氏の遠江侵攻の際に高藤城とともに陥落したと思われる。主郭と西に曲輪を配置していた。
C-SZ115 各和城跡 明応年間(1492~1501年)頃の築城とされる。場所については、永源寺境内とする説のほか原野谷川東岸の八幡神社南地域とする説がある。1573年、久野宗能により攻め落とされた。
C-SZ116 原川城跡 文亀年間(1501~04年)に原川大和守によって築城された。1568年、駿府を追われた今川氏真が掛川城に入った際、大和守も城を捨てて掛川城に籠城した。城跡は宇佐八幡宮の西側の辺りとされるる。
C-SZ117 青田山砦跡 1569年、今川氏真が籠る掛川城攻略のため、徳川家康が掛川城包囲網の一つとして築いた砦である。高天神城の小笠原氏助一党と松平一門が守備し、掛川城への兵糧を抑えていたと考えられている。
C-SZ118 仁藤山砦跡 1569年、今川氏真が籠る掛川城攻略のため、徳川家康が掛川城包囲網の一つとして築いた砦である。奥三河の山家三人衆が守備した。神明宮の建つ最高部を主郭とし北に2郭がある。
C-SZ119 天王山砦跡 1568年、武田信玄に駿府を追われた今川氏真が入城した掛川城攻略のため、徳川家康が本陣を置いた砦である。龍尾神社が建つ境内である。南に張り出した尾根に堀切,土壇がある。
C-SZ120 水垂城跡 室町時代に川井成信が拠る城郭とも推定されている。1494年の伊勢長氏の遠江三郡侵攻を受けていると考えられる。現在は工場建設に伴い、大きく削られ完全に消滅している。
C-SZ121 平塚砦跡 築造年,築城者、また歴史についても定かではない。平塚山の北東端の30m四方ほどの狭い範囲で砦機能としての遺構も残されていない。
C-SZ122 倉真城跡 戦国時代初期には松浦兵庫頭が居城したとされる。1497年の伊勢長氏による遠江三郡侵攻で落城し兵庫助は自刃したという。城跡は現在の世楽院とも南東の松浦兵庫頭城跡ともいわれる。
C-SZ123 美人ヶ谷城跡 室町時代には遠江西郷氏が居城したが、1494年、今川方の伊勢長氏による遠江三郡侵攻に際し制圧された。その後、石谷氏に継承された。湾曲した尾根上に延びる連郭式の山城である。
C-SZ124 滝ノ谷城跡 応仁,文明年間(1467~87年)頃を思わせる縄張りで、築城者,城主には中山祐斎,石谷氏など諸説ある。堀切状の鞍部の北には北曲輪があり、南に主郭,腰曲輪,東曲輪を配する。
C-SZ125 観音山砦跡 築造年,築城者など定かではないが、近隣で同構造ののあかなぎ山砦と同じく1494年の伊勢長氏による遠江三郡侵攻に関係する城砦と考えられる。尾根上に小規模な主郭と2郭,堀切がある。
C-SZ126 河田砦跡 1569年、今川氏真が入った掛川城を攻略のために徳川家康が築いた砦(付城)のひとつである。守備兵については定かでない。掛川市役所の北西部分が主郭とされ、西側に土塁が残る。
C-SZ127 金丸山砦跡 1569年、今川氏真が入った掛川城を攻略のために徳川家康が築いた砦(付城)のひとつである。もともとは在地の金丸氏の居館があったとされる。久野宗能が守備した。
C-SZ128 石津砦跡 1578年春、武田氏の高天神城攻略のため大須賀康高は徳川家康に横須賀城築城を命じられるが、その築城前に石津八幡山に臨時の砦を設置した。現在は微高地に八幡宮の祀られている。
C-SZ129 番所ノ段城跡 東大谷川が湾曲する東側に位置し、主要部は約40×50mで西側に曲輪を持ち、堀と土塁に囲まれていた。この地は犬待坂と呼ばれ、1578年11月、武田勝頼軍と徳川勢の合戦があった。
C-SZ130 東大谷砦跡 1578年、武田方の高天神城攻略に向け、徳川方が築いた砦とされる。11月、武田勝頼は東大谷を経て横須賀城を攻撃する態勢をとったが、東大谷入口の犬待坂において小返しし徳川勢と合戦した。山稜上に広い削平地をもつ。
C-SZ131 芳峠砦跡 高天神城の防御地とされている。ただ、周辺は国のパイロット事業で畑地(茶畑)に造成されており、遺構の確認は困難である。
C-SZ132 三井山砦跡 1580年3月に徳川家康の高天神城奪還に向けての高天神六砦の一つとして普請された。守将は酒井重忠。高天神城の南2.5kmに位置し、最高地を主郭とし、高天神城方面に力点を置いた縄張りである。
C-SZ133 岩井寺砦跡 丘陵上に建つ岩井寺境内が主郭となる。三方を大土塁が囲み、大手口には観音堂が建つ曲輪がある。小笠原信興の所領であるが、歴史については不明確な点が多い。
C-SZ134 岩滑砦跡 築城年,城主は定かではなく、高天神城の支城とされるが詳細は不明である。丘陵最高部には主郭、その南側に一段下がった南に延びる曲輪がみられる。
C-SZ135 宇峠砦跡 高天神城支城群のひとつとされるが、史料的な裏付けはない。通称「ダルマ山」の丘陵上に主郭をもつが、畑地開墾で遺構にも手が加えられている可能性が高いという。
C-SZ136 能ヶ坂砦跡 1580年、本多康重によって構築された高天神六砦の一つである。武田勢の兵糧や弾薬の補給を遮断した。高天神城から北東2kmの丘陵上に位置する南北50mほどの小規模な単郭式である。
C-SZ137 火ヶ峰西砦跡 徳川軍による高天神城奪還に向けての高天神六砦の一つとして、1580年6月に大須賀康高率いる横須賀衆によって構築された。比高30ⅿほどの丘陵地で、東の最高部が主郭となる。
C-SZ138 火ヶ峰砦跡 1580年、大須賀康高によって築かれた高天神六砦の一つである。火ヶ峰西砦とは尾根続きの丘陵地で一体であった可能性が高いとされる。南北100mの山頂部に堀切,曲輪の遺構が残る。
C-SZ139 安威砦跡 1580年に大須賀康高ら横須賀衆によって築かれた高天神城奪還に向けての砦である。『横須賀根元歴代名鑑』では、七砦のひとつとして挙げられている。主郭の南北は大堀切で区切られている。
C-SZ140 毛森山砦跡 文献資料には見られず、土地伝承もないが、立地条件や遺構から類推して物見目的の砦と考えられている。昭和40年代に大きく改変されていて、本来の遺構かは判断が困難である。
C-SZ141 獅子ヶ鼻砦跡 徳川軍による高天神城奪還のための六砦の一つとして、1580年6月に6日間で普請が完了したという。砦の守将は横須賀城主・大須賀康高である。主郭を中心に東側と北西側に見張台としての曲輪がある。
C-SZ142 中村砦跡 徳川軍によ高天神城奪還のための六砦の一つとして、1580年3月に3日間で完成したという。砦の守将は横須賀城主・大須賀康高である。最高部の主郭と土塁状の尾根で、駐屯地の平地を馬蹄形に囲っている。
C-SZ143 惣勢山砦跡 1574年5月、武田勝頼は徳川勢に対抗すべく、遠州東部における徳川方の拠点である高天神城へ2万5000の軍を進めた。その際に勝頼軍が本陣を置いたところとされる。最高地の主郭の周囲を腰曲輪が囲っていた。
C-SZ144 星川砦跡 高天神城の南1kmの丘陵上に位置し、1580年10月に徳川勢が高天神城の南方に前進させた砦と関係する可能性もある。道路貫通や開墾,砂利採取での改変が大きく遺構はわかりづらい。
C-SZ145 畑ヶ谷西砦跡 1581年の徳川家康による高天神城奪還に向けて構築された可能性が高い。近年発見された砦跡であり、史料,伝聞がない。北に主郭、南側の東西に長く延びる腰曲輪がある。
C-SZ146 畑ヶ谷砦跡 1580年10月に徳川軍が高天神城奪還に向けて高天神城の南方1kmに築いた砦のひとつの可能性が高い。砦北側に横堀,竪堀,堀切などの防御を備え、主郭を中心に細長い郭をもつ。
C-SZ147 畑ヶ谷東砦跡 1580(天正8)年10月、徳川軍が高天神城奪還に向けて高天神城の最前線に築いた砦のひとつと考えられる。素我神社東の裏山に位置し山頂部の主郭と数段の腰曲輪、北側には櫓台がある。
C-SZ148 長谷砦跡 1580~1年の徳川家康による高天神城奪還にむけての砦の可能性が高い。近年発見された遺構である。尾根東側に二本の竪堀をもち、頂部には曲輪と土塁が残るが、開墾による改変が大きい
C-SZ149 撰要寺砦跡 小谷田砦ともいう。1581年の高天神城攻略の際には、大須賀康高が守備した砦のひとつである。最高所が主郭と考えられ、撰要寺北側と東側に谷堀がある。高天神城の陥落後、康高はここに撰要寺を創建した。
C-SZ150 萩原口砦跡 1580年12月から翌年1月にかけて大久保忠世の持口として普請された。高天神城の西の萩原峠を抑える砦である。現在、遺構は道路によって改変されている。
C-SZ151 八ツノ谷砦跡 地理的には東方に武田軍の布陣と西方の能ヶ坂砦火ヶ峰砦が見渡せ、1573年の武田・徳川の高天神城攻防期に構築された痩せ尾根上の極めて小規模な単郭式山城である。
菊川市 C-SZ036 堤城跡 永正年間(1504~21年)に松井信薫によって築かれたとされる。 1514年、信薫は二俣城に移封となり、後に廃城になった。千畳敷と呼ばれる主郭とその西の出丸で構成されている。
C-SZ035 横地城跡 平安時代から当地を本領とした横地家10代横地家長によって室町時代初頭に築かれた。1476年、13代の横地長秀のとき今川義忠に攻められ落城した。尾根の上部に東の城,中の城,西の城を配する。
御前崎市 C-SZ026 八幡平城跡 (新野古城跡) 築城年代は定かではないが、新野氏の居城だったとされる。のちに新野氏が舟ヶ谷城を築くが、その後も詰城として維持された。二重堀切,馬出し,横堀など武田氏築城術の遺構が残り、武田氏による改修が行われたのは確実である。登山道が整備されている。
C-SZ027 舟ヶ谷城跡 (新野新城跡) 築城年は定かではないが、新野氏の居城とされる。戦国時代には今川氏真に殺害されそうになった虎松(のちの井伊直政)を新野親矩が匿い保護した。城址には連続した堀切,横堀が続くが、本曲輪,二の曲輪は採土で消滅している。
C-SZ028 天ヶ谷の城平跡 室町時代後期に当地領主の高橋左近将監が築城したとされた。武田氏関与の遺構が見られることから高天神城の後方支援として改修されたものと考えられる。城は北の主郭と南の二ノ郭の南北二郭から成る。
C-SZ029 釜原城跡 築城年代は定かではなく、築城者もはっきりしない。城主は聖道寺の前身である寺の大旦那で、南北朝時代に戦で落城したとも伝わる。西が本曲輪,東が二の曲輪となり、本曲輪から西方が出曲輪がある。
C-SZ082 殿ノ山城跡 室町時代にこの地域を治めていた比木氏の詰城と考えられている。尾根の北背後を堀切で遮断した南側が主郭とされる。堀切は西側で屈折して竪堀として伸びている。
C-SZ083 朝比奈城跡 天正年間(1572~91年)の初め頃、曾根長一の居城であったとされる。北西から南東にかけての尾根に郭と堀切が連なる。城跡の南東側は茶畑、北西側は墓地を経て民家横の階段に出る。
C-SZ084 横舟城跡 (藤ヶ谷城跡) 築城年代は定かではないが、城主は朝夷氏と伝えられる。南北に細長く、主郭の西下に腰曲輪が付き、主郭の北,東,南はそれぞれ複数の堀切が配されている。武田方の城として再利用,修築された可能性大。
C-SZ085 比木城跡 築城年,築城者とも定かではないが、室町時代の比木氏の城とも武田氏が遠江侵攻の際に築いた城ともいわれる。現在は茶畑と住居となっているが、北に二の曲輪、南に本曲輪があったとされ、西側には竪堀が確認できる。
榛原郡 吉田町 C-SZ077 小山城跡 1571年に武田軍が徳川方から奪取して大熊朝秀を城主とし本格的な城に改修した。1582年、織田・徳川軍による甲州征伐が開始されると、城兵は城を捨てた。三つの曲輪と丸馬出し,三日月堀,三重堀の遺構が残り、模擬天守が建つ。
牧之原市 C-SZ025 勝間田城跡 15世紀半ば頃に勝間田氏によって築かれたとされる。1476年、遠江に進出した今川義忠と見付で戦って敗れ一族離散となった。出曲輪の南に三の曲輪,二の曲輪,山頂に本曲輪が続く。
C-SZ078 龍眼山城跡 室町時代に勝間田氏が勝間田城の支城として築いた、または1570年以降に武田信玄が小山城と滝堺城の繋ぎの城として築いたともいわれる。主郭が榛原公園、第二郭は茶畑となり土塁,堀跡が残る。
C-SZ079 滝堺古城跡 室町時代に勝間田氏が居城としたとされる。戦国時代になると、勝間田氏は今川義忠によって滅ぼされた。1571年、駿河へ進出した武田信玄は古城を活用しようとしたが、手狭だったために滝堺新城を築いた。一の曲輪と二の曲輪から成る。
C-SZ080 滝堺城跡 1571年、武田信玄馬場信春に命じて高天神城攻略に向けて築いた連郭式山城である。1582年に徳川氏の手に落ち、その後廃城となった。尾根先に本丸,二の丸,三の丸が並ぶ。現在は全面が茶畑となっている。
C-SZ081 相良城跡 本格的城郭は1767年に田沼意次によって築かれた。三重櫓の天守閣をもつ本丸,二の丸,三の丸から成り、三重の堀を廻らした総石垣であったが、意次失脚後に破壊されてしまった。その後、城跡に相良陣屋が建ち藩庁として機能した。
島田市 C-SZ011 諏訪原城跡 (牧野城跡) 武田勝頼が遠江獲得を目論み、東海道沿いの牧之原台地上に築かせた城であるが、長篠の戦い後、徳川家康の手に渡り遠江攻略の拠点となった。武田氏が滅亡するとその役目も終わり廃城となった。武田氏,徳川氏の築城様式を知る上で貴重な史跡となっている。
C-SZ022 横岡城跡 応永年間(1394~1427年)に鶴見氏によって築かれた。1496年、鶴見栄寿が城主のときに今川氏親によって攻められ落城、鶴見氏は滅亡した。現在は茶畑などになり、土塁の一部と古井戸を残すのみである。
C-SZ023 野田城跡 (大津城跡) 1351年、佐竹兵庫助らが籠った安部城が陥落すると、佐竹兵庫助と藁科氏らはここに野田城を築城した。しかし、翌年8月、今川範氏,伊達景宗の軍に攻め落とされた。頂部に段状の平地が存在する。
C-SZ024 湯日城跡 築城年は定かではないが、勝間田氏の支城の一つであったといわれる。山麓には丸馬出しが存在し戦国時代には武田氏による改修があったと推定される。二の曲輪と本曲輪が段上状に並ぶ。
C-SZ037 今川城跡 1352年頃、駿河守護・今川範氏が駿河進出の足掛かりとして築いたとされる。慶寿寺及びその一帯とされ、慶寿寺境内が二の郭、その上の慶寿寺本堂裏の平場が主郭跡とされるが、遺構は残されていない。
藤枝市 C-SZ072 潮城跡 築城年,築城者は定かではないが、朝日山城の支城ではないかと考えられている。現在の潮神明宮のある丘から国道1号線バイパスにかけてが城址とされるが、現在は果樹畑,茶畑となっている。
C-SZ073 朝日山城跡 室町時代初期に岡部氏によって築かれたとされる。1536年の花倉の乱では岡部親綱が栴岳承芳(後の今川義元)に加勢し功をあげた。山頂部が一ノ曲輪となり三方に土塁が残る。
C-SZ074 花倉城跡 1353年頃に今川範氏が築いたとされる。1536年の今川家の家督争いである花倉の乱で落城した。南北に伸びる山頂稜線上に本曲輪,二の曲輪が配され、曲輪は堀切で区切られている。
C-SZ075 田中城跡 一色信茂の徳一色城が前身である。1537年、今川義元が家臣に守らせ、1570年、武田信玄が落とし改修させ田中城と改名。本丸を中心に直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす構造である。「史跡・田中城下屋敷」に本丸二重櫓が移築されている。
C-SZ076 東浦城跡 築城年代,築城者は定かではないが、今川氏関係の城館と推測される。戦国時代には朝比奈氏が守備していたとも伝えられる。最林寺裏の小丘一帯が城域とされるが、遺構は確認が難しい。
焼津市 C-SZ070 石脇城跡 1476年頃から1487年にかけて伊勢盛時(北条早雲)が在城していたとされる。山頂の一の曲輪,中腹の二の曲輪,南端の三の曲輪と数ヶ所の腰曲輪から成る。曲輪跡に城山八幡宮と大日堂が建てられている。
C-SZ071 花沢城跡 1537年頃、今川義元が築き初代城主は関口氏録という。1570年、城主・大原資良のときに武田信玄が攻め寄せ落城し廃城となった。山頂部に一の曲輪と二ノ曲輪を配置し、周囲の尾根に沿って腰曲輪や堀切を設けている。

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知多地方  東海市大府市知多市知多郡阿久比町知多郡東浦町半田市常滑市知多郡武豊町知多郡美浜町知多郡南知多町
西三河地方  みよし市刈谷市知立市高浜市碧南市<安城市西尾市豊田市岡崎市額田郡幸田町
東三河地方  蒲郡市豊川市豊橋市田原市新城市北設楽郡設楽町北設楽郡東栄町北設楽郡豊根村
所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
名古屋市 C‐AC001a 名古屋城跡 16世紀の前半の柳ノ丸が前身で1538年に織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。1610年、徳川家康が9男・義直の尾張藩の居城として天下普請で築城開始し1615年にほぼ完成。金鯱をもつ天守のある本丸を中心として二之丸,西之丸,御深井丸,三之丸を配する。 国特別
C‐AC001b 名古屋城本丸御殿 1615年2月に完成。当初は藩主の住居であったが、1617年より将軍上洛時の御成御殿とされた。13棟の殿舎が建ち並び、当時の技術,美術の粋が集められた。名古屋大空襲で焼失したが、現在は復元一般公開されている。
C‐AC005 大高城跡 天文年間は織田信秀の支配下にあったが、信秀の死後に今川方の手に落ちた。1560年の桶狭間の戦いでは松平元康が兵糧を届け城の守備についたことで有名である。
C‐AC021 那古野城跡 大永年間に今川氏親によって築かれた。城主は今川氏豊であったと伝えられている。1532年、織田信秀が氏豊を追放し城を奪い幼い信長に譲った。1555年、信長は織田信友を滅ぼし清洲城に移り、やがて廃城となった。
C‐AC028 鷲津砦跡 1559年、鳴海城と大高城の連絡を絶つべく築かれ、守将として織田秀敏飯尾定宗・尚清父子が置かれた。1560年の桶狭間の戦いでは今川軍先鋒隊の朝比奈泰朝と松平隊に落とされた。東西25m,南北27mの規模だったという。
C‐AC029 丸根砦跡 1559年、鳴海城と大高城の連絡を絶つべく築かれ、守将として佐久間盛重が置かれた。1560年の桶狭間の戦いでは今川軍先鋒隊の松平元康,石川家成,酒井忠次らの松平隊に落とされた。東西36m,南北28mの砦の周囲を幅3.6mの外堀が囲んでいた。
C‐AC031 鳴海城跡 1394年に安原宗範によって築かれた。宗範の死後は廃城となったが、戦国時代には織田方の山口教継が今川義元に備えるべく城主を務めていた。しかし、1552年に今川方に寝返る。1560年の桶狭間の戦いでは岡部元信が守備した。丘陵の西に立つ東西に長い城郭とされる。
C‐AC032 善照寺砦跡 1559年に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つで佐久間信盛,信辰兄弟が配置された。一辺50mの堀と土塁を巡らせた館型であったとされる。善照寺砦公園として整備され遺構は確認できない。
C‐AC059 赤池城跡 岩崎城の支城の一つで、丹羽十郎右衛門によって築かれたとされる。丹羽秀信を最後に廃城となった。現在は中部電力変電所の脇に城址碑が立つのみとなっている。
C‐AC070 古渡城跡 1534年、織田信秀が今川氏豊から奪った那古野城からさらに東に備えるために築城し居城とした。四方を二重の堀で囲まれた平城であった。
C‐AC071 末森城跡 1548年に三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えて織田信秀が築城した。実弟の織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものであった。
C‐AC083 丹下砦跡 1559年に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つで水野帯刀忠光,山口海老丞広憲,柘植玄蕃允友顕ら兵340が配置された。1860年には鳴海陣屋がこの砦跡に移ったが1868年7月に閉所となった。現在の光明寺の裏山が砦跡である。
C‐AC084 中島砦跡 1559年に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つで守将として梶川高秀が置かれた。扇川と手越川の合流地点に位置し、一帯は宅地化されていて個人宅の庭に石碑が建てられている。
C‐AC116 小幡城跡 1522年に織田信安の家臣岡田重篤によって築かれたとされる。一時廃城となったが、小牧長久手の戦いの際に徳川家康によって修築され、戦い後に再び廃城となった。
C‐AC135 志賀城跡 (平手政秀宅跡) 織田信長の傅役であった平手政秀の居城である。政秀は信長の元服や初陣、斉藤道三の娘との婚姻などに奔走したが、1553年、突如自刃して果てた。現在、城跡(宅跡)は志賀公園として保存されている。
C‐AC136 比良城跡 天文年間に佐々成宗によって築かれた。成宗の5男・佐々成政が比良城主となったが越前国府中の小丸城に移ったことで廃城となった。
C‐AC137 平田城跡 斯波氏の一族といわれる平田氏の居城。砦または大きな武家屋敷であったと思われる。
C‐AC138 大野木城跡 戦国時代初めに塙右近によって現在の福昌寺一帯に築かれたとされる。2代目は信長に仕え、原田備中守直政と改めたが直政が亡くなった後の塙氏は信長からも冷遇され、この地から離れている。江戸時代の名医・塙宗悦も一族である。
C‐AC139 如意城跡 室町時代に石黒重行によって築かれたとされる。南朝方として敗れた一族が如意に隠れ住み、後に斯波氏に仕えて如意,味鋺を領した。如意城は瑞應寺の北東側一帯に築かれていたとされる。
C‐AC140 安井城跡 天正年間に織田信長に仕えた浅野長勝が築いたとされる。尾張中島郡大里村に屋敷を築いて移ったことで廃城となった。
C‐AC141 守山城跡 今川氏親の尾張進出の拠点として、松平信定によって築かれたとされる。1535年に松平清康が惨殺された守山崩れの城である。現在宝勝寺が建つ一区画が城跡とされ空堀のほか本丸があったとされる土壇の一部などが残されている。
C‐AC142 名塚砦跡 1556年、織田信行とその重臣林通勝,柴田勝家らに謀叛の動きを察した織田信長が築いた砦である。現在の白山神社一帯が砦とされるが遺構は残されていない。
C‐AC143 田幡城跡 戦国天文年間に林氏の祖となる越智信高によって築かれたとされる。1556年の稲生原の戦で織田信行方に加担し田幡城は廃城となった。現在、城跡は金城小学校に変わり遺構は残されていない。
C‐AC164 植田城跡 1471年、遠江国横地城主の横地秀綱が尾張国へ移住し築いた城である。5代秀政から織田氏に仕え、子孫は代々郷士としてこの地に住み続けた。城は植田八幡宮の東南100mほどの郷藪公園とその西側の住宅辺りとされる。
C‐AC191 御器所西城跡 〔尾陽神社〕 室町時代に佐久間家勝により築城され、久右衛門盛次,玄蕃助盛政と続いた。代々信長に仕え、盛次は柴田勝家に従い、盛政は柴田勝家とともに賤ヶ岳で戦い捕えられ斬殺された。現在は尾陽神社が建ち、城跡遺構はほとんど残っていない。
C‐AC192 御器所東城跡 服部将監正成の居城とされ、二重の堀を巡らせた城であったと伝わるが、場所は確定されていない。公民館の脇に土塁状の高まりがあり社が祀られている所がある。
C‐AC193 大秋城跡 〔大秋八幡社〕 戦国天文,弘治年間に大秋十郎左衛門の一族が居城していたと考えられている。現在は大秋八幡宮の境内に碑が建っているが遺構はない。
C‐AC194 日比津城跡 〔大円寺〕 南北朝時代に野尻掃部が城主であったとされる。大円寺を含む北側一帯が城域とされるが遺構は残っていない。
C‐AC195 岩塚城跡 〔遍慶寺〕 築城年代は定かではないが、吉田治郎左衛門重氏によって現在の遍慶寺一帯に築かれたとされるが、遺構は残っていない。
C‐AC196 前田城跡 〔速念寺〕 前田速念寺の境内にあったとされるが、遺構は残されていない。最後の城主・前田長定は小牧長久手の戦いで織田信雄方から秀吉方へ寝返り、家康により討取られ、城は破却された前田利家はここで誕生したという説もあるが定かではない。
C‐AC197 助光城跡 称円寺のあたりに助光城があったと考えられているが詳しくはわかっていない。織田信長家臣の福留氏の居城と伝えられる。
C‐AC198 荒子城跡 1544年に前田種利が前田城の東に築いたとされる。1566年の稲生原合戦で勝者となった織田信長が前田利昌(利春)に与えたと言われる。荒子城が前田利家の誕生之地とされ石碑が建てられているが、前田城とする説もある。荒子城は天満天神宮の辺りに築かれていたが、現在は遺構は残されていない。
C‐AC199 星崎城跡 平安末期に山田重忠が築城したとされるが定かではない。戦国時代には岡田直孝は織田信雄に仕えたが、1584年に秀吉との内通が疑われ殺害された。3代善同は鳴海の山口重勝に城を明け渡し、重政が伊勢国茂福へ移ると廃城となった。現在は笠寺小学校の敷地となり片隅に城址碑が建つ。
C‐AC201 下社城跡 〔明徳寺〕 築城年代は定かではないが、柴田氏の居城である。柴田勝家はこの城で生まれている。1575年、織田信長が朝倉義景を滅ぼすと、勝家は越前国北庄城主に任ぜられ、下社城は廃城となった。現在は明徳寺が建つ。
C‐AC202 上野城跡 1532年頃に下方貞清により築城された。貞清は織田信秀に仕え小豆坂の戦いで小豆坂七本槍の一人として抜群の槍術で名声を挙げた。その後も信長軍として功を挙げている。城址は現在の上野小学校のあたりとされる。
C‐AC203 伊勝城跡 天正年間の佐久間盛政の居城とされる。その後、御器所西城へ移り廃城となった。城跡は伊勝小学校,伊勝八幡宮の西,宝珠院の南辺りとされるが、現在は住宅地となり遺構はない。
C‐AC204 小林城跡 〔清浄寺〕 1548年に牧氏によって築かれたとされる。牧長清は織田信長の妹小林殿を正室に迎えていたが、1570年に牧長清が没したことで廃城となった。その後、柳生兵庫利厳の屋敷となっている。
C‐AC205 米野城跡 戦国弘治年間頃、中川弥兵衛の居城であったとされ、現在の長松寺一帯に築かれていたとされるが、遺構は残っていない。中川弥兵衛は稲生合戦で織田信行に味方したことで敗れ、城も廃城となった。
C‐AC206 下之一色城跡 天正年間に前田与十郎種利が築城した。1584年の小牧長久手の戦いで徳川織田連合軍側から秀吉方に寝返ったため、種利は子の定利とともに斬殺され、城は徹底的に破壊されて廃城となった。現在は新川になっており遺構は残っていない。
C‐AC207 江松城跡 城主は織田信長に仕えた土方治兵衛とされるが城の位置が明確ではない。現在の神明社の辺りとも随縁寺辺りともいわれるが、いずれにも遺構はない。治兵衛は本能寺の変の際に遅れて駆けつけ、その場で自害したという。江松城はそのまま廃城となった。
C‐AC208 稲葉地城跡 天文年間初期、織田信光(信長の叔父)の築城とされる。現在の神明社の辺りとされる。信光は清洲城主織田信友の重臣坂井大膳の誘いに乗じて信友を謀殺したが、自身も坂井孫八郎によって暗殺されたと云われる。3代続いた後に廃城となった。
C‐AC323 山崎城跡 戦国時代に蔵人浄盤なる人物が築城したとされる。その後、加藤弥三郎、3代目の城主として佐久間信盛が一時居城したが、1580年に信長に追放されたことで廃城となった。現在は城跡に宝珠山安泰寺が建つ。
C‐AC324 戸部城跡 築城年代は定かではない。東西約30m,南北約180mの細長い城であった。戸部政直は織田信秀が病没すると織田方から今川方へと寝返り、織田信長の策略により今川義元によって殺され、戸部城も廃城になった。
C‐AC330 猪子石城跡 築城年代は定かではないが、植田城主5代横地秀政の弟の横地秀次が分家し猪子石城を築いたとされる。秀次は小牧長久手の戦いで羽柴秀吉方につき敗れて美濃方面に逃走し廃城となった。現在は月心寺と神明社の境内となっている。
C‐AC375 龍泉寺城〔龍泉寺〕 1558年3月、織田信行(信勝)によって築かれたが、同年11月に信行は信長に誘殺されてしまった。1584年の小牧長久手の戦いの際には、羽柴秀吉が陣を置き、一夜にして空堀を造ったとされる。しかし、火を放って退き廃城となった。模擬天守が築かれ、龍泉寺の宝物館とされている。
C‐AC385 向山砦跡 桶狭間の戦いに際し織田信長が今川方の大高城を包囲すべく築いた砦である。大高城の南西200mほどの丘陵上にあり、大高城に最も近い。1560年の桶狭間に戦いでの守将や戦闘状況についてはほとんど知られていない。場所は春江院山門辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC386 正光寺砦 桶狭間の戦いに際し織田信長が大高城を包囲すべく築いた砦である。大高城の南東600mほどに位置し、現在の大高中学校辺りとされるが遺構は残されていない。1560年の桶狭間の戦いでは一説に佐々政次が守備したともされる。
C‐AC387 平針第一城跡 築城年代は定かではないが、上杉氏の家臣であった小野田勘六が上杉家を離れ、この地に城を築いたとされる。勘六の墓所は慈眼寺に残されている。現在の神田公園辺りあるいは郷之島公園の北辺りとされる。
C‐AC399 島田城跡 室町時代初期に斯波高経が築いたとされる。戦国時代には牧長義が、織田信秀から小林城を譲られ移るとともに、その出城として島田城を修理し牧虎蔵に守備させた。本郭跡に祠が建つ。
C‐AC401 川村北城跡 文明年間に津田武永(織田寛近)が築き居城したとされる。その後、岡田時常,牧長義と続く。1548年頃、長義が小林城へ移ったことで廃城になったという。北に庄内川,南に白沢川が流れ天然の要害であったとされるが、場所の特定はできていない。
C‐AC402 川村南城跡 元亀,天正年間頃に織田信長に仕えたといわれる水野清忠の居城とされる。ただ、城域については現在の長命寺の辺り,白沢公園辺りともいわれるが、庄内川の洪水対策のために丘を掘割られたため、はっきりしない。長命寺には清忠の石碑がある。
C‐AC403 藤森城跡 1584年の小牧長久手の戦いで敗れた小関三五郎がこの地に落ち延び築いたが、戦の傷がもとで1589年に死去し廃城となった。城跡は藤森神明社もしくは本郷公園辺りとされるが、公園一帯の可能性が高い。
C‐AC404 米田城跡 1560年の桶狭間の戦いで戦功第一となった簗田広正(政綱)が城代を置いていた城である。戦功により広正は沓掛城主になった。城は定納公園の西側一帯に築かれていたとされるが、現在は遺構は残されていない。
C‐AC405 大森城跡 平安時代初期に築かれたとされる。1467年、矢田川水利権争いで大森城の尾関勘八朗水野宗国の新居城を攻めたが、翌日に逆には水野宗国が大森城を攻め落城させた。大森中央公園の北西、大森中学校の南側辺りが城跡とされるが、遺構は残されていない。
C‐AC406 吉根城跡 1585年に記載された織田信雄分限帳には、北野彦四郎が吉根を治めていたとある。守山丘陵の麓にある独立丘陵に位置しており、神明社とその東側の住宅地が城跡とみられる。
C‐AC407 志段味城跡A 1334~36年に水野良春が築いた城とされ、志段味の山林,原野を開拓した。良春は1361年に志段味城を一族に任せて南下し、新居城を築き移っている。志段味城の位置については、複数の候補地が挙げられており、ここは中志段味野添地区。
C‐AC408 志段味城跡B 1334~36年に水野良春が築いた城とされ、志段味の山林,原野を開拓した。良春は1361年に志段味城を一族に任せて南下し、新居城を築き移っている。志段味城の位置については、複数の候補地が挙げられており、ここは上志段味羽根地区。
C‐AC409 大永寺城跡 『尾張徇行記』によれば室町から戦国時代に大永寺村に築かれた川原平作の居城とされる。はっきりした城域は不明であるが、現在のアサヒビール名古屋工場南端を含む旧地名「城ノ内」地区一帯と考えられる。
C‐AC410 一色城跡 尾張守護の斯波氏の命により柴田勝重が築いたとされる。勝重は1501年に城内に神蔵寺を創建した。1584年の小牧長久手の戦いでは戦火に遭っている。神蔵寺には柴田勝重の墓がある。
C‐AC415 高針城跡 1469年、上社城主の加藤勘三郎信祥が築き移ったとされる。何代か後の加藤勘三郎は、1582年の本能寺の変の際、主君・織田信忠の安否が心配になり京に上ったまま行方が分からなくなったという。高牟神社の南西に位置する小高い畑地が城跡とされる。
C‐AC416 上社城跡 加藤勘三郎信祥が1469年に高針城へ移るまでの居城とされる。上社城も1573~92年頃まで存在したともいわれる。城主は代々「勘三郎」を名乗った。城は舌状丘陵地の上に築かれ、現在の観音寺から上社公園グランド間および公園西側の住宅地辺りとされる。
C‐AC424 志段味城跡C 1334~36年に水野良春が築いた城とされ、志段味の山林,原野を開拓した。良春は1361年に志段味城を一族に任せて南下し、新居城を築き移っている。志段味城の位置については、複数の候補地が挙げられており、ここは上志段味ニノ輪地区。
C‐AC510 押切城跡 鎌倉時代に大屋佐渡守によって築かれた。16世紀前半に今川氏豊が尾張に進出すると大屋秋重は今川氏に従属した。しかし、1538年に織田信秀に攻められ落城し廃城となった。白山神社が城跡とされるが、妙見寺北東説もある。
C‐AC511 川名北城跡 1221年の承久の乱で敗れた佐久間半左衛門が移り住み築城した。南北朝時代には服部氏が移り住み、佐久間氏とともに地域を開発した。1584年の小牧長久手の戦いの際に焼失。城跡は川原神社の東側とされる。
C‐AC512 川名南城跡 築城年は定かではないが、佐久間彦五郎によって築かれた佐久間氏代々の城である。1584年の小牧長久手の戦いの際に焼失した。城域は東半分が現在の昭和警察署、西半分は宅地となっており、地表上遺構は確認できない。
C₋AC523 中根中城跡 築城年は定かではないが、城主は村上弥右衛門とされ織田信照の重臣であった。中根南城の出城,砦として機能し、その規模は東西約48m,南北約55mとされる。西中根集会所には井戸跡が残されているが、城域を確定することは困難である。
C₋AC524 鳥栖城跡 応仁年間(1467〜68年)に成田時重によって築かれた。室町時代末期には山口盛重の娘を娶り、山口氏の配下となった。山口氏が今川へ寝返ると成田氏もこれに従い、織田信長と赤塚合戦となった。1559年に廃城。城跡には成道寺が建立されている。
C₋AC525 桜丸根城跡 築城年,城主とも定かではないが、山口氏の桜中村城跡の北東100mほどに位置し山口氏関連の城館の可能性が高い。店舗,住宅地となり遺構は残されていない。
C₋AC526 桜中村城跡 戦国時代に山口教房によって築かれた。当初、織田信秀に属したが、信長の代になると織田氏から離反して今川氏に寝返った。鳴海城に入った山口教吉は信長と赤塚で戦っている。教継,教吉父子は、1560年に信長の調略に掛り、駿河へ呼び寄せられ切腹させられた。城跡は桜公園辺りとされる。
C₋AC527 市場城跡 戦国時代この周辺に勢力を持っていた山口安盛の居城とされる。安盛は織田信長に仕え、桶狭間の戦いでは丹下砦を守備した。1564年、孫の盛隆が美濃国の堂洞合戦で討ち死にし、嫡流は絶え廃城となった。現在は住宅が密集し遺構は残されていない。
C₋AC528 寺部城跡 大永~享禄年間(1521~32年)に山口盛重によって築かれた。山口盛重は尾張南部一帯を支配し、織田方の南方を守る豪族としての立場を固めていった。城跡は七所神社と隣接する粕畠公園の辺りとされるが、現在遺構は残されていない。
C₋AC529 榎津城跡 康正年間(1455~57年)には武田(長田)兵庫右衛門の居城であったとされる。新川沿いの三輪社,津島社から北150mの住宅地辺りが城跡とされるが、遺構は残されていない。
C₋AC530 日置城跡 室町時代末~戦国時代初に織田寛定あるいは織田忠寛によって築かれたとされる。城跡は雲龍神社跡辺りとされ、現在は「松原緑地」として大楠が聳える。江戸時代には尾張藩士の屋敷が築かれた。
C₋AC531 廣井城跡 天文年間(1532~54年)には中村氏の居城であったとされ、以後は、洲崎神社社家が廣井村を支配したという。1610年、福島正則が普請奉行を務めた堀川の掘削工事はこの辺りから始められたとされる。現在の洲崎神社となり、遺構は残されていない。
C₋AC532 栗山城跡 南北朝時代に日比津城主・野尻氏の家老である野尻藤松の居城とされる。城跡は定徳寺周辺といわれ、二重堀が巡らされていたというが、遺構は残されていない。
C₋AC533 烏森城跡 築城年は定かではないが、杉原長房の居城とされる。1584年、長房は家督を継いで豊臣秀吉に仕えた。城の位置は明確ではなく、禅養寺,天神社の南東辺りの方形区画とされるが、現在は住宅地となり遺構は残されていない。
C₋AC534 中根北城跡 織田信照の重臣である村上小膳(承膳)の居城とされる。信照の中根南城の出城,砦として機能していた。その規模は東西51m,南北53mとされ、丘陵上に位置する。現在は名古屋市立弥冨小学校となり、遺構は残されていない。
C₋AC535 大地掛城跡 築城年,城主は定かではないが、成田氏の鳥栖城,山口氏の桜中村城と近いことから、それらと関係が深い城であったと考えられる。一帯は宅地化されて遺構は残されていない。
C₋AC536 新屋敷西城跡 戦国時代の山口新太郎または山口明長の居城とされる。山口明長は姉川の戦いにも参戦したとされる。城は小高い丘にあり、西に堀、周囲に土塁があったとされるが、1574年までには廃城となった。医王寺境内に看板が立つ。
C₋AC537 戸部一色城跡 一色彦右衛門および室町時代に愛智郡・郡司であった愛智氏の居城とされる。1446年の笠寺観音の記録に愛智吉清の名がある。笠寺観音の北西に位置し一重の堀があったとされる。遺構は残されていない。
C₋AC538 南分城跡 築城年,築城者は定かではないが、川名南城の城主・佐久間彦五郎の居城といわれている。1584年の小牧長久手の戦いの際に落城したとされる。城域は松栄小学校の北東近辺とされるが、遺構は残されていない。
C₋AC539 高田城跡 平安時代末期には高田重家の居城とされる。永禄年間(1558~70年)、村瀬浄心が城主となり、この地に八剣社を創建したという記録がある。城跡は現在の御剣小学校に比定され、校門前に表示板が立つ。
C₋AC540 中根南城跡 築城年は定かではないが、織田信照の居城とされる。兄の信長の死後は織田信雄の家臣となった。城は東西約93m,南北約90mの方形とされ、丘陵上に築かれていた。城跡には西側に北条八幡社、東側には観音寺が建てられている。
C₋AC541 吉野城跡 戦国時代に吉野右馬允の居城であったとされる。右馬允の妻は右馬允が戦死すると長野善光寺にて出家し日秀妙光尼上人となり、熱田神宮の西側に誓願寺を建立した。城跡の遺構はないが宗円寺のある区画と考えられている。
C₋AC542 坂井戸城跡 築城年は定かではないが、城主に小田又六郎の名がある。小田又六郎は小田井城主・織田又六郎信張とみられ、信秀,信長,信雄に仕えた。小田井城の東北東2Kmほどにあり、城跡は津島神社,薬師寺の北側辺りとされる。
C₋AC543 小関城跡 築城年は定かではないが、小関源五左衛門の居城とされる。源五左衛門は織田信長、あるいは福島正則に仕えたともいわれるが、詳細は不明である。城跡は住宅地に変わり、遺構は残されていない。
C₋AC544 田光城跡 築城年は定かではなく、城主も田光氏,森部氏,新田氏など諸説あり、はっきりしない。かつて、田光ヶ池の西側の「しょうぐん山」と称された山に城跡が在ったとされる。一辺30mほどの方形の城で石垣があったという。
C₋AC545 山崎砦跡 織田信秀が死去した1552年頃、織田方から今川方に寝返った山口氏らに備えて佐久間信盛が築いた砦である。山崎城の南西400mのにある遠浅の海に面した丘にあった。1571年、跡地には白毫寺が創建された。
C₋AC546 東起城跡 1554年以降、前田和春が築いた城とされる。天正年間(1573~91年)には白山社を建立している。小牧長久手の戦いの際、秀吉軍として下市場砦に布陣し戦死したという。白山社の南西区画にあったとされる。
C₋AC551 大喜東北城跡 築城年は定かではないが、岡本久治の居城とされる。大喜三城のひとつで、現在の天理教東愛大教会の在る区画とされるが、遺構は残されていない。
C₋AC556 熱田砦跡 1181年、源行家が墨俣の戦いで大敗北した後、熱田へと退き、築いたとされる。砦跡については特定できていないが、大津通の沢上交差点と南の外土居交差点の間が候補の一つと考えられる。
小牧市 C‐AC015 小牧山城跡 桶狭間の戦いに勝利した織田信長が美濃国併呑を実現すべく丹羽長秀を奉行として築城し、美濃攻めを終えると稲葉山城へ移り小牧山城は4年間で廃城となった。1584年の小牧長久手の戦いが起きると、徳川家康がいち早く本陣を置いた。天正期の城で石垣を用いているのは小牧山城のみである。
C‐AC117 上末城跡 〔陶昌院〕 文明年間頃に落合勝正によって築かれたとされる。勝正の子・落合安親は織田氏に仕えたが、1584年の小牧長久手の戦いでは池田恒興らの軍勢の三河中入の際に道案内役を務めた。長久手の戦い後、廃城となった。城跡は陶昌院一帯に築かれていた。
C‐AC118 二重堀砦跡 秀吉方の日根野備中守弘就,弟の弥次右衛門以下2千の兵が布陣した砦。小牧山城に対する最前線に位置する。
C‐AC119 田中砦跡 羽柴方の堀長政,蒲生氏郷,加藤光泰らが守備した砦。三ツ山古墳群跡が利用された。
C‐AC120 小松寺砦跡 羽柴秀次,丹羽長重を守将とする8千の兵が布陣する秀吉軍の主陣地であった。
C‐AC121 久保山砦跡 秀吉方の丹羽長秀,蜂屋頼隆,金森長近ら3千の兵が布陣した砦。
C‐AC122 岩崎山砦跡 秀吉方が岩崎山を利用して築いた砦で稲葉一鉄,貞通親子らが4千の兵を率いて布陣した。
C‐AC126 大草城跡 1444年に西尾道永によって築城された。しかし、1548年に主家である伊勢守織田家の家督争いで東美濃釜戸に移ることとなり廃城となった。本丸跡に小さな神社があり、曲輪や土塁の跡が残されている。
C‐AC263 北外山城跡 築城年代は定かではないが、織田伊勢守家の織田与四郎が居城したのが始まりとされる。その後廃城になったが、小牧長久手の戦いの際に修復して徳川家康方の織田信雄の砦として再利用された。
C‐AC264 南外山城跡 堀尾孫助の居城とされるが、鎌倉時代末期には廃城となっており、城跡に八幡社が祀られた記録が残っている。
C‐AC334 蟹清水砦跡 徳川家康,織田信雄方が丹羽長秀が建てた屋敷を修復して築いた砦。守備は交番とした。
C‐AC335 宇田津砦跡 徳川家康,織田信雄方が築いた砦である。松平氏の兵1500が布陣した。現在は住友理工(株)敷地内。
春日井市 C‐AC331 上条城跡 1218年に小坂光善が築城。のちに林氏に改称し代々地元の農業の振興に努めた。小牧長久手の戦いの後、秀吉が滞在し、後年その礼に林家を春日井郡57ヶ村の総代庄屋に指名し明治時代まで続いた。
C‐AC332 吉田城跡 室町時代に織田敏定の家臣である小坂吉政によって築城されたといわれている。小牧長久手の戦いで休戦と引き換えに小牧にある諸城を取り壊すことを命じたため廃城となった。現在は下条公園となっている。
C‐AC336 田楽砦跡 徳川方が築いた東端に位置する砦。池田恒興によって攻め落とされた犬山城からの敗走兵らが守備した。
C‐AC426 大留城跡 1546年、将軍足利義輝の被官であった村瀬作左衛門が築城した。1584年の小牧長久手の戦いでは羽柴側に味方し、ここで軍議が開かれた。しかし、翌日の長久手の戦いで討死。その後、大留城は廃城となった。現在は子安神明社,畑,宅地になっている。
C‐AC427 下大留城跡 築城年代は定かではないが、この地に勢力を持っていた郷士の谷口友之進の居城とされる。谷口氏については1566年の墨俣城築城に携わったこと以外は詳細不明。遺構は残されていないが、谷口家が先祖を祀るために再建された祠が道沿いにある。
瀬戸市 C‐AC417 今村城跡 1460~66年に松原広長によって築かれた。1473年には修築を行い、今村八王子神社の神祠を建てたとされる。1482年、大槇山の戦いが起こり、広長は安戸坂で敗死した。現在は、神社北西端に外堀の一部が池として残されている。
C‐AC418 横山城跡 築城年代は定かではないが、室町時代に今村城主・松原広長の重臣である横山氏が居城としていた。城域ははっきりしない。現在は田端公園や住宅などとなり、遺構は残されていない。
C‐AC419 瀬戸川城跡 鎌倉時代に築かれ、1469~87年には浅井源四郎の居城とされる。歴史については明らかではない。城は現在の三郷小学校の南西角の辺りにあったとされ、城の区画は一辺55mの方形で周囲には土塁,堀が巡らされていた。
C‐AC420 本地城跡 室町時代に今村城主・松原広長の叔父にあたる松原平内の居城とされ、1482年頃の長江利景との大槇山の戦いで広長とともに討死した。本地城はその後、廃城となった。城は矢田川の100mほど北にあったとされる。
C‐AC425 入尾城跡 1156~59年頃に水野景貞が築城したとされる。一族は承久の乱で多くを失い、南北朝時代には内紛が生じた。1413年冬、水野致高が没すると廃城となった。八幡社から東の一帯が城跡と伝わる。
C‐AC439 上菱野城跡 〔本泉寺〕 鎌倉時代にこの地域の地頭で山田泰親によって築かれた。泰親は晩年に出家し領内に本泉寺を建立した。城は1283年に廃城となった。1613年に上菱野城跡地に本泉寺が移築された。土塁跡,堀跡が残る。
C‐AC441 菱野城跡 平安時代末期に山田重定がこの地に屋敷を築いたことに始まる。鎌倉時代には山田泰親,弟の親氏が菱野の地頭に補された。さらに、戦国時代には林惟光ら林氏の居城となった。現在、遺構は残されていないが、用水路は堀跡の名残とされる。
C‐AC442 大平山城跡 築城年は定かではないが、水野致国の居城とされる。1336年、鎌倉建長寺の覚源禅師が水野致国の館に泊まり、致国の帰依を得て定光寺を開創した。城は城所池の奥辺りとされ、何段かの削平地がみられる。
C‐AC443 一色山城跡 鎌倉時代初期に水野高康,その子・有高,大金重高らの居城であったとされる。承久の乱の際、一族は敗れて離散した。戦国時代には織田信長の家臣・磯村左近が改修して居城とした。現在は曲輪,虎口,堀,土橋が残る。
C‐AC444 落合城跡 1384~92年頃に品野城の戸田宗忠が築き移り住んだ。その後、長江利景,桜木上野介,戸田家光が城主となり、1555~60年には戸田直光,直頼の居城となった。1560年の品野台合戦で織田軍の総攻撃に遭い落城した。遺構は残されていない。
C‐AC445 片草城跡 1529年、織田方で品野城主の坂井秀忠は松平清康に攻められ切腹した。秀忠の一族は片草村に逃げ延び、坂井十郎が片草城を築き、織田信長に仕えた。城は八幡神社西の小丘陵にあり、曲輪,堀切が残る。
C‐AC446 桑下城跡 文明年間(1469~87年)に長江利景が築いたとされる。その後、長江景則,景隆の居城となる。1529年、松平清康が品野城を攻略し松平信定に与えたときには、長江氏は家老として桑下城に居城したとされる。1560年、織田信長が品野城総攻撃をかけ桑下城も焼失,落城した。
C‐AC447 阿弥陀ヶ峰城跡 1482年、品野勢の長江利景が築き、今村勢の松原広長と対峙した。利景方は大槇山の戦いで広長方を破る。1558年には織田信長家臣の竹村長方が品野城攻めの砦として利用した。現在は全宝寺となっている。
C‐AC448 馬ヶ城跡 鎌倉時代に瀬戸の豪族・加藤太郎左衛門によって築かれた。1556年、加藤忠景は信長による品野攻略の際に長久手へと逃れ、廃城となった。馬ヶ城貯水池の東方の尾根にあるが、現在は立ち入り禁止。
C‐AC449 瀬戸城跡 戦国時代には加藤光泰の居城とされる。1556年の稲生原の戦いでは信長方に与し桜川合戦で勝利した。古瀬戸小学校の北東の丘陵が城跡とされ、現在は宅地,児童公園,雑木林となっている。
C‐AC450 赤津城跡 築城年は定かではないが、天正年間(1573~92年)には熊沢藤三郎の居城とされる。現在は住宅,畑地となっており、住宅の建つ地の西側は3~4mほど低く堀跡といわれている。
C‐AC451 御戸偈城跡 1445年頃に松原一学が三河国碧海郡今村から移住し築いたとされる。1563年には長子の松原広長が今村城を築いて移った。
C‐AC452 塔山城跡 鎌倉時代の人物と思われる森河岩政が居城し、この地域一帯の開発,発展に尽力したという。戦国時代には武田信玄が偵察部隊を送り込んだ城でもある。五輪塔から南下の地点に主郭,横堀が残されている。
C‐AC453 物見山砦跡 武田信玄が尾張,三河国へ侵攻を始めた頃、武田の偵察隊が物見として利用する目的で築いた砦跡と考えられる。標高328mの物見山山頂に築かれ、防御遺構などは見当たらない。
C‐AC454 南山城跡 122年の承久の乱で戦死した山田重継の居城とされる。城構えは山の上で四方に堀があったが、名古屋城築城の際に資材は運び去られてしまい、城跡の位置が不明であり3箇所の推定地が存在する。
C‐AC455 大津城跡 1555年、近江国の大津奉行職を代々務めた大津氏(大津鈴右衛門か?)によって築城され、城主に大津八郎右衛門重俊の名がある。児童公園内に由緒碑が立つ。
C‐AC456 城ヶ根城跡 築城年,築城者,城主とも定かではない。今村城跡の南に位置し、聖カピタニオ女子高等学校の東の丘陵上の雑木林,住宅地の辺りと推定されている。
C‐AC457 品野城跡 1214年、大金重高が秋葉山に城を築いた。1358年に戸田頼房,宗忠父子が再築城。戦国時代には坂井秀忠の居城となったが、1529年に松平軍に攻め落とされ、桜井松平氏の城となる。1560年に信長の総攻撃により落城し廃城となった。主郭,腰曲輪,堀切が残されている。
C‐AC458 秦川城跡 美濃国可児郡の池田城主・安藤景照の家臣で地元豪族の尾関弥右衛門を城代として居城させていた。尾関氏は小牧長久手の戦いで戦死した。現在は山林となり遺構は残されていない。
C‐AC459 山崎城跡 1558年に松平家次が守る品野城攻略のため、織田信長が築城し竹村長方が守備していた。家次が豪雨の夜に奇襲をかけ竹村ら50余名が討死した。織田方敗将の供養塔と伝わる宝筐印塔が立つ。
尾張旭市 C‐AC421 井田城跡 1390~93年には浅井玄蕃允の居城であったとされる。その後、浅井源四郎,浅井与九郎の名がみえ、1561年までは林正俊が城主となり織田信長に仕えていた。発掘調査の結果、東西約66m,南北約67mの本丸跡や土塁,U字型堀跡,井戸跡などが確認されている。
C‐AC422 新居城跡 別称を旭城。1361年、志段味城主・水野良春がこの地を開拓し、その子孫の水野宗国が1460年頃に本格的な城を築いた。1560年頃までは水野氏が居城であった。現在は本丸跡西側,二の丸は大きく削られ、弓道場とテニスコートが造成されている。
C‐AC440 狩宿城跡 築城年は定かではないが、1324~26年に築かれたとされる。築城者が不明。戦国時代には城主として林弥助の名が挙げられる。弥助の息子・信勝がのちの朱子学派儒学者・林羅山である。現在は公園,住宅地となっている。
C‐AC549 印場城跡 15世紀後期、土豪の坂井弥兵衛によって築かれた城とされる。堀と土塁に囲まれた東西,南北60mの方形郭の平城であった。現在の尾張旭市西部浄化センターの北半分辺りが城跡とされる。
C‐AC550 渋川城跡 室町時代以降の平城で、発掘調査から土塁と堀に囲まれ喰い違い虎口を設けていたことが確認されている。築城者,城主については不明。城跡は北島公園の南側から天神川までの2区画とされる。
犬山市 C‐AC003 犬山城跡 1537年、織田信康が前身となる織田広近の砦に木ノ下城より城郭を移して築いたとされる。池田恒興,石川光吉,小笠原吉次と戦国時代にはめまぐるしく城主が入れ替わったが、1617年に成瀬正成が城主となって以降、幕末まで成瀬氏が城主を務めた。
C‐AC123 楽田城跡 1504年頃に大赤見城主の織田久長が築き居城を移したとされる。 楽田城は楽田小学校一帯に築かれていた。小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉の部将堀秀政が在陣し、さらに秀吉も犬山城から楽田城へ移っている。
C‐AC124 羽黒城跡 1201年に鎌倉から落ち延びた梶原景親によって現在の興禅寺の東側一帯に築かれたとされる。小牧長久手の戦いの羽黒合戦で一帯は焦土と化したが、羽柴秀吉方によって砦として修築され、山内一豊,堀尾茂助が守将となっている。
C‐AC125 木ノ下城跡 1469年、織田広近が美濃国の斎藤妙椿に対する牽制として小口城から犬山に移り築城した。城の一辺200mほどの正方形で南方に二曲輪,三曲輪、東側と北側に堀があったという。愛宕神社の本殿が建つ高台が城の主殿跡といわれている。
C‐AC333 青塚砦跡 〔青塚古墳〕 大型前方後円墳であるが、羽柴方の森長可が改修し砦として使用した。
丹羽郡 大口町 C‐AC110 小口城跡 1459年、織田広近によって築城された。永禄年間には中嶋氏が城主となっていたが、織田信長の軍勢に攻め落とされて廃城となった。曲輪に二重の堀と土塁が廻らされた形状であったとされる。現在は小口城址公園となっている。
あま市 C‐AC209 蜂須賀城跡 〔蓮華寺〕 蜂須賀小六正勝の生誕地と伝わる。現在の蓮華寺の東側にあり、200㎡の敷地を持つ方形の城館であったとされるが、遺構は残っていない。蓮花寺に館跡を示す碑文がある。
海部郡 蟹江町 C‐AC217 蟹江城跡 室町時代にに北条時任が城塞を築いたのがはじめとされ、戦国時代には今川方の松平広忠によって攻略され、織田氏との対立の場となる。また、小牧長久手の戦いでは蟹江城合戦の場となった。現在は住宅地に本丸井戸跡が残るのみである。
愛西市 C‐AC211 早尾東城跡 16世紀初期、津島の豪族であった大橋源三左衛門の築城とされる。1524年に信長の祖父で勝幡城主織田信定に攻められ、城を明け渡し和睦した。城跡地には常徳寺が建つ。
C‐AC212 十二城跡 鎌倉時代の初め、地頭であった板垣冠者兼信が築いた屋敷とされる。場所は唯称寺の北側辺りとされる。
C‐AC213 田尻城跡 築城時期も築城者も定かではない。木曽川東岸の低湿地帯(立田輪中)に築かれた砦城とされる。
C‐AC214 小木江城跡 1567年頃、織田信長の弟織田信興によって木曽川,長良川間の中洲に築かれたとされる城で、伊勢長島の一向宗の抑えとしての機能を持っていた。一向宗徒鎮圧後に廃城となった。
C‐AC216 大野城跡 1584年、佐久間信栄(正勝)により蟹江城の支城として築かれた。1585年の天正大地震で城は崩れ落ち、大部分が地中に埋まってしまったため廃城になったとされる。
弥富市 C‐AC215 鯏浦城跡 1565年、織田信長の命により滝川一益,織田信興が築いた城である。長島一向一揆鎮圧後に古木江城とともに廃城になったと思われる。
日進市 C‐AC004 岩崎城跡 織田信秀により築かれ荒川頼宗が城主となったが、松平清康に落とされた後、1538年、丹羽氏清が入った。土橋,空堀,土塁が残る。小牧長久手合戦では、丹羽氏重が池田恒興の軍を迎え撃ち玉砕した。
C‐AC059 赤池城跡 岩崎城の支城の一つで丹羽十郎右衛門によって築かれたとされる。最後の城主・丹羽秀信は1573年に龍淵寺を創建し翌年に死去し、城は廃城となった。現在は中部電力変電所の脇に城址碑が立つのみである。
C-AC388 梅森北城跡 1533年、松平三蔵が築き居城とした。三蔵は1538年に眺景寺を建立した。1540年、当主の松平忠倫(三蔵の兄)が松平広忠に暗殺されると、三蔵は駿河国の今川氏を頼って逃亡し、この時期に廃城になったと考えられる。
C-AC389 梅森東城跡 築城年代は定かではないが、松平助左衛門の居城とされる。城は宝珠寺の北西辺りとされ、その規模は東西約33m,南北約36mであった。現在は住宅に変わり、遺構は残されていない。
C-AC390 野方西城跡 築城年代は定かではないが、城主は三好定助とされる。現在の日進市立西小学校の北側辺りが城域と考えられ、周囲より2~5mほど高くなっている。
C-AC391 野方東城跡 築城年代,築城者および城主についても定かではない。当時は小山を挟んで西方200mほどのところに野方西城があった。現在は児童遊園地,住宅,雑木林となり、遺構は残されていない。
C-AC392 吹上城跡 1471年、丹羽氏従により築かれたとされる。現在の折戸八幡社(1472年創建)の辺りである。丹羽氏従の子の氏員は、吹上城から西に100mほどのところに折戸城を築き居城を移したとされる。
C-AC393 折戸城跡 築城年代は定かではないが、丹羽氏員が吹上城から西100mほどに築き居城を移したとされる(吹上城の拡張とも考えられる)。日進市立南小学校の南側にあったとされるが、遺構は残されていない。
C-AC394 矢野城跡 築城年代は定かではないが、岩崎丹羽氏の家臣である矢野氏の居城とされる。城跡は住宅地へと変わっており確定はできないが、道路脇の竹林へ入ったところに堀らしき溝と平作地が確認することができる。
C-AC395 本郷城跡 1503年、折戸城の丹羽氏員が築いた城とされる。その後、丹羽氏興,氏清と3代36年間在城し氏清の代に岩崎城を改修し居城を移した。現在のNTTドコモの中継所の鉄塔が建つ辺りとされる。
C-AC396 藤島城跡 丹羽氏員の子の丹羽右京進が分家して築いた城である。1551年、右京進の子・丹羽氏秀は、宗家の岩崎城主・丹羽氏識と戦い、織田信長の援軍を要請するも敗退して三河へと敗走した。城址碑が立つのみ。
C-AC397 藤枝城跡 築城年代,築城者とも定かではないが、岩崎丹羽氏一族の丹羽堂隠が居城したと伝わる。薬師寺跡の北側の水田辺りが城跡とされる。
C-AC398 米野木城跡 築城年代,築城者とも定かではない。戦国時代の城であれば一帯は丹羽氏が治めていたことから丹羽氏一族または家臣の城と考えられる。現在は日進市東部福祉会館となり、敷地内に石碑が立つのみである。
長久手市 C‐AC018 長久手城跡 室町時代には左近太郎家忠,左衛門次郎国守、戦国弘治年間には長久手村を領有した加藤忠景が城跡を改修して居住したという。忠景は小牧長久手の戦いの際には岩崎城を護ったが、池田恒興,森長可らの攻撃を受け討死した。
C‐AC068 岩作東城跡 室町時代前期の築城と考えられ、戦国天正年間の城主に今井四郎兵衛の名がある。今井氏は長久手の戦いで岩崎城に籠る丹羽氏重と協力して戦い討死にした。遺構は残っていない。
C‐AC069 大草城跡 15世紀後期には存在し、永禄の頃には当地土豪である福岡新助の居城となっていた。1579年以降は領主の森武蔵守長可によって改修され、1584年の小牧長久手の戦いで長可が戦死した後は廃城になったという。
江南市 C‐AC111 宮後城跡 室町時代に安井小次郎が城代として入り、後に安井弥兵衛代々の居城となる。一時期、蜂須賀小六正勝が在城した。小牧長久手の戦いの和睦後に講和条件の一つとして破却された。土塁の一部痕跡が残っている。
一宮市 C‐AC094 中島城跡 1221年、中島宣長が当地に土着し築城したとされる。戦国中期以降、中島氏種は豊臣秀吉家臣となり大坂城に移り、秀吉の死後も豊臣家に仕えた。大坂夏の陣にて自刃した。城は中島小学校から川を挟んで南側にあった。
C‐AC095 吉藤城跡 戦国時代には遠藤三郎右衛門の居城とされる。158年の小牧長久手の戦いでは、織田・徳川連合軍の織田長益,滝川雄利,飯田半兵衛が入城している。現在は水田になっており、その一角に城址碑と案内板が建つ。
C‐AC096 苅安賀城跡 1561年に尾張浅井氏の浅井政貞(信広)によって築かれたとされる。子の浅井長時は織田信雄に謀殺され森久三郎が入城。小牧長久手の戦いでは徳川織田方として尾張西部を固める城として役割を果たした。現在は石碑が建つのみである。
C‐AC097 野府城跡 築城時期は不明であるが、明応年間(1492~1500年)にはすでに存在した。1500年代半ばの城主として織田信長の弟の織田九郎信治がいる。現在の開明小学校一帯に築かれていたという。
C‐AC098 奥城跡 (江並城跡) 梶川高秀が築いたとされる。小牧長久手の戦いでは徳川家康,織田信雄連合軍の陣所となったが、秀吉軍に囲まれ落城した。奥町西保育園の南東隅側に石碑が建っているのみで遺構はない。
C‐AC099 黒田城跡 明応年間に五島光正が屋敷を構えたのに始まり、天文年間には山内盛豊が城代として居城した。その後は織田広良,和田兄弟,沢井雄重,一柳直盛,富永忠兼と城主が入れ替わり、1609年頃に廃城となった。城は黒田小学校一帯に築かれていたという。
C‐AC100 一宮城跡 1570年に関成重によって築かれたとされる。子の関成政は織田信忠の側近として活躍したが、本能寺の変後は織田信雄の家臣となった。しかし、小牧長久手の戦いで信雄を裏切り討死した。1590年に廃城。三菱UFJ銀行の前に石碑が建つ。
C‐AC101 大赤見城跡 室町時代に織田大和守家の織田勝久によって築かれたとされる。その子・久長が1504年に楽田城に移り、あとに弟の敏任の子孫が住んだ。小牧長久手の戦いの際、西郷家員が入り守備した。民家に城址碑が建つ。
C‐AC102 浅野城跡 (浅野長政邸跡) 浅野長勝が亡くなる1575年以前には築かれていたと考えられる。現在は浅野公園となっており、水路部分がそのまま堀跡として残っている。
C‐AC103 重吉城跡 (尾藤城跡) 大永年間に尾藤源内重吉によって築かれたとされる。永禄年間には信長によって落城し、重吉は三河国の奥平信昌に仕えた。小牧長久手の戦いの際には、小牧山城の付城として機能したという。城は丹陽中学校の南側に築かれていた。
C‐AC109 下奈良城跡 1584年の小牧長久手の戦いにおいて羽柴秀吉が最右翼として一時的に築かれた砦とされる。民家の区画の丸石が石垣の名残である。
岩倉市 C‐AC104 井上城跡 応永年間に有馬主殿正によって築かれたとされる。1441年には重松主水正が尾張守護代の織田郷広の命を拒否したため、攻められ落城し廃城となった。現在、城址碑と案内板が建つのみである。
C‐AC105 岩倉城跡 1479年頃、織田伊勢守家当主の織田敏広によって築城されたとされる。1558年、浮野の戦いで織田信賢は、信長と信清の連合軍に敗れ、翌年3月、岩倉城に篭城するも信長に攻撃されて落城した。
稲沢市 C‐AC093 竹腰城跡 1600年の関ヶ原の戦いで祖父江信勝が福島正則に従い戦功を挙げたことで竹腰の地を与えられ築城した。1614年、大坂冬の陣の際に大坂方に内通したとして改易となり廃城となった。規模は約110m四方であったとされる。
C‐AC106 陸田城跡 築城年代は定かではないが、織田信雄の家臣で坂田城主でもあった陸田市左衛門の居城とされる。現在はJR東海道本線,企業,田地に変わり、石碑のみが立つである。
C‐AC107 稲島城跡 在地豪族の木全氏の屋敷である。木全忠征は滝川一益に仕えて滝川姓を許され滝川忠征と名乗った。1803年、滝川忠暁の代に再び屋敷を構えて住んだという。遺構は残されていない。
C‐AC108 下津城跡 1400年頃に尾張守護に補任された斯波義重がここに守護所を置いたとされる。守護代として織田常昌が越前国から尾張国へ派遣された。一段高くなっている辺りが本丸跡という。
C‐AC210 勝幡城跡 1504年、織田信定が築城したといわれる。二重の堀で囲まれていた。1512年、信秀が勝幡城で誕生した。信秀,信長による尾張平定が進むと、やがて廃城となった。
清須市 C‐AC013 清洲城跡 1405年、斯波義重によって尾張守護所である下津城別郭として築かれたとされる。1476年に織田家内紛により下津城が焼失し、織田敏定が守護所を清洲城に移転したことで尾張国の中心地となった。1582年には清洲会議が行われた。
C‐AC134 小田井城跡 応永年間に織田大和守家当主の織田敏定が清洲城の支城として築城したとされる。その後、織田忠辰まで7代続いたが、1584年頃に忠辰が羽柴秀吉によって追われ廃城になったとされる。
豊明市 C‐AC067 沓掛城跡 応永年間に築かれ、室町時代以降は近藤氏が沓掛城主となっていた。戦国時代、近藤景春は織田信秀に追従したが、1552年に今川方へと寝返り、1560年の桶狭間の戦いで織田勢により落城。戦後、簗田政綱,織田信照,川口宗勝が城主を務めた。
C‐AC325 沓掛村砦跡 1560年、今川方の近藤景春の築城とされる。同年5月19日、桶狭間で今川義元が討った織田勢が沓掛城を落とし、近藤景春も討死した。中世前期の山茶碗類が出土し桶狭間の戦い以前より存在したと考えられる。
C‐AC326 薬師ヶ根城跡 築城年代は定かではないが、近藤景春の沓掛城の支城と考えられる。景春は織田方から今川方に寝返り、桶狭間の戦いで織田方の掃討軍の攻撃で討死した。城域は明らかではないが、薬師ヶ根辺りとされる。
C‐AC327 大脇城跡 築城年代,築城者は定かではないが、1576年頃には梶川秀盛の居城であったとされる。1583年、横根城築城途中で成岩城へ移る。朝鮮出兵の際にソウルの陽川で戦死したという。
大府市 C‐AC065 吉川城跡 1397年、吉川入道によって築かれた平城とされる。天正年間には花井勘八郎が居を構えていたが、寺本城に移ったため、1580(天正8)年に廃城となった。城址碑の横には城内にあったという辨財天が祀られている。
C‐AC368 横根城跡 南北朝時代に本多助定が築城したとされる。その後、1583年に梶川秀盛が入城し改修したが、途中で放棄された。東西に伸びた低丘陵に築かれていたが、現在は宅地や畑となっている。
C‐AC371 追分城跡 別称は阿部屋敷。1559年に稲垣淡路守によって築かれたとされる。江戸時代初期には尾張藩士の阿部正興の屋敷が築かれた。堀に囲まれた方形の城域であったというが破壊されてしまった。大府市立北中学校の西側校門付近が城跡という。
C‐AC372 長草城跡 鎌倉時代に英比ノ庄の地頭の藤田民部が家人の藤次藤左衛門らを入墾させたのが始まりとされる。歴史については明らかではないが、1494年にはこの地に長草天神社が創建された。地蔵寺の辺りも含め城跡と思われる。
C‐AC373 氷上砦跡 桶狭間の戦いに際し織田信長が大高城包囲のために築いたとされる。大高城の南西500mほどに位置する氷上姉子神社西の火上山中腹あるいは火上山西方の字取手山付近とされる。1560年の桶狭間の戦いでの守将や戦闘状況については不明である。
東海市 C‐AC144 平島城跡 水野成政の居城とも池田恒興の居城ともいわれる。城域は宝国寺,如意輪寺の東方で約40m四方の方形の区画とされる。現在は住宅地となり遺構は残されていない。
C‐AC374 名和城跡 築城年代は定かではないが、城主は一色左京と伝えられる。現在は畑,果樹園など改変が加えられ、遺構かどうか確認するのは困難である。
C‐AC364 清水城跡 戦国時代には清水左京亮の居城であったとされる。1567年に里村紹巴を招いて連歌会を催した記録がある。城の規模は東西約45m,南北約50mとされるが、現在は住宅,駐車場となり遺構は残されていない。
C‐AC365 木田城跡 鎌倉時代末期に一色左馬助が築いたとされる。その後、荒尾氏の城となるが、1572年、池田恒興の子で荒尾善次の孫でもある古新丸(池田輝政)に譲渡された。現在、民家が建ち背後の尾根続きに堀跡が残されている。
C‐AC366 横須賀城跡 築城年代は定かではないが、木田より移ってきた「エンバ殿」と呼ばれた人物の居城とされる。かつてこの地にあった丘陵に築かれていたとされるが、現在は削平され遺構は残されていない。
C‐AC369 薮城跡 1554年、木田城に対抗し花井氏が目と鼻の先に築いた城で花井惣五郎を入れた。安楽寺の東側辺りとされるが、位置や規模は定かではなく、安楽寺の背後に城主のものと伝えられる宝篋印塔の残欠二基が残っている。
C‐AC370 富田山中城跡 築城年代は定かではないが、西へ伸びた丘陵端に築かれた駒中左衛門尉の居城とされる。宝珠寺の南東麓にあったとされるが、現在は住宅や畑地に変わり遺構は残されていない。
知多郡 阿久比町 C‐AC020 坂部城跡 (阿久居城跡) 久松定益が築城した平城である。1547年、松平広忠と離縁した於大の方が15年間この城に在城した。10年後に徳川家康と於大の方が再会した場所でもある。1577年、佐久間信盛によって攻められ落城した。
C‐AC268 宮津城跡 1286年頃に新海淳英によって築かれたとされる。1543年、9代の新海淳尚のときに水野信元に攻められ落城した。南北に延びた丘陵地に築かれ、南端が高く南尾根に一条の堀切があり、その脇に竪堀状の溝が残っている。
C‐AC521 草木城跡 戦国時代には水野信元の家臣・竹内弥四郎の居城とされる。ただ、阿久比町草木にはもうひとつ一色右馬助の草木城があったといわれる。この草木城は南北に三段の曲輪が並び、現在は畑地,住宅に変わっている。
知多郡 東浦町 C‐AC040 緒川城跡 鎌倉時代に小川重房が築いた地頭屋敷がその始まりとされる。水野貞守が1475年に緒川古城を築き、1580年に水野忠守が緒川新城(高薮城)を築いた。古城の北側に土塁の一部が残存する。
C‐AC064 村木砦跡 尾張進出をねらう今川義元が緒川城攻略のため村木の岬に築いた。1554年1月、織田信長と緒川城の水野信元が攻撃し今川方を破った。信長が初めて鉄砲を使用した戦いとされる。現在の八劔神社一帯が砦跡とされる。
知多郡 南知多町 C‐AC237 岡部城跡 (内海城跡) 大永年間に一色城の佐治為縄によって築かれた。嫡子の為成は1590年、織田信雄の転封に伴い浪人となり、後に池田輝政に仕えたという。風呂谷を囲むようにUの字状になっており、城山の南側尾根上に東西二郭の曲輪がある。
C‐AC238 一色城跡 室町時代初め、一色範氏が内海谷の東南端に城を築いたとされる。また、一色氏は近江国甲賀より佐治氏を迎えたが、やがて佐治氏に追い出される。現在は2つの曲輪,土塁,掘切が残る。
C‐AC414 羽豆崎城跡 元亨年間に熱田大宮司の藤原親昌によって築かれたとされ、南朝方の東西往来の重要拠点であった。桶狭間の戦いでは千秋季忠が今川軍に突入し戦死した。関ケ原の戦い後は千賀氏の所領となり、1602年には城は破却された。
C‐AC676 蜂屋城跡 1360年、南朝方の大納言・四条隆資が家臣・蜂屋光経に築城させた。光経は幡豆崎城に入り、その支城とした。1392年の南北朝合一後には廃城になったとされる。現在は山林となっている。
C‐AC677 須佐城跡A 平安時代後期には須佐為基の居城であったとされる。のち千賀氏が居城し1542年に千賀重親が幡豆崎城へ移り廃城となる。2ヶ所の候補地があり、城跡Aは正衆寺の東方の山頂とされ平坦部が残る。
C‐AC678 須佐城跡B 平安時代後期には須佐為基の居城であったとされる。のち千賀氏が居城し1542年に千賀重親が幡豆崎城へ移り廃城となる。2ヶ所の候補地があり、城跡Aと谷を挟んだ東南の丘陵端に位置し、主郭,帯曲輪,堀切が残る。
C‐AC682 山海城山城跡 築城年代,城主ともに定かではない。岩屋寺の南の城山山頂辺りに築かれた城とされる。山頂の城域は判別が難しい。
C‐AC678 幡豆崎天神山城跡 築城年は定かではないが、室町時代には戸田宗光が守備していた。知多半島先端の羽豆ヶ崎は、半島東岸を領有する戸田氏と半島西岸を領有する佐治宗貞が共有した。宗真寺の背後が城跡となる。
知多郡 武豊町 C‐AC043 富貴城跡 築城年代は定かではないが、長尾城主・岩田氏の支城であったと伝えられ、その後、戸田法雲が城主となった。法雲は当初、緒川城の水野氏に備えていたが、織田,水野の勢力に圧され水野氏に屈することになる。城跡は白山社境内と隣地の円観寺を含む一帯とされる。
C‐AC266 長尾城跡 鎌倉時代あるいは室町時代に武雄神社の神官を兼ねていた岩田氏によって築かれたとされる。桶狭間の戦いで今川氏に属して敗北し廃城となった。
知多郡 美浜町 C‐AC044 河和城跡 長禄年間に戸田宗光によって築かれたとされる。城主は、戸田憲光から繁光,守光へと続く。守光が1589年の小田原北条攻めで討死すると領民によって破壊した。城は標高36mの北西に延びる丘陵の先端に築かれ、主郭はじめ土塁,横堀が残る。
C‐AC236 奥田城跡 城主は水野勝成と伝わる。しかし、父の刈谷城主水野忠重の寵臣・富永半兵衛を斬殺したことで勘当され諸国を放浪したため、1599年に和解する間は奥田城には不在であった。主郭部には南北二郭ある。
C‐AC413 布土城跡 天文年間に水野忠分によって築かれたとされる。1578年、忠分は摂津国有岡城攻めで討死し廃城となった。城は宝林寺の東側50mほどの丘陵地に築かれていたとされるが、現在は削られて宅地,畑地に変わり遺構は残されていない。
C‐AC676 天神山城跡 築城時期は定かではないが、城主に三好友重の名が伝わる。東西に伸びた比高15mの丘陵に築かれ、東側の平坦地が主郭と考え、その西側には堀切状の地形が残る。現在は竹藪である。
C‐AC679 上野間城跡 築城年代,築城者,城主とも定かではない。現在の上野間小学校の体育館辺りが城跡といわれる。
C‐AC680 細目城跡A 築城年は定かではないが、当初は細見家盛の居城であったとされ、1509年頃には水野清忠の居城となっている。細目城の位置については特定できておらず、吉祥寺裏の丘陵もその一つとされる。
C‐AC681 細目城跡B 築城年は定かではないが、当初は細見家盛の居城であったとされ、1509年頃には水野清忠の居城となっている。細目城の位置については特定できておらず、冨具崎公園とその南一帯もその一つとされる。
知多市 C‐AC047 佐布里古城跡 1221年頃に大庭氏が築き居城し、1498年頃には平宗宣の居城であったとされる。現在は佐布里ダム記念館が建ち遺構は残されていない。
C‐AC046 大草城跡 1574年に大野城主になった織田長益が大野城の水利が悪いため、北の地に大草城の築城を開始した。しかし、小牧長久手の戦い後、摂津国移封となったため未完のまま廃城となった。江戸時代には山澄英龍によって保全に務めた。本丸,二の丸,三の丸を配す。
C‐AC066 寺本城跡 1443年以前に花井氏によって築かれたとされる。戦国時代には、織田信秀没後に今川方へ寝返ったが、織田信長に村木砦の戦いの際に攻められ、再び信長の配下となった。小高い丘の上に津島神社が祀られている。
C‐AC367 佐布里城跡 築城年代は定かではなく歴史については不明である。城は信濃川西岸の「城山」に築かれていた。現在は竹藪となり遺構の確認は困難である。
C‐AC522 大興寺城跡 1345年、一色範氏によって築かれたとされる。その後、佐治氏の居城となった。東へ伸びた比高20mの丘陵上に築かれ、現在は竹林,みかん畑,削平地となっており、祠が土壇に残されている。
常滑市 C‐AC006 大野城跡 1350年頃に一色範光が築城したが、次第に勢力を衰退させ、土岐氏に奪われ佐治宗貞が入城した。1574年には織田長益が城主となったが、大草城を築城して移った。4代・佐治一成に浅井長政の娘・江が嫁いでいる。
C‐AC045 常滑城跡 1479年、水野忠綱によって築かれた。3代目守隆は本能寺の変で明智光秀に与したことで京都嵯峨へ隠棲した。その後、岡田重孝,天野五右衛門,高木広正の居城となるが、1590年に廃城となった。
C‐AC269 古場城跡 築城時期,築城者は定かではない。安養寺北の丘陵の辺りが城跡とされるが、削平されていて遺構は残っていない。
C‐AC270 苅屋城跡 城主に鵜飼福元,宮崎久左衛門の名がみえる。標高22mの海に面した断崖の上に築かれていたという。現在は西側が護岸工事によって失われ明確な遺構は残っていない。
半田市 C‐AC042 亀崎城跡 1543年、緒川城主の水野信元によって築かれ稲生政勝を置いて海の警備に当たらせた。1601年に幕領となり廃城となる。神前神社のある丘陵上に築かれ、現在は児童公園になっている。
C‐AC239 成岩城跡 天文年間には榎本了圓の居城であったが、1543年には水野信元に攻められ落城した。その後は1583年、梶川秀盛が横根城より入ったが、朝鮮出兵で討死し廃城となった。曲輪を形成する段地跡が残るのみである。
C‐AC513 有脇城跡 1543年、水野信元が尾張国知多半島統一をめざし成岩城攻略のため築いた城砦で、石川與市郎に守備させた。「城山」に築かれていたが、現在は有脇小学校となり遺構は残されていない。
C‐AC514 飯森城跡 水野信元によって築かれたとされ、1543年に知多半島制圧をめざした際には稲生光春を配した。舌状台地の東端に築かれており、現在は微高地に民家が建つが、東側先端部には堀跡と思われる窪地がみられる。
C‐AC515 成岩砦跡 1543年、水野信元が知多半島制圧をめざし榎本了円の成岩城攻略のために築いた砦とされる。成岩城の北約1Km弱に位置する微高地である。鳳出観音と呼ばれる観音堂が建つ。
C‐AC516 岩滑城跡 築城年は定かではないが、宮津城の支城として榊原主殿によって築かれた。1543年、水野信元によって攻め落とされ、中山勝時が入りこの地を支配した。常福院の境内または西側の宅地付近と考えられている。
C‐AC517 中山城跡 1543年頃、水野信元に仕えた中山勝時が築いたとされる。勝時は本能寺の変で織田信忠とともに討死した。子孫は新美南吉とも交流があったという。城跡は新美南吉記念館,童話の森辺りに比定されている。
C‐AC519 平地城跡 榎本氏が天文年間(1532~54年)に築いた城とされる。稗田川を挟んで西側には飯森城があった。1543年、水野信元によって滅ぼされたという。城域は乙川東小学校から南方の市杵嶋神社辺り一帯といわれている。
C‐AC520 半田城跡 文明~明応年間(1469~1501年)の築城で榊原氏が城主であったと伝わるが、歴史,廃城時期などもはっきりしない。城域は津嶋社を中心として北末広町,堀崎町2丁目に跨がる範囲とされるが、現在は宅地となり定かではない。
みよし市 C‐AC112 福谷城跡 室町時代に粕屋宗則によって築かれたとされる。1556年には織田氏の三河侵攻の際、柴田勝家,荒川新八郎らが攻め寄せた。主郭を中心に二の曲輪,北腰曲輪,東腰曲輪,隅櫓の5つの郭と空堀が確認されている。
C‐AC328 明知城跡 1379年頃の祐福寺の記録に明知城主・小野田長安の名があることから既に城(居館)が存在していた。戦国時代になると原田親種が筑前国から来住し城主となり、松平家に仕えた。現在、遺構は残されていない。
C‐AC329 三好城跡 小野田氏、そして佐久間勝之が城主と伝わる。勝之は1582年の甲州征伐の高遠城の戦いで戦功があり三好城の城主となった。しかし、羽柴秀吉に反発し1585年に関東へ移り廃城になった。現在の三好中学校グランドが城跡とされる。
愛知郡 東郷町 C‐AC060 傍示本城跡 1324年頃、加藤安俊が移住し築城したといわれる。その後、丹羽氏重が城主となるが、1584年の小牧長久手の戦いで戦死。その後も父の丹羽氏勝が隠居城として住んでいたが、1600年に廃城となった。
C‐AC378 諸輪北城跡 1561年以降に丹羽氏識が築城したとされる。氏識はもとは岩崎城の城主であったが、隠居地としてこの地に来たという。丘陵上に築かれ、元・上城保育園とその南辺りが城跡とされるが、遺構は残されていない。
C‐AC379 諸輪中城跡 1564年に丹羽氏識によって築かれた。氏識はその後、清安寺を創建した。翌1565年、丹羽氏重が城主となったが、小牧長久手の戦いで討死し、廃城になったとされる。現在は宅地や駐車場となり遺構は残されていない。
C‐AC380 諸輪下城跡 村の古地図に記載はあるものの築城年代,築城者は定かではない。また、歴史についてもわかっていない。
C‐AC381 諸輪南城跡 1583年頃に土豪の柘植道昌によって築かれたとされる。柘植氏は後に真野氏と改称し、江戸時代には諸輪村の庄屋となったという。尾三消防消防署の南辺りの70m四方の城館とされるが、顕著な遺構は残されていない。
刈谷市 C‐AC012 刈谷城跡 別名は亀城。1533年、水野忠政によって築かれた。1575年、水野信元は佐久間信盛の讒にあい非業の最期をとげたが、後に信盛は信長に追放されて再び水野氏の領有に復した。忠重,勝成,忠清と5代続き、土井氏で明治を迎える。現在は本丸および腰曲輪の一部が亀城公園となっている。
C‐AC157 半城土城跡 この地の土豪であった野田清氏,稲垣雅楽助の居城であったとされる。1530年、稲垣雅楽助が城主のときに合戦に敗れて四散したという。現在は勝宝寺となり寺の東側に堀跡とみられる遺構が残されている。
C‐AC158 野田城跡 築城年代,築城者および歴史については定かではない。野田八幡宮の北西辺り、昌福寺,教栄寺付近に築かれていたとされる。稲垣氏の居城とされるが不明点もある。住宅地のなかに土塁の一部と昌福寺に空堀跡が残っている。
C‐AC428 刈谷古城跡 1476年頃に水野貞守によって衣ヶ浦に面した台地上に築かれたとされる。水野氏は貞守の後、賢正,清忠と続き、1533年に水野忠政が刈谷城を築いて移るまでの居城であった。現在は宅地,畑地となり遺構は残されていない。
C‐AC429 小垣江新庄城跡 築城年代,築城者また歴史についても定かではない。現在は畑地,住宅地となり、遺構は残されていない。
C‐AC430 小垣江地内城跡 築城年代は定かではないが、城主として神谷与次郎,長坂伝十郎の名が伝わる。1504~21年に長沢一族の冥福を祈って陣砦跡にお堂を移したのが現・誓満寺の始まりとされる。西側は急な崖状態になっている。
C‐AC431 小垣江須賀城跡 築城年代は定かではない。城主は神谷与七郎あるいは神谷与八郎と伝えられる。法栄寺の西側の宅地付近に築かれていたという。遺構は残されていない。
C‐AC518 絵下城跡 築城年は定かではないが、矢田助吉もしくはそれ以前の代に堺川沿いの高台に築いたとされる。父祖の代から松平氏に仕えたが、作十郎は三河一向一揆の際に鉄砲に中り討ち死したという。単郭の方形城館で遺構は残されていない。
知立市 C‐AC155 重原城跡 長元年間に鴫原荘司であった源貞行の居館が始まりとされる。戦国時代になると、水野氏により今川・松平勢に対する備えとして城郭整備が行われた。1554年には今川義元によって攻め落城させた。
C‐AC156 知立城跡 知立神社の神官でもある永見氏の居城であった。1560年の桶狭間の戦いの際には今川方につき、義元が入って陣を構えたが、義元が討たれると織田勢に攻撃され落城した。その後、天正年間に水野忠重によって御殿が建てられた。
C‐AC160 牛田城跡 天文年間に牛田政興が猿渡川北岸の丘陵に築いたとされる。今川氏,松平氏に備えるための城であったという。桶狭間の戦いの際に落城したとも、その後、廃城になったとも伝わり遺構は残されていない。
C‐AC161 来迎寺城跡 築城年代,築城者は定かではない。また、城主も不明であるが戦国時代には織田方の城で156年に今川勢に攻め落とされたという。現在の来迎寺付近に築かれていたとされるが、住宅,畑地となり遺構は残されていない。
C‐AC162 八橋古城跡 881年、無量寿寺守護の奉行として村上兼房が在城したと伝わる。また、15世紀~16世紀前期の堀や井戸、大量の人骨と五輪塔が出土しており当時も城として存続していたと考えられる。遺構はほとんど残されていない。
C‐AC438 葦香城跡 八橋村にあった2つの古城跡のひとつで、村上兼利の居城とされる。築城年は定かではないが、もうひとつの八橋古城と同時期とすれば平安時代初期と思われる。現在は住宅地となっている。
安城市 C‐AC002 安祥城跡 1440年、和田親平によって築城された。1471年に松平信光が攻略し親忠を入れて以降、清康までの4代50余年間、松平氏の居城となった。三方を湿地に囲まれ、台地の突端部に土塁を廻らし、本丸,二の丸を構えた遺構である。1540年から49年まで5度にわたり、織田氏との攻防戦が繰り広げられ、最終的には今川方の城となる。
C‐AC037 桜井城跡 安城へ進出した松平親忠が小浦忠重の屋敷の地に築き4男の松平親房を城主とした。親房の後を松平信定が継ぎ桜井松平家の祖となった。信定は城を大改築し桜井松平6代70年間の居城とした。現在は城山公園になっている
C‐AC038 藤井城跡 永正年間に松平宗家5代長親の5男である松平利長によって築城され、藤井松平氏の祖となった。藤井松平2代目の信一は、家康の関東移封に伴い下総国相馬郡布川へ移り藤井城は廃城となった。道路に面して石碑が立っている。
C‐AC039 福釜城跡 永正年間に松平宗家5代長親の2男である松平親盛によって築城された。親盛は宇利城攻略の際に若くして討死した。4代・松平康親のときに家康の関東転封に従い関東に移った。現在は宅地,農地化され遺構は残されていない。
C‐AC159 箕輪城跡 1532年頃に浅井道介によって築かれたとされる。浅井氏は1542年に水野氏とともに松平氏と戦い、流れ矢に当って戦死したという。現在は光明寺,住宅に変わっており遺構は残されていない。
C‐AC339 高木城跡 戦国時代に高木宣光によって築かれたとされる。宣光の子・高木清秀は水野信元,佐久間信盛,織田信長、さらに徳川家康に仕えた。家康の関東移封に伴い関東へ移り廃城となった。現在は石碑と案内板が建てられているが、遺構は残っていない。
C‐AC340 山崎城跡 1543年、織田信秀が築城し三ツ木城を没収された松平信孝を入れて岡崎方の備えとした。1548年に信孝は戦死し、翌年、今川・松平氏連合軍が安祥城を攻略した際、山崎城も落城した。一部区域は山崎神明社の境内になっているが、土塁と空堀が残っている。
C‐AC341 上条城跡 築城年代は定かではないが、城主は足立吉太夫,上條氏と伝えられる。現在の浄玄寺の北辺りにあったとされるが、遺構は残っていない。
C‐AC342 安城古城跡 承久の変の後、地頭職の安藤左衛門尉がここに居館を構えたとされる。南北朝時代には地頭代として和田宗基が入り、5代の本拠地となった。1438年、和田親平が安祥城を築いて居城を移したことで廃城になったとされる。現在は土塁が残る。
C‐AC343 堀内城跡 築城年代,築城者は定かではないが、『三河国二葉松』には城主に堀小三郎の名がみえる。堀内古墳の南、堀内町屋敷地内一帯が城域だったとされる。
C‐AC344 姫小川城跡 築城年代は定かではないが、内藤清長によって築かれた。清長は三河一向一揆で一揆方に加担し松平家と敵対して荻城へと蟄居した。内藤氏の菩提寺である誓願寺の北東にあったといわれるが、現在は宅地となり遺構は残っていない。
C‐AC345 小川志茂城跡 1446年、下野国から三河に赴いた石川政康によって築かれた。本城公園の東側にあったとされ、小川的場城と近接していた方形単郭の館であったとされるが遺構は残されていない。公園の東屋に案内石碑が埋め込まれている。
C‐AC346 小川的場丘城跡 築城年は定かではないが、本多宗左右衛門,本多正信の居城とされる。本城公園の西辺りに在ったとされ小川志茂城とは近接していた。
C‐AC347 木戸村古城跡 築城年代は定かではないが、室町時代中期には石川式部,石川太郎五郎の居館であったとされる。城域は長因寺の西側一帯とされるが現在は遺構は残されていない。
C‐AC348 木戸城跡 築城年代は定かではないが、文明年間に成瀬直庸または石川氏によって築かれたと考えられている。城の主要部分は春日神社境内であり土塁と堀跡が残されている。
C‐AC349 岩根城跡 築城年代は定かではないが、鎌倉時代中期に関東より移住してきた加藤正成の築城とされる。東西約140m,南北約160mの方形単郭で南西部からはの断面がV字形の堀跡が確認されている。
C‐AC354 東端城跡 1580年、長田尚勝によって築かれた。尚勝の弟である直勝は小牧長久手の戦いで功を挙げ兄に代わって東端城主となった。1617年、常陸国笠間へ移封となり廃城となった。本曲輪の周りに土塁が残る。現在は城山八幡宮となっている。
C‐AC363 古井城跡 築城年は定かではないが、はじめ石原惣左衛門の居城となり、後に細井左馬助守世が移り、永禄年間に細井彦左衛門が六名村に移り廃城になったという。遺構は残っていない。
C‐AC635 河島村古城跡 太田屋敷跡ともいう。天正年間(1573~92年)の太田主計,太田佐馬助の居城とされる。黒壁の屋敷の西側と北側に矢作川氾濫に備えた水害防止用の堀と土塁が設けられている。
西尾市 C‐AC022 西尾城跡 (西条城跡) 築城年代は定かではないが、1221年に足利義氏が三河国の守護となり吉良荘西条として西条城を構え、長男・吉良長氏を置いたのが始まりとされる。戦国時代に松平元康が攻め取り、酒井正親を置いた。二之丸に天守台跡が残り、鍮石門,本丸丑寅櫓が復元されている。
C‐AC061 東条城跡 鎌倉時代に足利義氏が西条城と東条城を構え、それぞれ長男と三男に与えた。東条城は以後、義継を祖とする前期東条吉良氏と吉良尊義を祖とする後期東条吉良氏の居城となったが、松平元康の三河統一の過程で攻略された。
C‐AC062 幡豆寺部城跡 1514年に小笠原定政早川三郎を敗って城主となり、幡豆小笠原氏5代の居城となった。幡豆小笠原氏は徳川家康の船手衆として知られている。現在は、本丸,二の丸,土塁,堀などが残されている。
C‐AC063 今川城跡 鎌倉時代に今川国氏によって築かれたとされ、今川氏発祥の地といわれる。父の長氏が駿河守護職を兼ねることとなり、国氏も駿河に赴き、父隠居後は駿河の守護職を継いだ。城は西尾中学校付近に築かれていたとされる。
C‐AC218 牟呂城跡 東条吉良氏の被官であった富永正安によって築かれたとされるが、1561年に富永忠元が藤波畷の戦いで戦死した後、廃城となる。
C‐AC219 浅井西城跡 1521年、松平信忠が黒柳右京亮政家の居館であったものを3男康孝に与え浅井城とした。現在は黒柳家の周囲を土塁が巡り、北側には一部濠跡が残っている。
C‐AC350 江原城跡 築城年代は定かではないが、文明年間にこの地にやってきた小笠原氏が江原氏を名乗り、城を築いたとされる。一部土塁跡が残るのみで明確な遺構は残されていない。東の妙喜寺は江原氏の墓が残されている。
C‐AC351 荒川城跡 1527年に荒川義広が築いたとされる。三河一向一揆では一揆方に与して松平方に敗れ、1564年には荒川城も落城した。西尾市立八ツ面小学校の北東側一帯に築かれていたとされる。
C‐AC352 戸ヶ崎城跡 1347年に戸ヶ崎義宗が矢田から戸ヶ崎へ移り築城したとされるが、戦国時代には他国へと転出していったといわれている。城跡は現在小高い平坦地となっており一部果樹園などに利用されている。
C‐AC355 岡山城跡 14世紀後期に西条吉良家の満康が岡山氏の祖となり岡山氏代々の居城として存続したとされる。16世紀中頃の城主に富永半五郎勝光の名があり、室城主の富永伴五郎忠元が管理したとある。江戸時代前期には吉良弥清が住し岡山八兵衛を称した。
C‐AC356 鳥羽川坂城跡 築城年代は定かではないが、岡田十内が城主だったと伝わっている。階段を登ると地蔵仏が並ぶ削平地がある。東側に土塁があり、その奥は竹藪と化しており遺構かどうかの確認は難しい。
C‐AC357 波城跡 築城年代は定かではないが、松井忠勝によって築かれたとされる。城跡は畑と竹林となっており、縄張り確認が難しい。竹林は段々状になっているが、これが遺構かは不明である。
C‐AC358 赤羽根城跡 記録では1159年には伊勢平氏支流の鷲尾遠衡が城主であったという。その後、1561年、吉良義昭に属していた高橋政信は酒井正親に滅ぼされる。現在は赤羽別院親宣寺や県立一色高等学校の敷地となっている。
C‐AC359 寺津城跡 1510年に大河内信綱(信政)が築いたとされる。大河内氏は松平氏との関係を深め、その子孫の数家は幕末まで大名として存続した。城跡は現在の瑞松寺一帯とされ、境内の北西角に高土塁が残されている。
C‐AC360 巨海城跡 築城年代は定かではないが、戦国時代に巨海道綱によって築かれたとされる。跡地は寺津小学校,中学校となり、遺構は残されていない。
C‐AC361 徳永城跡 築城年代は定かではないが、室町時代にこの土地を治めた徳永義雄が築いたとされる。現在の立清寺(廃寺)辺りに築かれており、墓地の北東側に土塁が残されている。
C‐AC400 長縄城跡 築城年代は定かではないが、長縄大河内氏の居城とされる。1530年の守山崩れの際には、大河内小見(基高)が松平清康の遺骸をこの地に運び仮葬を行ったとされる。城跡は現在の稲荷社,公民館の辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC411 小島城跡 1521年頃、鷹部屋鉾之助の居城とされる。しかし、鉾之助,次の山田重宗も東条吉良氏に通じたことで松平氏に追放される。1561年に伊奈忠基,忠家,忠次の居城となる。徳川家康の関東移封に伴い廃城となった。西方寺の北方が城跡とされるが、現在はアイシン城山工場の一部となり遺構は残されていない。城跡に在った城山稲荷の碑が西方寺に移されている。
C‐AC460 米津城跡 築城年は定かではないが、米津勝政が築城したとされる。城の位置は明確ではなく、米津町丸之内地区から蔵屋敷地区にかけて在ったという説が有力である。遺構は残されていない。
C‐AC464 中根城跡 築城年は定かではないが、城主に鳥居伊賀守忠吉の名がある。明応年間(1492~1501年)に米津勝政に攻められて落城した。現在は畑地,墓地などに変わり遺構は残されていない。
C‐AC465 上永良城跡 鎌倉時代に加藤景俊が城館を築いたのが始まりとされる。加藤嘉明はこの地で生まれた。父・教明は三河一向一揆で一揆側に味方したため、流浪の身となり廃城になった。現在は神明社となっている。
C‐AC466 饗庭城跡 1383年、石川妙鶴丸が築いたのが始まりとされる。妙鶴丸は饗庭氏を名乗った。1475年、松平信光を呪詛したことが漏れて自殺した。その後は松井氏が城主となる。南西方向への段状の郭から成る。
C‐AC467 茶臼山城跡 築城年は定かではないが、標高260mの西茶臼山山頂に築かれ、城主に大高弾正,大蔵弾正,松平弥左衛門などの名がある。知多半島や渥美半島の監視あるいは狼煙台としての機能を持っていたのではないかと考えられる。曲輪,土橋,土塁,堀切が残されている。
C‐AC468 友国砦跡 1561年、松平元康が三河統一時に東条城攻略ために築いた砦の一つで、松井忠次(のちの松平康親)が守備した。現在は土砂採取などで荒廃地となり、砦の範囲も不明確である。
C‐AC469 鵜ヶ池城跡 1564年、松平家康が富永忠安に鵜ヶ池の地一帯を与え、忠安が野田村の館から移住し築いた城館とされる。現在は富永氏の住居に変わっており、もとは堀と思われる水路が周囲に設けられている。
C‐AC470 八ヶ尻城跡 天正年間(1573~92年)頃、高須河村権七郎の居城であったとされる。現在の香秀寺一帯が城跡といわれているが、宅地に変わり遺構は残されていない。
C‐AC471 小牧砦跡 1561年、松平元康が三河統一時に東条城攻略ために本陣として築いた砦の一つで、本多広孝を置いた。宝泉寺の南辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC472 欠城跡 築城年は定かではないが、戦国時代には小笠原安元の居城であった。安元は松平元康に従い様々な功を挙げた。中之郷古墳を中心に西南方向の海岸に迫って築かれていたとされる。
C‐AC473 津平砦跡 1561年、松平元康が三河統一時に東条城攻略ために築いた砦の一つで、松井忠次(のちの松平康親)が守備した。現在は土砂採取などで平坦な畑地となり、砦の範囲も不明確である。
C‐AC474 糟塚砦跡 築城年は定かではないが、小笠原長玆(宗忠,のちに吉次)の居城とされる。また、1561年の松平元康による東条城攻めの際に築かれた砦ともいう。 砦跡は宅地造成で遺構は失われ、小高い丘の上に民家が建っている。
C‐AC475 志子屋砦跡 築城年,築城者は定かではないが、荒川城の支城として築かれ、牧野吉蔵が護ったとされる。三河一向一揆の際には本證寺に拠って松平元康と戦っている。砦は蓮正寺西側の民家の辺りとされる。
C‐AC476 熊子砦跡 築城年は定かではないが、牧主計吉元によって築かれたとされる。三河一向一揆の際には松平元康に味方した。砦跡は小高い丘の上に建つ久麻久神社辺りとされ、南側斜面の辺りに館が在ったともいう。
C‐AC477 矢曽根城跡 築城年は定かではないが、伊勢田又八郎,松崎藤左衛門の居城とされる。現在は宅地に変わり遺構は残されていない。
C‐AC478 笹曽根城跡 築城年は定かではないが、成瀬小義右衛門,成瀬團名右衛門の居城とされる。城跡は善行寺西側とされるが、現在は宅地,畑地に変わり、遺構は残されていない。
C‐AC479 対篭城跡 築城年,築城者は定かではないが、鈴木忠五郎の居館であったとされる。現在の長寿寺辺りとされるが明らかではない。
C‐AC480 中野城跡 築城年は定かではないが、東条吉良氏の家臣・斉藤宮内の居城とされる。1561年の松平元康による東条城攻めで討死した。願成寺東側が城跡と伝わるが、遺構は残されていない。
碧南市 C‐AC353 鷲塚城跡 1562年、家康は鷲塚城の築造を命じ水野忠重を城主に任じた。忠重が1580年に刈谷城主となると、1590年まで代官が置かれていたが以後は廃城となった。浸食谷を中央に挟んで南に突き出た二つの半島状台地にあったという。
C‐AC412 羽城跡 〔大浜陣屋跡〕 1576年年、徳川家康が水軍の基地として築き長田重元に守らせた。大浜城の跡地ともいわれる。子の永井直勝は小牧長久手の戦いでの戦功により東端城主となった。家康関東移封とともに常陸国笠間城へ移り廃城となった。1768年には水野忠友が当地に大浜陣屋を構えた。
額田郡 幸田町 C‐AC072 深溝城跡A 一説に大庭朝満が1231年に足利氏に縁の深い額田郡深溝に移住して城館を築き、1332年頃に大庭朝泰によって本格的な城が築かれたといわれる。1465年に大庭氏は松平忠景に討ち取られ、松平氏に深溝の地が与えられた。現在は民間工場用地となっている。
C‐AC073 深溝城跡B 深溝には3つの城があったとされるそのひとつ。築城年代,築城者および歴史については不明である。松平好景の深溝城跡をAとし、こちらを深溝城跡Bとしている。独立した丘陵上に築かれていたが遺構は残されていない。
C‐AC074 深溝東光寺城跡 東光寺遺跡があった場所に鎌倉時代に大庭朝満が深溝城を築いてこの地を支配したとされる。後に深溝松平氏の支配下となる。深溝城跡A,深溝城跡Bと並ぶ3つ目の城跡であるが、歴史等の詳細についてはわかっていない。
C‐AC075 六栗城跡 永禄年間前半に夏目吉久が築いたとされる。夏目氏は代々松平家に仕え、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって一向一揆時に助命された恩に報いた。城の位置は確証が無く不明である。
C‐AC076 野場西城跡 室町時代に大須賀胤重が来住し築いた城とされる。大須賀康高はこの城で生まれた。1563年の三河一向一揆では一揆方の夏目吉信らに占拠されたが、松平伊忠によって落城した。民家の横に土塁の一部が残されている。
C‐AC077 大草城跡 大草氏が鎌倉時代に築城したとされる。その後、九州からの西郷氏が城主となり、文明年間に西郷頼嗣が松平信光に敗れて信光5男・松平光重を養子に迎えて家督を継がせた。三河一向一揆の際、西郷昌久は一揆方となり廃城となる。現在は城跡に正楽寺が再興されている。
C‐AC078 荻城跡 1460年頃に京都の内藤氏が三河国へ来住し当地に屋敷城を築いたことに始まる。1563年からの三河一向一揆では、内藤清長は一揆方に加担したため、この地に蟄居となり翌年に病没し荻城も廃城となった。現在は一面田地である。
C‐AC079 東部城跡 1561年、酒井正親によって築かれた城である。東条,西条の吉良氏攻略の足掛かりとした城とも言われている。1585年、家康は松平家忠に改修を命じて、小牧長久手の戦い後の羽柴秀吉に対しての構えとした。現在は市杵神社,児童公園,宅地と化している。
C‐AC080 高力城跡 1529年、熊谷正直によって築城された。三河三奉行で有名な高力清長もこの城で誕生している。城跡は相見川沿いに石碑が建つのみで遺構は残されていない。
C‐AC081 坂崎古城跡 戦国時代初期に平岩重益が築いた城館とされる。1542年、平岩親吉が生まれている。親吉は松平元康に駿府人質時代から付き従い、松平信康の傅役となった。1582年には甲府城を築き国内経営に尽力した。この頃には廃城ななった可能性が高い。
C‐AC082 坂崎城跡 (天野康景邸跡) 戦国時代に天野遠房が遠江国から来住し築いたとされる。1537年に天野康景が生まれ、幼い頃から松平元康に仕え、1565年には三河三奉行となる。1590年の家康関東移封に伴い、康景も下総国へ移り廃城となったと考えられる。
豊田市 C‐AC008 大給城跡 もとは地元土豪の長坂新左衛門によって築かれたとされる。やがて松平信光が攻略し松平乗元が入り、城郭としての体裁を整備した。1590年、松平家乗のときに上野国那波へ転封となり廃城となった。水の手曲輪が特徴的である。
C‐AC016 挙母城跡 (七州城跡) 桜城が矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため、1782年に内藤学文が高さ65mほどの丘である童子山に築いた。三河,尾張,美濃,信濃,伊賀,伊勢,近江の7つの国が見える高台にあることから七州城といった。
C‐AC024 梟ヶ城跡 築城年代,築城者は定かではない。登り道途中に巨石があり、山頂には豊田市街を一望できる展望台がある。城名の由来は、フクロウの鳴き声によって敵の来襲を知り、危難を防ぐことができたという言い伝えに基づく。
C‐AC025 松平城跡 (郷敷城跡) 応永年間に松平親氏によって松平氏館の詰めの城として築かれたとされる。親氏が岩津城へ移ってからは、太郎左衛門家の松平信広の居城となった。文禄年間に廃城になった。主郭と二郭,三郭,四郭を配する。
C‐AC033 伊保東古城跡 1368~74年に三宅氏が築いた城とされる。1493年、三宅清宜のときに井田野で松平親忠に惨敗。1558年、三宅康貞は松平元康に降り、以後、徳川家の譜代として幕末まで存続した。保見中学校グランドの東半分が本丸であり、南側に腰曲輪の遺構が残る。
C‐AC034 伊保西古城跡 1497年、三宅善次、その子・重次,家次が当地へ移住したことに始まる。やがて、松平氏が侵攻し1558年、三宅康貞は松平元康に降り松平氏の家臣となる。主郭の東西側に腰曲輪、南側下には堀切が確認できる。
C‐AC035 丸根城跡 室町時代後期に松平信光の子の丸根家勝によって築かれたと考えられる。1561)年には丸根家定が松平元康と戦い敗北したとされる。丸根城は矢作川に面した東岸の丘陵に築かれ、主郭,北曲輪の周囲には空堀が巡る。
C‐AC036 古瀬間城跡 1506年、松平宗忠によって築かれたとされる。徳川家康の関東移封に伴い廃城になったとされる。単郭の城で腰曲輪が段差をつけながら取り囲んでいる。城主らの館跡に建立された浄願寺の境内に宗忠の墓とされる五輪塔が残る。
C‐AC048 井ノ口城跡 築城年代は定かではないが、戦国時代に鈴木重政が築城したとされ、城主には戸田忠勝の名がある。巴川の支流の北岸にある丘陵に築かれており、空堀によって隔てられた東西二郭で構成される。
C‐AC049 黍生城跡 治承年間に山田重長によって築かれたとされる。重長は足助氏を称した。1180年の墨俣の戦いで長兄の山田重満とともに討死した。黍生山の山頂に築かれた単郭の城で北東から南西に長い主郭をもつ。足助七屋敷の一つ。
C‐AC050 成瀬城跡 15世紀後半には鈴木氏によって築かれたとされる。城主に鈴木重次,重成,正三の名がある。かつての足助荘成瀬郷で犬山城主成瀬氏の発祥地といわれる。現在は西側が大きく削られ、郭の一部が残るのみである。足助七屋敷の一つ。
C‐AC051 飯盛城跡 鎌倉時代初期に足助重秀によって築かれたとされる。7代重範は、1331年の元弘の乱の際、笠置山の戦いで捕らわれ京都六条河原で斬首された。8代重政の時には足助を去ったとされる。主郭は東西に長く東西両下に一段の削平地がある。足助七屋敷の一つ。
C‐AC052 大観音城跡 築城年代は定かではないが、足助氏一族の居館で足助七屋敷の一つである。城山の南西尾根にある観音寺一帯が居館跡の大曲輪とされ、さらに北東に伸びた尾根伝いに曲輪が連なり山頂に主郭がある。
C‐AC053 足助城跡 (真弓山城跡) 築城年代は定かではないが、鈴木忠親によって築かれ、康重まで5代続いた。1525年に松平清康に攻められ一旦は松平氏に降ったが、その後も離反帰服を繰り返し、1564年に松平家康に完全服属した。家康の関東移封に従い足助城は廃城となった。現在は、高櫓,長屋,物見矢倉,厨などが復元されている。
C‐AC054 則定城跡 (則貞城ヶ峯城跡) 酒呑鈴木氏の流れを組む鈴木重政が則定城主になったとあるため、16世紀中期に築かれたと思われる。北の頂部から南西の尾根に向かって曲輪を設けている。
C‐AC055 八桑城跡 築城年代は定かではないが、足助城の出城として築かれ、城主に鈴木甚五左衛門の名がある。1571年の武田軍の三河侵攻の際に落城したとされる。現在は八幡神社が建つ。
C‐AC056 椎城跡 築城年代は定かではないが、城主には則定鈴木氏の鈴木重次,鈴木十内,鈴木重氏の名がある。1600年に則定陣屋を構え、江戸時代は一千石の旗本として明治まで続いた。羅漢山山頂が主郭で切岸,堀切,土塁の遺構が残る。
C‐AC085 桜城跡 1614年、三宅康貞が金谷城の代用の城として築城した。1749年、挙母藩に内藤政苗が入封し大改築を開始したが、度重なる洪水被害で改築工事を断念し、代わりに挙母城が築かれることになり廃城になった。隅櫓跡の石垣が残っている。
C‐AC086 金谷城跡 1308年、三河国高橋荘地頭の中条景長の築城とされる。金谷城は江戸時代に内藤氏によって拳母城が築かれるまでは拳母城とは金谷城を指していた。1614年、三宅康貞は金谷城を廃して桜城を築いた。
C‐AC113 藤五城跡 (宮口城跡) 1164年、尾張国笠寺から来住した篠田藤五郎貞直が鼓ヶ城を築いたのが始まりとされる。南北朝時代、松平久親の嫡子加納政久の支配下となり、藤五城が新たに築かれた。1648年には幕府領となり20代篠田左平次弥六が宮口村の代官となっている。
C‐AC114 寺部城跡 文明年間に鈴木重時によって築かれた。1558年、今川方から織田信長方へ寝返ると、今川義元より寺部城攻めを命ぜられた松平元康は火攻めで落城させた(これが元康の初陣)。1618年に尾張徳川家家老の渡辺守綱が寺部城址に陣屋を構え、明治時代まで至る。
C‐AC127 鴛鴨城跡  鴛鴨入道酒井道円なる人物が、岩津城と上野城に近いこの地に築いたとされる。1468年、松平信光は挙母への進出を目指し鴛鴨の地を制し、城を築いて息子の松平親光を入れた。1565年、3代親久の死去により廃城となった。
C‐AC128 上野上村城跡 応仁の頃、戸田宗光により築城されたとされる。宗光は、1475年には田原城を築き移り、上野城には弟の戸田家光が入るが松平親忠に攻め取られる。1545年、酒井忠尚が城主となるが三河一向一揆で一揆方に味方し徳川家康に攻められ落城した。なお、榊原康政生誕の地でもある。
C‐AC129 酒呑城跡 文明年間に鈴木重時が酒呑へ移住し城を築いたとされる(異説あり)。酒呑鈴木氏は3代重信より徳川家康に仕え、江戸時代は旗本となり酒呑陣屋を構えている。城は矢作川支流の巴川に沿って南西に伸びた通称「城ノ腰」に築かれている。
C‐AC130 霧山白山城跡 戦国時代に信州川中島より戦火を逃れて移り住んだ島村氏が居住したと伝えられる。城は白山神社の北の山頂に築かれ、主郭には白山神社奥宮がある。主郭は比較的小さいが、三条の竪堀や堀切状の堀に架かる土橋が確認できる。
C‐AC131 滝脇城跡 (日影城跡) 1487年、松平乗清が移り住んだ城である。1556年、大給松平親乗と所領争いで乗清,2代乗遠ともに討死した。3代乗高は1575年の二俣城攻めの後、父兄の仇である大給城を夜襲して親乗を駆逐した。4代乗次は滝脇陣屋を構えた。
C‐AC132 九久平城跡 築城年代は定かではないが、戦国時代には鈴木氏の居城であった。鈴木康政が武田軍の侵入に備え築いたとされる。1625年には鈴木政次が陣屋を構えた。城跡は九久平小学校の東、高徳寺の北背後の辺りとされる。
C‐AC133 大田城跡(松平城山城跡) 松平宗家3代松平信光によって築かれ、子の松平光親を城主としたとされる。一説には太田道灌が築いたとの伝承もある。光親が能見城へ移ったことで廃城となった。U字型の縄張りとなっており、曲輪群には堀切,土塁,土橋や一部石垣が残っている。
C‐AC145 市場城跡 (大草城跡) 1502年、鈴木(鱸)親信によって築かれたとされる。1583年、4代重愛は徳川家康に従って功を挙げ、加増を受けて石垣,池などを造って城を改修したが、豊臣秀吉に従わなかったため1592年に小原を追われ城は破却された。主郭を中心とした石垣造りで現状も一部現存する。
C‐AC146 市場古城跡 応永年間に鈴木重勝によって築かれたとされる。その後、鱸(鈴木)藤五郎親信のときに市場城を築き居城を移した。古城はその後も存続し、熊野神社辺りまで城域を拡大したと考えられている。主郭は東西100mほどの長さをもち、東西両端に高土塁を残す。
C‐AC147 仁木城跡 室町時代築城とされるが定かではない。戦国時代には春日井与左衛門の居城とされる。比高60mの城ヶ峰の山頂に築かれ、主郭は東西に長く北と西に土塁が設けられ、一部の土塁は内側を石積で補強されている。
C‐AC148 大平本城跡 築城年代は定かではない。谷を挟んで北側に大平姫城がある。1466年、大内久政は岩津城主松平信光によって攻められ落城したという。
C‐AC149 大平姫城跡 築城年代は定かではない。谷を挟んで南側に大平本城がある。本城を別名「男城」と呼ぶのに対し、こちらは「女城」と呼ばれる。1466年の城主は大内久政であったが、岩津城主松平信光によって攻められ落城したという。単郭の城で東背後は土塁と堀切によって遮断している。
C‐AC150 大洞城跡 戦国時代の城とされるが、築年代,城主は定かではない。主郭を囲むように帯曲輪があり、北の尾根に堀切が設けられている。また、南の虎口付近にはいくつかの石積みが残っている。
C‐AC151 乙ケ林城跡 築城年,築城者は定かではないが、城主として岡山平蔵,三宅道清,春日部定縄の名が残る。歴史は不明であるが、近くの城と同様に武田軍によって落城した可能性が高い。南北2郭からなり、主郭は南端の郭で北の郭とは高土塁と堀切によって遮断されている。
C‐AC152 城ノ腰城跡 南の山塊から北北東へ伸びた比高20mの丘陵端に築かれた単郭の城で、仁木城主の春日井与左衛門の城とされる。1575年頃に武田勝頼により落城したと思われる。民家の左から登ると主郭西側の大きな堀切に出る。
C‐AC153 田代城跡 築城年は定かではないが、城主として森外記,松平主税の名がある。1574年、武田勝頼の侵攻の際に落城したとされる。比高10mの丘陵尾根端に築かれた単郭の城で北から西側にかけて土塁が残り、西側の櫓台状の土塁上には若宮が祀られている。
C‐AC154 永太郎城跡 築城年は定かではないが、城主として市場城主鱸氏の家臣二村太郎左衛門の弟である二村尹重の名がある。登城道途中には削平されて地に剛勝大権現の社が祀られている。主郭の北東側には土塁状に幅広の土盛りを残している。
C‐AC163 駒場城跡 築城年代,築城者および歴史については定かではない。城域もはっきりしないが、水田のあぜ道脇に太田備後守の小さな碑が建っていた(現在は移動している)。現在は水田,民家となっており遺構は残されていない。
C‐AC165 岩倉城ノ浦城跡 築城年代は定かではなく、城主も戸田又次,岩倉隼人助,天野藤右衛門の名があるが明確ではない。主郭は二段の曲輪から構成され、中央に浅い堀の痕跡がある。東の曲輪との間に堀切、西端には低い土塁が巡っている。
C‐AC166 岩倉城ノ峠城跡 1469年頃、戸田宗光が岩倉村に進出して築いたとされる。城主には戸田又次,岩倉隼人助,天野藤右衛門の名が挙げられるが詳細は不明。江戸初期の城主戸田直矣は大坂夏の陣にて戦死した。現在は東名高速道路建設の採土によって原型を失い、遺構は残されていない。
C‐AC176 田代城跡 城主として森外記,松平主税,松平甚五左衛門の名が伝わる。1571年または1574年、武田勝頼に攻め落とされたという。西へ伸びた尾根端に築かれており東背後にL型の土塁と2本の堀切があり、西の尾根が曲輪となる。
C‐AC176a 田代城出曲輪跡 東約300mほどにある田代城の出曲輪で比高20mほどの尾根の西端のなかほどに築かれている。円形に削平した段の北東側に微高の土塁が設けられているが、堀切や切岸はみられない。
C‐AC177 代官屋敷城跡 築造年代は定かではないが、板東作右衛門の城とされる。代官屋敷跡背後の山頂部に築かれた詰城である。城跡には曲輪,堀切が残る。
C‐AC178 大沼城跡 文明年間に木村安信によって築かれた足助七城の一つ。1574年、木村信元が城主のとき、武田氏によって攻められ落城する。翌年、大給松平近清が信元の養子となって城主となる。1590年の徳川家康関東移封に従い上野国三ノ倉に五千石で移り、廃城となった。
C‐AC179 大桑城跡 15~16世紀の城で城主は河合弥十郎と伝えられている。1571年に武田勢が足助城をはじめ大沼城,田代城などを攻め落としたときに本城も落城したのではないか。主郭は隅丸の三角形の平面形状である。周囲を土塁,帯曲輪,堀切で囲み、南に虎口を開く。
C‐AC180 羽布城跡 築城年は定かではない。川合小兵衛の居城とされる。1571年に田代城,大沼城とともに武田軍に攻められて落城となる。羽布城は東の峠に対して備えた城で、主郭部は不整形で緩斜面地形となる。
C‐AC181 孫根城跡 築城年代は定かではない。初代城主は梶金平信勝とされる。以後、6代続いたが、1536年7代の与吉郎信家のときに足利勢に攻められて落城という。1571年に武田軍の三河侵攻に敗れた本多忠知は仏門に入り等順寺を建立し、代々住職して今日まで続いている。
C‐AC183 安代城跡 築城年は定かではない。足助七城の一であり、在地小領主原田氏の居館とされる。城主に原田源左衛門,原田弥五平種則の名がある。1571年、武田軍の三河侵攻によって落城した。現在は曲輪,堀切,土塁が残る。
C‐AC184 臼木ヶ峰城跡 築城年代は定かではないが、足助七屋敷の一つで中條全満の居城とされる。現在は山林,墓地に変わり水力発電所の送水管が通っているが、山頂部分には主郭,堀切が残っている。
C‐AC185 浅谷城跡 戦国時代には簗瀬九郎左衛門の居城であったと伝えられる。足助七城の一つ。1571年、武田信玄の三河侵攻の際に周辺の諸城とともに落城した。次男の簗瀬信弘は1575年の長篠設楽ヶ原の戦いに敗れ、やがて帰農して田峯に住んだという。
C‐AC186 御船城跡 築城者は応仁の乱で戦功があった児島義明と伝えられている。天文年間には三宅氏の居城となり、1564年に戦乱のなか落城し、当時の城主・三宅義高が討ち死にしている。御船川を外堀として築かれた戦国時代には数少ない平城である。
C‐AC187 則定小畑城跡 築城年は定かではない。城主は松平縫殿助(大給松平真次?)と伝えられる。則定川,巴川の合流する地点の南西にある丘陵に巴川の渡し場の押さえとして築かれた城と考えられる。主郭西側には土塁が残り、奥へ進んだ主郭南西に堀切がある。
C‐AC188 城山城跡 築城年代,築城者とも定かでないが、足助氏一族の城と思われる。足助城の北西、大観音城の西に位置する山頂に築かれている。東西二郭を主郭としている。
C‐AC267 鶏足城跡 築城年,築城者は定かではないが、ここから東南に位置する浅谷城とともに足助城の支城、南の固めの城として築城されたと考えられる。足助の諸城が1574年に落城し、その際に役割を終えたと思われる。本曲輪は約130坪と東西に長く続く。本曲輪の西端には腰曲輪、そして大規模な堀切がある。
C‐AC304 篠平城跡 仁木城主の春日井与左衛門の居城とされる。1576年、武田勝頼が東美濃へ侵入した際に德川家康が利用したともいわれている。城跡は蔵王神社裏山の山頂に築かれ、曲輪,堀が残されている。
C‐AC305 葉座場城跡 築城年代,築城者ともに定かではない。白山城ヶ峰の山頂に築かれ、山頂には円形に近い主郭がある。
C‐AC306 槙本城跡 築城年代,築城者は定かではないが、城主に松井左近の名がある。1571年には武田信玄の西三河侵攻の際に攻撃を受けたという。なお、現在の遺構は1583年頃のものとされている。神社社殿が建つ最高所が主郭、主郭の周囲に腰曲輪を配する。
C‐AC307 高蔵城跡 城主は高蔵(松井)内蔵助で1571年に甲斐武田氏の西三河侵攻の際に落城したという。東西に三つの曲輪があり西端が主郭となっている。主郭の東に堀切を挟んで二郭、さらに一段下がって三郭と並ぶ。
C‐AC308 押手城跡 築城年代,築城者は定かではないが、城主に松平右近の名が残る。北西に伸びた比高30mの丘陵端に築かれている。頂部に細長い主郭があり、その南端には幅広い堀切、主郭西側には帯曲輪が残されている。
C‐AC309 二井寺城跡 普賢寺(二井寺)の西に聳える比高50mの尾根上に築かれている。築城年代,築城者は定かではないが、戦国時代に普賢寺が山県昌景に焼かれたとの伝えがある。堀切で区画された南北に三つの郭が連なっている。
C‐AC310 能見城跡 永正年間における能見松平光親の居城とされる。その後、能見松平氏は岡崎の能見城へと移った。1200㎡規模の不整長楕円を成し、本丸跡に物見櫓跡,本丸の北東と南西に2つの曲輪跡があったが、県道拡張工事で破壊されている。
C‐AC311 大垣内城跡 築城年代,築城者ともに定かではない。西へ伸びた比高30mほどの尾根端の頂部に築かれている。山頂部は山林となっているが、主郭とされるが削平地あり、東尾根に堀切らしき地形が残る。
C‐AC312 源重城跡 築城年代は定かではないが、城主に神田元忠の名がある。比高20mの南へ伸びた低丘陵に築かれている。
C‐AC313 大坪古城跡 築城年代,築城者ともに定かではなく歴史についても不明である。山頂部は東西に長く、その西側部分が主郭で北山腹の広い平坦地が居館跡とされる。主郭の東西に堀切が設けられている。
C‐AC314 大坪城跡 築城年代,築城者ともに定かではなく歴史についても不明である。西へ伸びた比高90mの山に築かれ東西二郭から成る。防御方式として堀切や横堀が用いられているほか、この地域によくみられる畝状竪堀群を有している。
C‐AC315 小渡城跡 1556年に今川方であった鱸兵庫助が美濃の岩村衆と広瀬右衛門大夫と協力して普請したという記録がある。麓の増福寺から遊歩道が付けられている。山頂に堀切で隔てられた主郭と副郭があり、畝状空堀群がみられるのが特徴である。
C‐AC316 市木城跡 文治年間頃に鈴木重基が父の鈴木重善と共に矢並へ入り、市木川の北岸の丘陵先端に城を築き市木を領有したとされる。現在は昌光寺,住宅に変わり、本堂裏に土塁と思われる土盛りがある。
C‐AC317 御作城跡 築城年代,築城者は定かではないが、鎌倉時代末期には存在していたとされ、天徳寺は居館跡とも伝えられる。比高90mの城ヶ根山山頂に築かれており、現在は山頂の狭い曲輪に展望台が設置されている。
C‐AC318 一色城跡 築城年代,築城者は定かではない。比高50mほどの尾根上に築かれた城である。堀切を挟んで南北に郭跡と思われる平坦地があり、堀切には土橋跡が認められる。南側は少し高くなっており、さらに南奥は土塁あるいは小郭ともみえる高みがある。
C‐AC319 川折城跡 築城年代,築城者も定かではない。現在は山林となり、曲輪,堀切が残る。
C‐AC320 下切城跡 築城年代,築城者ともに定かではない。矢作川がS字に曲がる標高230m,比高40mの丘陵上に築かれていた。現在は山林となり、曲輪跡と思われる平坦地が残っている。
C‐AC321 円山城跡 1511年、鈴木高教が山城国船岡山の戦いに従軍し戦功を挙げたことで阿摺郷内に領地を得たとも単に来住したともいわれる。1571年の武田軍三河侵攻の際に落とされ廃城になったとされる。足助七城の一つ。
C‐AC322 大蔵城跡 戦国時代に原田種重によって現在の大蔵小学校の北に聳える山の頂きに築かれ、麓の大蔵こども園が居館跡とされる。曲輪,堀切が残されている。
C‐AC376 堤本地城跡 南北朝時代に畠山六郎(義輝)の居城とされる。1364年、六郎は堤において近郷850町を賜った。1402年に六郎が没し、1467年頃には廃城となったとされる。現在は八幡社と建ち、遺構は残されていない。
C‐AC377 槇本城跡 築城年代,築城者とも定かではない。また、歴史についても明らかではない。周辺道路より一段低い位置にあり、現在は畑地となっている。
C‐AC384 駒場古城跡 築城年代,築城者および歴史についても定かではない。逢妻男川北岸の南に突き出した標高15m,比高10mの台地端に築かれていたという。現在は住宅,駐車場,畑地や竹林に変わり、遺構は残されていない。
C‐AC423 八草城跡 築城年は定かではないが、1493年、初代城主の那須惣左衛門は上野城主・阿部孫次郎らと松平親忠と井田野で戦うも敗れている。1533年,1535年にも松平氏に敗れ、中条秀正は織田信長に仕えた。現在は八草町ふれあい広場となっている。
C‐AC432 東広瀬城跡 1344年、児島高徳が築き、嫡男・児島高盛が城主となった。1384年頃、三宅貞宜が城主となり、以後、三宅氏代々の居城となる。1560年、三宅高貞は松平元康に敗れ落城となる。現在は主郭が広瀬神社の境内となっている。
C‐AC433 西広瀬城跡 1460年頃の城主は佐久間信盛だったという(織田信長家臣の信盛とは別人)。1533年に城主となった佐久間全孝は岡崎に岩松八弥を送り込み、松平広忠を暗殺した。一時、三宅氏が城主となったが、1576年頃からは信長家臣の佐久間信盛信直信栄が居城した。主郭,二の曲輪,三の曲輪がが残る。
C‐AC434 広瀬古城跡 築城年は定かではない。矢作川の西に位置する標高160mの尾根上に築かれた城で、城主に三宅主膳,三宅正光の名がある。現在は曲輪,堀が残されている。
C‐AC435 広見城跡 1355年頃、中条秀長が築いたとも、1532~55年に中条秀正が築いたともいわれる。秀正は1577年の落城の際に自害したとされる。城は比高90mの山頂に築かれ、現在は山林となっているが、曲輪,空堀,石積みが残されている。
C‐AC436 伊保城(伊保陣屋)跡 1600年、丹羽氏次が入封し築いた。翌年には子の氏信が遺領を継いだ。氏信が美濃国岩村へ転封となると一時廃藩となり、代官の管理下となったが、1681年に本多忠晴が入り再び伊保藩が立藩された。曲輪,土塁,石垣が残されている。
C‐AC437 伊保古城跡 15世紀後半に三宅貞宜によって築かれたと考えられる。歴代三宅氏の居城とされるが、その歴史は不明。雑木林が城跡であり、中に城址碑が建つ。曲輪,土塁跡を確認できる。
C‐AC461 久木城跡 築城年は定かではないが、原田種友の居城とされる。種友は徳川家康に仕え1572年の三方原の戦いで討死した。3代・種成で御家断絶となった。曲輪は竹林や杉林になっている。
C‐AC462 武節古城跡 1334年頃、名倉左近蔵人が政所として政務を行ったとされる。その後、山田氏が居城。戦国時代には、菅沼定信が武節城を築くと山田氏も菅沼氏に従属したと思われる。城跡には土塁,主郭,帯曲輪が残る。
C‐AC463 武節城跡  永正年間(1504~21年)に田峯城主・菅沼定信の支城として築かれた。武田信玄の没後には菅沼氏は武田氏側と徳川氏側に分裂。長篠の戦いでは、大敗した武田勝頼,菅沼定忠らは武節城で一泊している。その後、徳川方の奥平信昌が城主となり、徳川氏関東移封時もしくは関ヶ原の戦い後に廃城になった。主郭,二ノ丸,三ノ丸,物見台,空堀跡が残されている。
C‐AC482 夏焼城跡 南北朝時代に標高889mの城ヶ山に築かれた山田氏の居城とされる。この城は武節古城,武節城の詰めの城または退守の城といわれる。山頂の平坦部が主郭で、南西下段に二の曲輪がある。
C‐AC498 川手城跡 1335年に山田頼範によって築城された。山田良行の代に井伊直政に仕えて彦根へ移り廃城となった。尾根とは堀切で画され、その内側には櫓台と思われる土塁があり北側の主郭に続く。
C‐AC499 猿ヶ城跡 室町時代に標高739m,比高200mの山頂に築かれた。城主として日下部(松井)佐渡守の名があるが、1571年の武田信玄の西三河侵攻の際に落城したと伝わる。山頂部の城跡には鉄塔が建てられている。
C‐AC500 太田城跡 築城年,築城者は定かではないが、城主に神田元忠の名がある。標高467m,比高80mの山頂に築かれており、現在は山林に変わり曲輪が残されている。
C‐AC501 中当城跡 築城年,築城者は定かではない。中当城ヶ山山頂に築かれた城で城主も不明。山頂が主郭であり、西側に二段の曲輪、東から北にかけて腰曲輪が付けられている。
C‐AC502 九沢砦跡 南北朝時代に山田氏によって築かれた砦で武節古城と川手城のつなぎの城とされる。現在は主郭に反射板が設置されており、曲輪,堀切,竪堀が残る。
C‐AC503 川手古城跡 築城年は定かではないが、川手大蔵亮によって築かれた山田氏の支城とされる。美濃国と三河国の国境に位置する。現在、畑地と住宅となっているが、堀跡が残る。
C‐AC504 野入城跡 1581年、織田信長の命により奥平信光によって築かれたとされる。主郭の北側に堀切がありその端は竪堀として落とされている。南西端には見張り台もしくは狼煙台と思われる小曲輪に続く曲輪がある。
C‐AC505 駒山城跡 室町時代の日下部(松井)佐渡守の本城とされ、支城に猿ヶ城がある。明応年間(1492~1501年)、安藤守春の居館であったとも伝わる。1571年の武田の西三河侵攻の際に落城した。現在は小馬廃寺となっている。
C‐AC506 広沢城跡 築城年は定かではないが、市場城主の鈴木氏が、武田氏の奥三河侵攻時にここへ逃れ築城したとされる。猿投神社の北西方向の城ヶ峯の南に位置し主郭の一部は櫓台と思われる高台となっている。
C‐AC507 押山城跡 1556,7年頃、川手城主の山田景隆によって築かれたとされるが、城主は定かではない。川手城の支城として名倉川の東にある城ヶ峯に築かれ、主郭は山頂平坦部で、北側から東側,南側にかけて帯曲輪が付く。
C‐AC508 矢倉砦跡 山田景隆によって押山城の北西の矢倉平に川手城と押手城のつなぎの砦として築かれたと考えられる。城主は定かではない。曲輪には櫓が建てられ川手城が一望できた。
C‐AC509 峯山砦跡 戦国時代に川手城主・山田氏によって築かれ、その武将・太田氏の砦とされる。主に狼煙場として、隣国美濃の情勢を川手城,押山城から九沢砦を経て武節城へと伝える重要な中継地点であった。
C‐AC603 中金城跡 1350年、広瀬を拠点としていた児島高徳によって築かれたとされる。1560年、松平元康に攻められ落城した。尾根端に築かれた簡単な構造で居館として使われていたと考えられる。
C‐AC604 中金城詰城跡 1350年、広瀬を拠点としていた児島高徳によって築かれ、1560年に松平元康に攻められ落城した。中金城の詰城と考えられる。東西に長く堀切がみられる。
C‐AC605 大河原城跡 築城年,築城者とも定かではない。標高160m,比高60mの城ヶ峰山頂に築かれ、堀切によって隔てられた東西の2つの曲輪とその南側には腰曲輪が設けられている。
C‐AC606 橋向城跡 築城年,築城者は定かではない。一説には東広瀬城の児島高徳の支城という説もある。Y字の曲輪が配され、北西側には2段の曲輪がある。主郭の南側には二重堀切がみられる。
C‐AC607 田振城跡 築城年は定かではなく、城主に林義豊,九生氏光の名があるが、歴史についてははっきりしない。曲輪,堀切が残されている。
C‐AC608 川口城跡 室町時代に川口源左衛門によって築かれ、のちに水野春次が移り居城とした。1575年に武田勝頼に攻められ落城し廃城となった。通称「城ケ峰」と呼ばれる山頂に主郭,腰曲輪,堀切跡が残る。
C‐AC609 坂城跡 築城年,築城者,城主とも定かではない。西の千ノ田城関連の監視の城と考えられる。主郭の東西両側を堀切で遮断し、北端部には腰曲輪と帯曲輪状の削平地が認められる。
C‐AC610 芦ノ入城跡 築城年,築城者,城主とも定かではない。千ノ田城の東隣りの山頂にあり、千ノ田城への通信のつなぎの機能をもっていたと推測される。主郭の北側と南側を堀切,横堀で遮断している。
C‐AC611 千ノ田城跡 地元では八木義員なる人物の城とされるが、詳細は不明。1571年に武田軍の三河攻略の際に落城したという言い伝えがある。主郭はU字形に横堀が巡らされ、東側は堀切となっている。
C‐AC612 加塩城跡 築城年,築城者,城主とも定かではない。1571年、武田軍の三河攻略の際に、原昌胤に攻められ落城したと伝えられている。城は城ヶ峯の山頂に築かれ、曲輪,堀切が残されている。
C‐AC613 小畑城跡 築城年は定かではないが、城主は小畑山城守と伝えられる。1570年の武田氏侵攻に対して、小畑氏,鈴木氏,松井氏,愛智氏などの少勢力が立て籠もったという。南北に3つの曲輪が連なる。
C‐AC614 万町城跡 築城年,築城者は定かではないが、城主に成瀬良房の名がある。尾根端に築かれ、現在は曲輪,土塁,堀切が残されている。
C‐AC615 白石城跡 築城年は定かではないが、城主には神田元忠の名がある。城ヶ峰山頂に築かれ、T字状の主郭の南西には畝状空堀群が残る。畝状空堀群からは鈴木氏による改修が推定される。
C‐AC616 茶臼山城跡 築城年,築城者,城主とも定かではない。歴史についても不明である。標高420m,比高70mの茶臼山山頂に築かれ、堀切,曲輪が残されている。
C‐AC633 上野下村城跡 1490年以前に榊原清長が築いたともいわれるが不明。その後、内藤清長の居城となり、家康関東移封に伴い、内藤家長が上総国へ移り、廃城となった。城跡は県営上郷住宅あるいは会下山の台地辺りとされる。
C‐AC658 宗定城跡 大永年間(1521~28年)、岡崎の小針より来住した岡部忠政の居城とされ、ほかに城主として神谷宗弘の名もある。宗定ちびっこ広場の周辺が城跡とされる。
C‐AC659 国江城跡 応永年間(1394~1428年)、神谷高朝の居城となり、永正年間(1504~21年)に廃城になったとされる。城跡は家田病院の北側、国江集会所西側の田地にあたる。
C‐AC670 矢並上本城跡 文治年間(1185~90年)に鈴木重善(善阿弥)によって築かれたと伝わる。矢並小学校の南西の山頂にあり、主郭とその西に長方形のⅡ郭がある。
C‐AC671 矢並下本城跡 文治年間(1185~90年)に鈴木重善(善阿弥)によって築かれたと伝わる。城跡は東海環状道路建設のため破壊され、わずかに残る主郭の東端と西側の鞍ヶ池ハイウェイオアシスに石碑が建つ。
C‐AC672 若林城跡 1499年、本田親平によって現在の円楽寺を中心とした小高い丘陵に築かれたとされる。明応年間(1492~1501年)には加藤正成の名がある。1504年に廃城。
C‐AC673 竹村城跡 文治年間(1185~90年)に鈴木重善(善阿弥)によって築かれたとされる。城域は明確ではないが、1188年に創建された光恩寺周辺と考えられている。現在、遺構は残されていない。
C‐AC674 月原城山城跡 築城時期は定かではなく、城主などもはっきりしない。尾根上に150mほど離れて西曲輪と東曲輪があり、堀切,竪堀が残されている。細長い西曲輪が主郭と思われる。
C‐AC684 時瀬城跡 築城年は定かではないが、美濃国明知の遠山与五郎の居城と伝わる。ただし、これも確証はなく伝承地とされている。大きく2つの曲輪があるが土塁,空堀や堀切はみられない。
岡崎市 C‐AC007 岡崎城跡 1455年頃に西郷稠頼によって築かれた龍燈山城が始まりで、1531年頃、松平清康が改修拡張整備して移った。1542年には竹千代が生まれる。一時今川方の城となったが桶狭間の戦い後、松平元康が取り戻した。家康関東移封後は田中吉政が拡張し近世城郭に整備された。江戸時代以降は譜代大名が城主を務めている。復興天守が建つ本丸と周辺の曲輪,石垣,堀などの遺構を残す。
C‐AC026 山中城跡 15世紀半ば、西郷氏による築かれたとされる。愛知県内の戦国期山城の中で最大級の規模である。西郷信貞のとき、松平清康軍の奇襲で一夜にして落城した。その後、今川氏の西三河攻略の拠点となるが再び松平氏のものとなる。主郭と二の郭は東西に続き西側は土塁が周囲を巡る。
C‐AC041 井田城跡 築城年代は定かではないが、酒井氏忠による築城とされ忠勝,康忠,忠親さらに忠次までの酒井氏5代の居城となった。岡崎城の北方2kmの地点にありその防衛拠点のひとつである。城跡は高台になっている。
C‐AC115 岩津城跡 1421年頃に松平泰親が岩津大膳の岩津城を急襲し松平郷から岩津城へと移ったとする説と、買得によって進出したとする説がある。泰親の跡は松平信光が嗣いだ。小牧長久手の戦いのときに徳川家康が改修を行っている。馬出し,土橋,空堀、そして主郭の土塁が残る。
C‐AC253 姫ヶ城跡 986~1011年に大江定基が三河国司として任ぜられ、数年間在地した居城である。後年には保母松平氏の居城として使われた。山頂は二段に削平された曲輪が残されている。
C‐AC254 岡城跡 池野大学によって築かれたとされる。1561年、松平好景が板倉守定を攻めると、守定は岡城へ逃げ込んだ。家康自ら岡城に攻め寄せたが、川合勘解由左衛門の知略によって攻略できず、彼を城主としたという。
C‐AC255 生田城跡 酒井彦四郎,石川又四郎,生田六左衛門が城主とされる。残された古城図には本丸の東西に枡形の虎口があり、城域全体が堀に囲まれた小規模な城砦としての用途であったと考えられる。
C‐AC271 秦梨城跡 1305年、粟生氏が赴任し梅薮屋敷に居を構えた後、鎌倉時代末期には秦梨城山城を築き移住した。戦国時代には、粟生信盛が松平元康に服したが、三河統一により秦梨の各城の必要性は薄れ廃城になったと伝わる。
C‐AC272 秦梨城山城跡 鎌倉時代末期には粟生氏が秦梨山の山頂に城を築いて移住したとされる。南北朝時代には、4代目粟生輔時は新田義貞の家臣として南朝に忠節を尽くし足利幕府と敵対した。戦国時代に入ると、粟生信盛が松平元康に服した。
C‐AC273 欠城跡 本多忠真の居城とされる。忠真は忠高の遺児鍋之助とその母を欠城へと引き取り養育した。1572年、忠真は三方ヶ原の戦いの退却戦で殿軍を率い討死した。これにより欠城も廃城となったと考えられる。現在は岡崎東公園の一部。
C‐AC274 大平才勝城跡 室町時代前期に柴田氏が築き移住したという。子孫は松平宗家に仕えた。のちに家康からは弓の名人に因み發知氏の姓を与えられている。柴田氏(發知氏)はやがて帰農し、この地に住んだという。
C‐AC275 大平辻重城跡 大平才勝城と同じく、城主に柴田左京勝正,藤三郎の名がある。城跡は紫雲寺の西側一帯とされ、近年まで土塁,空堀の痕跡が在ったされるが、現在、遺構は全く残っていない。
C‐AC276 大平東大森城跡 城主には「鬼作左」の異名を持つ本多重次がある。東海道を望む高台に位置し、岡崎城から東へ進む際の拠点としての城館だったと考えられる。現在は工場敷地となっている。
C‐AC277 大平西城跡 天文年間には一帯を支配した多門重信,重正父子の居城であったとされる。松平広忠,徳川家康に仕え、重信の姉は家康の乳母を務めている。城は大平八幡宮西側一帯にあったとされる。
C‐AC278 鏡山砦跡 工事中
C‐AC279 桑子城跡 阿部因獄正の築城とされ、後に安藤信平,帯刀父子が入り安藤氏代々の居城となった。1590年の徳川家康の関東移封に伴い、廃城になったと考えられる。現在は妙源寺となり、遺構は残されていない。
C‐AC280 渡城跡 承久の乱後、熊野別当だった鳥居行範の子・鳥居行忠が紀州熊野を追われ、三河国矢作庄に移住して築城したことに始まる。鳥居忠吉は松平清康,広忠に仕え、三男の元忠家康に仕えた。「鳥居氏発祥地」の石碑と鳥居忠宗墓所がある。
C‐AC281 能見城跡 松平信光が築城し、子の光親が松平城山城から移り能見松平氏の祖となった。3代重吉は松平元康の初陣となる寺部城攻めにて戦功を挙げた。5代重勝は家康関東移封に伴い関東へ移った。現在は民家の前に城址碑が建っているのみである。
C‐AC282 上地城跡 平安時代後期には郷士であった大見藤六の居城であったとされる。1563年の三河一向一揆のとき、松平方から一揆方に寝返ったため攻め滅ぼされた。願成寺の北の高くなったところが邸宅跡と推定される。
C‐AC283 三ツ木城跡 松平信孝が三木へ移り住み、三木松平家の祖となる。1548年、信孝は小豆坂の戦いの後、岡崎城を攻撃しようと出陣した際に耳取縄手で討死した。城跡は住宅,畑となっており、遺構は残されていない。
C‐AC284 船山城跡 松平宗家3代信光の子・松平左馬亮算次の居城とされる。城跡は現在、船山神社となっているが、丘陵上の神社の南西側は遺構らしき様相を呈している。
C‐AC285 作岡城跡 松平宗家3代信光の子・松平家俊の居城とされるが、伝承地扱いであり確証はない。遺構も確認できない。その東には兄弟の松平左馬亮算次の居城とされる船山城跡がある。
C‐AC286 小美城跡 米津四郎右衛門が築いたとされる。その後、深溝城主の松平忠定が攻略し、板倉八右衛門頼重が居城した。初代京都所司代となった板倉勝重は、この地に生まれている。民家の庭先に「板倉勝重公生誕地」の石碑が建つ。
C‐AC287 日近城跡 1478年までに奥平貞昌が日近郷の広祥院の裏山に築いた山城である。次男の奥平貞直にこれを与えたことで日近奥平家の祖となった。1556年には日近合戦が起きている。現在は曲輪,土塁,堀切が残る。麓にはおふう,仙千代の墓、瑞屋敷跡などが残っている。
C‐AC288 柳田城跡 南北朝時代の城とされ、城主として山内角兵衛,鈴木氏,横山五郎右衛門の名がある。参考地として専念寺の裏山のほか、仲屋畑,紺屋貝津,革屋畑の地が挙げられている。。
C‐AC289 小針城跡 室町時代中期の阿部忠正の居城とされる。阿部氏代々は松平家臣になり、その後も江戸幕府で要職に就いていく。正確な城域,規模は不明であるが、小針集落全体という説もある。
C‐AC290 雨山城跡 1506年頃に阿知波定助によって築かれたとされる。1556年、阿知和定直が城主のときに雨山合戦が勃発している。その後、1590年頃に廃城となったと考えられる。城域は不明だが、東アチワの谷奥の山上とされる。
C‐AC291 土呂城跡 1564年の三河一向一揆のあと、徳川家康の命により石川数正が築いたとされる。三河一向宗の拠点であった本宗寺があった御堂山に本丸、250mほど東に位置する御坊山に二の丸がある。二の丸跡には土呂八幡社が再建されている。
C‐AC292 箱柳城跡 1428~29年に中根盛清が箱柳城を築き、8代中根忠良のときには道根六郷を支配するまでに勢力を拡大していた。その次男・正照は家康の家臣となり、1572年には遠州二俣城主となる。しかし、同年の武田軍との二俣城の戦いで武田軍に城を明渡し、3日後の三方ヶ原の戦いで戦死した。
C‐AC293 鳥川城跡 1570年、奥平次郎左衛門が鳥川に分家して築いた出城とされる。次郎左衛門は当地の者とともに1575年の長篠設楽原の戦いに参戦し討死したと伝わる。案内から小道を登ると、ほどなく堀切らしきものとその左側に郭と思われる削平地がある。
C‐AC294 滝山城跡 (亀穴城跡) 1558~70年に亀山城主の奥平貞能が築いた。1573年、奥平貞能,信昌父子は武田方から徳川方へ寝返り、亀山城から滝山城へと移った。武田方は5000の軍勢を率いて追捕したが、徳川軍の援軍に包囲されたため退却を余儀なくされた。奥平勢はこれを追って田原坂で激戦に及んだ。
C‐AC295 麻生城跡 現在の松平助十郎御先祖墓所の後方が城跡に比定されている。城主に麻生内蔵助の名がみえるが、1415年、松平親氏の中山七名買得で落城。1487年、松平乗清(滝脇城主)が作手奥平氏の日近城構築に対抗して乗清の子の親正をこの地に入れた。徳川家康関東移封に伴い廃城となった。
C‐AC296 久保城跡 1530年代に奥平貞昌が築いた出城である。三,四段の曲輪と土塁,堀切,縦堀があった。1570年秋に奥平諸将は密かにこの城に集まり、一族の存続を図るために武田方と徳川方の両方に分かれて付くことを決めた(久保城の密談)。1590年、奥平氏の関東移封に伴い廃城となっている。
C‐AC297 夏山城跡 築城時期は定かではないが、奥平久正の居城とされる。3代の勝正は、丸根砦の戦いをはじめ小牧山の戦いなどで多くの戦功を挙げた。廃城時期は不明だが、現在は山頂に秋葉神社が祀られている。また、堀切と曲輪を確認できる。
C‐AC298 本宿古城跡 山中古城ともいう。1547年11月、城主の松平重弘が松平広忠に背いたため攻撃を受け落城した。重弘は子の忠就,清蔵,三蔵らと生き残った10余名の兵を連れ、夜陰に乗じて城から逃げ延びたとされる。現在は国道1号線,名鉄名古屋本線,東名高速道路が通り遺跡は残されていない。
C‐AC299 細川城山城跡 承久の乱の後、足利義季が上野国から三河国額田郡細川郷に移り、城を築いたことに始まる。細川家の始祖となった。その後、細川城に移ったとされるが、年代や両城の関係は明らかではない。虎口,曲輪,土塁が残されている。
C‐AC300 細川城跡 承久の乱の後、足利義季が細川城山城を築き、その後、この細川城を築き移ったとされる。細川領は大給松平家初代乗元が大給とともに父の松平親忠から与えられた地でもあり、2代松平乗正の時に細川城から大給城へ移った。大給松平家5代真乗は1575年以降に大給から細川へ移った。
C‐AC301 宮石城跡 築城年は定かではないが、松平乗次によって比高20mの尾根端に築かれた。彼は宮石松平家の祖となる。松平康次は小牧長久手の戦いなどで戦功を挙げ、家康の5男松平信吉の傅役となる。城はの家康関東移封に伴い廃城となったとされる。土塁や曲輪,井戸跡などが残っている。
C‐AC302 保久城跡 1229~31年に下野国から三河国に移った山下義村が築城したとされる。1461年、山下重久のときに松平信光に攻められ、山下重久は討ち取られて保久城は落城した。その後、重久の子重勝,重仲は簗瀬姓に改名し、忍んで保久に留まった。現在は堀切,曲輪,空堀が残る。
C‐AC303 中保久城跡 貞治年間に成瀬頼清によって築かれたとされる。そのほか城主には成瀬與吉,日下部氏の名もある。比高20mの尾根先端に築かれたが現在は山林となっている。曲輪らしき平坦地が残され最高部に宝筐印塔がある。
C‐AC382 明大寺古城跡 1221年の承久の乱で戦功を挙げた足利義氏が三河守護職となり、矢作川の東構えた館である。現在の萬徳寺辺りとされるが、近年は八帖町辺りとする説が有力視されている。
C‐AC383 明大寺城跡 室町時代に西郷稠頼が築いた城館とされる。稠頼が岡崎城(砦)を築くと、ここは西郷氏の隠居城となり、松平氏との争いの結果、自然廃城となった。城域は東岡崎駅北東から六所神社鳥居前近辺とされる。
C‐AC481 中島城跡 築城年は定かではないが、由良平八郎によって築かれたとされる。後に板倉重定が攻め取った。1561年、松平元康の東条城攻略戦で松平好景が入り東条城を牽制した。現在は住宅が建ち、遺構は残されていない。
C‐AC599 麻生古城跡 南北朝時代の築城とされ、城主には麻生内蔵助の名がある。松平親氏の手に落ちた後、天野景孝がこの地を領したが、1487年に松平親忠が攻め落として9男・乗清が麻生松平家の祖となった。一部畑地として使われている。
C‐AC617 永井城跡 戦国時代、山本小次郎の居城とされている。小次郎は桶狭間の戦いで丸根砦攻略戦に参加。三河一向一揆では徳川家康に敵対した。城は70m四方ほどの単郭と推測されるが、遺構は残されていない。
C‐AC618 合歓木城跡 築城年は定かではないが、松平信孝が築城し、三木城へ移るまでの居城とした。信孝は弟・康孝が早世すると三木城を横領し合歓木城から移り住んだ。城跡は神明社とその東側一帯辺りとされる。
C‐AC619 青野城跡 戦国時代初期に松平義春が青野に来住し築城した。義春は東条(青野)松平家の祖となるが、4代で断絶した。城跡は来迎院や住宅地となり、遺構は残されていない。
C‐AC620 赤渋城跡 築城年は定かではないが、熊沢一学によって築かれたとされ、ほかに城主として天野助兵衛,天野甚七郎,天野半七の名が残る。城跡は松林寺辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC621 在家城跡 築城年は定かではないが、石川大隈守,石川重政の居城とされる。三河一向一揆の際、松平家康が在家の屋敷門に身を隠したと伝えられている。城跡は養楽寺の南辺りとされる。
C‐AC622 占部城跡 文明年間(1469年~86年)頃、渡辺道綱が移住し、築城したことに始まる。徳川十六神将の一人・渡辺守綱もこの地に生まれた。家康関東移封に伴い、守綱も武蔵国比企郡へと移った。現在は宅地に変わり土塁の一部が残る。
C‐AC623 坂左右城跡 1568年の徳川家康の遠江侵攻の際、翌年に徳川方に降伏し徳川家臣となった都築秀綱の居城とされる。1590年の家康関東移封に伴い、廃城となった。現在は住宅地となり遺構は残されていない。
C‐AC624 下和田城跡 松平親忠の孫の松平親生の居城とされ、天文年間(1532~55年)頃には松平伴忠が居城したと伝わる。現在の常楽寺の辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC625 土井城跡 戦国時代、本多信重が土井に城を築いたとされる。信重は1529年、今橋城攻めで討死。子の広孝が家督を相続し徳川家康に仕えた。1564年、田原城攻めの戦功で田原城主となり土井を離れた。
C‐AC626 百々城跡 1426年頃、青山光教が築いたともいわれる。戦国時代には青山忠門が松平,徳川氏に仕え、1571年、武田勢と松平勢の戦いで受けた傷がもとで亡くなった。城跡に墓地がある。
C‐AC627 西阿知和城跡 1421年、松平信季が築き阿知和氏を名乗った。代々阿知和氏が居住した。元亀年間(1570~72年)、三河に侵攻した武田軍と真福寺付近で戦った。現在は大照院が建つ。
C‐AC628 西蔵前城跡 築城年は定かではない。本多平八郎家4代・本多忠高のとき、西蔵前に居住したという。1548年には本多平八郎忠勝は当地に生まれている。松平右衛門重則,重長の居城ともいわれる。現在は、住宅地となり、遺構は残されていない。
C‐AC629 東蔵前城跡 城主には松平家勝内藤家長の名があり、松平家勝によって築城されたと考えられる。戦国時代には内藤家長が領有したという。城は天満宮近辺がとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC630 岩津妙心寺城跡 室町時代、岩津城の松平信光が築き、子の松平親則を配した。岩津七城の1つ。しかし、親則は26歳の若さで死去したため、信光は城館跡地に妙心寺を建立し菩提を弔った。
C‐AC631 岩津成瀬城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。一説には成瀬氏の居館跡とも伝わる。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。現在の岡崎市岩津市民センター辺りとされる。
C‐AC632 真福寺城跡 築城年,城域は特定できていないが、城主に大岡氏の名が伝わる。大岡忠勝および子の忠政は松平広忠,徳川家康に仕えた。1590年、家康の関東移封に従い、関東に移った。
C‐AC634 野畑城跡 築城年は定かではないが、佐野左馬助によって築かれ、ほかに城主として黒柳彦助,佐野図書の名がある。城跡は常念寺東の祠の東側の個人宅の辺りとされる。
C‐AC636 筒針城跡 築城年は定かではないが、小栗正重の築城と考えられる。三河一向一揆で松平家康に属し奮戦した小栗吉忠は筒針城で育った。城域は鹿乗川以東から教泉寺辺りとされているが、はっきりしていない。
C‐AC637 上和田城跡 南北朝時代から戦国時代に上和田郷を支配した大久保氏の居城である。大久保一族発祥地の碑が建つ。城跡は碑の南側の区域とされ、西側には和田城用心壕跡の碑がある。
C‐AC638 牧内城跡 室町時代に一色左京が築城し、松平信光が息子の親正を牧内の地に配した。その後、牧内忠高が城館を構えたとされる。牧内城は長方形の単郭でJAあいち三河牧内辺りとされる。
C‐AC639 柱城跡 築城年は定かではないが、神谷与四郎の居城とされる。城跡は小高い丘に位置し地蔵堂周辺と伝わるが、遺構は残されていない。
C‐AC640 羽根東城跡 羽根の地にあった大久保一族の二つの城のうちのひとつ。織田信秀に内通した松平忠倫に上和田城を追われた大久保忠員,忠世父子が築いた。JR岡崎駅の北側一帯とされる。
C‐AC641 羽根西城跡 羽根の地にあった大久保一族の二つの城のうちのひとつ。羽根西城には、1524年に上和田城の宇津忠茂が建立した稲荷神社があり、城跡は微高地となったこの神社辺りとされる。
C‐AC642 井内城跡 戦国時代の久世広宣,坂部広勝の居城とされる。広宣は16歳のときに父の罪(三河一向一揆で家康に敵対)を赦され家康に仕えた。城跡は井内八幡宮と西側の住宅地とされる。
C‐AC643 六名城跡 戦国時代の築城と考えられ、城主には鳥居忠広,成瀬正義,蜂谷貞次そして安藤直次の名が伝わる。現在の熊野公園,真宮遺跡公園の辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC644 洞城跡 西蔵前城主・本多忠勝が遠江国浜松へ移るまでの屋敷とされる。その後も山下庄大夫らが居住した。台地端に築かれ、現在の額洞寺とその北辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC645 岩津大善城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。城主に松平親則,中根大善の名がある。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。
C‐AC646 岩津大善西城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。城主に中根大善の名がある。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。城跡は岩津町公民館辺りとされる
C‐AC647 岩津壇の上城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。城跡は円福寺の西側にあったとされる
C‐AC648 岩津木平城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。住宅地の中に一部、土塁跡が残る。
C‐AC649 岩津井ノ城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。現在の岡崎市北部地域福祉センター辺りとされる。
C‐AC650 岩津新城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。住宅地東側の竹薮に空堀,土塁跡が残る。
C‐AC651 岩津上ノ城跡 松平信光が岩津城周りに築いた岩津七城の一つとされ、息子,家臣らを配した。1508年の伊勢宗瑞の三河侵攻で落城した。岩津新城跡の南東に位置し畑地となっている。
C‐AC652 東本郷城跡 築城年は定かではないが、植村氏義が北本郷城から移り築いた。1520年、植村栄安がこの地で生まれ松平宗家に仕えた。城跡は安城街道の北東辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC653 北本郷城跡 1493年、遠江国植村より移住した土岐持益が屋敷城を築いて植村氏に改姓した。子の氏義の代に東本郷城へと移った。北本郷町河原辺りが城跡とされるが、城域の確定は困難である。
C‐AC654 影山城跡 1448年頃、代々松平宗家に仕えた成瀬氏5代目の成瀬国平が築いたとされる。現在は民家に変わり遺構は残されていないが、道路より一段高い台地がその面影を残す。
C‐AC655 伊賀城跡 大草松平家7代の松平康安によって築かれたとされる。当初は松平信康に仕え、江戸時代には徳川忠長付きとなるが、忠長の改易に連座し廃城となったと考えられる。現在、明願寺が建つ。
C‐AC656 井ノ口城跡 1465年、三河国額田郡で起きた額田郡一揆の際、大場次郎左衛門,丸山中務入道父子,梁田左京亮らの侍たち一揆側が籠居した砦とされる。現在は井ノ口稲荷神社が建つ。
C‐AC657 丸山能頭城跡 室町時代に三河国額田郡丸山を領した丸山中務入道,彦次郎父子の居城とされる。1572年前後には成瀬国次の居城となる。神明宮の東に位置し空堀,土塁,曲輪が残る。
C‐AC660 橋目城跡 山田源内が諸国を放浪後、1560年頃に橋目村に落着き、築城したと伝わる。城は1752年の矢作川堤防決壊で流失した。白山神社からその東辺りが城跡とされる。
C‐AC661 森越城跡 戦国時代には杉坂三七の居城であったとされる。また、鎌倉時代の長瀬義継の居館であった可能性もある。現在は宅地,畑地に変わり、遺構は残されていない。
C‐AC662 矢作土井城跡 戦国時代、松平宗家に仕えた島田氏によって築かれた城とされる。城は字羽城と字土井城の2ヶ所あったとされ、土井城主に島田弾正の名が伝わる。ただ、一つの城であったともいわれている。
C‐AC663 矢作羽城跡 戦国時代、松平宗家に仕えた島田氏によって築かれた城とされる。城は字羽城と字土井城の2ヶ所あったとされ、羽城主に島田平蔵の名が伝わる。ただ、一つの城であったともいわれている。
C‐AC664 佐々木城跡 松平忠倫の居城とされる。1540年、安城合戦で織田方に内通し、後に暗殺された。その後、松平直勝,忠就が城主となるが、城内の上宮寺が一向一揆を起こし廃城となった。
C‐AC665 北野城跡 築城年は定かではないが、城主に松平信定の名がある。城は北野廃寺跡の南の丘陵端辺りとされ、大部分が住宅となっており、一部に空堀跡と思われる個所が残されている。
C‐AC666 池端城跡 築城年は定かではないが、戦国時代の平岩光吉の城といわれている。城跡は県道48号線と県道26号線が交わる昭和町北信号交差点の北側とされるが、住宅地となり遺構は残されていない。
C‐AC667 池端古城跡 築城年は定かではないが、長坂重延の居城とされる。歴史詳細は不明である。現在は宅地,畑地,駐車場に変わり、遺構は残されていない。
C‐AC668 法性寺城跡
築城年は定かではないが、八田森右衛門の居城とされる。「森右衛門」は八田氏の仮名(通称)で諱(実名)は不明。城跡は法性寺辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC669 坂戸城跡 室町時代に長坂信重によってが築かれたとされる。のちに平岩氏が城主となり、平岩筑後守らの名がある。ともに松平家に仕えた。現在は酒人神社などとなり、遺構は残されていない。
蒲郡市 C‐AC009 形原城跡 伝説的には平安時代後期に方原師光が築城したとされるが根拠はない。長享年間に松平与副が築城したと伝えられ、形原松平家の祖となる。4代・家広のときに今川氏から松平宗家へと鞍替する。1619年に廃城となった。
C‐AC010 竹谷城跡 室町時代に松平守家が竹谷松平氏の祖となり、4代清善が1548年に城を築いた。6代家清のとき家康関東移封に伴い武蔵国児玉郡八幡山へと移り、関ヶ原合戦後に三河国吉田城へ移ったが、1612年、嫡男・忠清が亡くなり所領没収で廃城となった。
C‐AC014 丹野城跡 1469年、萩原芳信が御堂山山頂に築いた城である。翌年、牧野成時軍の攻撃を受け、芳信は自ら手勢を率いてこれを追ったが、自兵たちに裏切られ馬上切腹して果てた。本丸,腰郭や堀切などの遺構を残す。
C‐AC030 上ノ郷城跡 (鵜殿城跡) 15世紀後半に熊野地方から渡ってきた鵜殿長善が築いた。1562年、鵜殿長照のとき松平元康によって落城し、その後は久松俊勝が入り、子の松平康元に継がれたが、1590年の徳川家康関東移封後、まもなく廃城となった。
C‐AC058 五井城跡 平安時代末には源行家が長泉寺近くに屋敷を築いていたと伝わる。戦国時代初期、鵜殿氏の一族が居城し、1485年頃には松平忠景が侵攻し入城して五井松平氏が5代続いた。城は長泉寺の南東辺りとされる。
C‐AC577 柏原城跡 弘治年間(1555~58年)、上ノ郷城主・鵜殿長持の弟の鵜殿長祐が築城した。1562年の松平氏の東三河進出の際は松平方に与した。標高48mの丘陵端に築かれていたが、現在は東海道新幹線で分断されている。
C‐AC578 水竹城跡 金田頼治によって築城され、上ノ郷城の出城であったと考えられる。松平氏の上ノ郷城攻撃の際、1561年11月に包囲し、金田元政は降伏した。元徳寺の辺りとされるが、遺構は残されていない。
C‐AC579 蒲形城跡 永正年間(1504〜21年)、鵜殿長存によって築かれたとされる。1562年の松平元康の東三河進出の際は松平方に与した。1590年、鵜殿長信のときに家康の関東移封に従い廃城となった。遺構は残されていない。
C‐AC580 不相城跡 1550年頃、三河鵜殿氏の惣領家・鵜殿長持の弟である鵜殿長成によって築かれた。1562年の松平氏の東三河進出に反抗し敗れ、長成は吉田城へと奔った。現在は蒲郡クラシックホテルが建つ。
C‐AC581 中島城跡 1440年、陸奥国岩瀬郡から東三河に移った岩瀬忠家が築いた城館とされる。1562年、松平氏に攻められ落城。のちに徳川家に従い、1590年頃に廃城となった。城は城址碑が立つ北側辺りと推察される。
豊川市 C‐AC057 登屋ヶ根城跡 1293~98年に番場致由により築かれ、のちに今川庶流の関口氏の居城となったとされる。しかし、1561年、三河平定に乗り出した松平元康の松平信一勢に攻められ落城した。城跡は畑地,山林となっているが、曲輪,横堀,土橋,土塁が残されている。
C‐AC220 伊奈城跡 1452~55年に本多定忠,定助によって築かれたとされる。本多氏は約150年間、ここを拠点として今川氏,松平氏そして徳川氏に属し各地を転戦する。徳川家康の関東移封にともない、8代康俊も下総国小篠に移封となり廃城となった。「三葉葵」発祥の城である。北端に高い土塁が残る。
C‐AC221 長沢城跡 室町初期、関口氏の長沢四郎が城館を築いて支配していたという。1458年、松平信光が夜襲して城を奪い、子の親則に与えた。親則は長沢松平氏の初代となる。その後、城の規模も大きくなり、土塁や堀が幾重にも取り巻く堅固な城構えとなった。
C‐AC222 観音寺城跡 築城年代は定かではなく、長沢城の出曲輪ともいわれている。現在は長沢城から国道によって分断されたかたちになっている。高台に観音堂があり、その裏手は国道である。
C‐AC223 岩略寺城跡 1444~49年頃に今川氏の一族・関口満興、または弟の長沢直幸によって築かれたとされる。1458年には松平信光が攻めとり、長男・親則に与えた。1561年には松平元康によって攻略され、深溝の松平伊忠を入城させた。徳川氏の関東移封に伴い廃城。山頂に曲輪,土塁,空堀などが残る。
C‐AC224 牧野城跡 1394~1428年に牧野成富によって築かれたとされる。1493年、牧野成時(古白)は波多野全慶を倒し一色城に移り、牧野城には長男の牧野能成を置いた。1505年、成時は今橋城を築いて居城を移したため、牧野城は廃城となったという。土塁の一部を除き牧野城跡は消滅している。
C‐AC225 瀬木城跡 1493年、牧野成時が豊川右岸地域に勢力を拡大してゆく過程で牧野城に次ぎ築いた城である。次男の牧野成勝を置いた。1505年、成時は今橋城を築いて居城を移すと、成勝は一色城に移り、瀬木城は廃城となった。現在の神明社一帯に築かれており、西側に深い空堀が南北に残る。
C‐AC226 行明城跡 1190~99年頃に星野荘の地頭であった星野日向守によって築かれたとされる。星野氏は天羽衣調進役を勤めてきた家柄であった。土着した星野氏の子孫は今川氏の後に武田氏に属し、1575年の長篠設楽原の戦いで討死した。行明城は豊川と豊川放水路との間付近に築かれていた。
C‐AC227 牛久保城跡 1529年、長山一色城の牧野成勝が築城したとされる。豊川の河岸段丘を利用した2重の水堀を備えた平城であった。1590年、牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国に移封となり、牛久保城には池田輝政重臣の荒尾成久が入った。その後、天領となるが1700年に廃城となった。
C‐AC228 長山一色城跡 1439年、上杉憲実討伐で敗れ三河へ逃れた一色時家によって築かれた。1477年、一色時家は家臣の波多野全慶によって討たれ、全慶は牧野成時に討たれた。一色城には瀬木城から牧野成勝が移ったが、その後、牛久保城を築き一色城は廃城となった。現在の大聖寺一帯に築かれていた。
C‐AC229 篠束城跡 1336年に上野国邑楽郡篠塚より新田義氏に従ってこの地にきた篠塚重広によって築かれたとされる。篠塚重広は1342年、隠岐にて没し、その後、西郷俊雄,彦三父子の居城となる。篠束城の遺構はなく場所も定かではないが、地名「大堀」が城の堀跡と考えられている。
C‐AC230 久保田城跡 築城年,築城者は定かでないが、南北朝時代に鷹子天王社神主の子孫久保田氏によって築城されたとされる。1596~1615年には久保田屋敷と呼ばれていた。久保田氏は落城後に帰農したと伝えられる。城跡は区画整備されて、遺構は残っていない。
C‐AC231 森城跡 1460年、常陸国から来住した佐竹政義によって築かれた。その後の佐竹氏の動向は明らかでない。城跡は現在、望理神社境内となっている。一部に土塁が残されている。
C‐AC232 八幡村城跡 (八幡砦跡) 1560年の桶狭間の戦いの後、今川氏真が東三河へ進出してくる松平元康に対する防御前線基地として築いたとされる。佐脇城の板倉重定,山本帯刀,稲垣帯刀が配された。しかし、1562年、酒井忠次軍の攻撃に遭い落城。八幡村城は八幡宮の北側辺りに位置し方形単郭であったと推定される。
C‐AC233 野口城跡 1440年頃に築城され、細川教春,板倉重茲,印宮甚蔵らが居城したとされる。三河国分尼寺の北東にある丘陵の東へ張り出した尾根に築かれており、曲輪,堀,土塁,堀切などが残っている。
C‐AC234 城の腰城跡 1558~70年頃には萩城主で萩奥平氏の3代奥平勝次が城主であったと伝えられる。1575年の長篠の戦いでは長篠城に籠城したため、武田氏への人質であった子の虎之助が処刑された。城は単郭の城であったが、現在は県道により東西に分断され、東側が大きく削り取られている。
C‐AC235 萩城跡 築城年代,築城者はは定かではない。初期の城主には清原右馬允,内藤十郎市の名がある。戦国時代には、奥平主馬允が萩を分与され萩奥平氏の祖となった。その後、伝五郎,周防守勝次と続き、7代正俊で断絶となった。萩城は丘陵先端頂部に築かれ、現在は曲輪,堀,土塁,井戸跡が残る。
C‐AC562 一宮砦跡 1562年、松平元康が本多信俊に命じて築かせた砦である。1563年、今川氏真が大軍で砦を包囲した際、元康は2,000の兵で駆け付け、危機を救ったと伝えられ、「神君後詰の戦い」と武勇談の一つとなっている。桝形虎口,堀,土塁が残されている。
C‐AC582 大沢城跡 室町時代初め、波多野行近が森下三郎と称して居城を構えた。1477年、波多野時政(全慶)は主家・一色時家を討ったが、1493年、牧野成時に討ち取られ大沢城は牧野氏の城となる。東側に南北の80mほどの土塁が残る。
C‐AC583 竹本城跡
南北朝時代に高田政季が築き、竹本姓を名乗った。1563年、竹本成久のとき帰農したといわれる。天正年間(1573~91年)には、山田晴政が居城した。現在は県道によって東西に分断され、東側に秋葉神社と城址碑がある。
C‐AC584 大滝城跡 文安年間(1444~49年)、長沢一帯を領していた関口満興が居城した。関口氏緑は桶狭間の戦いで戦死し、翌年には松平勢の攻撃で城は焼失した。立信寺の南方下の名鉄本線の線路の辺りとされる。
C‐AC585 御油城跡 1444(文安元)年、紀伊国本宮から移り住んだ稲石光明が築いたとされる。その後は林氏を名乗り、今川氏,松平氏に仕えた。城は東林寺の北西と御油小学校東側との中間付近とされる。
C‐AC586 茂松城跡 源範頼が三河守に任じられた1184(寿永3)年以降に居城したとされる。文明年間(1469~86年)には細川勝久が在城、その後は牧主計が入ったが、桶狭間の戦いで討死した。県内最大級の井戸跡がある。
C‐AC587 佐脇城跡 南北朝時代に佐脇氏が築いたのが始まりとされる。その後、生田氏,奥平氏と続き、戦国時代には今川氏と松平氏の争奪戦の末、1564年、家康が佐脇刀祢太夫を城主とした。現在は住宅地となっている。
C‐AC588 糟塚砦跡 1562年、松平元康が主に牧野氏の牛久保城や吉田城を攻略ための拠点として築いた砦で、小笠原長晟が城主として入った。その後、1586年に砦跡地に龍徳院が創建された。龍徳院の北辺に土塁と空堀が残る。
C‐AC589 三ッ橋城跡 睦美城ともいう。建久・承久年間(1190~1222年)頃の豪族・飯尾因幡入道の居館とされる。後には牧野助五郎の居館になったというが、詳しいことは分かっていない。現在は住宅,田畑になり、遺構は残されていない。
C‐AC590 勝川城跡 築城年代,城主は定かではなく、また場所についてもはっきりしていない。候補地としては「鎌倉古墓供養塔」という碑と宝篋印塔,五輪塔が並ぶ勝川寺辺りにあったのではないかと推測されている。
C‐AC591 勝山城跡 1333年に熊谷直鎮が足利尊氏の六波羅攻めに従って功を挙げ、八名郡を賜って築いたとされる。城は標高25m,比高10mの丘陵斜面に築かれた。川東公会堂前に城址碑があるが、遺構は残されていない。
C‐AC593 豊川城跡 11世紀中頃に豊川の地頭・大江定厳が居館を構えたのに始まるとされる。1602年7月、水野忠直が当地を拝領し城館(陣屋)を構えた。城館は光明寺の境内付近とされるが、遺構は残っていない。
C‐AC594 松原城跡 築城年代,築城者とも定かではない。上長山の豊川に注ぐ宝川が大きく湾曲した内側の扇状台地に築かれていたとされる。現在は住宅地に変わり、遺構は残されていない。
C‐AC595 本宮長山城跡 築城年代,築城者とも不明。なお、長山氏系図に細川高頼が宝飯郡を領し長山城主とあるが定かではない。豊川の河岸段丘端に築かれ、現在の稲荷神社裏手に空堀が残る。
C‐AC596 御馬城跡 1362年、細川頼有によって築かれた。文明年間(1469~86年)に今川義忠に謀られて、酒部時重は城を捨てて逃走した。その後、長沢松平氏が居城したが、1704年には破却された。遺構は残されていない。
豊橋市 C‐AC027 吉田城跡 (今橋城跡) 1505年、牧野成時によってその前身が築城された。1529年、松平清康が攻略したが、1546年には今川氏が管理下に置いた。桶狭間の戦い後、松平元康が酒井忠次を城代として置いた。家康関東移封後、城主となった池田輝政は、大改築途中で姫路に移封。規模は名古屋城より広大であった。
C‐AC189 二連木城跡 1493年に波多野時政(全慶)と牧野成時(古白)の灰野原の戦いなど宝飯郡大混乱のなか、戸田宗光が渥美郡北部の根城とし築城し田原城から移った。1590年、戸田康長のときは徳川家康関東転封に伴い武蔵国深谷に移封となり、廃城となった。現在は本丸が大口公園となっている。
C‐AC190 赤岩城跡 1532~55年の牧野新次郎もしくは戸田左門の居城とされる。今川方の船形山城と山麓の鎌倉街道を睨んで築かれたと考えられる。尾根背後を大堀切で断ち切って、高土塁を残し南に向けて数段の曲輪を存在する。
C‐AC241 石巻山城跡 南北朝時代に吉野南朝に属していた高井主膳正の城で、豊橋でいちばん古く、かつ、いちばん高い場所にある。高師兼の軍勢に攻められ、防戦かなわず山腹にて自害して果てたといわれている。 遺構としては尾根に4段の連郭と帯状腰曲輪が残されている(一部は遊歩道で削平)。
C‐AC242 月ヶ谷城跡 1523年、西郷信員が嵩山の一族右京進を逐ってこの地を押領し築いたとされる。居館は南麓の市場城といわれる。現在は曲輪,土塁,井戸跡が残る。
C‐AC265 高縄城跡 (大津城跡) 1475年、戸田宗光が渥美郡に進出し高縄城に入った。渥美郡争奪の重要拠点となるが、三河統一を図る徳川家康によって攻略され、戸田忠次を城主に任じた。家康の関東移封、または、一国一城令により廃城となった。現在、城址は豊橋市立家政高等専修学校の敷地となっている。
C‐AC552a 五本松城跡(居館跡) 1561年、西郷正勝によって三河西郷氏の本城として築城された。五本松城跡としては、居館跡と詰城跡がある。築城1年後の1562年に朝比奈泰長に夜襲をかけられ落城した。城址碑が立つのみで遺構は残されていない。
C‐AC552b 五本松城跡(詰城跡) 1561年、西郷正勝によって五本松城本城の詰城として築かれた。1年後の1562年に今川家臣の朝比奈泰長に夜襲をかけられ落城した。曲輪と土塁,堀切を設けた単純な構造である。
C‐AC553 萩平山城跡 戦国時代に石巻西郷氏によって築かれた月ヶ谷城もしくは五本松城の支城である。主郭には秋葉神社が祀られ、その北側に二郭、北端に堀切、主郭下には帯曲輪が設けられている。
C‐AC554 西川城跡 天文年間(1532~55年)、西郷清員によって五本松城の支城として築かれた。1663年には小笠原長秋が、ここに陣屋を置いている。大福寺裏手ある単郭の城で南に虎口を開き、櫓台,土塁,横堀がみられる。
C‐AC555 照山城跡 築城年は定かではないが、牧野筑意が加納寺跡地に築き居住したという。永禄末から天正初期には堀を備えるなど本格的な城郭となった。加納寺西側に周囲を土塁で囲った曲輪、その外側に空堀が取り巻く。
C‐AC557 左京殿城跡 築城年は定かではないが、小枝左京進の居城とされる。1523年に西郷正員に駆逐され、土地を捨てて逃亡したと伝えられる。曲輪,空堀,土塁,土橋などが残されている。
C‐AC558 市場城跡 大永年間(1521~28年)、月ヶ谷城と同時期に石巻西郷氏によって築かれたとされる。西郷孫四郎,奥山修理進,中山是非之助,西郷弥三郎の居城と伝わる。現在は竹林,畑地,民家に変わり、土塁の一部が残る。
C‐AC559 和田城跡 南北朝時代に和田民部によって築かれ、その後、永禄年間(1558~69年)に渡辺久左衛門、1570年には息子の渡辺浄,渡辺茂も居城したとされる春興院の東側一帯に曲輪,土塁,空堀の遺構が残る。
C‐AC560 畔田城跡 1461年以前に畔田氏によって築かれ、畔田遠江守兄弟が居住したとされる。天文・弘治(1532~58年)の頃には、今川氏に属していたが、今川氏が衰退すると1564年頃に遠江平川郷に落ちていった。曲輪,空堀,土橋,土塁が残る。
C‐AC561 多米城跡 築城年は定かではないが、標高47mの山麓に築かれた多米元益の居城とされる。現在は道路,住宅に変わり、遺構は残されていない。
C‐AC563 堂山城跡 永禄年間(1558~69年)初めに石巻西郷氏によって五本松城の支城として築かれた。醫神社の北東の南山腹に位置する。三段の平坦地が残るのみである。
C‐AC564 北裏城跡 築城年は定かではないが、田原城の支城のひとつとされ、城主に戸田忠政,戸田忠次らの名がある。比高10mの台地端に築かれ、最高地が主郭であったと思われるが、現在は畑地,住宅地となり、遺構は残されていない
C‐AC565 波入江城跡 築城年は定かではないが、田原城の支城のひとつとされ、城主に戸田政光,戸田光忠の名がある。祥雲寺の北東の台地部分が城域と考えられる。主郭,腰曲輪,虎口が確認できる。
C‐AC566 大崎城跡 1519年頃、田原城主の戸田宣成が牧野氏の今橋城に備えて築いた城である。主郭,二郭,三郭から成り、郭の間には三河でも有数の大規模な空堀が巡らされている。
C‐AC567 牟呂城跡 永正年間(1504~21年)に鵜殿氏によって上ノ郷城の支城として築かれたとされる。城主に室金平,鵜殿政茂の名がある。現在は土塁の一部のみが残され、稲荷社が祀られている。
C‐AC568 中瀬古城跡 天文,弘治(1532~58年)の頃に畔田氏によって築かれ、城主は畔田三郎兵衛尉と伝えられる。畔田氏は今川氏に属したが、1564(永禄7)年頃には遠江平川郷に落ちていったとされる。現在の東雲寺の辺りとされる。
C‐AC569 雉子山城跡 寛正年間(1460~66年)、地頭の富田弾正が居城とし、後に畔田右門が居城した。畔田氏は今川氏に属し、東三河から今川氏の影響力が失われると、遠江平川郷に落ちた。現在は遺構は残されていない。
C‐AC570 草間城跡 戦国時代初め、今川氏に属した芳賀七郎が居城し、その後、畔田監物が居城した。1519年、牧野氏が今橋城に居城すると共に廃城となった。現在の素盞嗚神社西側一帯が城跡とされる。
C‐AC571 羽田村古城跡 文明年間(1469~87年)頃に石原氏によって築かれ、石原次郎兵衛が居城した。その後、鋤柄氏と続き、江戸時代には帰農した。豊国工業の北半分が主郭、南半分が若党屋敷とされる。
C‐AC572 薑郷城跡 築城年は定かではないが、二連木城の家老屋敷と伝えられている。朝倉川に隣接する台地端に築かれていたが、河川や道路建設で削られ、現在は土塁の残欠が残るのみである。
C‐AC573 上地城跡 室町時代末期もしくは戦国時代に畔田氏の支城として標高12m,比高5mの台地端に築かれたとされるが、現在は住宅,畑地に変わり、遺構は残されていない。
C‐AC574 伊庭城跡 戦国時代に伊庭藤太,磯田民部が居城したといわれている。比高10mの台地端に築かれ、30ⅿ×30ⅿほどの規模であったとされる。北側に土塁が残るほか遺構は残されていない。
C‐AC576 杉山城跡 室町時代に築かれたとされ、城主に杉浦右衛門太夫,杉山俊輝などの名がある。杉浦氏の城跡は東の殿村ともいわれる。寶林寺北側の高所が主郭跡とされ、戦国時代の杉山氏の後は、鈴木某が居を構えた。南に堀跡が残る。
田原市 C‐AC017 田原城跡 (巴江城跡) 1480年に戸田宗光によって海に面した丘に築かれたとされる。1547年、戸田康光のとき、今川氏に人質として送られる竹千代(徳川家康)を護送する任を受けたが、敵方の織田家に寝返ったため今川義元に攻められ落城した。1664年に三宅康勝が入封して以降、三宅氏が明治まで続く。
C‐AC575 赤羽根城跡 1565年頃、松平家康より赤羽根,芦,赤沢の3ヶ村を与えられた欠城主・小笠原安元が築いた。1590年の家康の関東転封とともに廃城となった。現在は牧場,畑地に変わり、遺構は残されていない。
新城市 C‐AC011 亀山城跡 1424年、奥平貞俊が築いた。後に山家三方衆と呼ばれる有力土豪となる。長篠設楽原の戦い後、一時廃城同然となるが、1602年に奥平信昌の四男である松平忠明が城主となったが、1610年に忠明が伊勢国の亀山城へ移封され廃城となった。本丸は楕円形で周囲は土塁で囲まれている。
C‐AC019 長篠城跡 1508年、今川方の菅沼元成によって築かれた。その後、徳川家康に服属するが菅沼正貞のとき武田軍の傘下に加わった。1573年、家康によって攻められ開城。1575年5月、奥平信昌のとき、武田勝頼が攻め囲んだが、設楽ヶ原の戦いで大敗。翌年、信昌が新城城を築城し廃城となった。
C‐AC023 野田城跡 1508年、菅沼定則が築いたとされ、子の菅沼定村,孫の菅沼定盈らが居城とした。本丸の北に向かって二の丸,三の丸を配していた連鎖式。桶狭間の戦い後、松平元康に属した。今川勢,武田勢との攻防が続いたが、家康の関東移封によって菅沼定盈も上野へ移封となり廃城となった。
C‐AC087 新城古城跡 1532年に菅沼定継が大谷城からこの地へ居城を移した。定継は数年後に田峯城に移り、弟の定氏が入城した。1562年に石田合戦が勃発し城の損傷が大きく新たに杉山端城を築城廃城とした。幽玄川と豊川に面した崖上に位置する単郭方形の城である。
C‐AC088 新城城跡 1576年、奥平信昌が築城し長篠城から移り住んだ。徳川家康関東移封によって奥平信昌も上野国宮崎に移った。その後は池田輝政の所領,天領を経て、1606年に水野分長が入封。1645年、廃城となるが、3年後、菅沼定実が入封し、菅沼氏の子孫によって明治維新までその支配が続けられた。
C‐AC089 石田城跡 1590年、奥平信昌が徳川家康とともに関東移封となった後、池田輝政(吉田城)の家老の片桐一長が築城したとされる。片桐は杉山端城も支配下に置き、高木又左衛門を城代とした。関ヶ原の戦い後、池田輝政の姫路転封に伴い、片桐氏も移り石田城は廃城となる。
C‐AC090 来迎松城跡 岩広城を本城としこの付近一帯を領していた設楽貞重の頃に属城として築かれ、のちに設楽一族の夏目信久,清宗が居城した。現在は土塁の一部が残存しているのみである。
C‐AC091 川路城跡 (大坪城跡) 築城時期は、1394~1427年頃という説がある。桶狭間の戦いの後、設楽貞通はいち早く松平元康への従属を決意した。長篠設楽原の戦いでは樋田に陣を構え、武田勢を多く討取っている。家康関東移封に際し、貞通は嫡男貞清とともに武蔵国に移り、川路城は廃城となった。
C‐AC092 小川路城跡 築城年代は定かではないが、周辺地域を治めていた小川路右衛門が築城し、後年はすぐ近くに位置する川路城(大坪城)の設楽氏の支城として使われ、設楽甚三郎設楽兵庫が居城したという。
C‐AC167 和田城跡 1539年、和田奥平氏の奥平勝次によって築かれたとされる。和田奥平氏は七族の筆頭であったが、元亀年間(1570~73年)頃に甲州に奔り、その地位は剥奪された。遺構は農道によって山側の堀,土塁と主郭が分断されている。  なお、奥平貞盛の墓所は保永に、奥平貞寄の墓所は岩波城跡近くにある。
C‐AC168 石橋城跡 15世紀後半に奥平2代貞久の二男・奥平久勝が最初の城主となった。しかし、1537年、子の石橋繁昌の謀反が露見し、4代奥平貞勝の命を受けた土佐定雄によって郎党40余人とともに討取られた。死骸は一穴に埋められ奥平弾正宮と呼ばれている。後年、ここに石橋山慈昌院が建てられた。
C‐AC169 古宮城跡 1571年頃、武田信玄馬場信春に縄張設計を命じ築城させ、小幡又兵衛,甘利左右衛門,大熊備前守が在城した。1573年、奥平貞能,貞昌親子が徳川方に内通すると、古宮城の武田軍が追捕行動を起こしたが援軍の徳川軍に放火され、追捕を断念せざるを得なかった。遺構は良好な状態で残る。
C‐AC170 文殊山城跡 元亀年間に亀山城の奥平氏が武田氏との和睦の証として塞之神城と共に築城した。しかし、奥平氏が和睦を渋ったため武田氏側より強談に合い、一日にして築いたとされる。1573年、奥平貞能,貞昌父子は徳川方へ寝返る。奥平氏は長篠設楽ヶ原の戦いで歴史の表舞台へと登場する。
C‐AC171 塞之神城跡 古くは米福長者の時代に築かれ、元亀年間に亀山城の奥平氏が、武田氏との和睦の証として文殊山城と共に築城したと考えられる。武田氏撤退以降は家康の所領となった。縄張りは、文珠山城と尾根伝いに連なる二の曲輪と、その東側の本城山山頂部の土塁が巡らされた一の曲輪から成る。
C‐AC172 川尻城跡 天授年間、上野国甘楽郡奥平郷の奥平貞俊は、外戚の山崎高元を頼って三河国作手地方に移住し、応永年間に川尻城を築いた。しかし、築城後わずか8ヶ月の1424年には清岳を切り開いて新たに亀山城を築いた。その後もここは支城として使われたらしい。
C‐AC173 菅沼古城跡 築城年代は定かではないが、城主は菅沼俊治であったとされるが、1428年頃、土岐氏に敗れ、土岐一族の土岐定直(資長)の所領になり、定直は菅沼氏を名乗った。城は菅沼川に面した微高地に築かれていたが、現在は消滅し田地となっている。
C‐AC174 菅沼城跡 1428年頃に菅沼定直(資長)によって築かれたとされる。1458年、定直は松平宗家2代の松平泰親に攻められて降伏している。1460~65年には菅沼山楽法寺を建立した。 城は菅沼川に沿って東西に連なる丘陵上に築かれ、堀と土塁が残っている。
C‐AC182 宇利城跡 文明年間に熊谷重実によって築かれた。山城で三方を山に囲まれた要害である。1530年、松平清康の総攻撃により落城した。城は清康から菅沼定則に与えられ、さらに近藤満用が城主となった。1568年、徳川家康に寝返った近藤氏は、武田軍の攻撃を受けて居城を柿本城に移している。
C‐AC200 比丘尼城跡 曲輪や土塁状の高まり,堀跡などが良好に残存している。宇利城有事の際に子ども,女性などが避難した城とも伝えられている。さらに、「比丘尼」という名から城主が女性であったとも言われている。
C‐AC243 欠下城跡 室町末期の築城ともされているが、築城年代や築城者とも定かではない。なだらかな登り口を進むと、すぐに平坦地があり、ここが主郭部。現在は廃屋となった三河青年道場の建物が残っている。登り口に城址碑が立っており、その背後には石垣が残っている。
C‐AC244 大谷城跡 永正年間に山家三方衆のひとりである菅沼定忠が築いたとされている。城主は菅沼定広とその子の定継が知られている。定継が1532年に新城(のちの新城古城)を築城するまで居城し、これ以降廃城となったと考えられる。城は独立した丘陵地を削平している。
C‐AC245 夷城跡 別名を夷ヶ谷城,円の平城という。1537年、奥平定雄が七族の一員となってこの地に築城したものと考えられる。奥平信昌の4男・忠明(のちに松平忠明)が産まれた場所でもある。現在は豊川用水,圃場整備などの工事により原形を留めていない。
C‐AC246 徳定城跡 1556年、野田城主の菅沼定村によって当地警備のため築城され、弟の菅沼又左衛門を入れたとされる。又左衛門が遠江国引佐郡の刑部城へ移ると、代わって野田城の家臣・塩瀬久次,久俊の居城となった。さらに、1575年には奥平信昌の家臣が居城し、奥平氏の関東移封に伴い廃城となった。
C‐AC247 杉山端城跡 1562年、菅沼定氏がここに城屋敷を構えた。長篠合戦で勝利した奥平信昌の支配下に置かれ、今泉七郎左衛門が城代となっている。1605年からは新城城主となった水野分長の支配下で山口弥右衛門が城代となり、1645年の水野氏の上州移転により廃城となる。
C‐AC248 道目記城跡 古くは弘安年間に塩瀬資時が屋敷を構えたことに始まる。1445年には塩瀬一族が下々村へ移ることで、この屋敷は廃墟となった。1571年、菅沼定利は田峯城を去り、徳川方に属してこの城に入城している。1582年に花房氏が入城したが、1590年に飯田転封となり廃城となった。
C‐AC249 岩広城跡 1312年、設楽重清が広瀬郷に進出し城を築いた。重清の17代後の貞重の頃には今川氏の勢力に属していた。1590年、徳川家康の関東移封に伴い武蔵国埼玉郷へ移ったが、関ヶ原の戦い後に再び設楽に戻っている。
C‐AC250 大野田城跡 建武の新政の頃に野田館の富永氏の出城として築城され、応永年間の頃には城所浄古斎の砦として利用された。1563年、菅沼定盈は野田城修復の間に利用し拡張している。長篠の戦い後、奥平信昌が新城城に入ったが、一時期、大野田城も使用していたとされる。
C‐AC251 下り地城跡 平安時代に東三河に土着した富永氏が設楽郡一帯を得て野田に住し、守護城のひとつとして築かれたのが始まりとされる。1506年には富永資舟が住したが間もなく廃城となったという。現在は墓地となっており、一部に低い土塁が残る。
C‐AC252 出澤砦跡 1572年、菅沼正貞がこの地に侵入した際、滝川助義設楽貞通が共に駐屯した比高20mの丘陵地に築かれた砦である。
C‐AC256 鳶ヶ巣山砦跡 長篠城を包囲,監視するために河窪信実らが使用した乗本五砦の一つであるが、酒井忠次の別働他隊の奇襲により落とされた。
C‐AC257 中山砦跡 1572年に徳川家康が長篠城を武田氏方から奪還する際に築いた砦であるが、1575年5月には武田勝頼が長篠城攻めの際に五味貞氏らを配備した。酒井忠次別動隊の奇襲により攻め落とされた。
C‐AC258 久間山砦跡 1572年に徳川家康が長篠城を武田氏方から奪還する際に築いた砦であるが、1575年5月には武田勝頼が長篠城攻めの際に和気善兵衛らを配備した。酒井忠次別動隊の奇襲により攻め落とされた。
C‐AC259 姥ヶ懐砦跡 長篠城を包囲,監視するために三枝勘解由守友,三枝守義の兄弟らが守備した砦であるが、他の砦と比較すると低地であり軍馬,駄馬の係留や兵糧,その他資材の備蓄の場所であったともいわれている。
C‐AC260 君ヶ臥床砦跡 長篠城を包囲,監視するために和田兵部業繁らが守備した乗本五砦の一つ。長篠城からいちばん遠くいちばん高い位置にある。
C‐AC261 端城城跡 永禄年間に菅沼氏によって蛇行する連吾川に面した河岸段丘端を利用して築かれた。城主として菅沼十郎兵衛門,菅沼定吉,小川路氏の名が伝えられている。往時は方形の居館形式であったと考えられ、城跡周囲の竹藪に北から西側に空堀の遺構が残っている。
C‐AC262 柿本城跡 1568年、鈴木重勝によって築城された。1574年に武田勝頼軍の攻撃により陥落した。1581年の徳川家康による遠江平定後、宇利城の近藤康用がここに居城を移したとされる。城跡には本丸,二ノ丸,三の丸,出丸が残る。
C‐AC547 五葉城跡 1561年、今川方から離反し松平元康に属した西郷氏によって築かれたとされる。城主に西郷清員の名がある。しかし、翌年には今川氏真に攻められ落城している。三方を土塁と堀が巡る主郭とその南下に二の曲輪があり、北方に出丸跡が残る。
C‐AC548 高城砦跡 1561年、菅沼定盈は桶狭間の戦い後、今川方から離反し松平元康に属したため、今川方に野田城を攻められ西郷氏のもとに退いて五葉城の南東に砦を築いた。主郭,二の曲輪を備え、堀切と土塁で南尾根を遮断している。
C‐AC592 臼子城跡 1505年、奥平家臣の佐宗重之によって築かれた。1545年には菅沼定継に攻め滅ばされるが、奥平貞能が取り戻し、勝重の子・重昌を城代とした。1590年に廃城となった。櫓台,主郭,井戸跡が残る。
C‐AC597 大和田城跡 築城年は定かではないが、比高300mの山腹に築かれた菅沼源助の居城である。1562年、奥平吉保の居城となり、1573年の見代・宇津木の戦いの後に廃城になった。山林となり、曲輪,土塁,石積みが残されている。
C‐AC598 塩瀬城跡 1349年に中国(宋)より帰化した林浄因が塩瀬氏を名乗り、その長子・塩瀬資時が築いたとされる。戦国時代に菅沼氏に仕えるようになり、廃城となった。現在は山林,畑地となり、遺構は残されていない
C‐AC600 岩波城跡 築城年は定かではないが、奥平貞寄によって築かれたとされる。城は比高140mの浅間山山頂に築かれており、現在は山林となり、曲輪,堀切が残されている。
C‐AC601 城ヶ根城跡 戦国時代の河合八度兵衛の城とされ、1570年に秋山信友軍が侵攻した際には、奥平氏と共に武田氏に従服した。城は標高680m,比高180mの山頂にに築かれ、曲輪と堀切が残る。
C‐AC602 小田城跡 戦国時代、奥平貞勝の子・奥平常勝の居城とされる。1573年、常勝は徳川家康の命で兵藤新左衛門に殺害されたという。山頂の主郭の東側には二重の横堀が巡らされている。
北設楽郡 設楽町 C‐AC175 田峯城跡 1470年、田峰菅沼家の祖となる菅沼定信が築城し本城とした。長篠の戦いでは城主の菅沼定忠は武田方として戦い、大敗後に留守居の菅沼定直に入城を拒絶され、翌年に田峯城を急襲し一族すべて惨殺した。1582年、定忠は徳川軍に誅殺され、田峯城も廃城となる。本丸跡に書院造の御殿などが復元されている。
C‐AC483 清水城跡 南北朝時代に足助氏の代官であった菜倉左近蔵人の居城とされる。菜倉氏は南朝勢力が衰えると遠江へ退去し、代わって名倉奥平氏がこの地を支配した。主郭と二の曲輪から成り、帯曲輪,竪堀などが残る。
C‐AC484 湯谷城跡 室町時代後期に名倉奥平氏によって築かれたとされる。岩岳山麓の尾根端に位置し、現在は主郭跡は墓地となり、その西側に土塁,堀跡が残されている。
C‐AC485 寺脇城跡 鎌倉時代末期には後藤弾正の居城であった。1532年頃、奥平貞次が進出し、ここを本城として一帯を支配した。2代・信光は、松平忠吉に属し清須に移住した。約150m四方の規模で本曲輪を中心に南と東側に曲輪が広がる。
C‐AC486 浜城跡 築城年は定かではないが、奥平信光によって築かれた寺脇城の詰城とされる。南北に長い本曲輪の東西に帯曲輪を配し、北背後とは堀切で遮断する比較的シンプルな縄張りである。
C‐AC487 田内城跡 天文年間(1532~55年)に菅沼定盛が築いたとされる。城主には菅沼定勝,菅沼三照,菅沼道満の名もあり、三照が新城の井道に移ったことで廃城になったとされる。南北に伸びた縄張りをもつ。
C‐AC488 長江城跡 鎌倉時代に地頭職の永江時俊が築き、13代にわたり永江氏が居城した。1424年、永江満綱,尚綱兄弟が尹良親王とともに浪合の合戦で討死した後、廃城となった。広大な曲輪は自然地形ともいわれる。
C‐AC489 鍬塚城跡 築城年は定かではないが、奥平信光のほか,戸田兵右衛門,松島兵次郎の居城とされる。郭は南北の「く」の字に並び、主郭の西から北へ二郭が廻り込み、南側には三郭と四郭が段状に連なっている。
C‐AC490 法華城跡 築城年は定かではないが、松沢松念が鍬塚城と名倉諸城の繋ぎの城として築いたとされる。名倉川が湾曲する北側内側の比高40mの山頂に曲輪が残されている。
C‐AC491 津具城跡 1562年、後藤善心は白鳥山城を攻め落とされ、その後、津具城を築いたとされる。しかし、1569年に徳川方の奥平信光らの攻撃を受け落城した。北西から北二の曲輪,本曲輪,南二の曲輪と並び、四方に帯曲輪を配する。
C‐AC492 白鳥山城跡 築城年は定かではないが、後藤善心の居城とされる。1562年に渡辺平内次らに攻められ落城。その後、津具城に移り、1569年には徳川方の奥平貞能,奥平信光らによって落城、討死した。明確な遺構は残されていないが、白鳥山中腹辺りという。
C‐AC493 岩古谷城跡 1435年頃、菅沼満成が岩古谷山に詰の城を築いた。1573年、信玄の死去により徳川軍が攻め寄せた際に落城し廃城となった。南北に北一曲輪から北六曲輪が連なり、山頂が本曲輪となっている。
C‐AC495 小鷹城跡 築城年は定かではないが、名倉奥平家の2代・奥平信光の居城である。1602年、信光は戸田加賀守と称し松平忠吉の家臣として清須に移住した。仏庫裡から北方の小鷹神社がある曲輪が城址とされる。
C‐AC496 二の宮砦跡 築城年は定かではないが、名倉奥平家の2代・奥平信光の居城(砦)とされる。小鷹城址から南約200mほどの標高960mの尾根端に位置する。南北に長い単郭で二宮大神の碑がある
C‐AC497 不寝見平砦跡 築城年は定かではなく歴史も不明であるが、位置的には奥平信光の砦跡と思われる。寝ずに見張りをしたという伝説がある。平坦な地形であるが遺構は認められない。
北設楽郡 豊根村 C‐AC494 黒川城跡 天文年間(1532~55年)、熊谷直安が豊根村に来住し築いたとされる。また、1583年には熊谷玄蕃がここに蟄居した。弘法山と呼ばれる南北に伸びた丘陵に築かれたが、現在は神社となり明確な遺構は確認できない。
北設楽郡 東栄町 C‐AC137 設楽城跡 平安時代末期に設楽資時によって築かれたと考えられ、愛知県に残る山城のうちで最古のものの一つである。本丸,二の丸跡と土塁,堀切,竪堀などが残る。
C‐AC338 別所城跡 築城年代は定かではないが、戦国天文年間に伊藤貞久によって築かれたとされる。貞久の子・貞次は長篠の戦いで武田方に味方し敗れて甲斐国へと落ち、城は廃城となった。東栄中学校校庭の南側に遺構が残る。
C‐AC362 亀ヶ城跡 築城年代,築城者は定かではないが、長峯神社の棟札に1564年・伊藤右京貞守の名がある。虎口,大手門跡と思われる石積,主郭と副郭が残り、数か所に土塁跡もみられる。

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所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
岐阜市 C‐GF001 岐阜城跡 1201年、二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされるが、二階堂行藤の死後に廃城となった。15世紀中頃、美濃守護代の斎藤利永がこの城を修復して居城とする。1533年には斎藤道三が城主となり、その後、織田信長が侵攻し小牧山城から稲葉山に移転する。堅固な城であるが、幾度か落城している。
C‐GF012 川手城跡 1353年、土岐頼康が手狭となった長森城に代わり川手城を築城した。以降第11代土岐頼芸までの9代にわたり土岐氏の本拠地となる。1530年、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となる。徳川家康の加納城の築城で土塁の土は殆どが使われてしまった。
C‐GF013 鷺山城跡 1185~90年に佐竹秀義によって築城された。1353年、川手城の支城となった。1548年、斉藤道三は息子の斎藤義龍に家督を譲り、稲葉山城を出て鷺山城に隠居した。1556年の長良川の戦いで道三が討たれ廃城となった。
C‐GF014 黒野城跡 1594年以降に加藤貞泰によって築かれた。関ヶ原の戦い後、1610年に米子藩6万石へ加増移封され、4万石の領地は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となった。本丸を中心に二の丸,三の丸と三重の堀に囲まれた輪郭式の曲輪を配する。
C‐GF022 加納城跡 1445年、斎藤利永が川手城の支城として築いたが、1538年頃に一旦廃城となった。徳川家康は岐阜城を廃城とし、1602年から加納城を築き、奥平信昌を入れた。天守は上げられず、代わりに二ノ丸北東隅に独立式層塔型3重4階の御三階櫓が建てられていた。
C‐GF063 高桑城跡 鎌倉時代初期、承久の乱で朝廷側東方軍の大将軍として幕府軍と戦った高桑氏の居城とされる。1527年、斎藤道三に内通した武山氏によって占領、1567年に織田氏によって落城した。土塁で築かれ周囲は約400mとされる。
C‐GF072 船田城跡 室町時代に美濃国守護の土岐家によって革手城の支城として築かれ、石丸利光が城主を務めた。約200m四方の城館と推測されている。1495年、船田合戦で戦意を喪失した利光により焼き払われた。
瑞穂市 C‐GF061 只越城跡 築造年,築城者,城域も定かではないが、1500年代半ば頃の只越城主に竹腰守久の名がある。また、この地の土豪に広瀬正好がおり、その居城とも伝えられている。遺構は残されていない。
C‐GF066 十五条城跡 築城年,築城者も定かではない。十四条城のすぐ南に位置する。現在は果樹園,畑地となり、遺構は残されていない。
C‐GF067 美江寺城跡 1470年頃に和田八郎によって築かれ、代々土岐氏に仕えた。1542年、和田高行は土岐頼芸とともに台頭した斉藤道三と交戦するが、城は焼亡した。校庭西隅に石碑と案内板が建つ。
C‐GF068 十七条城跡 南北朝時代初頭に舟木頼胤によって築城された。享禄年間(1528~32年)には林正長が改修した。その孫の正成は稲葉氏の養子となり、のちの春日局を娶った。熊野神社の南に主郭跡がある。
C‐GF069 十九条城跡 1526年、土岐頼純が斎藤利良に命じて築かせたが、一旦廃城となる。1561年、織田信長が再び十九条城を築き、織田広良を入れた。広良は翌年の十四条の戦いで戦死、城は焼失し廃城となった。
本巣市 C‐GF065 十四条城跡 築城年は定かではないが、斎藤氏家臣の城である。1561年5月には織田軍と斎藤軍がこの十四条村で戦っている。城域と思われる八幡神社南側の竹林の中に北野神社が祀られている。
C‐GF070 軽海西城跡 中世には稲葉氏が居城し、その後、西村勘九郎が在城した。1560年、片桐俊元が修築して居城とした後、1589年に一柳直末が入城したが、翌年に小田原で討死し廃城となった。堀跡や土塁が残る。
C‐GF071 軽海東城跡 古くは加留美長勝が居城し、鎌倉時代には朝倉高清、康暦年間(1379~81年)頃からは稲葉通高が在城し、のちに戦国時代に安藤守宗の居城となった。現在、遺構は残されていない。
安八郡 安八町 C‐GF062 森部城跡 1561年の森部の戦いで織田方に味方し手柄を立てた河村久五郎将昌の屋敷とされる。1610年頃には南に隣接する地に稲葉正成が屋敷を構え、不破壱岐守が居住したという。遺構は残されていない。
安八郡神戸町 C‐GF075 西保北方城跡 室町時代、不破道広によって築かれた。不破氏の後、稲葉方通,木村重広が城主となったが、重広は大垣城の戦いで戦死し廃城となった。城跡は宅地,竹藪となっている。
C‐GF076 和泉城跡 築城年は定かではないが、木村重茲の居城とされる。重茲は秀次事件に連座して自害させられた。現在は竹藪や水田となり遺構は残されていない。
羽島市 C‐GF016 竹ヶ鼻城跡 築城は竹腰尚隆によって応仁年間に行われたとされる。関ヶ原の戦いの前哨戦として福島正則によって攻囲され落城し、廃城となる。現在は市街地に埋もれ遺構は残っていない。城跡の位置も正確には特定されていない。
C‐GF017 加賀野井城跡 1573~91年頃には加賀井重望が織田信雄に仕えて領していた。長久手の戦いで大敗を期した豊臣秀吉は加賀野井城他を攻略することで、家康自身の出陣を誘い、直接対決を目論んでいたとされる。洪水や治水工事で城郭,城地の大半を失ったという。
C‐GF018 八神城跡 築城年代は定かではないが、鎌倉時代の説が有力とされる。毛利広盛の時には織田信長に仕えたという。江戸時代には尾張徳川家に仕え、八神城を中心とした一帯を治め、明治元年まで続いた。現在は田畑と住宅地となっている。
本巣郡 北方町 C‐GF015 北方城跡 1492~1500年、伊賀光就が築城したという。4代目城主の安藤守就は土岐氏,斎藤氏,織田信長に仕えるが、1580年に武田と内通したとして追放され、北方城城主は稲葉良通となった。北方城跡地は、北方陣屋が築かれ明治元年まで存続する。
大垣市 C‐GF019 墨俣城跡 1561~66年に木下藤吉郎がわずかな期間で築いたと伝えられている。ただ、不明な点を多く残すのも事実である。1586年に木曽川の流路が変わって以降この地が城として使われることはなかった。模擬天守の歴史資料館が建つ。
C‐GF023 大垣城跡 一般的には1535年に宮川安定によって築かれたのを始まりとするが、1500年に竹腰尚綱によって築かれた牛屋城が始まりともされる。1590年にはじめて天守があげられた。関ヶ原合戦では石田三成に接収されたが、西軍敗北後に落城する。
C‐GF044 市之瀬城跡 現在の桑原家住宅の辺りに桑原資貞によって築かれたとされる。遺構については不明である。関ヶ原の合戦後は、桑原氏は代々名主を勤め、植林を奨励し用水路引き田畑の開墾に努めた。
C‐GF045 長松城跡 1558~70年頃に竹中重利によって築かれたとされる。1594年、武光忠棟が入城するが、関ヶ原の合戦で西軍に属し城を棄てて伊勢国桑名へと奔り廃城となった。現在は遺構は残されていない。
C‐GF046 多羅城跡 2019年2月に城跡と判明したばかりで詳細は不明であるが、進士信周の居城と考えられる。多羅城については複数の候補地がある。城跡は東に枡形虎口と櫓台を設け、小規模ながら横堀,竪堀も残る。
C‐GF046 福田城跡 戦国時代、那波正隆,正信親子の居城とされる。正隆は織田信長に次いで豊臣秀吉に属した。子の正信も秀吉に仕えて福田城に住み、のちに加納城へ移り、稲葉貞通の旗下となる。遺構は残されていない。
C‐GF064 曽根城跡 永禄年間(1558~69年)に稲葉良通によって築かれた。1588年には西尾光教が城主となり、1601年に廃城となる。本丸跡には華渓寺建ち、その北側より石垣,土塁が発見されている。
揖斐郡 池田町 C‐GF073 本郷城跡 平安時代に池田維実が在城したという。南北朝時代には、美濃守護・土岐頼忠,頼益が居城し、その後は国枝為助ら国枝氏の居城となった。関ケ原の戦いで西軍に付き没落した。櫓台が残る。
C‐GF074 池田城跡 15世紀中頃に池田浄蓮が草深上連馬に築いて居住したとされる。城は杭瀬川に架かる橋から東側一帯とされるが、現在は農地となり、遺構は残されていない。
各務原市 C‐GF020 鵜沼城跡 1429年~1441年頃に大沢治利が和泉国から美濃に移り城を築いた。織田信長が大沢正重の武勇を恐れて暗殺しようとしたため、正重は城を棄て行方をくらました。木曽川に面した岩山に築かれていたという。
C‐GF021 伊木山城跡 1561年、織田信長の美濃攻めで功をあげた香川忠次が伊木忠次と改名し、伊木山城を築いた。対岸の犬山城と鵜沼城とのつなぎの城として重要な働きをもっていた。1590年、忠次は田原城主となり廃城となった。
C‐GF060 松倉城跡 1532年、富樫頼定が犬山城主・織田信康に仕え、尾張国葉栗郡松倉を領し築城した。頼定は坪内姓を名乗る。1600年、関ヶ原の戦い後、坪内利定のとき廃城となった。
関市 C‐GF078 迫間城跡 戦国時代の城主として大島氏が挙げられる。大島氏は美濃斎藤氏の家臣・長井氏,織田氏,豊臣氏,徳川氏と仕え、関ケ原の戦い後には関藩初代藩主となっている。迫間山山頂に主郭と堀切がある。
C‐GF079 田原城跡 築城年,築城者は定かではないが、土岐氏の一族であった田原氏の居城と推定される。蜂屋川の東の低丘陵にあったとされるが、近年は一面にソーラパネルが設置され、遺構は残されていない。
C‐GF081 関城跡 安桜山城ともいう。1528年、長井長弘によって築かれた。1565年、長井道利のとき、加治田城主・佐藤忠能の裏切りで織田信長が派遣した斎藤利治に包囲され開城した。山頂に主郭と複数の腰曲輪を配する。
可児市 C‐GF006 明智城跡 1342年、土岐明智頼兼により築城され、明智氏代々の居城として栄えた。1556年9月、稲葉山城主の斎藤義龍軍の攻撃を受ける。一説では濃姫もこの時死去したとの推察がある。本丸跡や曲輪,馬場,土塁などの遺構が残る。
C‐GF009 久々利城跡 1336~70年に土岐康貞が築城した。末裔の久々利頼興は金山城の森可成の配下となったが、本能寺の変後に可成に対して蜂起したが鎮圧され落城した。南北朝時代の単調な造りと戦国時代後半の横矢や桝形虎口,横堀が融合された構造となっている。
C‐GF027 金山城跡 (兼山城跡) 1537年、斎藤正義によって築かれた鳥峰城が始まりである。1565年、織田信長は東美濃に侵攻し森可成を城主とする。後を継いだ森長可は小牧長久手の合戦で討死し、末弟の森忠政が家督を継いだ。1600年、石川貞清は建物を解体し自らの居城・犬山城の改修に使ったことで金山城は廃城となった。天守台を山頂に配置し、本丸を中心に多くの曲輪群を有する。
C‐GF028 今城跡 1532~55年に小池家継によって築かれた。本能寺の変後、東濃諸国の武将は金山城主・森長可は反抗したが、小池氏は森長可の退去命令に従い城を退去し帰農したと伝えられる。低丘陵南端の本丸,二の丸,三の丸が残る。
C‐GF029 羽崎城跡 1410年代に築かれ、土岐三河守悪五郎の3男の羽崎光直の居城として知られる。羽崎館ともいわれたが、1583年頃に廃城となった。城址碑の奥に石垣が残されている。
C‐GF030 大森城跡 1558~70年に奥村元広によって築かれた。本能寺の変後の森長可謀殺計画が発覚し、元広は城に火を放って越前へ逃亡し前田利家に仕えたという。大森神社境内の南側に登城口があり、城は神社の西側の丘上に築かれている。
C‐GF031 土田城跡 1469~87年に土田義久によって築かれた。のちに生駒親重が小折城と土田城主を兼ねることとなった。その後、生駒氏は織田信長に従い土田城は廃城となった。最高所が主郭で南東に3つの尾根峰に大手曲輪,中曲輪,金子山出丸と続く。
C‐GF032 下切城跡 慶長6年、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した岡田善同が可児,羽栗郡内に五千石を与えられ築城した。城跡には明瞭な遺構はみられないが、主郭跡と思われるところに「岡田善同公之碑」と祠が祀られている。
C‐GF036 塩河城跡 室原城の東側に位置する小規模な城で、可児秀久が城主であったとされる。集落から離れて位置していることから、臨時的に構築されたものと思われる。
C‐GF037 室原城跡 1565年頃、可児秀行によって築かれたとされる。小牧長久手の戦いでは秀行と子の盛行が森長可に従って出陣したが、秀行は八幡林の一戦で討死にし、盛行が城に火を放って落城したという。1599年、森忠政が信濃川中島へ移封された際に廃城となった。
C‐GF038 吹ヶ洞砦跡 近くの大森城と似た構造であることから地元では大森城同様に、1558~70年に奥村元広によって築かれた砦とされるが確証はない。
多治見市 C‐GF041 根本城跡 1570年代前半に武田氏が東濃侵攻した際、武田氏の一族である若尾氏が最前線の拠点として築城したとされる。小牧長久手の戦いには、森長可に従って城主の若尾元美が参戦し討死している。南北に伸びる峰の先端に土塁,堀切,曲輪や竪堀などが確認できる。
C‐GF042 池田城跡 池田輝政が豊臣秀吉から与えられた城という説があるが、詳細は不明である。城址には池田不動と池田真徳稲荷神社があり、池田不動の裏山に小牧長久手の戦いで討死した池田恒興と嫡男の池田元助の墓がある。
加茂郡 坂祝町 C‐GF077 猿啄城跡 1407年頃に西村善政によって築かれたとされる。1565年、織田信長の東美濃攻略で河尻秀隆が攻略し城主となった。1575年に廃城。ハイキングコースとなり山頂に展望台がある。
加茂郡 富加町 C‐GF043 堂洞城跡 天文,永禄の頃には岸信周が城主であった。1563年、加治田城の佐藤忠能、関城の長井道利とともに反信長の盟約を結んだが、裏切りもあり撃退された。城址はゴルフ場の開発などで遺構の大半は消失したが、本丸,長尾丸,二の丸跡,土塁,堀が残る。
C‐GF080 加治田城跡 永禄年間(1558~70年)には美濃佐藤氏の居城であり、佐藤忠能・忠康父子の築城とも伝わる。1565年、忠能は織田信長に内通し信長の中濃統一に加担。尾根上にいくつかの曲輪,竪堀が残る。
可児郡 御嵩町 C‐GF033 顔戸城跡 1467~69年頃に斎藤妙椿によって築かれたとされる。城は可児川の北岸の高台に築かれており、周囲に豪壮な空堀と土塁が残るが、内側は民家や畑として開墾されている。
C‐GF034 御嵩権現山城跡 主郭の本陣山城と出丸の権現山城を合わせて御嵩城と言われる。当初は権現山城が使われていた。1467~68年の城主は斎藤妙椿とされ、1532~54年には小栗重則が城主となったが、度重なる戦いに備え、より防御性の高い本陣山城を築いた。
C‐GF035 御嵩本陣山城跡 1532~54年に小栗重則が築城した。子の小栗教久は織田信長に協力し、森可成の配下として東美濃の攻略に協力している。1599年に金山城主の森忠政が信濃・川中島へ移封されると、御嵩城も廃城になったと考えられている。現在は城址公園として、本丸跡と二ノ丸跡が山頂部に残っている。
C‐GF039 小原城跡 1532~55年、織田方の御嵩本陣山城牽制のため、武田方の平井頼母により築城されたとされる。1599年の金山城主・森忠政の信濃川中島移封に伴い、金山城や御嵩城とともに自然廃城となった。白山神社背後の丘陵一帯に築かれている。
C‐GF040 上恵土城跡 158年頃の城主は長谷川五郎右衛門と伝えられる。五郎右衛門は、本能寺の変に乗じて森長可の金山城に攻めかかったが、逆に滅ぼされている。本郷公民館の南側一帯に築かれていた。東西に小規模ながら土塁が現存する。
土岐市 C‐GF024 妻木城跡 1339年、土岐頼重によって築城された可能性が高い。土岐氏が衰退してからは明智氏の所領になり、明智氏一族である妻木氏の居城となった。本丸,二の丸跡地に小さな神社が置かれている。
瑞浪市 C‐GF004 小里城跡 1534年、小里光忠によって築かれた。城跡は山頂部の本丸曲輪跡と北西山麓の御殿場跡と呼ばれる居館跡、及びその東側の尾根上の東砦跡からなる。本丸曲輪跡には不等辺六角形で半地下構造の天守台があって三段に石垣が組まれている。
C‐GF005 小里新城跡 小里国定の居城とされるが詳細は定かでない。小里氏の菩提寺である興徳寺の西の丘陵頂部に築かれており、山頂の中央に東西に伸びた平段があり西端に「鎌倉後期城砦跡」と刻まれた石碑が建っている。
C‐GF007 鶴ヶ城跡 (神箆城跡) 鎌倉時代初期、美濃守護となった土岐光衡によって築かれたとされるが、土岐頼兼,土岐頼貞の築城説もある。1324の正中の変では土岐頼兼が本拠とした。鶴ヶ城の名前は鶴が翼を広げたような縄張りから由来したとされる。
C‐GF051 戸狩城跡 築城年代は定かではないが、仁木藤九郎によって築かれたとされる。藤九郎は民家の戸を狩り集めて砦を築いたと伝えられ、これが「戸狩」という地名になったという。城は一乗寺の西背後の尾根上に築かれている。
C‐GF052 小里古城跡 築城者,築城年代は定かではないが鎌倉時代の築城と考えられる。古城は小里川東岸の比高30mほどの河岸段丘上に築かれており、現在は墓地となっており、東側の林に摩利支天を祀った石の祠がある。
恵那市 C‐GF002 岩村城跡 鎌倉時代初期に遠山景朝によって築かれた。16世紀中後半に河尻秀隆,各務元正が現在の本格的な山城に改修した。本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配され、曲輪,高石垣,井戸などが良く残されている。
C‐GF025 中西城跡 築城年代,築城者とも定かではない。比高は20m程度であり、曲輪,土塁,堀切が残る。
C‐GF026 飯羽間城跡 築城時期は鎌倉時代中期頃と推定される。美濃国恵那郡遠山荘の地頭であった遠山氏の分家飯羽間遠山氏が本拠地とした城で遠山十八支城の一つであるが、遠山氏の誰が築城したかは不明である。
C‐GF047 明知城跡 1247年に遠山景重が築城したとされる。戦国時代には美濃攻略を狙う武田と織田の争奪戦が繰り広げられた。関ヶ原の戦い後、遠山利景,方景が明知城を奪還した。多数の曲輪群を有しその外側に横堀と巨大畝状竪堀群が設けられている。
C‐GF026 落合砦跡 (土岐明智城跡) 明知城が築城された1247年と同時期に千畳敷台地に築かれたと伝えられる。明智光秀の生誕地ともされ、三の曲輪に産湯の井戸も残されている。本丸,二の曲輪を構える。
C‐GF053 前田砦跡 (上村城跡) 築城年代は定かではないが、1572年の上村合戦では遠山方の門野兄弟が千騎で籠もり、武田方の秋山信友と対峙したとある。また『丹羽氏聞書』では原弾正が城主としている。幅広の二条の堀切で区切られた三つの曲輪から成っている。
C‐GF054 岩井戸砦跡 築城年代は定かではないが、1573年の上村合戦では遠山景行が籠もった砦とされ、武田氏武将の秋山信友と戦って敗れ討死した。現在は広い平坦地になっており、南側に段状に開墾されていて縄張は不明である。
C‐GF055 漆原城跡 築城年代は定かではないが、遠山友忠が守っていたとされる。主郭には小さな祠が祀られている。主郭,馬出曲輪,帯曲輪と横堀,二重堀切が確認できる。
C‐GF056 下村砦跡 築城年代は定かではない。城主には大嶋兵衛五郎,遠山市左衛門,下村幸近の名が挙げられている。現在は開墾されて畑となっているが、南側に堀跡が確認できる。
C‐GF057 大平城跡 築城年代は定かではないが遠山雅楽頭によって築かれ、子の遠山与五郎の名も見える。武田氏勢に攻められて自落したという。主郭の北西下に千畳敷と呼ばれる曲輪、その北下に雪隠屋敷と呼ばれる曲輪がある。
C‐GF058 福原城跡 築城年代,築城者は定かではなく、歴史についても不明である。矢作川がS字に曲がる北西の標高365mの丘陵に築かれている。幅広の堀切を有し、西側には段状の小郭に連なっている。
中津川市 C‐GF008 苗木城跡 1552年、遠山直廉が高森山砦を拡張して苗木城を築いた。度々城主が入れ替わるが、1600年、遠山友政が徳川家康の命を受け苗木城を攻略し、後に遠山氏が苗木藩主として明治まで続く。巨岩を巧みに利用した本丸天守は圧巻である。
C‐GF049 阿木城跡 戦国時代に岩村遠山氏が岩村城防衛のために築いた遠山十八支城の一つとされる。1574年に武田勝頼の攻撃によって陥落して以降は復興されることはなかった。円形に近い本曲輪を帯曲輪が取り巻き、土塁,堀切,竪堀,切岸などの遺構も残されている。
C‐GF026 阿寺城跡 戦国時代に飯羽間城から遠山友忠が入城したとされる。岩村城の遠山十八支城の一つ。父であり苗木城主の遠山友勝が没すると、友忠は阿寺城を子の遠山友重に譲り苗木城へ移った。1574年、武田勝頼より落城し自然廃城となった。一ノ郭跡の南に御嶽神社が祀られている。
高山市 C‐GF010 高山城跡 在地領主の高山外記によって室町中期に築城されたとされる。1558年、高山外記は三木自綱に滅ぼされる。高山城には三木久綱が入ったが、反秀吉の兵を挙げたため、金森長近の総攻撃を受け滅亡し金森氏が入国。1588年、天神山に三層天守閣,本丸,二の丸,三の丸,米蔵曲輪,外郭から成る一大山城を築いた。1695年には廃城となる。
羽島郡 岐南町 C‐GF011 伏屋城跡 1558~69年、美濃国攻略のため織田信長が羽柴秀吉に命じて築城させた。城というより最前線の砦である。短期間での築城を行うため墨俣城と同じ手法がとられたという。小牧長久手の戦いでは、秀吉側の最北端の拠点として、伏屋市兵衛が入城した。

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北勢  桑名郡木曽岬町桑名市いなべ市員弁郡東員町三重郡菰野町三重郡朝日町三重郡川越町四日市市鈴鹿市亀山市
伊賀  伊賀市名張市
中勢  津市松阪市多気郡明和町多気郡多気町多気郡大台町
南勢  伊勢市鳥羽市志摩市 度会郡玉城町度会郡度会町度会郡大紀町度会郡南伊勢町
東紀州  北牟婁郡紀北町尾鷲市熊野市南牟婁郡御浜町南牟婁郡紀宝町
所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
桑名市 C‐ME003 中江城跡 1570年、長島一向宗門徒が長島城を中心に築いた諸城のひとつで森小一郎の築城とされる。1574年9月、信長は屋長島城,中江城を火攻めにし、2万の男女が焼け死んだ。上之輪神明社の辺りと伝わる。
C‐ME010 桑名城跡 1186年、桑名行綱によって築かれたのが始まりとされる。戦国時代には、滝川一益はじめ城主が目まぐるしく入れ替わった。1601年、徳川家康は本多忠勝を入れ、忠勝は揖斐川沿いに城郭の建造を開始し4重6階の天守をはじめ51基の櫓,46基の多聞を建てた。その後は久松松平定勝が入城。現在は、城跡には石垣,堀が残るのみで九華公園として整備されている。
C‐ME017 長島城跡 1245年、藤原道家が館を築いたことにさかのぼる。1482年、伊藤重晴によって城が再建されたが、1570年には長島一向一揆の拠点となった。三度の攻略によって落とすと滝川一益を城主として北伊勢を領した。その後、織田信雄の居城となるが、1586年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、信雄は清洲城に移った。現在、城跡は長島中部小学校,長島中学校の敷地となっている。
C‐ME018 矢田城跡 矢田俊元が天正年間に築いたとされる。永禄年間頃に滝川一益によって攻められ落城し、俊元は自刃した。その後、矢田城は滝川一益に与えられ長島一向一揆攻略の最前線基地となった。1574年、一益が長島城へ移ると家臣杉山十左衛門,野呂孫右衛門を置いて守らせた。現在は走井山公園となっている。
C‐ME102 屋長島城跡 1570年、長島一向宗門徒が長島城を中心に築いた諸城のひとつで安藤秀国の築城とされる。1574年9月、信長は屋長島城,中江城を火攻めにし、2万の男女が焼け死んだ。揖斐川の城之堀ポンプ場辺りから南側の区域と伝わるが、遺構は残されていない。
C‐ME103 大鳥居城跡 1570年、長島一向宗門徒が長島城を中心に築いた諸城のひとつで水谷盈吉の築城とされる。1574年8月、柴田勝家らの軍によって男女1000人ほどが斬られて落城した。宅地,畑地に変わり遺構は残されていない。
C‐ME104 小山城跡 永禄年間(1558~70年)には高井民部少輔が居城したとされる。しかし、1567年の織田信長による伊勢侵攻の際に落城した。主郭は竹林となっているが、東側を除く三方には土塁が巡らされている。
C‐ME105 猪飼城跡 1331~36年頃、小串詮行によって築かれたとされる。小串氏は、その後6代続いた。1578年、小串詮通のとき織田信長の伊勢侵攻で落城し滅亡したという。主郭の南東と北に小曲輪、北東には小堀切が設けられている。
C‐ME106 柚井城跡 梶田佐馬助,梶田刑部丞の居城とされるが、1567年に織田信長と戦って敗れ追われた。その後、城主となった西松要人は長島一向一揆衆に加担し、1571年に織田軍に攻められ廃城となった。主郭には虎口,土塁がみられる。
C‐ME129 尾畑城跡 室町時代に田辺伊勢丸の居城であったと伝えられている。北と西側に土塁を巡られた方形の主郭をもつ小規模な平山城で、現在は竹林となっている。主郭内に「尾畑城蹟之碑」が立っている。
C‐ME130 愛宕山城跡 室町時代、矢田周辺を本拠としていた土豪・矢田市郎左衛門の居城とされる。織田信長の伊勢侵攻あるいは1574年に矢田城の瀧川一益が長島城に移った際に廃城になった。現在は住宅地として整地され、遺構は残されていない。
C‐ME131 西方城跡 永禄年間(1558~70年)に滝川一益が矢田城を落とした後、配下の加藤勘助に築かせた城のひとつである。1583年、滝川一益が所領を没収されると廃城となった。現在は西方配水場となっている。
C‐ME138 江場城跡 鎌倉時代に築かれ、戦国時代には佐藤秀勝の居城とされる。秀勝は織田信長に従ったが、謀反の嫌疑をかけられ、1570年に追放された。「城山跡」碑が立つ東側が城跡とされるが、遺構は残されていない。
C‐ME139 尾野山城跡
C‐ME140 白山ヶ鼻城跡
C‐ME141 桑部城跡 3つの主な郭に分かれ、『桑名領古城図考』には北城を毛利次郎左衛門、南城を大儀須若狭守の居城と記されている。南城の南に最高部の郭がある。織田信長の伊勢侵攻により滅ぼされたとされる。
C‐ME146 星川城跡
C‐ME148 赤須賀城跡
C‐ME149 白山城跡
C‐ME150 蓮花寺東城跡
C‐ME151 蓮花寺西城跡
C‐ME152 額田城跡
C‐ME153 羽笠城跡
C‐ME154 嘉例川城跡
C‐ME147 西別所城跡 永禄年間(1558~70年)に滝川一益が加藤勘助に築かせた城のひとつとされ、後藤基成が居城した。長島一向一揆で一揆方に寝返り1573年に落城した。小高い丘に築かれ、宅地,公園となっている。
いなべ市 C‐ME107 上笠田城跡 建武年間(1334〜38年)に南朝方の多湖大蔵允によって築かれたとされる。永禄年間(1558〜70年)頃の城主は飯田左衛門尉であったが、1568年に織田信長により滅ぼされた。郭,土塁が残り城山稲荷が祀られている。
C‐ME108 下笠田城跡 建武年間(1334〜38年)に多湖刑部左衛門が築いた。1568年、多湖大蔵介橘実元は北伊勢に侵攻した織田に降った。その後、1590年、小田原征伐にて戦死。現在は住宅地,畑地に変わり、遺構は残されていない。
C‐ME109 麻生田城跡 鎌倉時代に徳丸右京之介が居城したとされる。員弁川に面した平地に築かれ、現在は宅地や畑となっており、土塁が一部残されているのみである。
C‐ME110 中山城跡 築城年,築城者は定かではなく、城主に治田与七郎の名が伝わるが、文明年中(1469~86年)に滅んだと伝わる。中山城は青川と員弁川による河岸丘陵に築かれている。
C‐ME111 治田城跡 治田五兵衛によって築かれた。永禄年間(1558〜70年)には楠正具の居城であったともいう。天正年間(1573〜92年)前半には織田信長に降った。城山の山頂から中腹にかけて三段に削平して築かれている。
C‐ME112 丹生川上城跡 14世紀半ばに創建されたと考えられる正法寺は、やがて城郭寺院となり、東の詰城と合わせて丹生川上城跡としている。現在は国道工事で主要な郭は消滅しているが、道路西側の山頂に詰城跡が残る。
C‐ME113 大木城跡 永禄年間(1558〜70年)、大木舎人助は織田信長の北伊勢侵攻に降った。1576年、滝川一益に不審をもたれ、城を捨て西国へ逃れた。主郭に土塁と空堀が部分的に残る。
C‐ME114 金井城跡 1505年頃、種村高盛の築城とされる。1522年,1532年に土岐氏の攻撃を防いだが、1568年、織田信長に降服。1576年、種村秀信が滝川一益に切腹させられ廃城となった。主郭と空堀がよく残る。
C‐ME115 飯倉城跡 築城年,築城者は定かではなく、歴史についても不明。北から南に伸びた丘陵先端に築かれた城である。
C‐ME116 下平城跡 築城年は定かではないが、城主は田切佐兵衛と伝えられる。現在は道路から容易に城域に入ることができる。コの字状の土塁と2つの虎口をもつ主郭と主郭の南北にそれぞれ三条の堀切がある。
C‐ME117 向平城跡 城主は東の下平城と同じ田切佐兵衛と伝えられる。田切川西岸の比高10mほどの段丘端に築かれていたが、北側の向平公民館によって削平されている。南の丘陵に土塁,虎口,空堀が残る。
C‐ME118 田辺城跡 1586年、木造長政が織田信雄から所領として員弁郡を宛行われ築いたとされる。信雄改易後は織田秀信の附属とされ岐阜へと移った。南方に主郭群、北方に家臣の屋敷跡が配されている。
C‐ME119 白瀬城跡 当初は白瀬氏代々の城であったが、永禄年間(1558~70年)には近藤吉綱の居城となった。1561年、治田山城守によって攻められ落城。城は北西端と南東端を堀切で区画し、丘陵上に主郭ほか多くの郭が並ぶ。
C‐ME120 山口城跡 玉垣城ともいう。永禄年間(1558~70年)には藤田東馬允の居城であったとされる。1568年あるいは天正年間(1573~92年)に織田勢に攻め落された。四方に土塁が巡らされた方形単郭の平山城である。
C‐ME121 上平野城跡 築城年は定かではないが、城主に梅山宗兵衛,梅山甚之丞が伝わる。確かなことは不明だが、1568年の織田信長の北伊勢侵攻で攻め落されたと考えられる。比高10mほどの丘陵上に築かれ、土塁で囲まれた主郭が残る。
C‐ME122 大井田城跡 築城年は定かではないが、城主は栗田左衛門佐あるいはその家老の因入道道信とされる。1568年、織田信長の北伊勢侵攻の際に落城したと伝わる。東西へ伸びた丘陵上に築かれ、主郭の東西に曲輪がある。
C‐ME123 梅戸城跡 戦国時代に田光城主・梅戸高実が八風街道の通行税徴収のために築いたといわれる。現在は光蓮寺山公園として整備され、南に向かって曲輪が広がっている。一部に土塁も残されている。
C‐ME127 上木城跡 南北朝時代の頃、片山信保が北畠氏に属し、上木村の領主となり阿下喜から十社一帯を領したという。1568年、3代の片山範者のとき滝川一益によって滅ばされた。部分的に土塁と空堀状の地形が残る。
C‐ME128 野尻城跡 文治年間(1186~89年)に輪田右馬允が居城し、のちに白瀬庄司が入り6代にわたって領したとされる。さらに西野左馬助らが居城したという。主郭へは長い土塁を迂回しないと入れない。
C‐ME133 御薗城跡 築城年は定かではないが、城主に渡辺八右衛門督の名が伝えられている。1569年に滅んだとされる。員弁川に面した東側の河岸丘陵に築かれていたが、現在は住宅地に変わり遺構は残されていない。
員弁郡 東員町 C‐ME084 中上城跡 明応年間(1492~1501年)に坂太郎左衛門によって築かれた。歴史については明らかではないが、廃城後に坂氏は仏門に入り花戸山遍崇寺を建立したという。土塁で区画された方形状の曲輪が尾根先に向かって連なる。
C‐ME085 長深城跡 暦応年間(1338~42年)に冨永富春によって築かれた。1574年または156年、富知が城主のときに、滝川一益の夜討ちに遭い落城。尾張国に落ち延びたという。城跡には一族によって善正寺が建てられた。
C‐ME132 山田城(笹尾城)跡 青木安定が建武年間(1334~36年)の頃、軍功によってこの地を賜り築いたとされる。1574年、青木安豊のとき、織田信長による北伊勢侵攻で滅ぼされ、そのまま廃城となったという。城跡は住宅地となっている。
三重郡 菰野町 C‐ME016 千種城跡 正平年間(1334~69年)に千種顕経によって築かれたとされる。1584年、小牧長久手の戦いの際に蒲生氏郷によって落城。1615年、千種顕理が大坂夏の陣で討死し千種家は断絶、廃城となった。
C‐ME088 田光城跡 永延年間(987~989年)に田光隼則によって築かれた。隼則は後に姓を梅戸に改めた。戦国時代に梅戸高実が田光城を再興するが、実秀のときに織田信長により滅亡した。多比鹿神社の北背後に築かれ、主郭と石積を伴う土塁,櫓台,空堀,虎口,土橋が残る。
C‐ME089 切畑城跡 築城年は定かではないが、城主には畑与九郎,畑定政の名が伝えられている。1577年、織田信長によって滅ぼされたという。林道が曲輪をU字に分断した形となっている。その北にも曲輪がある。
C‐ME090 杉谷城跡 戦国時代、杉谷善住坊(萩原善住坊)の城とされる。1570年、善住坊は京より岐阜城へ戻る織田信長を狙撃したが失敗し鋸挽きにされた。方形に近い曲輪が整然と連なる。
C‐ME091 金ヶ原城跡 築城年は定かではないが、千種城の支城と考えられ、正平年間(1334~69年)に築かれたと推測される。現在は千種神社が建てられており、その周囲には空堀が残されている。
C‐ME134 菰野城跡
C‐ME135 力尾城跡
C‐ME136 宿野城跡
三重郡 朝日町 C‐ME019 柿城跡 1360(延文5/正平15)年に佐脇宗政によって築かれたとされる。1557年、近江の小倉三河守が伊勢に侵攻し落城させた。現在、主郭跡が公園として整備されている。
C‐ME142 埋縄城跡
C‐ME143 広永城跡
四日市市 C‐ME009 楠城跡 1369年、北畠顕泰が築き、諏訪貞信を初代城主とした。4代目から楠一族が城主となり、1567年、滝川一益の攻撃に対し、7代・楠正具は最後まで抵抗した。その後、村田正盛が城主となったが小牧長久手の戦いで戦死した。石碑と説明板が建つのみである。
C‐ME020 蒔田城跡 〔長明寺〕 文治年間(1185~90年)には蒔田宗勝の居城であったとされる。その後、春日部家春の居城となり、織田信長による北伊勢侵攻の際に滅ぼされた。 城跡朝明山長明寺の境内となっている。
C‐ME082 采女城跡 1260年、後藤基秀が築城した。以来、300有余年続いたが、1568年、後藤藤勝のときに滝川一益に攻め落とされた。三つに分かれた丘陵尾根を利用し一の郭~九の郭が連郭式に配されている。
C‐ME083 伊坂城跡 築城年は定かではないが、城主に伊坂太郎左衛門尉の名がある。1568年に織田信長の北勢侵攻によって攻め落とされたが、伊坂氏と伊坂城は織田氏のもとで存続していたと考えられる。城の東側部分は損壊しているが、主郭西側に腰曲輪や井戸などが残る。
C‐ME086 朝倉城(市場城)跡 康正年間(1455~57年)に朝倉詮真によって築かれたとされる。のちに保々西城の支城として使われた。織田信長による伊勢侵攻の際に落城したという。土橋,曲輪,土塁,空堀が残されている。
C‐ME087 保々西城跡 康正年間(1455~57年)に朝倉詮真によって築かれたとされる。1568年または1574年に滝川一益の攻撃によって落城した。空堀,土塁を設けた主郭の北側一帯には家臣の屋敷跡が残る。
C‐ME092 西坂部城跡 1203年に「三日平家の乱」を起こした若菜五郎萩原小太郎に命じて築かせた。乱は鎌倉幕府軍に三日間で鎮圧され、若菜氏,萩原氏とも滅亡した。三重城山緑地公園として整備され、北の丸,本丸,二の丸,三の丸跡が残る。
C‐ME093 浜田城跡 15世紀後半に浜田忠秀によって築かれた。1575年、滝川一益に城を包囲され浜田元綱は戦死。子の重綱は小牧長久手の戦いにおいて戦死した。鵜森神社周辺に土塁跡が残る。
C‐ME094 茂福城跡 1400年前後に平貞冬が越前朝倉より茂福へ移り築いた。1567年、茂福盈豊は滝川一益に裏切りの不信をもたれて長島城にて殺害され、城も攻め落とされた。主郭の土塁の一部とされる高まりが残存する。
C‐ME095 羽津城跡 15世紀後半に田原盛宗によって築かれた。盛宗から近宗まで6代の居城となったが、田原近宗は茂福城城代の山口次郎四郎に毒殺された。城山公園となり本丸跡に土塁の痕跡が残る。
C‐ME124 北山城跡 室町時代から戦国時代にかけての城と推測されるが、城主も定かではない。新名神高速道路建設に伴う発掘調査で存在が明らかになり、主郭を囲む土塁の一部や堀,井戸跡が確認された。
C‐ME125 大矢知城跡 築城年は定かではないが、伊勢国の守護被官の一人であった大矢知氏の居城とされる。1484年、守護・一色義春の死によって大矢知氏も小守護代の座を失う。改変が進み、城の遺構の確認は困難である。
C‐ME126 萱生城跡 文治年間(1186~89年)に春日部宗方によって築かれたとされる。1568年、城主・春日部俊家のとき織田軍の攻撃に耐えたが、1573年、再度の総攻撃により炎上し灰燼に帰した。「髪のびの井戸」が残る
C‐ME137 赤堀城跡
C‐ME144 下野山城跡
C‐ME145 中野城跡
亀山市 C‐ME005 亀山城跡 1265年、関実忠によって若山に築城されたのが始まりとされる(亀山古城)。1590年、岡本良勝(宗憲)が入城後、天守,本丸,二の丸,三の丸など近世城郭の母体が形成された。多聞櫓,石垣,堀,土塁などの一部が残る。
C‐ME037 亀山古城跡 (若山城跡) 1265年、関実忠が関久賀からこの地へ移り築いたのが亀山古城とされる。以降、関氏累代の城となった。近世亀山城の北西の小山に築かれていたとされるが、明確な遺構は発見されていない。
C‐ME038 峯城跡 正平年間(1346~70年)に峯政実によって築かれたとされる。1574年には岡本良勝が城主となる。1590年、良勝が亀山城に移されたことで廃城となる。八島川,安楽川が合流する地点の台地先端に築かれている。
C‐ME039 落山城跡 峯城の出城とも考えられている。あるいは1584年に羽柴秀吉の軍勢が峯城の佐久間正勝を攻撃した際に築いた付城とも。現在はかなり削り取られ、南側は消滅しているという。
C‐ME040 古城跡 峯氏の居館と考えられるが、その成り立ちもはっきりしていない。峯城の出城とも1583年に羽柴秀吉軍が峯城を攻めたときの陣城ともいわれる。主郭は高さ3mほどの土塁を巡らした方形で東側に虎口を開く。
C‐ME043 小川城跡 戦国時代には小川図書頭の居城であった。丘陵先端に築かれた城は東西の郭からなっている。両郭は土塁で区切られ、北側にも土塁がある。また、空堀や石積みも確認できる。
C‐ME044 白木城跡 築城年,築城者、歴史についても不明。民家敷地となっている高い台地が城跡とされるが、道路を挟んだ北側の丘陵や東側の竹林も城域と考えるのが自然かもしれない。
C‐ME045 正法寺山荘跡 永正年間(1504~21年)初めに関盛貞が正法寺をこの地に創建し別荘館を兼ねたが、天正年間(1573~93年)の頃に廃絶され、織田信長の伊勢侵攻に備えて砦もしくは詰の城として使われた。
C‐ME046 新所城跡 天正年間(1573~92年)に関盛信によって築かれた。1583年に関氏の家臣の岩間七郎左衛門らに奪われたが、秀吉方が奪い返した。関一政が白川城主となり廃城になった。三つの独立丘陵がそれぞれ曲輪を成す。
C‐ME047 鹿伏兎城跡 1367年頃に鹿伏兎盛宗によって築かれた。信長亡き後の跡目争いで鹿伏兎定義は織田信孝に与したため、1583年、織田信雄,羽柴秀吉方に攻められ京都へと去った。縄張りは主郭,二郭と物見台から成る。
C‐ME048 殿山城跡 築城年代,築城者は定かではない。鹿伏兎城跡から近いことから関氏との関わりは想像に難くない。1583年に鹿伏兎城と運命を共にしたとも考えられる。城跡は国道25号線のすぐ北に位置する。
C‐ME049 鍛冶ヶ坂城跡 1543年、鹿伏兎定住が築城し坂氏を名乗った。1583年の織田信雄,羽柴秀吉軍の攻撃による鹿伏兎城落城と運命をともにしたと考えられる。城跡は居館跡とされる常光寺の後方の山となる。
C‐ME050 川俣城跡 〔川俣神社〕 もとは南北朝時代に鹿伏兎氏が築いた御霊ヶ丘陣屋であった。1412年には陣屋に内堀を構築するなど城壕の整備にかかった。1414年に川俣城と改称した。城跡地には川俣神社が移され鎮座している。
鈴鹿市 C‐ME006 神戸城跡 1550年頃に神戸具盛が築城し沢城から移ったとされる。1568年、織田信孝を養子として入り神戸城を拡張して五重の天守を設けた。信孝が岐阜城に移ると小島兵部が入った。その後も城主はめまぐるしく代わり本多氏が明治維新を迎えた。本丸に天守台および堀の一部が残る。
C‐ME015 山本城跡 浜田城主田原氏の一族とされる山本刑部によって築かれたとされる。1582年以降は織田信孝に従うが、筒井順慶に攻められ落城した。城址は西岸寺の裏山にあり、土塁や空堀などが残る。
C‐ME096 沢城跡 1367年、関盛澄が築き神戸氏を称した。1568年に神戸友盛は織田信長の3男で神戸氏の養子となった神戸信孝と不和になると、沢城へ隠居した。1571年に廃城。現在は石碑のみが立つ。
C‐ME097 須賀城跡 築城年代は定かではなく位置についても確定していない。阿自賀神社は境内がやや高く、由来にもこの辺りに北畠氏家臣の成田隼人正の城があったと記されており、城跡である可能性が考えられる。
C‐ME098 木田城跡 築城年は定かではないが、山路氏によって築かれたとされる。城主は高岡城主・山路弾正の一族と伝わる。南東方向に伸びた台地の上に築かれ、ほぼ中央の位置に単郭の曲輪がある。土塁,空堀残る。
C‐ME099 高岡城跡 築城年は定かではないが、神戸友盛の家老であった山路弾正種常によって築かれた。1567年と翌年の二度にわたる織田軍の攻撃にも落城しなかった。城山頂上は高岡城跡公園となっており、途中に空堀跡が残されている。
C‐ME100 岸岡城跡 弘治年間(1555~58年)に神戸城の支城として築かれ、佐藤中務大輔が城主となった。1557年、佐藤中務,又三郎父子は謀叛を企て神戸利盛に殺害された。岸岡山緑地の古墳の辺りに築かれていたとする。
C‐ME101 若松城跡 築城年は定かではないが、神戸信孝によって現在の鈴鹿市立若松小学校と小川神社付近に築かれたとされるが、城主など詳細は不明。遺構も残されていない。
伊賀市 C‐ME001 伊賀上野城跡 1585年、筒井定次によって築城された。大坂対策を考慮した家康は、定次を改易し、代わって藤堂高虎が津城に入り上野城には城代を置いた。高虎は大坂に備え大改修を行ったが、豊臣氏が滅亡し中止された。現在は模擬天守が建つ。
津市 C‐ME007 木造城跡 1366年、木造顕俊によって築かれた。1569年の織田信長による伊勢侵攻の際には織田氏に従い南伊勢侵攻の案内役を務め、北畠氏の養子になった信長の次男・信雄に仕えた。城址は水田の中に土塁がわずかに残る程度である。
C‐ME008 霧山城跡 1342年、南朝方の北畠顕能によって築かれて以降、240年に亘り難攻不落の城として聳え立っていた。1569年、織田信長が南伊勢に侵攻すると、羽柴秀吉,神戸信孝ら15,000の兵に包囲され陥落し城下も灰燼と化した。城は急峻な尾根に2条の堀切を設け、2郭が存在した。
C‐ME012 津城跡 永禄年間(1558~69年)、細野藤光が安濃津城を構えたことに始まる。その後、織田氏により城郭が拡充された。関ヶ原の戦いで荒廃後、1608年に入城した藤堂高虎が近代城郭として大改修を行い、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
C‐ME021 長野城跡 1274年、長野祐藤によって築かれた。南北朝時代、長野氏は北朝方としてしばしば南朝方の北畠氏と戦ったが、1558年、講和が成り、事実上北畠氏の配下となったが、のちに織田信長の配下となる。1570年に廃城。標高580mの山上に築かれた天然の要害で、非常時の詰城と考えられる。
C‐ME022 細野城跡 (長野氏城跡) 南北朝時代に細野祐宗によって築かれたとされる。長野城とあわせて「長野氏城跡」と呼ばれている。城は中の城,西の城,東の城で構成される。
C‐ME023 家所城跡 1362年、家所祐歳によって築かれ、約200年にわたって家所氏の居城となった。1572年、8代目の三河守藤安は織田信長と戦い戦死したことで廃城となった。主郭は長方形を呈し周囲には土塁が巡らされている。
C‐ME024 渋見砦跡 永禄年間(1558~70年)に乙部藤政によって築かれたとされる。織田の侵攻に備えて築いたが、1570年に織田信包に攻められ落城した。現在は宅地造成によって削平されて遺構は消滅している。
C‐ME025 二子城跡 築城年代は定かではないが、城主には村主文宗の名が残る。東の先端から登ると、東西2ヶ所の削平地があり東側は小高く櫓台のような地形になっている。その西下に土塁を巡らせた郭がある。
C‐ME026 今徳城跡 応永年間(1394~1428年)に北畠氏家臣の奥山貞兼によって築かれたとされる。1576年の信長,信雄による具教暗殺計画(三瀬の変)には仮病を装いこれに荷担せず今徳城を破却し遁世したという。
C‐ME027 連部城跡 1584年、羽柴秀吉が木造城を攻めるために家所藤高に築城させたと伝わるが定かではない。曲輪,土塁,空堀が明瞭に残されている。
C‐ME028 草生城跡 築城年代は定かではないが、草生氏によって築かれたとされる。比佐豆知菅原神社の東にある小山に築かれており、頂部に主郭,東下に二の郭、さらに東へ伸びた細い尾根には堀切が残る。
C‐ME029 安濃城跡 弘治年間(1555~58年)に細野城の細野藤光によって築かれ、子の藤敦の時に拡張されたという。1580年、織田信包は長野氏一族の排除を画策し安濃城に侵攻したため、藤敦は自ら城に火を放ち逃れた。土塁や櫓台,空堀,井戸跡などの遺構を確認することができる。
C‐ME030 前田城跡 築城年代は定かではないが、城主は前田将監と伝えられる。南へ張り出した標高42m,比高20mほどの小山に築かれており、単郭で土塁と虎口らしき遺構がみられる。
C‐ME031 雲林院城跡 1331年、雲林院祐高によって築かれたとされる。1580年、雲林院出羽守父子は長野(織田)信包に伊勢を追い出され廃城となった。城は安濃川に面した丘陵の頂部に築かれている。
C‐ME032 忍田城跡 平安時代中期1072~86年に忍田入道によって築かれたとされる。その末裔は江戸時代には藤堂氏に仕えた。安濃川の北の尾根先端部に築かれ、安濃川を挟んだところに雲林院城跡がある。
C‐ME033 榊原城跡 築城年代は定かではないが、北畠氏の家臣であった榊原利長によって築かれたとされる。北畠氏が滅亡すると織田信長に属し、榊原三左衛門尉は中山へ移り廃城となった。榊原小学校の裏に登城口がある。
C‐ME034 大仰城跡 応永年間(1394~1428年)に北畠氏に属していた小泉藤能によって築かれた。誕生寺の北背後に築かれており、主郭部には宝篋印塔や観音石仏などが祀られている。
C‐ME035 宮山城跡 天文年間(1532~55年)に戸木城の支城として木造具政によって築かれた。1584年の小牧長久手の戦いの際、秀吉方によって攻撃されたが、停戦後に廃城となった。敏太神社の北背後の丘陵に築かれている。
C‐ME036 戸木城跡 1554年、木造具政が隠居所として築いた城である。小牧長久手の戦いでは木造家一族が将兵数百人とともに約6ヶ月間籠城した。慶長年間に廃城となった。戸木小学校は堀跡であり、城址碑はここに建つ。
C‐ME041 楠原向市場城跡 応仁の乱の頃には山田重孝が城主であった。東へ伸びた丘陵に築かれた単郭の城で西を除く三方に土塁があり南東側に開口部がある。現在、曲輪跡は茶畑となっている。
C‐ME042 楠原童子谷城跡 南北朝時代に北朝方の山田重勝が南朝方の北畠氏に対する構えとして築城した。城跡は中ノ川に面した丘陵の北端に位置し、周囲は崖地になっている。
C‐ME051 八太城跡 永禄年間(1558~70年)に田上玄蕃頭によって築かれた。北畠氏が滅亡した後は織田信雄の家臣の日置大膳亮が入っていた。主郭は広く楕円形で西側に幅広の土塁があり行者様が祀られている。
C‐ME052 伊勢上野城跡 1570年、織田信包が津城の仮城として分部光嘉に築城させた。城は台地上にあり、東側は断崖状になっており伊勢湾を一望でき、他の三方は谷に囲まれている。
C‐ME053 黒田城跡 (河瀬城跡) 別名を川瀬城。康正年間(1455~57年)に川瀬宣光が地頭となって築城した。川瀬広信の時代に織田信長の伊勢侵攻の際に落城した。現在城址には黒田小学校があり、校舎と体育館の間に碑が建つ。
C‐ME054 秋葉城跡 天正年間前半(1573~1584年)に築城され、黒田左衛門が居城していたとされる。小牧長久手の戦いの一連の戦いの中で蒲生氏郷によって攻められて落城した。現在の蓮徳寺の背後が城域とされる。
C‐ME055 川北城跡 1274年、長野工藤氏の与力であった川北氏によって築かれた。南北朝争乱のなか一時落城するが、応仁の乱に際しては川北内匠亮によって再興されたと考えられる。台地の南西斜面に空堀,土塁,郭を築き、その背後の丘陵上に居館を配していた。
C‐ME056 上津部田城跡 築城年代,築城者は定かではないが、発掘調査の結果からに戦国時代に築かれ、数十年使われていたことが分かった。現在は、洞門上部に道路建設によって消滅した主郭部分が史跡公園として整備されている。
C‐ME061 川方城跡 1496年、木造城主の木造政宗によって木造城支城として築かれ、弟の川方康親が城主として入った。小牧長久手の戦いのなかで落城。土塁は竹藪化し、郭跡も宅地や畑となっている。
C‐ME076 三行城跡 (御幸城跡) 元亀年間(1570~73年)に伊藤助重によって隠居用に築城された。1572年には老齢のため領地を上野の分部左京亮光嘉に譲った。五つの郭群として築かれていたが、現存するのは一つのみである。
C‐ME079 小原城跡 1541~1572年頃に近衛冷泉あるいは北畠房雄によって築城されたとされる。主郭は標高330m,比高70mに位置し約20m×10mの平坦地で帯曲輪をもつ。
C‐ME080 小原西城跡 小原城と同時期に近衛冷泉あるいは北畠房雄によって築城されたと思われる。山頂の削平地が主郭で、そこには「夢の丘 見晴らし台」という展望台が設けられている。
C‐ME081 北畠氏館詰城跡 北畠氏によって築かれた北畠氏館の詰城である。その奥は霧山城へと通じる。頂部の主郭が一段高く、東下に腰曲輪がある。西背後に伸びる尾根は幅広の堀切と通常の堀切によって遮断されている。
松阪市 C‐ME002 阿坂城跡 1335年、北畠親房が南勢に築いた城のうちの1つである。堅牢なる城との名に知られたが、1569年、木下藤吉郎による巧妙な策によって開城されそのまま廃城となった。藤吉郎は、このとき生涯唯一の戦傷を受けたとされる。城跡は大きく南郭(白米城)と北郭(椎之木城)からなる。
C‐ME004 大河内城跡 1415年、北畠満雅が築城し弟の北畠顕雅を入れた。永禄年間(1558~69年)、北畠具教は、織田信長の伊勢侵攻に対し織田信雄に北畠の家督を譲ことで和睦し城を退去した。1576年、信雄が拠点を田丸城に移したことで廃城となった。現在の大河内神社の境内が本丸、その西に西の丸、東下に馬場,納戸,二の丸を配する。
C‐ME014 松坂城跡 1588年、蒲生氏郷が松ヶ島城を廃しこの地に築城した。縄張りは梯郭式平山城で東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。1619年、古田重治の転封以降、南伊勢は紀州藩の藩領となって城代が置かれた。城地には石垣のみが残っている。
C‐ME057 天花寺城跡 平安時代の築城と考えられ、鎌倉時代には久我三郎が城主として挙げられる。織田信長の南伊勢侵攻に対しては、1571年に天花寺小次郎らが籠城したが討死し廃城となった。
C‐ME058 八田城跡 鎌倉時代に三浦盛時が相模国からこの地にきて築いたとされ、後に大和多氏と名を改めた。1576年に北畠家が滅亡すると、大和多氏は城を出て下之庄に住み土着し、再び三浦と改めたという。現在は公園として整備されている。
C‐ME059 高城跡 南北朝時代に北畠氏により築かれたものと考えられる。枳城とともに阿坂城の出城のひとつとされる。遺構は戦国期に加工が施されたものと思われる。
C‐ME060 枳城跡 南北朝時代に北畠氏により築かれたものと考えられる。高城とともに阿坂城の出城のひとつとされる。1569年、阿坂城が開城された際に運命をともにしたと考えられる。細長い主郭をもつ単郭の城である。
C‐ME062 釜生田城跡 築城年代,築城者も定かではないが、城主に牧野豊後守の名が残る。東に二の郭,西に主郭が並び、高土塁で区切られている。主郭の虎口は南東側にあって台地の端が二の郭とつながっている。
C‐ME063 森本城跡 木造俊重が多気城の支城として築いたとされる。代々森本飛騨守を名乗った。北畠氏が滅亡すると森本俊貞は隠棲して称念寺を建立し北畠一族を弔っている。その後、森本城跡地には神宮寺が移築された。
C‐ME064 滝之川城跡 妙光院殿の居城と伝えられ、北畠氏の支城として室町時代に築城されたと考えられる。主郭は山頂にあり、南端に土塁がある。主郭の東側には畝状竪堀が残る。
C‐ME065 岩内城跡 室町時代に大河内城の出城として築城されたとされる。戦国時代には岩内光安が城主であった。瑞厳寺の北側に聳える比高70mほどの山頂に築かれている。山頂の曲輪は主郭と帯郭である。
C‐ME066 白山城跡 1569年以前には存在していた北畠氏の家臣の城であった。ただ、織田軍は侵攻時、この城に軍勢を差し向けることなく真っすぐ大河内城へと向かったという。主郭,帯郭,堀切,竪堀などが残されている。
C‐ME067 岡ノ谷城跡 その位置からみて白山城とともに北からの侵攻に対し大河内城を守備するために北畠氏一族,家臣によって築城されたと考えられる。単郭の城で周囲には連続竪堀と横堀,堀切が設けられている。
C‐ME068 泉ヶ久保城跡 大河内城の出城的存在とみられ、西の脇谷城とともに大河内城の南西側の防衛線と考えられる。主郭とされる峰の山頂部は狭く、大きな窪みが存在する。かつては古墳があり盗掘穴だという。
C‐ME069 脇谷城跡 大河内城の出城的存在とみられ、東の泉ヶ久保城とともに大河内城の南西側の防衛線と考えられる。東西二郭で構成されているが、両郭ともさほど広くはないが、切岸,堀切,竪堀で防御性を高めている
C‐ME070 坂内城跡 1415年、北畠雅俊によって築かれ、坂内氏を称してこの地を治めた。しかし、1576年、三瀬の変で坂内具義が殺害され廃城となった。現在「天守(てんし)」と呼ばれる削平地に主郭跡と堀切が残る。
C‐ME071 松ヶ島城跡 1567年頃、北畠具教が織田信長の侵攻に備えて築いたのが始まりとされる。1580年、織田信雄が田丸城が焼失したため築城し松ヶ島城と称した。その後、蒲生氏郷が松坂城を築き廃城となった。
C‐ME072 神山城跡 1337年、潮田幹景により南朝の拠点のひとつとして築城された。1343年、北朝方の仁木義長らが加わった攻撃により落城し、仁木義長が入城した。神山一乗寺のすぐ裏の山に築かれている。
C‐ME077 矢下城跡 築城年代,築城者は定かではないが、北畠氏配下の城と考えられる。中村川と岩倉川に挟まれた舌状の先端にある。主郭はさほど大きくはないが、切岸の急斜面の下に帯曲輪をもち、竪堀,堀切が見られる。
C‐ME078 六呂木城跡 1583年、北畠具親の再興をかけて、波多瀬城の波多瀬実徳とその叔父・山副実有,六呂木実忠兄弟らが挙兵し織田信雄軍を六呂木城と鳥羽見峠で迎え撃ったが、六呂木城は落城した。現在、一帯は開墾され畑地となっている。
鳥羽市 C‐ME013 鳥羽城跡 1594年、九鬼嘉隆によって築城された。九鬼家のあと目まぐるしく城主が代わり、稲垣家8代で漸く定着した。1854年の地震により城内天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま1871年に破却された。遺構としては本丸跡と旧家老屋敷の石垣が残る。
度会郡 玉城町 C‐ME011 田丸城跡 1336(建武3/延元元)年、南朝方拠点として北畠親房,北畠顕信によって築かれたが、1342年に足利尊氏によって落城。室町時代には北畠顕晴が入った。その後、織田信雄,蒲生氏郷,田丸直昌,稲葉道通,久野宗成と城主が変わる。天守台や石垣,外堀,内堀,堀切,空堀などの遺構が残る
度会郡 度会町 C‐ME073 立岡城跡 戦国時代に築かれたものと推定される。山頂の主郭から南にかけて三段の曲輪がある。主郭の北背後に堀切、東側面に大きな三条の畝状竪堀群を見ることができる
C‐ME074 長原城跡 天文前半の頃(1530年代)、大崎玄蕃が北山の浅間山上に守閣(砦館)を構え、20年余居城した。玄蕃は善政を尽くし領民からは非常に慕われていたとされる。主郭には「大崎玄蕃守城跡」の石碑と社が祀られている。
C‐ME075 麻加江城跡 築城年代,築城者および歴史についても詳しいことは定かではない。室町時代後期の築城かといわれている。主郭は周囲を土塁が巡り、虎口は東端部にある。

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北陸(福井県・石川県・富山県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
福井市 C‐FU001 福井城跡 工事中
C‐FU005 一乗山城跡 工事中
敦賀市 C‐FU003 金ヶ崎城跡 工事中
C‐FU004 天筒山城跡 工事中
大野市 C‐FU002 越前大野城跡 工事中
坂井市 C‐FU006 丸岡城跡 1576年、柴田勝豊により築城され、1583年、この地が丹羽長秀の所領となると城主として青山宗勝が入る。その後、結城秀康家臣の今村盛次,本多成重が城主となり、1695年に有馬清純が入城して以降、明治維新まで続く。天守は国重文である。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
金沢市 C‐IK001 金沢城 工事中
七尾市 C‐IK002 七尾城跡 工事中
小松市 C‐IK003 小松城跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐TY001

近畿滋賀県京都府奈良県和歌山県大阪府兵庫県

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
彦根市 C‐SG008 佐和山城跡 鎌倉時代、佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。1591年に石田三成が入城した。関ヶ原の戦い後、徳川家康は小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。石田氏滅亡の後は井伊氏が入城したが、彦根城に井伊直継が移ったことで廃城となった。
C‐SG012 彦根城 1600年、佐和山城に入城した井伊直政は琵琶湖岸に居城を移すことを計画していたが1602年に死去。直政の遺志を継いだ家老・木俣守勝が築城を開始し、1622年に完成した。城主は井伊氏が明治まで続く。天守と附櫓及び多聞櫓は国宝。 国特別
C‐SG038 肥田城跡 大永年間に佐々木六角氏の命により高野瀬隆重によって築かれたとされる。1559年、高野瀬秀隆の代に浅井氏に通じたことから、六角定頼,義賢父子の攻撃を受けるが、浅井方が勝利し犬上,愛知の二郡は浅井氏の手に属することとなる。その後、信長の家臣蜂屋頼隆、長谷川秀一が入城したが、秀一が文禄の役で朝鮮にて病没したため、やがて廃城となった。
C‐SG041 日夏城跡 南北朝時代に佐々木六角氏の一族である日夏氏の詰め城と築城されたとされる。その後、浅井氏に従属したが、1573年の織田信長による小谷城総攻撃により、浅井一族ともに日夏氏も討死し日夏城も廃城となった。
長浜市 C‐SG004 小谷城跡 1523年頃に浅井亮政によって築かれたとするのが有力である。織田信長は信長を裏切った浅井長政を徐々に追い詰め1573年、長政を自刃させ浅井氏を滅ぼす。羽柴秀吉が長浜城を築城したことで廃城となった。小谷山から南北の尾根筋に築かれた壮大な山城である。
C‐SG010 虎御前山城 1572年、織田信長が小谷城攻略のため虎御前山の稜線上に砦を築いた。滝川一益,堀秀政,織田信長,羽柴秀吉,柴田勝家らの陣地が並ぶ。1573年8月28日の小谷城落城後、廃城となった。
C‐SG011 長浜城跡 羽柴秀吉が築城を開始し、1575年頃に完成,入城した。その後、堀秀政,柴田勝豊,山内一豊が入るが、1586年の天正地震により全壊。1615年の内藤氏を最後に廃城となる。模擬天守は歴史博物館となっている。
C‐SG048 大嶽城跡 1523年頃に浅井亮政が小谷城を築いたときの初期の本丸があった所ともいわれる。小谷山山頂を主郭とし、下方に平坦地とその外側に土塁を巡らせている。北側下には二重堀切、西側の郭下に大竪堀が2本延びる。
C‐SG049 中島城跡 浅井氏によって築かれ、1573年の織田信長による小谷城攻めでは浅井氏家臣の中島直親が立て籠ったと伝わる。主郭は南北二段で虎口から南の曲輪に入り左に折れて主郭へ至る。周囲は土塁で囲まれ北側は土塁を備えた横堀状の通路となっている。
C‐SG050 横山城跡 京極氏によって築かれたとされ、その後、六角氏と浅井氏との対立激化に伴い争奪戦が行なわれ、1517年に浅井亮政によって攻め取られ改修された。1570年、姉川の戦いでは柴田勝家,木下秀吉等によって攻略させた。秀吉は1573年に浅井氏が滅亡するまで守り通し、信長自身も本願寺攻め,小谷攻めに際して何度も本拠地として利用している。
C‐SG051 小室城跡 小堀政一(遠州)の遺領を継いだ小堀正之が、1648年に築いた陣屋である。1788年、田沼意次派の大名であった小堀政方のときに田沼派の粛正を図った松平定信によって改易となり廃城となった。現在は石碑などがあるのみで遺構は残されていない。
C‐SG052 宮部城跡 築城年代は定かではないが、宮部継潤が城を築いて浅井長政に仕えたとされる。1572年には羽柴秀吉の調略によって信長に降り、宮部城は虎御前山城と横山城との繋ぎの城として重要視された。宮部村は田中吉政の出生地という説もある。
C‐SG053 大井城跡 小野義教が当地に住んで大井兵庫頭と名乗り居城としたとされる。浅井氏が台頭してくると、大井氏は美濃国北方へ逃れて小野姓に復した。その後、浅井氏の家臣の鈴木三右衛門が城主となったが、織田信長の近江侵攻によって落城した。
C‐SG054 丁野山城跡 工事中
米原市 C‐SG005 柏原城跡 工事中

犬上郡
甲良町

C‐SG009 勝楽寺城跡 1368年、佐々木道誉が館と領地を守護するために高築豊後守に命じて築城した。浅井長政は、1563年の観音寺騒動に乗じて愛知川以北を浅井領とし、勝楽寺城も浅井氏の支配下となった。1568年、足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城した。
C‐SG040 尼子城跡 1347年頃、京極高久が甲良荘尼子郷を領有し勝楽寺城の支城として築城した。高久は尼子氏の始祖となった。嫡男詮久が跡を継いだ近江尼子氏は氏宗,宗光と続いたが、南北朝の戦乱で城は落城し滅亡した。さらには織田信長の近江侵攻により一族家臣たちは四散した。

犬上郡
豊郷町

C‐SG036 吉田城跡 鎌倉時代に佐々木厳秀を祖とする吉田氏によって築かれたとされる。1571年の宇曽川の戦いで織田信長の攻撃により跡形もなく焼き尽くされ、そのまま廃城になったと思われる。
C‐SG037 八町城跡 永正年間に赤田隆によって築かれたとされる。赤田氏は浅井氏に属したが、浅井氏の滅亡にともない衰退し一時期浪人となった。その後、1584年に豊臣秀吉に召し抱えられ五千石を領したという。
C‐SG039 高野瀬城跡 築城年代は定かではないが、高野瀬隆重によって築かれたとされる。当初は六角氏に従っが、1560年、高野瀬秀隆の代には浅井氏に寝返る。浅井氏が織田信長に滅ぼされると、柴田勝家の配下となり、1574年に勝家の越前一向一揆鎮圧に従軍した高野瀬秀隆,隆景父子が討死したことで高野瀬氏は滅亡した。廃城時期は不明。

愛知郡
愛荘町

C‐SG035 目賀田城跡 室町時代には近江国守護佐々木氏の重臣となり、その後は目賀田氏も分家して佐々木六角氏,京極氏,尼子氏に仕えた。1576年、織田信長が安土城築城にあたり当時の目賀田山を要請されたため、代替として目賀田貞政の所領地の光明寺野に目賀田城を新たに築いた。しかし、目賀田堅政は明知光秀に従って山崎の合戦に従軍したため、羽柴秀吉によって滅ぼされた。
東近江市 C‐SG016 鯰江城跡 鯰江郷の豪族鯰江氏が荘園時代に興福寺領の被官となってこの地を治めていた。室町時代には六角氏に属し、1568年に観音寺城が落城したため、鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢,義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に反抗したが、1573年、落城した。
C‐SG017 井元城跡 工事中
C‐SG022 布施山城跡 布施氏により室町時代に築城された。1563年、観音寺騒動では布施淡路守公雄が湖北の浅井長政と通じて、布施三河守とともに布施山城に籠城した。1568年、織田信長の近江侵攻の際、布施三河守は籠城し戦うが敗れ、布施山城は落城によって廃城となる。
C‐SG033 箕作山城跡 応仁の乱後、六角高頼に対抗するために幕府が送り込んだ佐々木正尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作山城の前身ともいわれている。1568年、織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、箕作山城も落城し六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れた。
C‐SG034 伊庭城跡 建久年間に伊庭高実によって築かれた。1502年、伊庭貞隆の時代には主家佐々木六角高頼に攻められるが、管領家細川氏の援助を受けて攻勢に転じる。その後、貞隆の子貞説の代になって没落した。

蒲生郡
日野町

C‐SG013

日野城跡

(中野城)

音羽城の支城砦として蒲生貞秀が築いた。1568年、織田信長による観音寺城攻めでは蒲生賢秀が籠城したが、人質として子の氏郷を出して信長に降った。賢秀は、本能寺の変の際には安土城で留守を預かっていたが、信長の妻女を急ぎ中野城に移した。
C‐SG025 音羽城跡 応仁・文明年間に蒲生貞秀によって築かれたとされる。1522年の蒲生家の家督争いでは、叔父の高郷がそれを不服として六角定頼の援けを得て音羽城を攻めた。籠城8ヶ月後、定頼の調停により両家分立とし、この時に音羽城は破却された。
近江八幡市 C‐SG001 安土城跡 1576年、織田信長が総普請奉行に丹羽長秀を据え築城を開始し、1579年5月に天主に信長が移り住んだ。本能寺の変後、明智軍が占拠したが何らかの原因で焼失。1585年に廃城された。天主は独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。 国特別
C‐SG002 八幡山城跡 1585年、豊臣秀次が安土城の隣地に築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。山頂部の山城と居館の二次元分離形態をとっている。1590年に秀次は清洲城へ移封。代わって京極高次が入城したが、1595年の秀次事件で廃城となった。
C‐SG006 観音寺城跡 1335年、六角氏頼が築いたとされるが定かではない。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。戦国時代、六角義賢,義治父子の頃に衰退し、1568年の織田信長,足利義昭上洛時には無血開城した。
C‐SG018 長光寺城跡 15世紀中期に佐々木政尭によって築かれたとされる。1570年、南近江に侵攻した織田信長が攻め落とし柴田勝家を配置した。信長が安土城を築城する際に長光寺山からも石を集めたとされているため、かなり破城されたと考えられる。
C‐SG032 北之庄城跡 築城時期は定かではないが、佐々木六角氏によって築かれたとされる。下段の曲輪には「七ツ池」の名称が付けられた窪みがある。東側の大手桝形虎口は、石積みを伴わない中世山城の虎口としては、規模も大きく残存状態も良好である。
野洲市 C‐SG019

永原城跡

(永原御殿)

室町時代中期に永原氏によって築かれた。1568年、織田信長の近江侵略によって永原氏は衰退するが、のちに信長に許しを得て復活している。永原城廃城後、家康は永原御殿を築き、徳川将軍上洛時の宿泊地として利用した。
C‐SG020 小堤城山城跡 15世紀後半に永原氏によって築かれたとされる。山頂部の曲輪群には石垣が用いられており、安土城以前に石垣が多用された山城の一つである。東尾根を東へ進んでいくと古城山と呼ばれる岩倉城へと至る。
C‐SG021 岩倉城跡 築城年代は定かではないが、馬淵氏の城とされる。小堤城山城とは尾根続きである。尾根に近い部分に一段高い削平地があり、その下に広い曲輪を設けている。その中央には「桜本池」と大永年間に造られた「桜本坊」の跡が残る。
守山市 C‐SG024 浮気城跡 築城年代は定かではないが、浮気時房によって築かれたとされる。現在は住吉神社の境内となっているが、近江大橋取付道側の北と西側の土塁は2~3mの高さで比較的よく残り、一部堀跡も残っている。
草津市 C‐SG023 青地城跡 鎌倉時代初期に青池忠綱によって築かれたとされる。永正年間には京を追われた細川澄元が青地城に匿われている。1573年、織田信長の上洛で六角氏が滅ばされると、青地氏も降伏し廃城となった。現在は志津小学校と小槻神社の敷地となっている。
甲賀市 C‐SG003 水口岡山城跡 1585年、中村一氏が甲賀郡の支配の拠点として古城山に築城した。関ヶ原の戦い後、池田長吉の預かりとなったが廃城となった。城の石垣は後に水口城の築城に部材として転用されている。主郭には東西両端に大型の高層建築物建ち総石垣であったとされる。
C‐SG014

水口城跡

(碧水城)

1634年、3代将軍徳川家光が京都上洛の際の宿館として築かせた。作事奉行は小堀遠州が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。この御殿が使われたのは1回のみである。本丸御殿は正徳年間に解体。明治維新を迎え水口城は廃城となった。
大津市 C‐SG015 膳所城跡 1601年、徳川家康は東海道の押さえとして大津城を廃し膳所崎に城を築かせた。湖沿岸に建造された城であるため、時間を経ると波による浸食に悩まされ続け、絶えず城の補修を余儀なくされ、藩の財政を逼迫させる一因となっていた。
C‐SG026 瀬田城跡 永享年間に山岡資広が瀬田に城を築いて移ったのが始まりとされる。1582年、信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落とした。その後は賎ヶ岳合戦の際に柴田勝家に通じたと疑われ出奔した。
C‐SG027 大津城跡 1586年、浅野長吉(後の長政)によって築かれた。その後、立て続けに城主が代わっている。1601年には廃城となり、新たに膳所城が築かれ、大津城の部材は膳所城と彦根城に転用された。発掘調査で大津城の石垣が発見されている。
C‐SG028 宇佐山城跡 1570年、織田信長に命じられた森可成によって築城された。浅井朝倉連合軍の攻城戦には持ちこたえた。1571年の比叡山焼き討ち後、明智光秀が坂本城を築城し宇佐山城は廃城となる。信長が安土城より以前に近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭である。
C‐SG029 坂本城跡 1571年、織田信長の命により京と比叡山の抑えとして明智光秀によって築城された。城郭の建物が湖水に接した水城形式の城であったと思われる。山崎の戦い後、焼失したが再建され、1586年、大津城を築城されたことで廃城となった。
C‐SG030 衣川城跡 1234年、山内義重が衣川を領して築城したのが始まりとされる。1526年に細川高国の奇襲によって落城した。琵琶湖に注ぐ天神川の南側にある丘陵に築かれており、現在は衣川台の団地内の小公園となっている。
C‐SG031 真野城跡 1518年の城主は真野信重であり、小谷城主浅井亮政に攻められ落城している。1570年には真野元貞が織田信長と対立したが再び落城した。昌法寺の背後にある墓地一帯が城跡といわれる。
C‐SG042 壺笠山城跡 工事中
高島市 C‐SG007 朽木城跡 工事中
C‐SG043 大溝城跡 1578年、織田信澄によって築かれた。現在の高島総合病院の周辺といわれる。遺構は本丸に残る天守台のみである。1603年に破却され、1619年に入封した分部光信は廃城となっていた大溝城の三の丸付近に大溝陣屋を構え、代々続いて明治に至る。
C‐SG044 伊黒城跡 室町時代に浅賀氏(あるいは浅賀氏以前の在地領主)によって築かれたと推測される。1573年、織田信長の攻勢に屈して信長に降ったが、同年中に浅井長政の攻撃を受けて攻め滅ぼされた。現在、土塁のついた曲輪のような地形がわずかに残っている。
C‐SG045

田中城跡

(上寺城)

鎌倉時代後期に高島七頭の一人である田中氏によって築かれたとされる。 標高244mの頂部から南東へ延びた尾根の先に主郭があり、そこから東側へ亘り城が築かれている。
C‐SG046 三重生城跡 川副筑前守によって天文年間に築かれたとされる。川副氏代々の居城であったが、1569年に織田軍の柴田勝家らに攻められて落城した。現在は、正法寺に一部墓地となった高さ2mほどの土塁が残っている。
C‐SG047 西山城跡 室町時代中期に朽木氏によって築かれ、戦国時代末期に改築されたとみられる。岩神館から朽木陣屋付近へ根古屋を移し、その背後の西山山頂に詰城として築いたものと考えられている。主郭の南北にそれぞれ削平地、北曲輪と南曲輪の遺構が残っている。
C‐SG055 打下城跡 工事中

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所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
京都市 C‐KT001 二条城 工事中
C‐KT002 淀城跡 工事中
C‐KT003 伏見城跡 豊臣秀吉が隠居後の住まいとして1592年に着工し1596年に完成するが、直後の慶長伏見地震で倒壊。北東の木幡山に再築するが、関ケ原の戦いの前哨戦で焼失する。戦後、徳川家康によって再建されたが、1623年に廃城となる。現在は模擬大手門と模擬天守が建つ。

相楽郡
笠置町

C‐KT004 笠置城跡 1331年、後醍醐天皇が側近とともに笠置山に入った。行在所を本丸とし、北下の削平地を二の丸と呼んでいる。9月28日夜、幕府側の攻撃で笠置山は陥落し、天皇や側近らは幕府側に捕えられた。1541年には木沢長政の持城となった。
木津川市 C‐KT007 木津城跡 在地領主の木津氏によって築かれたとされる。大和と山城を繋ぐ位置にあり、室町時代後半には戦乱に巻き込まれ、2回木津氏らが自焼した。単郭の城で山頂部に方形に近い曲輪があり周囲には土塁が巡る。現在は公園として整備されている。
亀岡市 C‐KT005 亀山城跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
奈良市 C‐NR005 多聞城跡 1560年、松永久秀によって大和支配と南都の拠点として築城された。西日本随一の豪華な城郭であり、有数の至宝である絵や茶道具も集められていた。織田信長の命により1577年に破壊された。城跡は奈良市立若草中学校になっている。
C‐NR009 柳生城跡 築城年,築城者は定かではないが、柳生氏によって南北朝時代に築かれたとされる。1544年に筒井順昭によって落城した。廃城は文禄時代(1592~96年)と推測される。郭と堀切が残されている。
C‐NR016 古市城跡 室町時代に古市氏によって築城されたと考えられる。当初は広い台地にあって堀を巡らせ、台地と西側の環濠集落が結合して惣構えを形成していた。現在は本丸跡とされる地点に奈良市立東市小学校が建ち、堀の一部が南側の溜め池として残っている。
C‐NR021 乙若城跡 南北朝時代に伊勢国司の北畠親房の命によって藤原義政が築いたと伝わる。その後、1570年代に入り織田信長が伊勢へ侵攻し北畠具教を攻めた頃に廃城となったとされる。主郭跡は城山公園となっている。
C‐NR022 興ヶ原城跡 興ヶ原氏が永享年間(1429~40年)にこの地に土着し築いたとされる。戦国時代には興ヶ原助豊,助秀が豊臣秀長に仕えた。助秀の妹は柳生宗矩の母である。一時浪人したが柳生家に仕えた。主郭北に堀切と土塁がある。
C‐NR023 柳生古城跡 1331年、後醍醐天皇が笠置寺へと逃れると、柳生永珍が天皇のもとに馳せ参じ糧道確保のために築いたとされる。比高60mほどの山稜に築かれ、堀切が巧みに使用されている。主郭北には土塁上に劔塚の碑が建っている。
C‐NR024 下狭川城跡 室町時代に狭川氏によって築かれた。狭川氏惣領家の本城である。中墓寺の南東に位置し、主郭は矩形に近く南を除く三方に空堀が巡らされている。副郭に「狭川家遺跡」の石碑が建っている。
C‐NR025 上狭川城跡 室町時代後期に狭川福岡氏によって築かれた。戦国時代末期に一時松永久秀に従ったが、後に山内一豊の家臣となった。主郭はほぼ長方形の単郭で全周に土塁を巡らし、南側の虎口は二重の外枡形のような折れ曲がった構造をもつ。
C‐NR026 下垣内城跡 工事中
C‐NR027 北村城跡 工事中
C‐NR028 谷城跡 築城年代は定かではないが、谷氏によって築かれた城である。若桜神社境内を主郭とし、西側と南側に土塁が盛られ、土塁の外側には堀が巡らされている。西側には堀切がみられる。
C‐NR029 椿尾上城跡 天文年間(1532〜55年)初めに筒井順昭によって筒井城の詰城として築かれたとされる。1580年、織田信長の大和一城令の命で、順慶は郡山城を居城としたため、廃城になったと考えられる。主郭は山頂北端にあり、主郭から西側へ伸びた尾根に曲輪を連なっている。
天理市 C‐NR031 豊田城跡 室町時代に興福寺大乗院方の衆徒である豊田氏が居城とした。筒井順盛や松永久秀に攻められ落城している。大きく三つ(主郭と副郭を分けると四つ)の曲輪から成り、横堀,竪堀が多用されている。
C‐NR032 龍王山城跡 1483年以前に築城されていた可能性がある。その後、十市遠忠が本格的な城郭に修築した。十市氏は最終的には松永氏と与し、1575年、松永氏とともに滅び、城は織田信長により破却された。北城が本城で南城が詰めの城と考えられている。
C‐NR033 楊本城跡 室町時代後期に楊本氏によって黒崎古墳に砦が築かれた。その後、楊本氏を破った十市氏の持城となった。1575年、松永久秀が楊本城を築いている。江戸時代には織田尚長が柳本藩主となり城址に柳本陣屋を築き藩庁とした。
C‐NR034 別所城跡 室町時代に別所氏によって築かれた。別所氏は興福寺大乗院衆徒で上総庄の給主職を与えられた有力土豪で、筒井氏に与していた。集落の中に堀,土塁跡が残されている。
C‐NR035 仁興城跡 工事中
C‐NR036 藤井城跡 工事中
桜井市 C‐NR011 安倍山城跡 1341年、南北朝の戦乱のなかで南朝方の戒重城を攻めるために北朝方の細川顕氏らが陣を構えた。また、1565年には松永久秀がここに布陣して鳥見山城の筒井順慶と戦っている。城跡には小規模な曲輪跡が残る。
C-NR037 三谷城跡 室町時代後期に在地豪族の三谷市太郎が長谷街道の南側の山頂に築いた城とされる。市太郎は弓の名人として知られる。城跡は「山野草の里」の東側に位置し、曲輪,土塁,空堀が残る。
C-NR038 高束城跡 898年、長谷寺に関係した藤原家賢が構築したのが始まりとされる。1564年には藤原順賢の代に松永久秀の攻撃を受け炎上落城し、順賢は討死したという。乗馬石と呼ばれる巨石があり、郭の南西に堀切が設けられている。東海自然歩道の途中にある。
C-NR039 外鎌城跡 南北朝時代に南朝方の武将である開住西阿が築城した六城の内のひとつ。1341年7月、北朝方幕府軍に攻め落とされた。山頂の主郭は四方を郭で囲む比較的単純な縄張りである。登山道途中に石垣跡が残っている。
C-NR040 赤尾城跡 1341年、南朝方の高階義岑と弟・西阿によって比高約50mの山稜先端部に築かれたが、その年の7月に北朝方に攻められ落城した。、1565年には松永久秀方の陣城としても使用されている。主郭南側に二重堀切が設けられるなど防御性の高い構造である。
橿原市 C‐NR012 五条野城跡 五条野氏の居城と考えられている。方形館城であったとされるが、現在は八咫烏神社の境内となっている。

高市郡
高取町

C‐NR003 高取城跡 1332年、越智邦澄によって築城されたのが始まりとされる。その後、一旦は廃城となるが、筒井順慶,本多利久により広壮な連郭式山城に整備された。1640年に植村家政が城主となって以降、明治維新まで続く。
C‐NR030 貝吹山城跡 南北朝時代に越智氏によって築かれた越智城の詰城とされる。1546年、筒井順昭によって攻められ城を奪われた。その後、1566年に奪回したが、松永久秀に攻められ落城した。主郭の北に一段、南に三段の曲輪を配する。

高市郡
明日香村

C‐NR004 平田城跡 中世の城跡と考えられるが、築城年,築城者や歴史については定かではない。飛鳥歴史公園内にあり、高松塚古墳に行く途中の展望台がある丘に築かれていた。
C‐NR007 大和雷城跡 築城時期や築城者は不明だが中世の城郭とみられる。丘の中央に主郭,南と東に一段下げた曲輪,空堀を挟んで西側に曲輪,更に西に一段下げた曲輪,北に空堀から続く曲輪が置かれていた。
C‐NR008 大和雷ギヲ城跡 雷丘の北200mほどに位置する小さな丘で築城跡が残る。
C‐NR013 野口植山城跡 明日香小学校の西側の台地に野口吹山城とともに集落の木戸口を防備するように築かれている。築城時期,築城者は不明である。
C‐NR014 野口吹山城跡 野口植山城の南西150mほどにあり、集落の木戸口を防備するように築かれている。築城時期,築城者は不明である。
C‐NR015 祝戸城跡 祝戸山山頂部に築かれた城であるが、築城時期,築城者は定かでない。地理的には吉野から峠越えで飛鳥へ入る街道を押さえる重要な城であったと考えられる。尾根筋に遊歩道が整備されている。
C‐NR017 大和奥山城跡 丘陵の西先端部を利用して築かれた城であり、築城時期,築城者は不明である。城跡の南側に飛鳥資料館がある。
C‐NR018 大和岡城跡 築城時期,築城者は不明である。岡寺に連なる丘陵の先端部に築かれた城で、主郭の三方を空堀で囲まれた縄張りとなっている。
大和郡山市 C‐NR001 郡山城跡 1162年、郡山衆が雁陣之城を築いたのが初見とされる。戦国時代には郡山辰巳,筒井順慶が城主となり、1585年には豊臣秀長が入り大規模な城郭に整備した。その後、増田長盛,筒井定慶,水野勝成らと続き、柳沢氏のとき明治維新となる。石垣や堀が現存している。
C‐NR006 筒井城跡 1429年に筒井順覚によって築かれた平城であり、周囲の堀は6世紀中頃で石垣を持たない城としては最大級と考えられている。織田信長の大和一国破城命令によって破却となった。

生駒郡
平群町

C‐NR002 信貴山城跡 1536年に木沢長政によって生駒山系の信貴山山上に築かれた。1560年11月に大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を軍事拠点とした。1577年8月、織田信長に謀反を起こした久秀は信貴山城に籠城した。10月、織田信忠らが包囲して攻めると、久秀は天主を自焼して自ら命を絶った。
C‐NR019 西宮城跡 室町時代に嶋氏によって築平時の居城として築かれたとされる。現在、城の主郭部は公園となっており城の遺構はまったくみられない。一時、松永久秀方の城となったが、1577年に織田信長に攻められたときに落城したようである。
C‐NR020 下垣内城跡 鎌倉時代に嶋氏によって築かれたと考えられる。東の主郭と西の副郭の二郭から成り、間に土塁の上から約8mの深さの堀切をもつ。現在、遺構は埋め立てられ、なだらかな丘陵になっている。

吉野郡
吉野町

C‐NR010 吉野城跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐WK001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
大阪市 C‐OS001 大坂城 工事中 特別
四条畷市 C‐OS002 飯盛山城跡 工事中
八尾市 C‐OS011 高安城跡 667年、大和朝廷により唐・新羅連合軍の来襲に備えて築かれた。来襲はなく701年8月には廃城となった。1978年に山中で礎石建物跡が発見されているが、遺構の詳細は不明である。

南河内郡
千早赤阪村

C‐OS003 下赤坂城跡
(赤阪城)
鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。俄造りの城であるため長期戦は不可能と考えた楠木正成は自ら城に火を放ち、金剛山に潜伏した。のちに奪回し再挙兵したが、上赤坂城,千早城に後退して抗戦を続けた。遺構はほとんど残っていない。
C‐OS004 上赤坂城跡
(楠木城)
鎌倉時代末に楠木正成によって築かれた。楠木軍はかなり善戦したが幕府軍に水の手を切られ、楠木正季は千早城へと逃れた。
C‐OS005 千早城跡 鎌倉時代末に楠木正成によって下赤坂城,上赤坂城の詰めの城として金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として築かれた。籠城の楠木軍は僅か1000人足らずに対し幕府軍は数10倍といわれたが、正成の奇策により長期戦となり、その間に六波羅探題,鎌倉幕府が滅亡した。
C‐OS006 猫路山城 工事中
C‐OS007 国見城跡 工事中
C‐OS008 赤土山城跡 1332年に楠木正成によって築かれた上赤坂城の支城砦のひとつで家臣の神宮寺正師が守備した。築城まもなく元弘の乱での鎌倉幕府遠征軍によって攻め落とされたとされる。

南河内郡
河南町

C‐OS009 河内城跡 築城時期,築城者は定かではない。現在は墓地となっており、遺構は確認できない。
C‐OS010 平石城跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
丹波篠山市 C‐HG001 篠山城跡 工事中
C‐HG002 八上城跡 工事中

中国(岡山県・広島県・鳥取県・島根県・山口県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐OY001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐HS001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐TT001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐SN001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐YG001

 

四国(徳島県・香川県・愛媛県・高知県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
徳島市 C‐TS001 徳島城跡 1385年に細川頼之が渭津城を築いたのが始まりとされるが、現在の徳島城は1585年に蜂須賀家政が阿波17万石を領して入部し築いたものである。標高61mの城山に築かれた山城とその周囲の平城からなる連郭式平山城である。
鳴戸市 C‐TS002 土佐泊城跡 戦国天文年間に名東郡黒田村から板野郡土佐泊に移住した森元村によって築かれた。
C‐TS003 撫養城跡 古くは小笠原氏の居城であったが、14代将軍足利義栄がこの城において最後を遂げており、足利将軍家とゆかりのある城である。戦国時代には三好氏,長宗我部氏の城となり、蜂須賀家政の領するところとなるち阿波九城の一つとして益田正忠が初代城主となった。
C‐TS004 木津城跡 戦国永禄年間は三好氏の武将である篠原自遁が守った。長宗我部元親による阿波侵攻では自遁は城を明け渡し淡路へと逃走し、元親は東条関之兵衛を城主として入れた。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったとみられる。羽柴秀吉の四国攻めで落城し、関之兵衛は脱出したが敗戦の責を問われて首をはねられた。

板野郡
藍住町

C‐TS005 勝瑞城跡 鎌倉時代から戦国時代まで、淡路国,讃岐国,阿波国の政治,経済,文化の中心拠点であった。細川氏9代,三好氏3代の約240年の歴史の舞台となった。築城年代は定かではないが、最も早くは承久の乱の後に阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたという説もある。

板野郡
上板町

C‐TS006 住吉城跡 1580年、山田陸大夫によって築かれたとされるが定かではない。山田氏は近江国山田に住んでいたが、六角氏が織田信長に敗れた後に三好氏を頼り、この地に城を築いて住んだとされる。現在は宅地や田畑で遺構は残されていない。
C‐TS007 板西城跡 近藤六親家が平安時代後期に築城したとされる。後に赤沢氏の居城となり、勝瑞城の西の守りを固める重要な城であったが、1582年の中富川の戦いで長宗我部元親の侵攻を受け、勝瑞城とともに落城した。
C‐TS008 瀬部城跡 築城年代は定かではないが、城主は瀬部喜右衛門で1582年の中富川の合戦で攻め込んでくる長宗我部軍と戦い討死したという。
C‐TS009 七条城跡 勝瑞城の西の守りを固める支城として七条氏によって築かれたとされる。最後の城主・七条兼仲は三好家の中でも剛勇無双の武将とうたわれ、先陣切って戦うことが多かったとされる。1582年の中富川の合戦で討死し七条城も勝瑞城と共に落城した 。現在、城跡は宮川内谷川の川底である。
阿波市 C‐TS010 西条城跡 南北朝時代に森春之によって築かれたとされるが定かではない。天文年間の城主は岡本美作守清宗で娘の小少将局は三好実休の正室となり三好長治,十河存保を産んでいる。1582年、長宗我部元親によって攻められ落城した。その後、蜂須賀家政が阿波九城の一つとして改修した。
吉野川市 C‐TS011 川島城跡 上桜城の戦いの戦功で川島兵衛之進が上桜城に代わって城を築いた。1579年、長宗我部元親が攻め寄せ、川島一族は備中まで逃亡した。1585年、阿波に蜂須賀家政が入封すると林能勝が城主となり徳島城の支城で阿波九城のひとつとされた。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
高松市 C‐KG001 高松城跡 1588年、生駒親正によって築城された。伊予国今治城,豊前国中津城と共に三大水城の一つに数えられる。高松城は天守台を持つ本丸があり、それを取り囲むように二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸を配していた。松平氏の時代にはさらに拡張された。
C‐KG003 屋嶋城跡 白村江の戦いで敗れたヤマト王権が、日本の防衛のために対馬~畿内に至る要衝に築いた防御施設の一つである。南嶺の外周4Kmの断崖の切れ目に城壁が築かれている。南の城門は朝鮮半島の城にみられる懸門構造である。
C‐KG004 由佐城跡 南北朝時代に由佐氏によって築かれたとされる。現在の「香南歴史民族郷土館」の辺りに築かれていた。
C‐KG005 宮尾城跡 香西氏の佐料城,勝賀城の支城として築かれ、初代香西資村の子孫・新居河内の居城とされる。長宗我部元親軍の来襲により戦火に遭っている。現在は楠尾神社境内となっており遺構を確認できない。
C‐KG006 百相城跡 築城年代,築城者は定かではないが、古くは河西氏が居住し、戦国時代には宗鹿氏の居館となっていた。現在は宅地や田畑となっており遺構は残っていない。
C‐KG007 十河城跡 南北朝時代から安土桃山時代まで約230年間十河氏の居城であった。春日川上流より南側の丘陵上に築城されていたが、大正初期の整地で城の遺構の大半が失われている。現在の称念寺が主郭跡とされる。
東かがわ市 C‐KG008 引田城跡

戦国永正年間には四宮右近が城主であった。矢野駿河守,仙石秀久,尾藤知宣と城主が変わり、
1587年には生駒親正が入ったが、讃岐国の東に偏りすぎていたため聖通寺城に移り、引田城はやがて廃城となった。

木田郡 C‐KG009 高岡城跡 南北朝時代に三木高長によって築かれたとされる。三木氏は田中城主も兼ねていたが、室町時代に雨滝城主の安富盛方に所領を奪われ没落したという。
さぬき市 C‐KG010 雨滝城跡 室町時代長禄年間に安富盛長によって雨滝山に築かれたとされる。安富氏は三好氏と誼を結び三好氏によって寒川氏が虎丸城を追われ昼寝城に退くと、虎丸城には安富盛定が移り、雨滝城には家臣の六車城主六車宗湛がはいった。その後、長宗我部元親の侵攻に遇い降伏落城した。
C‐KG011 六車城跡 戦国時代には六車宗湛が居城した。宗湛は、安富氏が雨滝城から虎丸城へ移った後に雨滝城へと移った。
C‐KG012 志度城跡 室町時代長禄年間に安富盛長によって雨滝城の出城として築かれたとされる。家臣の多田和泉に守らせたが、長宗我部元親によって攻められ落城した。
C‐KG013

茶臼山城跡
〔富田茶臼山古墳〕

室町時代に寒川長俊の子・寒川右馬允が、富田茶臼山古墳を利用して築いたとされる。
綾歌郡 C‐KG014

平山城跡

(聖通寺城)

室町時代応仁年間に奈良元安によって築かれた。1582年に長宗我部元親、1585年に仙石秀久,尾藤知宣が入るが、戸次川合戦の敗戦により両人とも失脚する。1587年年、生駒親正が讃岐に入封し当初の引田城から聖通寺城に本拠を移したが、翌年には高松城を築城し居を移したことで廃城となった。
丸亀市 C‐KG002 丸亀城 室町時代初期に奈良元安が聖通寺城の支城として築いたのがはじまりとされる。その後、讃岐一国の領主となった生駒親正が高松城の支城として築城に着手し、1602年にほぼ現在の城郭が完成した。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐EH001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
高知市 C‐KC001 高知城 前身は南北朝時代に築かれた大高坂山城とされる。1587年、長宗我部元親が豊臣秀吉の九州征伐従軍から帰国後に大高坂山に再び城を築いた。現在見られる城は、土佐藩初代藩主の山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成した。
南国市 C‐KC002 岡豊城跡 13~14世紀頃に長宗我部氏によって岡豊山に築かれたとされる。長宗我部国親は岡豊城を足掛かりに土佐の有力大名へと成長し、1585年には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の侵攻に降伏し土佐一国に押し込められた。1591年に新たに浦戸城を築いて移ることで岡豊城は廃城となった。石垣,曲輪,土塁,空堀,井戸などが残る。

 

九州・沖縄(福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
福岡市 C‐FK001 福岡城跡 工事中
朝倉市 C‐FK002 秋月城跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐SA001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐NS001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
中津市 C‐OT001 中津城跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐KM001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐MZ001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐KS001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
C‐OK001