新居城跡
あらいじょうあと (Arai Castle Ruins)
【C-AC422】探訪日:2021/7/18
愛知県尾張旭市城山町
【MAP】
〔駐車場所〕
別称を旭城という。1361(正平16/康安1)年、志段味城主であった水野又太郎良春が志段味城を一族に任せて南下し新居の地を開拓したとされ、その子孫の水野雅楽頭宗国が1460(寛正1)年頃に本格的な城を築いたといわれている(良春の時代は単なる居館か)。
新居城の東側では、南北朝時代から室町時代にかけて、三河から移ってきた今村城,本地城の松原氏や桑下城の長江氏,井田城の浅井氏が勢力争いを繰り広げ、西側では水野氏と大森城の尾関氏との水利を巡っての争いが絶えなかった。水野宗国は応仁の乱の頃に大森城を攻め落とし、尾関氏の領地を奪っている。
水野雅楽宗久は織田信長に仕えていたとされ、1560(永禄3)年頃までは水野氏は新居城を居城としていたと考えられる。
城は北西に長池、北東に山田池をひかえて、その間を南へ細長く伸びた丘陵の先端を利用した平山城で、城の東,西,南側の三方に深い沼の湿地がめぐり、北側は二条の土塁から造られた要害であった。本丸は城山の西斜面にあり弓なりの土塁が今も残り、本丸西側に二の丸があった。また、東側下にも土塁で囲まれた腰曲輪があったとされる。2016(平成28)年の調査では、堀は深さ約5m,幅約8mほどあったことが判明している。
現在は全体が公園化され、本丸跡西側,二の丸は大きく削られ、弓道場とテニスコートが造成されている。