所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
K‐HD001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
K‐AM001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
西磐井郡 平泉町 |
K‐IW001 | 源義経妻子墓所 | 1189年閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡により衣川館が襲撃され、源義経は持仏堂に入り22歳の郷御前と4歳の娘を殺害したのち自害した。 | |
K‐IW002 | 武蔵坊弁慶墓所 | 衣川の戦いで弁慶は、義経が自害する堂の入口に立って薙刀を振るい孤軍奮闘の末、敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命とされるが、弁慶の存在は確かなものではない。 | ||
K‐IW003 | 藤原基衡室墓所 | 観自在王院を築造した藤原基衡室の安倍宗任の娘の墓所である。観自在王院跡内の北にある。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
K‐AT001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
K‐YG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
仙台市 | K‐MG001 | 伊達政宗霊屋 (瑞鳳殿) |
初代仙台藩主伊達政宗の霊屋。1636年に没し遺言に従い、第2代藩主の忠宗が経ヶ峯の東部に建立した。 | 市 |
K‐MG002 | 伊達忠宗霊屋 (感仙殿) |
1658年に60歳で死去した2代藩主伊達忠宗の霊屋。没後、3代藩主伊達綱宗の命により霊屋の造営が行われ、約6年をかけて1664年に完成をみた。 | 市 | |
K‐MG003 | 伊達綱宗霊屋 (善応殿) |
1711年に72歳で死去した3代藩主伊達綱宗の霊屋。暗愚な藩主とされ、品川の大井屋敷に隠居していた。死後、遺体は仙台に運ばれ経ヶ峯に葬られ、1716年に善応殿が完成した。 | 市 | |
K‐MG004 | 妙雲界廟 | 仙台藩9代藩主伊達周宗,11代斉義,その妻である芝姫の墓で、3代綱宗までの荘厳な霊屋とは異なり質素な板石塔婆の墓である。 | 市 | |
K‐MG007 | 鹿児島県人七士墓所 | 西南の役で投降し宮城県の監獄署に収容された7名の薩摩軍兵士の墓。国事犯たちは自ら宮城県内の開発を願い出て仙台,塩釜等で開墾作業や築港工事に従事し、明治初期の宮城県の開発に貢献した。 | ||
宮城郡 |
K‐MG005 | 陽徳院霊屋 (寶華殿) |
1653年に86歳で死去した伊達政宗正室の愛姫の霊屋。政宗死去後は、仏門に入り落飾して陽徳院と称した。霊屋は1660年に孫の伊達綱宗によって造営された。 | |
K‐MG006 | 伊達五郎八姫霊屋 | 伊達政宗の娘の五郎八姫の霊屋。1661年に68歳で死去した。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
K‐FS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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東京都 | K‐TK001 | 将門塚 | 940年、平将門の首級は京都で獄門にかけられたが、三日後に持ち去られて武蔵国豊島郡芝崎の神田明神の近くに葬られた。伝承では、故郷恋しさに獄門を抜け出し東方へ飛び去り、この地に落ちて埋葬されたという。 | 都 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
鎌倉市 | K‐KN001 | 源 頼朝墓所 | 1198年12月27日、源頼朝は相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かではなく謎に包まれている。1199年1月13日に53歳で亡くなり大倉法華堂(現・白旗神社)に葬むられた。 | |
K‐KN002 | 大江広元墓所 | 1225年6月10日に亡くなったが、史料により没年齢が異なり享年78歳とも83歳ともいわれる。大江広元の出自についても諸説あり詳細は不明。当初は中原姓を称し、大江姓に改めたのは晩年の1216年に陸奥守に任官した以後のことである。 | ||
K‐KN003 | 毛利季光墓所 | 玉垣に囲まれた3っの墓の向かって左のやぐらが毛利季光の墓である。1221年の承久の乱では、北条泰時に従っていくつかの戦功をあげたが、1247年の宝治合戦では北条氏と対立した三浦氏方に加担し敗北。鎌倉法華堂で息子らと共に自刃した。 | ||
K‐KN004 | 島津忠久墓所 | 玉垣に囲まれた3っの墓の向かって右のやぐらが島津忠久の墓である。1227年6月18日、脚気と赤痢により死去したとされる。墓は、島津重豪により江戸時代後期に源頼朝の墓と共に建立された。 | ||
K‐KN005 | 北条義時墓所 | 工事中 | ||
K‐KN006 | 和田塚 | 1213年に起こった北条義時と和田義盛による武力衝突(和田合戦)に敗れた和田一族が埋葬された地とされる。1895年、六地蔵から由比ガ浜への新道をつくろうとして塚の一部を崩したところ、おびただしい人骨がでてきた。 | ||
K‐KN007 | 十一人塚 | 13335月19日、鎌倉へと攻め寄せた新田義貞軍のうち極楽寺方面の大館宗氏は鎌倉方の本間山城左衛門らの猛反撃に遭う。総大将の大館宗氏以下11人は杭瀬川で討死したといわれ、十一人塚は彼らの遺体を埋葬し十一面観音像が建てて鎮魂した所という。 | ||
K‐KN008 | 上杉憲方墓所 | 七層塔が1394年10月24日に享年60で亡くなった上杉憲方の墓、五層塔が夫人の墓と伝わる。また、憲方自身が建立した明月院にも彼の墓がある。 | ||
K‐KN009 |
北条政子墓所 |
北条政子が創建した寿福寺にあるやぐらの墓所(五輪塔)である。1225年7月11日、波乱に満ちた69年の生涯を閉じた。源頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台と呼ばれた。 | ||
K‐KN010 |
源 実朝墓所 |
寿福寺にある源頼朝の次男・源実朝のやぐらの墓所(五輪塔)である。12歳で征夷大将軍に就いたが、1219(建保7)年1月27日、鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。享年28(満26歳)。 | ||
K‐KN011 |
一幡之君袖塚 |
1203年9月2日、比企能員が北条時政邸で誅殺され、北条義時軍が小御所(現・妙本寺)へ襲来する。比企側は抵抗を続けたが、やがて一幡の前で自決し、一幡も炎の中で死んだ。翌日、焼け焦げた小袖が見つかり一幡のものであるとして袖塚が建てられた。 | ||
K‐KN012 |
北条時宗墓所 |
北条時宗は円覚寺の塔頭である佛日庵に葬られている。堂の下に遺骨を納めた石櫃があると伝えられる。なお、時宗とともに9代執権・貞時と14代高時も合葬されている。死因は結核とも心臓病ともいわれている。 | ||
K‐KN013 |
北条時頼墓所 |
明月院の門を入って左手の廟所にある宝篋印塔が北条時頼の墓とされる。出家から7年後の1263年11月22日に37歳で没した。武道に長け、仁義を施して民を憐れみ、天道の理にかない人望があったとされる。 | ||
K‐KN014 |
足利貞氏墓所 |
足利尊氏や足利高義,足利直義の父。1331年9月5日、59歳で死去。高氏(尊氏)が1333年に北条氏の鎌倉幕府に反旗を翻して滅ぼすよりわずか2年前の死去であった。 | ||
K‐KN015 |
三浦義明墓所 |
来迎寺本堂右手にある三浦義明とその孫の多々良重春の墓所である。また、近くに義明の家来衆の墓も並ぶ。源頼朝挙兵に加担し、のちに源頼朝は三浦義明の霊を弔うために能蔵寺(のちの来迎寺)を建立した。 | ||
K‐KN016 |
比企一族墓所 |
1203年9月2日、比企能員が北条時政邸で誅殺され、北条義時を大将とする軍勢が小御所へ襲来する。比企側は決死の抵抗を続けたが、畠山重忠の新手の軍に攻め立てたため、ついに力尽き、館に火を放ち、一族は嫡子一幡の前で自決し果てた。比企一族墓所は妙本寺境内の祖師堂横にある。 | ||
K‐KN017 | 三浦泰村一族墓所 | 1247年に勃発した北条時頼,安達景盛と三浦泰村の勢力争いである宝治合戦において、敗れた三浦泰村が三浦一族など500余名と共に源頼朝の墓所である法華堂で自害した。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐ST001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐CB001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐IR001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐TG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐GM001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐YN001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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飯田市 | K‐NN001 | 馬背塚古墳 | 飯田古墳群の一つで全長約46mの前方後円墳である。前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室があるのが特徴。後円部石室が6世紀代、前方部石室が6世紀末~7世紀に造られたと推定される。 | 国 |
K‐NN002 | 塚原二子塚古墳 | 飯田古墳群の一つで全長約73mの二段構築の前方後円墳である。墳丘の葺石や墳丘周りの二重の周濠が確認されている。また、多くの埴輪が出土しており、5世紀末の築造と推定される。 | 国 | |
K‐NN003 | 鏡塚古墳 | 飯田古墳群の一つで全長約45m,後円部高さ2.5mの帆立貝式古墳。かつて鏡が出土したという。5世紀後半の築造とされる。 | 国 | |
K‐NN004 | 鎧塚古墳 | 飯田古墳群の一つで全長45m,後円部径35m,高さ3.8m,前方部幅20mの帆立貝形古墳。名称が示す短甲の他にも四獣鏡,鉄刀,馬鐸が出土したという。築造が5世紀後半と考えられている。 | 国 | |
K‐NN005 | 大塚古墳 | 飯田古墳群の一つで全長約53mの前方後円墳であり、古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される。後円部の埋葬施設は竪穴式石室とみられている。現在は後円部墳丘上は墓地になっている。 | 国 | |
K‐NN006 | 水佐代獅子塚古墳 | 飯田古墳群の一つで全長約55mの前方後円墳とみられる。墳丘はかなり改変されている。後円部で円筒埴輪が採取されており、5世紀後半の築造と推定されている。 | 国 | |
K‐NN007 | 姫塚古墳 | 飯田古墳群の一つで全長約40mの前方後円墳。後円部に片袖式の横穴式石室がほぼ南向きに開口しており、内部壁面に赤色顔料が残る。6世紀前半の築造と推定される。 | 国 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
K‐NG001 |
西部地方 | 浜松市・湖西市・磐田市・森町・袋井市・掛川市・菊川市・御前崎市 |
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中部地方 | 静岡市・牧之原市・島田市・藤枝市・榛原郡吉田町・焼津市・榛原郡川根本町 |
東部地方 | 富士市・富士宮市・沼津市・裾野市・御殿場市・駿東郡長泉町・駿東郡清水町・駿東郡小山町 |
伊豆地方 | 三島市・田方郡函南町・熱海市・伊豆の国市・伊豆市・伊東市・賀茂郡西伊豆町・賀茂郡東伊豆町・賀茂郡松崎町・賀茂郡河津町・下田市・賀茂郡南伊豆町 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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浜松市 | K‐SZ001 | 宗良親王墓所 | 宗良親王は、建武の新政が崩壊し南北朝の対立が本格化すると南朝方として活躍をするようになる。1338年、陸奥国府へ渡ろうとするが座礁により遠江国に漂着し井伊道政のもとに身を寄せた。終焉場所については諸説あるが、明治政府は井伊谷宮の墳墓を宗良親王の陵墓と定めた。 | |
K‐SZ002 |
井伊家歴代墓所 |
龍潭寺北西に氏祖の井伊共保から24代井伊直政までが眠る。正面奥に1093年に84歳で亡くなった井伊共保と1560年に桶狭間の戦いで戦死した井伊直盛の墓があり、その左右に歴代の当主、または当主の室の墓が並ぶ。井伊直政は、関ケ原の戦いでの鉄砲傷がもとで1602年に死去し、彦根で火葬されたのち龍潭寺に葬られた。 | ||
K‐SZ003 |
井伊谷三人衆墓所 |
1568年末の徳川家康の遠州攻めで今川氏真から徳川方へ離反した近藤康用,菅沼忠久,鈴木重時を井伊谷三人衆という。近藤康用は、1588年に閉居先の井伊谷で死去。菅沼忠久は、1582年に死去とあり、鈴木重時は、1569年、家康の下命を受けた堀江城攻撃の際に城方の攻撃を受け命を落とした。 | ||
K‐SZ004 |
新野親矩墓所 |
新野親矩は遠江国新野新城主。1562年、井伊直親が横死すると、今川氏真は直親の嫡子虎松(のちの井伊直政)殺害も命じたが、親矩は氏真に命乞いをして直親の未亡人と虎松を保護し、井伊氏の最大の危機を救った。1563年からの遠州錯乱の際には今川方として戦い、引馬城攻めで討死にした。 | ||
K‐SZ005 |
〔西来院〕 |
築山御前は復権を果たすために武田勝頼に内通したとされ、徳姫から知らせを受けた信長は家康に築山御前と信康の断罪を要求した。1579年、家康の命で築山殿は佐鳴湖岸小藪村で野中重政と岡本時仲によって殺害されたという[享年38]。西来院境内にある月窟廟が築山御前の墓所である。 | ||
K‐SZ006 |
松平多世姫墓所 |
多世(多代)姫は浜松藩主・松平信祝の娘で松浦有信の正室となった。1731年1月8日死去し、宗源院内に葬られた。 | ||
K‐SZ007 |
成瀬正義墓所 |
1572年12月22日、三方ヶ原の戦いで旗奉行として家康本陣を守り武田信玄軍と戦い奮戦したが、家康の身代わりとして討ち死にした。成瀬正義が戦死した地は成瀬谷と呼ばれている。墓所は宗源院。正義の墓の横には、旗手として正義とともに戦死した外山正重の墓が並んでいる。 | ||
K‐SZ017 |
金指近藤家墓所 |
初山宝林寺の東側に近藤貞用をはじめとする金指近藤家の墓所がある。貞用は遠州五近藤の本家、金指近藤家2代目当主で、後に宝林寺を建立した。この地の産業や文化の向上に努めた貞用は当山に葬られた。 | ||
K‐SZ018 | 井伊直親墓所 | 1563年、井伊直親は小野道好の讒言により、主君・今川氏真から松平元康との内通の疑いを受け、陳謝のために駿府へ向かう道中に朝比奈泰朝の襲撃により殺害された[享年27]。遺骸はこの地に運ばれ都田河畔で火葬された。1851年、井伊直弼が墓参に訪れた際に1対の灯篭を寄進している。 | ||
K‐SZ019 | 陣座ヶ谷古墳 | 全長約55m,後円部径約42m,前方部幅約20mの前方後円墳で古墳時代中期5世紀後半の築造と考えられる。変形獣文鏡や刀,円筒埴輪の破片が出土したとされる。被葬者は定かではないが、都田川流域を治めた豪族ではないかと推測される。 | 県 | |
K‐SZ022 |
〔清瀧寺〕 |
1579年、徳川家康は織田信長から、武田氏への内通の疑いをかけられた松平信康と築山殿の処断を求められた。家康は二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた[享年21]。信康の胴は小松原長安院(のちの清瀧寺)に葬られ、首は岡崎の若宮八幡宮に葬られた。 | ||
K‐SZ023 |
方神塚 |
奈良時代から室町時代の墓地で、光明寺に関係するものと考えられる。数基の塚を中心に集石墓や石組みが多数見られる。791年、この地で死去した楯部真躬もここに葬られたとされる。 | ||
K‐SZ025 | 光明山古墳 | 墳丘の形状と埴輪の特徴から5世紀中頃に築造された前方後円墳とされる。前方部を南方に向けた2段築成で墳長83mの静岡県内では最大規模の古墳となる。 | 国 | |
K‐SZ026 | 井平氏墓所 | 殿村居館跡近くにある井平直種夫婦,子の弥三郎の墓所である。仏坂の戦いで井平直成が戦死後、井伊家からの直種が井平氏を継いだ。弥三郎は1590年に小田原攻めで討死し井平氏は断絶した。 | ||
K‐SZ027 | ふろんぼ様 (井平直成墓所) |
1572年10月22日の仏坂の戦いで戦死した井平城主・井平直成や柿本城主・鈴木重好を補佐していた鈴木権蔵重俊ら武将たちの墓所である。古来から「ふろんぼ様」と呼ばれている。 | ||
K‐SZ028 | 井伊共保墓所 | 1093年8月15日に84歳で没した遠江国司・井伊共保の墓所とされる。なお、墓所は龍潭寺にもある(井伊家歴代墓所)。 | ||
K‐SZ029 | 渋川井伊氏一族墓所 | 江戸時代の末期、井伊氏一族の居館跡に井伊直之(惟直),直貞,直秀,直幸,直親など井伊氏歴代8基の墓を移したとされる。併せて当地にボダイジュを移植した。 | ||
K‐SZ030 | 新ふろんぼ様 | 1572年10月22日の仏坂の戦いで戦死した武将たちの墓所である。古来から知られる「ふろんぼ様」に加え、2005年2月に旧鳳来寺街道調査の際に新たに発見された。4ヶ所が確認されている。 | ||
K‐SZ031 | 小野但馬守政次供養塔 | 1569年4月7日、井伊谷城東方の井伊谷川付近にある井伊家の仕置き場とされる蟹淵にて獄門により処刑された小野但馬守政次の供養塔と伝わる石塔群である。 | ||
K‐SZ032 | 山村修理墓所 | 1569年3月27日、徳川家康軍による堀川城攻めに敗れ、本坂道の葭本で自害した山村修理の墓所である。 | ||
K‐SZ033 | 釣西山古墳 | 西山古墳群のうち残された1基で、直径14.5m,高さ4.5mの円墳である。横穴式石室を持つ。出土物はすべて散逸している。7世紀の築造と考えられている。古墳はみかん畑の奥にある。 | 町 | |
K‐SZ034 |
新田友作墓所 |
1606年、呉石の塔ノ下(気賀)で処刑された堀川城主だった新田友作の墓所である。異説もあるが、1569年2月に徳川方への寝返りを主張したが受け入れられず、金地院に逃げ込んで出家したという。 | ||
K‐SZ035 | 北岡大塚古墳 | 井伊谷の東側丘陵上に築造された墳丘長49.5mの前方後方墳である。埋葬施設は未調査のため明らかでない。出土品から4世紀中葉頃築造のこの地方最初の首長墓と推定されている。 | 市 | |
K‐SZ036 | 北岡2号墳 | 井伊谷の東側丘陵上の南斜面に築造された直径約5.7mの円墳である。南に開口した両袖式横穴式石室を持つが、石室が露出している。築造時期は6世紀末期~7世紀初頭と推定される。 | 市 | |
K‐SZ037 | 谷津古墳 | 井伊谷川を丘陵先端に築造された直径36m,高さ4.5mの円墳である。井伊谷古墳群のなかで最後の首長墓といわれ、築造時期は5世紀頃とされる。私有地である。 | ||
K‐SZ038 | 馬場平1号墳 | 井伊谷古墳群の中では北岡大塚古墳に次ぐ最古の前方後円墳である。後円部頂中央に木棺を収める粘土槨が見つかり、多くの鏡類,玉類,銅鏃など豊富な副葬品も出土した。築造時期は5世紀初とされる。 | 市 | |
磐田市 | K‐SZ020 | 兜山古墳 | 直径約80m,高さ約8mの静岡県内最大の円墳で、全国でも5番目に入るほどの大きさである。墳丘は2段に造られており、その姿が兜を伏せた状態に似ていることからその名がついたらしい。玉類や三角縁神獣鏡などが発見され、5世紀前半に築造とされる。 | |
K‐SZ015 | 新豊院山古墳群 | 弥生時代中期から古墳時代前期にわたる墳墓で構成された古墳群で、ここには2基の前方後円墳(推定)と台状墓1基が確認されている。2号墳は後円部に竪穴式石室があり、石室内から銅鏃,鉄剣,槍先,直刀,舶載三角縁神獣鏡が出土している。この地方を治めた首長の墓と考えられている。 | 国 | |
K‐SZ016 | 銚子塚古墳・ 小銚子塚古墳 |
銚子塚古墳は全長108mと県下3番目の大きさをもつ前方後円墳で柄鏡式の前方部をもつ。小銚子塚古墳は県下に5例しかない前方後方墳である。4世紀中期の築造と考えられ、印岐美命の墳墓とする見方もある。 | 国 | |
周智郡 森町 |
K‐SZ014 | 山内道美,久通,通泰墓所 | 飯田城主で崇信寺の開基でもある山内道美,2代の山内久通および3代・山内通泰の墓所である。崇信寺の墓地内に小さな五輪塔が立つ。 | 町 |
K‐SZ024 |
武藤氏一族墓所 |
武藤頼高が1180年に遠江守安田義定の代官として当地に移り住んで以降、戦国時代の武藤氏定まで地方豪族としてこの地で代官職を務めた武藤氏一族の墓所である。1967年の香勝寺本堂再建の際に須弥壇真下から宝篋印塔が見つかった。 | 町 | |
袋井市 | K‐SZ021 | 笹田源吾墓所 | 1578年、当寺武田方の城であった高天神城から偵察に出てこの地で当地の人々によって素性を見破られ、捕縛されて討ち取られた笹田(篠田)源吾の墓とされる。 | |
K‐SZ048 |
源朝長墓所 |
1160年12月29日、平治の乱に敗れ、父・源義朝ら一行と京から東国へ向かう途中、美濃国青墓にて死亡した源朝長の墓所である。のちに弟の源頼朝によって積雲院が建てられた。 | ||
K‐SZ049 |
橘逸勢供養塔 |
842年、承和の変で罪に問われ、伊豆への護送途中に病没した「日本三筆」の一人・橘逸勢の供養塔である。父・逸勢の後を追ってきた娘が亡き父をこの地に葬り、墓前に庵を結んだという。のちに逸勢の冤罪が認められている。 | ||
K‐SZ050 |
井伊直勝墓所 |
1662年7月11日、掛川城にて病死した井伊直勝の墓所である。享年73。可睡斎の境内にある。 | ||
掛川市 | K‐SZ012 | 龍華院大猷院霊屋 | 1656年、掛川藩主・北条氏重が幕府に御家存続を願い出て徳川3代・家光の霊牌を祀るために建てた霊廟である。御家存続は叶わなかったが、以降、歴代の掛川城主により庇護された。宝型造りの霊屋である。 | |
K‐SZ013 |
大須賀康高,忠政墓所 |
撰要寺にある横須賀城を築いた大須賀康高(1589年6月23日没)とその養子で初代横須賀城主となった大須賀忠政(1607年9月11日没)の墓所である。 | 県 | |
K‐SZ039 | 原殿五輪塔 | 鎌倉時代から室町時代にかけて当地の国人領主として君臨した原氏の五輪塔である。伊豆半島から運ばれてきた凝灰岩で造られている。 | ||
K‐SZ040 | 春林院古墳 | 和田岡古墳群に属し、春林院の北に位置する直径30m,高さ5mの円墳である。墳丘は二段造成で埋葬施設は粘土槨が確認された。5世紀前半の築造と推定される。 | 国 | |
K‐SZ041 | 吉岡大塚古墳 | 和田岡古墳群に属する全長54.6mの帆立貝式に近い前方後円墳である。埋葬施設は木棺直葬あるいは粘土槨、出土遺物から5世紀中頃の築造と考えられる。復元工事が行われ一般公開されている。 | 国 | |
K‐SZ042 | 各和金塚古墳 | 和田岡古墳群に属し、全長66.4mと古墳群の中で最大の前方後円墳である。後円部に対し前方部が短いのが特徴。埋葬施設は竪穴式石室で武器,武具,工具などが出土している。5世紀前半の築造と推測される。 | 国 | |
K‐SZ043 | 瓢塚古墳 | 和田岡古墳群に属する全長63mの前方部を南南西に向ける前方後円墳である。埋葬施設として粘土槨が発見され、捩文鏡1,四獣形鏡1などが出土した。5世紀前半の築造と推測される。 | 国 | |
K‐SZ044 | 行人塚古墳 | 和田岡古墳群に属する前方部を西南西に向けた全長43.7mの前方後円墳である。ただ、前方部は平坦に削られている。埋葬施設は不明。古墳時代中期の築造と考えられている。 | 国 | |
K‐SZ045 | 東登口古墳群 | 原野谷川の河岸段丘縁辺に分布する円墳と方墳の計6基から成る古墳群である。台地の東淵に連続的に並ぶ。築造は古墳時代中期の5世紀頃とされるが、そのほかは不明。 | 市 | |
K‐SZ046 | 平塚古墳 | 直径約30m,高さ5mの円墳とされてきたが、一辺20~25mの方墳の可能性もある。埋葬施設は横穴式石室で、2基の石棺が納められていた。6世紀後半から末頃の築造と推測される。 | 市 | |
K‐SZ047 | 戸塚忠春供養塔 | 1554年、遠江国上西郷構江の住人で西郷十八士の一人とされた戸塚忠春の墓,供養塔である。忠春は、徳川家康の側室・西郷局の父である。姪の於国の墓と並ぶ。 | ||
K‐SZ051 | 宇洞ヶ谷横穴墳 | 1964年、造成工事中に発見された6世紀後半の横穴墳である。調査後に消滅した。横穴に置かれた刳り抜き式石棺からは多くの副葬品が出土し県指定文化財として保存されている。 | ||
K‐SZ052 |
小笠原氏清墓所 |
1569年6月、享年41で病死した馬伏塚城3代目城主の小笠原氏清(氏興)の墓所である。馬伏塚城跡の了教寺にある。 | ||
K‐SZ053 |
本多康重,康紀,忠利墓所 |
1645年、横須賀藩主へと転封になった本多利長が、一族で岡崎藩主であった本多康重,康紀,忠利の墓石を岡崎から運び、撰要寺に営んだ。撰要寺にはこのほか計45基の墓塔群が県指定史跡に指定されている。 | 県 | |
K‐SZ054 | 岡部元信討死碑 板倉定重墓碑 |
1581年3月22日の高天神城陥落の際に先頭を切って城から出撃し戦死した城将・岡部元信と、徳川方の大久保忠教の配下として戦い戦死した板倉定重の墓碑である。 | ||
K‐SZ055 | 千人塚 | 1581年3月の高天神城陥落の際に戦死した人々を埋葬した塚である。高天神城の東、下小笠川沿いにある。 | ||
菊川市 | K‐SZ011 | 松井信薫墓所 | 堤城を築き、その後、二俣城主となり1528年に二俣にて病死した松井信薫の墓である。存命中に天竜院を創建し同寺に埋葬されており、ここは分骨した墓もしくは供養塔と考えられる。 | |
島田市 | K‐SZ008 |
今川範氏墓所 |
慶寿寺にある駿河今川氏の第2代当主で1365(正平20/貞治4)年4月に死去した今川範氏の墓所である。享年50。 | |
K‐SZ009 |
大野九郎兵衛墓所 |
播磨国赤穂藩浅野家の末席家老であった大野九郎兵衛の墓とされる。詳細は不明。 | ||
御前崎市 | K‐SZ010 |
新野親矩墓所 |
舟ケ谷城主で今川氏真にのちの井伊直政の命乞いをして井伊氏の歴史で最大の危機を救った新野親矩の墓所で、左馬武神社として祀られている。 |
尾張地方 | 名古屋市・一宮市・稲沢市・津島市・愛西市・弥富市・江南市・岩倉市・北名古屋市・清須市・あま市・海部郡大治町・海部郡蟹江町・海部郡飛島村・丹羽郡大口町・丹羽郡扶桑町・犬山市・小牧市・西春日井郡豊山町・春日井市・瀬戸市・尾張旭市・長久手市・日進市・愛知郡東郷町・豊明市 |
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知多地方 | 東海市・大府市・知多市・知多郡阿久比町・知多郡東浦町・半田市・常滑市・知多郡武豊町・知多郡美浜町・知多郡南知多町 |
西三河地方 | みよし市・刈谷市・知立市・高浜市・碧南市・安城市・西尾市・豊田市・岡崎市・額田郡幸田町 |
東三河地方 | 蒲郡市・豊川市・豊橋市・田原市・新城市・北設楽郡設楽町・北設楽郡東栄町・北設楽郡豊根村 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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名古屋市 | K‐AC003 | 八幡山古墳 | 5世紀中頃に築造された東海地方最大級の円墳である。直径82m,高さ10m、周濠の幅は平均10mである。八幡神社の祠が頭頂部にあったために八幡山と呼ばれる。伝聞によれば形象埴輪,朝顔形円筒埴輪が出土したとされるが、戦災で失われたという。 | 国 |
K‐AC008 |
織田信秀墓所 |
織田信秀は1552年に死去。享年42。葬儀は萬松寺で僧侶300人を参集させ壮大に行われたという。信秀墓所は桃巌寺にもある。 | ||
K‐AC057 | 断夫山古墳 | 愛知県では最大規模の大型前方後円墳で、6世紀前半頃の築造と推定される。当時尾張地方に大きな勢力をもった尾張氏の首長墓に比定される。 | 国 | |
K‐AC058 | 白鳥古墳 | 6世紀初頭に築造された前方後円墳で尾張氏の首長墓と考えられている。熱田神宮社伝では、日本武尊の陵とし断夫山古墳を日本武尊妃の宮簀媛の墓として毎年5月に御陵墓祭を行なっている。 | 県 | |
K‐AC060 |
前田與十郎長定墓所 |
前田城跡の速念寺にある前田長定の墓である。小牧長久手合戦時、織田信雄方であった長定は羽柴秀吉方の滝川一益の誘いを受けて秀吉方に寝返ってしまい、家康の命により妻子共々討ち取られたと言われている。 | ||
K‐AC050 |
石黒重行,重成墓所 |
越中国から如意へ入って如意城を築き1437年に88歳で亡くなった石黒重行と、その8代目で瑞應寺を中興し小牧長久手の戦いで武功を挙げ1616年に78歳で亡くなった石黒重成の墓所である。 | ||
K‐AC051 | 塙宗悦墓所 | 1629年に亡くなった官医で名医とされた塙安友こと、塙宗悦の墓所である。安友は武士であったが、最後は江戸で塙宗悦として医学の道へと進んだ。 | ||
K‐AC086 | 大久手3号墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大久手古墳群を構成する、群内で唯一の方墳である。1辺が約14mで墳丘の周りには溝が巡らされていた。古墳時代中期後半の5世紀後半の築造と推定されている。 | 国 | |
K-AC087 | 大久手4号墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大久手古墳群を構成する古墳の1つとされるが、墳形は不明で古墳あるいは江戸時代の盛り土の可能性が考えられる。盛り土からは古墳時代の須恵器や埴輪が出土している。 | 国 | |
K‐AC088 | 大久手5号墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大久手古墳群を構成する、全長約38mの帆立貝式の前方後円墳である。5世紀後半の築造と推定されている。現在は墳丘の北側部分が修復整備されている。 | 国 | |
K‐AC089 | 東大久手古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大久手古墳群を構成する、帆立貝式の前方後円墳である。墳丘長は約37.5m、後円部の直径が約26.5mと推定されている。5世紀末の築造と考えられている。 | 国 | |
K‐AC090 | 西大久手古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大久手古墳群を構成する、5世紀中頃築造の帆立貝式前方後円墳である。墳丘長は約39mで前方部の傾斜角が2段階で変化している。東海地方以東では最古級の巫女形埴輪が出土している。 | 国 | |
K‐AC091 | 大塚2号墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大塚古墳群を構成する、小形の円墳とみられる。竪穴式で木棺を納めた埋葬施設が見つかっている。5世紀末から6世紀初めの築造と推定される。 | 国 | |
K‐AC092 | 大塚3号墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大塚古墳群を構成する、直径約19mの円墳である。墳丘の周囲には溝が巡らされていた。築造時期は定かではないが、5世紀後半頃と推定される。 | 国 | |
K‐AC093 | 志段味大塚古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の大塚古墳群を構成する、群内で最大規模の帆立貝型前方後円墳である。墳丘は周濠部分を含めると全長約62m。主体部(埋葬施設)2ヶ所確認されている。5世紀後半の築造と推定される。 | 国 | |
K‐AC094 | 勝手塚古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群のひとつで前方部が小さい帆立貝式前方後円墳である。全長53mの2段築造であったと考えられている。内濠の一部とそれを囲む周堤が現存する。最近では6世紀初めとの説が出されている。 | 国 | |
K‐AC095 | 白鳥塚古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群を構成する手鏡型前方後円墳で墳丘全長115mと愛知県で3番目の大きさを誇る。4世紀後半の築造とされ、ヤマト王権と強い結びつきがあった人物の墓と推定される。 | 国 | |
K‐AC096 | 東谷山白鳥古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群のひとつ白鳥古墳群に含まれる円墳である。墳径17.5m(東西)16.5m(南北)、高さ3.5mで無袖式の横穴式石室を持つ。6世紀後半から7世紀初めの築造と考えられている。 | 国 | |
K‐AC097 | 南社古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群を構成する尾張戸神社の境内社・南社の社殿下にある直径約30mの円墳である。中社古墳と同形式,同時期の円筒埴輪が出土したことから中社古墳と同じく4世紀中頃の築造とされる。 | 国 | |
K‐AC098 | 中社古墳 〔志段味古墳群〕 |
志段味古墳群の1つで尾張戸神社の境内社・中社の社殿下にある墳丘長約63.5mの前方後円墳である。後円部北側には三角形の透孔があけられた円筒埴輪が埋もれていた。4世紀中頃の築造とされる。 | 国 | |
K‐AC099 | 尾張戸神社古墳 〔志段味古墳群〕 |
尾張戸神社の本殿下にある直径約27.5mで2段築成の円墳である。2段目は神社の社殿造営のためにほとんどが削平されている。埋葬施設は竪穴式石室で4世紀前半の築造と推定される。 | 国 | |
K‐AC119 | 桜神明社古墳 | 別名「ひめ塚」とも呼ばれていた。墳頂には桜神明社が祀られている。5世紀末頃の古墳で直径36m,高さ4.5mの円墳である。比較的保存状態が良い。 | ||
K‐AC120 | 守山瓢箪山古墳 | 小幡ヶ原の台地の端近くに築かれた前方後円墳。全長63m、前方部幅58m,高さ6m、後円部直径36m,高さ5mの二段築成の墳丘で、前が大きく開く墳丘の形状や土師質円筒埴輪片が採集されることなどから5世紀末~6世紀初頭の築造と考えられる。 | 市 | |
K‐AC121 | 小幡長塚古墳 | 小幡ヶ原周辺に点在する古墳の一つで6世紀前半築造と考えられる前方後円墳。墳丘長約81m,前方部の幅約42m(推定),高さ5.5m、後円部径約38m(推定),高さ6.5mと、前方部が大きく後円部が高い古墳である。人物埴輪の出土は名古屋市内の古墳では初。 | ||
K‐AC122 | 小幡茶臼山古墳 | 小幡古墳群の一つ。全長63m,前方部幅35m,後円部径32m,周濠幅6mの前方後円墳である。土師器,武具,馬具などの出土品から築造時期は6世紀中頃と推定される。私有地であったこともあって墳丘はかつての姿を留めていない。 | ||
K‐AC123 |
〔桃巌寺〕 |
織田信秀は1552年に末森城で死去。その後、末森城主になったのは織田信長の弟の織田信行であった。信行は信長に叛旗を翻し清洲城で信長に謀殺された。信秀の廟所は末森城の西北山麓から桃巌寺に移され、信行とともに供養されている。 | ||
K‐AC162 | 斎山古墳 | 現在の斎山稲荷社境内に所在する。墳形は確定できず、円墳あるいは前方後円墳、また帆立貝式古墳ともいわれている。円筒形及び朝顔形埴輪片が出土し、古墳時代前期中葉~後葉の築造と考えられる。この地の首長級の墓と思われる。 | ||
K‐AC168 | 松ケ洞古墳群 | 龍泉寺丘陵南西端近くに立地する5世紀後半から6世紀前半の古墳群である。1号墳から19号墳を数えるが、うち8基は滅失している。 | ||
K‐AC173 |
加藤勘三郎,小関三五郎墓所 |
了玄院には上社城主あるいは高針城主の加藤勘三郎と藤森城主の小関三五郎の墓(墓標)が並んで立っている。 | ||
K‐AC194 | 鳥栖八剱社古墳 | 全長60mの帆立貝式前方後円墳であるが、前方部は確認しづらい。自然の丘陵を利用して二段に築成されている。墳頂部は八剱社を置くために削られている。古墳時代後期の築造と推定される。 | ||
K‐AC195 | 山口盛隆墓所〔笠覆寺〕 | 1564年、美濃国の堂洞合戦で討ち死にした市場城主・山口盛隆(道林)の墓所である。笠覆寺(笠寺観音)境内にある。 | ||
K₋AC196 | 鳥栖神明社古墳 | 古墳全体が神明社の境内となり、墳頂部は削られて社を置かれている。墳径約30m,墳高約3.5mの円墳で、内部主体は不明。築造時期は古墳時代後期と推定されている。 | ||
K₋AC235 | 平手政秀墓所 | 1553年閏1月13日、織田信長の傅役で次席家老を務めたが享年62で自刃した平手政秀の墓所である。当初の菩提寺の政秀寺から平和公園内の政秀寺墓地に移転した。 | ||
K₋AC236 | 平岩親吉墓所 | 1611年12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去した平岩親吉の墓所である。享年70。平和公園内の平田院墓域にある。 | ||
K₋AC237 | 徳川宗春墓所 | 1764年10月8日、享年69で死去した名古屋藩第7代藩主であった徳川宗春の墓所である。死後、遺体は建中寺に土葬埋葬されたが、のちに遺骸は火葬され墓所は平和公園に移転した。 | ||
K₋AC238 | おちょう墓所 | 1858年12月末、旅の途次に尾張国名古屋で亡くなった、清水次郎長の妻のおちょう(初代)の墓所である。次郎長は妙連寺地内に墓を建て手厚く弔った。 | ||
一宮市 | K‐AC041 |
山内盛豊,十郎墓所 |
法蓮寺にある。1557年、山内盛豊が城代を務める黒田城を織田信長の手勢が夜討し、山内盛豊と長男十郎が討死したとされる(盛豊は生き延びたとする説あり)。 | 市 |
犬山市 | K‐AC047 | 梶原一族墓所〔興禅寺〕 | 1200年に非業の最期を遂げた梶原景時一族の供養塔,五輪塔と、1582年に織田信長に殉じた梶原景義、そして興禅寺を再興した小笠原吉次(1616年没)の供養塔が並ぶ。 | |
K‐AC127 | 青塚古墳(青塚砦跡) | 愛知県では断夫山古墳に次ぐ第2位の規模の大型前方後円墳。4世紀中葉の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、大縣神社では大荒田命の墓と伝承されている。小牧長久手の戦いの際には、秀吉方の森長可が改修し青塚砦として使用している。 | 国 | |
小牧市 | K‐AC048 |
落合安親墓所 |
陶昌院の境内にある落合安親の墓である。室町時代に上末城を築いた。没年は不明。 | |
K‐AC128 | 岩屋古墳 | 6世紀末~7世紀初頭の飛鳥時代に築造された横穴式石室を主体部とする直径30m弱の円墳である。当初、岩崎山南東側山麓の杲洞寺近くに位置していたが、岩崎山北東側の岩崎山公園に移設,復元された。 | ||
K‐AC131 | 三ッ山古墳群3号墳 | 4世紀末~5世紀初頭に築造された方墳3基で構成されていたが、国道拡幅工事により、北側の2基(1,2号墳)が破壊された。小牧長久手の戦いの際に、田中砦が築かれた場所でもある。 | ||
春日井市 | K‐AC125 | 味美二子山古墳 | 6世紀前葉に築造された前方後円墳である。墳丘は全長96mの2段構築となっている。1967年に航空自衛隊練習機が周濠内に墜落し、その復旧工事で形象埴輪(馬形,人物,水鳥形)および円筒埴輪片が出土している。 | 国 |
K‐AC126 | 御旅所古墳 | 5世紀末~6世紀初頭に築造された墳径約31m,高さ約2.9mの円墳である。その名称は白山神社(味美白山神社古墳)から神輿渡御が行なわれる御旅所であったことに因む。味美古墳群を形成している。 | 県 | |
K‐AC129 | 味美白山神社古墳 | 味美古墳群の一つである。出土品や墳丘の形状から推定して5世紀末~6世紀初頭に築造された前方後円墳。墳長は約86m、前方部は幅,長さともに約48mで高さ約5m、後円部は径約48m,高さ約6.5~7mで、現在は古墳全体が白山神社の社地となっている。 | 県 | |
K‐AC130 | 味美春日山古墳 | 味美古墳群の一つである。白山神社から西方約300mに位置する前方後円墳。前方部の発達状態からみて味美古墳群では最後に築造された前方後円墳と見なされ、6世紀後半の築造と推定される。 | ||
K‐AC169 | 大留荒子古墳 | もとは現在の場所から北西約200mに所在していたものを荒子公園に移設した。墳径約10m,墳高約2.5mの円墳。この地域の有力者の家族墓の可能性もある。7世紀前半の築造と考えられる。 | ||
K‐AC170 | 三明神社古墳 | 三明神社の社殿後方(北)に位置する径20m,高さ3.4mの円墳である。埋葬施設は横穴式石室と考えられる。古墳の一部は神社や玉垣によって削られている。築造時期などは不明。 | ||
K‐AC171 | 高御堂古墳 | 市内で最も古く唯一の墳長約63mの前方後方墳である。前方部には壺型埴輪が配置され、埴輪から4世紀前葉の築造と考えられる。後方部墳頂で竪穴式石槨が発見されている。高御堂公園内に在る。 | 市 | |
K‐AC180 | 神領第1号墳 | 周辺の古墳から直径15m前後の円墳と推定される。横穴式石室が確認されており奥壁手前で窄まる形態をもつ。出土した台付長頸瓶から7世紀後葉の築造と推定される。現在、埋め戻され平地となっている。 | ||
尾張旭市 | K‐AC176 |
水野良春墓所 |
水野又太郎良春とその一族の墓と伝えられる宝篋印塔と五輪塔が菩提寺である退養寺の裏山にある。良春は志段味から新居の地に移り住み、退養寺を創建して1374年に没すると当寺に葬られた。 | |
K‐AC197 | 印場大塚古墳 | 本地ヶ原台地にある直径16m,高さ2mの比較的小規模な円墳である。古墳の裾の部分には埴輪を巡らしていた。埋葬施設は粘土槨と推測され、5世紀後半から6世紀前半に築造された地域豪族の古墳と推定される。 | 市 | |
K‐AC198 | 天狗岩古墳 | もとは現在地から北西約90mの位置にあったものを移築した。直径20m,高さ2mの円墳で追葬が容易な横穴式石室を備えている。玄室からは3人分の遺骨が見つかっている。6世紀から7世紀頃の築造と推定されている。 | ||
K‐AC199 | 白山1号墳 | 長坂遺跡とされる弥生時代の集落跡に5世紀頃に築造された直径11m,高さ1mの円墳である。埋葬施設は木棺直葬と考えられており、副葬品として2振の鉄剣が発見されている。現在は埋め戻され保存されている。 | ||
日進市 | K‐AC059 | 岩崎城古墳 | 岩崎城発掘調査の際、土塁下に偶然発見された。須恵器などの出土品から6世紀前葉の築造と推定される。埋葬者は不明であるが、この地域を経済基盤として力を貯えた豪族と考えられる。 | |
K‐AC164 | 白山古墳 | 白山宮境内南側斜面にある直径約14mの円墳。横穴式石室は全長7m,玄室幅2mで、副葬品として金環や鉄製の直刀,装飾須恵器などが出土している。古墳時代後期の6世紀頃の築造と推定される。 | ||
長久手市 | K‐AC124 |
三将の墓所 |
いきさつについては不明であるが、1584年の長久手の戦いで戦死した羽柴秀吉方の武将の墓が常照寺にある。左から池田恒興,池田之助,森長可の一石五輪塔が並ぶ。 | |
東海市 | K‐AC052 |
細井平洲親族墓所 |
西方寺にある。前後2列の5基が並び、後方の3基が先祖の墓、手前右側が細井平洲の両親、左側が兄夫婦の墓である。 | |
K‐AC163 | 名和古墳群 | 三ツ屋古墳群とも呼ばれる。現存している3基の円墳(1・2・3号墳)で構成され、1号墳は直径約20mで、内部に横穴式石室が確認されている。出土品から古墳時代後期(6世紀)の築造と推定される。 | 市 | |
K‐AC244 | 業平塚 | 平安時代末に藤原道武によって在原業平,女官あやめとその従者を供養するために建てられた五輪塔である。左側に一基離れてあるのが業平の供養塔である。 | 市 | |
K‐AC245 | 正法塚 | 平安時代後期に融通念仏宗開祖の良忍上人が正法山一心院を創建し、藤原家累代の菩提寺とした。現在の正法塚の前には寺が建てられたが、寺は移転し正法塚だけが残された。 | 市 | |
豊明市 | K‐AC157 |
簗田広正墓所 |
簗田出羽守広正の没年は定かではないが、1579年の説がある。沓掛城近くの聖應寺に葬られた。桶狭間の戦いでは情報収集活動を行い、いちばんの功労者とされている。 | |
刈谷市 | K‐AC172 | 水野家廟所〔楞厳寺〕 | 刈谷城主である水野家の菩提寺・楞厳寺境内にある。水野信元とその室(松平信定の娘)、信元の末弟・水野忠重の墓がある。 | 市 |
碧南市 | K‐AC022 | 長田重元墓所 | 1593年、大浜で死去した長田重元の墓所である。宝珠寺にある。1582年、家康の伊賀越えの際、白子に到着した家康一行へ船を出して迎え饗応した。 | |
知多郡 東浦町 |
K‐AC007 |
水野氏四代墓所 |
乾坤院には緒川城主4代水野忠政の墓と、6代水野忠守,下総山川藩主・水野忠元,三河岡崎藩主・水野忠善の墓がある。 | 町 |
K‐AC150 | 緒川城主3代墓所 | 於大公園東の林の中に建つ。緒川城主初代水野貞守,2代賢正,3代清忠の墓と、4代忠政の兄・成政とその子成清の墓、そして緒川字笠松から出土した小河氏の墓と伝えられる石塔がある。 | 町 | |
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K‐AC187 |
久松松平家葬地 |
この葬地には久松定益,久松定義,久松俊勝とその妻の於大の方そして松平定綱の5人が眠る。 | 町 |
半田市 | K‐AC193 | 新美南吉墓所 | 1943年3月22日、咽頭結核のため29歳8ヶ月の生涯を閉じた新美南吉の墓所である。新美南吉は『ごん狐』ほか童話作家として多くの作品を残した。半田市柊町の北谷墓地の一角にある。 | |
知多郡 美浜町 |
K‐AC009 |
源 義朝墓所 |
源義朝の墓は野間大坊にある。1159年、平治の乱に敗れた義朝は、随行した鎌田政家の舅である野間内海荘の長田忠致の許に身を寄せるが、入浴中に騙し討ちされる。義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされ、墓には多くの木刀が供えられている。 | |
K‐AC010 |
鎌田政家墓所 |
鎌田政家(政清)墓所は野間大坊にある。1159年、平治の乱に敗れた義朝,政家らは政家の舅である野間内海荘の長田忠致の許に身を寄せるが、政家は酒を飲まされ騙し討ちにされた。1185年、政家の首と義朝の遺骨は源頼朝によって共に鎌倉の勝長寿院に葬られたとされる。 | ||
K‐AC011 |
織田信孝墓所 |
1583年4月の賎ヶ岳合戦に際しては織田信孝は柴田勝家と結んで岐阜城で挙兵したが、秀吉の命により織田信雄の軍勢に攻められ降伏開城した。信孝は野間の内海大御堂寺に退いたが、信雄の命令により安養院にて自害させられた。享年26。 | ||
K‐AC012 |
平 康頼墓所 |
平康頼は尾張目代のとき荒れ果てた源義朝の墓をみて小堂を建て供養した。平家滅亡後、源頼朝は彼を阿波国麻殖保の保司に任じた。1220年頃に死去。この墓は義朝家臣の供養塔あるいは後世に大御堂寺創建者としての康頼を供養し建てたものと考えられている。 | ||
K‐AC192 |
池禅尼の塚 |
源頼朝が助命嘆願をしてくれた池禅尼の恩を忘れず、父・義朝の墓所とともに野間大坊に供養塔を建てたとされる。 | ||
知多郡 南知多町 |
K‐AC243 |
千賀家歴代墓所 |
正衆寺本堂横の墓地の石段を上ったところに千賀家歴代の墓が整然と並んでいる。 | |
K‐AC026 | 本多忠豊墓碑 | 1545年、織田信秀との第二次安城合戦で、敗北した松平広忠を逃がすために殿軍を務めて討死した。三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬された(本多忠豊墓所)。この碑は、1794年に岡崎藩主・本多忠顕によって忠豊が戦死した地に建立されたものである。 | 市 | |
K‐AC027 | 本多忠高墓碑 | 1549年3月の第三次安城合戦で先鋒となった本多忠高は大久保忠俊らとともに夜襲をかけ戦果を収めたが、翌日の戦いで城の主郭まで深入りし敵の矢に当たって討死した。1797年、ここ戦死地に岡崎藩主の本多忠顕によって墓碑が建てられた。 | 市 | |
K‐AC028 |
中川覚右衛門墓碑 |
安永の義民とされる安城村庄屋であった中川覚右衛門の墓碑である。1779年の天災時に年貢の減免を領主に願い出たが聞き入られず、郷倉に入り嘆願書を残して自決して村民を救った。 | ||
K‐AC029 |
阿部正信,重尚墓碑 |
明法寺にある阿部正信と嫡子・重尚の墓碑である。墓碑にはそれぞれ1525年2月2日,1540年6月6日戦死と刻まれている。 | ||
K‐AC132 | 堀内古墳 | 桜井古墳群(4~5世紀)を構成する古墳のひとつである。調査の結果、直径約23m,高さ3.25mの円墳と判明している。天満山古墳とも呼ばれている。 | 市 | |
K‐AC133 | 碧海山古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳のひとつで、古墳時代の前半期(1400~1500年前)のものと考えられる。南北約22m,東西約17.5m,高さ4mの円墳で、墳頂が平坦で広いことが特徴とされる。 | 市 | |
K‐AC134 | 姫小川古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで、古墳時代前期頃の築造と推定されている。墳長66mの前方後円墳である。江戸時代に薬師堂が建てられており、その際に改変が施されたと考えられる。 | 国 | |
K‐AC135 | 姫塚古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳のひとつで古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造と推定。南北28m,東西25m,高さ4mの方墳に復元されている。徳天皇の皇女「綾姫」の伝承が残る。 | 市 | |
K‐AC136 |
内藤重清,清長墓所 |
内藤重清の墓は誓願寺にある。宝篋印塔には「大永三年」(1523年)と刻銘されている。 | 市 | |
K‐AC137 | 石川政康墓所 | 石川政康は下野国で蓮如と出会い、その誘いに応じて三河に赴く。1446年、三河国碧海郡志貴荘村に小川城を築いた。また額田郡土呂に一族の寺として本宗寺を建て、のちに蓮如に寄進した。1502年、政康は死去した。 | ||
K‐AC141 | 二子古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで最大級の前方後方墳である。墳丘上には天神社が建てられていた。古墳時代前期前半ないし前期中葉の築造と推定されている。 | 国 | |
K‐AC142 | 大浜騒動護法有志墓所 | 1871年に三河国碧海郡の鷲塚で起こった廃仏毀釈に反対する暴動で処せられた蓮泉寺の石川台嶺らの墓碑である。 | 市 | |
K-AC143 | 塚越古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで願力寺裏に位置する。全長約46mの4世紀中葉の矢作川流域最古の前方後円墳とされる。墳丘の裾が少し削られているため前方後方墳の可能性もある。 | 市 | |
K‐AC144 | 東川古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで現状は南北約9m,東西11.5mの長方形で高さ約0.9m。墳丘上部は平坦で藪化しており墳形は不明である。また、築造時期,埋葬施設も明らかではない。 | ||
K‐AC145 | 愛染古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで古墳時代前半期の円墳と想定される。1891年の濃尾地震で全壊した愛染明王堂再建のため、墳頂部は4mほど削られている。 | ||
K‐AC146 | 印内北分1号墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つとされ、現状は南北約10m,東西約10m,高さ1.7mで、墳頂部に0.5mほどの窪みがあり、横穴式石室の存在が想定されるが詳細は不明である。 | ||
K‐AC147 | 比蘇山古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで桜井神社境内にある。神社本殿に後円部、拝殿に前方部があったと伝わり、後円部は本殿改築時に平坦にされたという。元々の規模は全長60mほどとされる。 | ||
K‐AC148 | 山伏塚古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで直径18m,高さ3mほどの円墳と想定されるが、奈良時代の野田熊勝なる修験者の墓所とされ、古墳である確証はない。 | ||
K‐AC149 | 百塚古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで、直径約21mの円墳と推定されている。現状は四方を石垣に囲まれており、墳頂には八幡社が鎮座している。 | ||
K‐AC151 | 獅子塚古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで元々は前方後円(方)墳であったが、明治時代に前方部が削り取られ後円(方)部のみが残されている。墳頂に秋葉神社が建つ。名称の由来にも諸説ある。 | 市 | |
K‐AC152 | 崖古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つとされるが、詳細は不明。円墳とされるが、宅地と道路に削られ段丘の法面となっている。古墳ではないという見方もある。 | ||
K‐AC153 | 王塚古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つで円墳とされるが、周囲をかなり削られており民家と隣接している。築造時期,埋葬施設,出土遺物も不明である。 | ||
K‐AC154 | 加美古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つとされ、加美地蔵尊の祀られている祠の小高いところとされる。築造時期は不明であるが、円墳の可能性が高い。 | ||
K‐AC155 | 八ッ塚古墳 | 桜井古墳群を構成する古墳の一つとされ、1881年までは高さ1.8mほどの円墳があり石室を持っていたと伝聞されるが、既に滅失しており詳細は不明。現在は田畑となっている。 | ||
K‐AC156 | 姫地下坑 | 姫塚古墳のすぐ西側に位置する古墳時代後期の地下坑墓である。地表から3m地下に、高さ約1.5mで長さが約4mと約2mの二室が見つかっている。 | 市 | |
K‐AC165 |
桜井松平氏墓所 |
桜井城歴代城主を中心とした墓所である。向かって右から桜井松平家の祖となった松平信定、次いで家重(清定か?),家次,忠正,忠吉および忠広の墓が並ぶ。 | ||
K‐AC166 | 福釜松平氏墓所 | 福釜城歴代城主の墓所である。菩提寺の宝泉院から西に100mほどの墓地に3基が並ぶ。向かって右から初代松平親盛,2代親次,3代親俊の墓である。 | ||
K‐AC167 |
桜井松平氏墓所 |
菩提寺にある桜井城歴代城主を中心とした墓所である。向かって左から5代松平忠吉,3代家次,初代信定,2代清定,4代忠正、そして家次3男忠広の墓が並ぶ。菩提寺は1521年に堪誉直道が草庵を建立したのが始まりとされる。 | ||
西尾市 | K‐AC017 | 正法寺古墳 | 矢作川の河口部に位置する前方後円墳である。前方部前端ラインが墳丘主軸に対して斜交しており、全長は主軸線上で約90m。築造時期は4世紀後葉~5世紀初頭。被葬者は三河湾,伊勢湾の水上交通を掌握した人物と想定される。 | 国 |
K‐AC018 |
今川了俊供養塔 |
今川城跡にある1420年8月に亡くなったとされる今川了俊(貞世)の供養塔である。1749年に建立されたものである。 | ||
K‐AC019 |
東条吉良家墓所 |
花岳寺にある花岳寺開山の佛海禅師と、西尾(西条)城主・吉良満義,東条吉良氏の祖である吉良尊義および東条城主・吉良持広の墓所である。 | ||
K‐AC020 |
西条吉良家墓所 |
華蔵寺にある吉良義安から吉良義央の継嗣で最後の当主となった義周まで6代の墓である。このほか、義央の2男・三郎,義央の2女・阿久利姫の墓などが並ぶ。 | 市 | |
K‐AC021 |
松平義春,家忠,康親墓所 |
青野城,東条城主であった松平義春,松平家忠と幼い頃の家忠の名代を務めた松平康親の墓所である。花岳寺の塔頭広国寺跡にある。 | ||
K‐AC177 |
板倉家代々墓所 |
板倉家の菩提寺として長圓寺を再建した板倉勝重の霊廟である肖影堂はじめ板倉6家の代々の当主と夫人の墓塔が林立する。 | ||
K‐AC178 |
松平乗全墓所 |
西尾藩主(西尾城主)・松平乗全とその妻・松平忠宝娘の墓所である。幕府では老中を務めたが井伊直弼の暗殺後に隠居を命じられ、1870年に死去。享年76。妻とともに盛巌寺に葬られた。 | ||
K‐AC179 |
清水一学墓所 |
圓融寺裏手の公共墓地にある清水一学の墓所。1703年、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に討ち死にした。享年25。なお、身分,享年,奮戦ぶりには不明点も残る。 | ||
K‐AC181 | 岩場古墳 | 勝楽寺東側の尾根先端に位置する墳長約30mの古墳時代中期(5世紀前葉~中葉)の帆立貝形前方後円墳である。後円部からは全国でも出土例が25例程しかない円筒棺が発見された。 | 県 | |
K‐AC182 | 中之郷古墳 | 東海地方で最も早く北部九州系の横穴式石室を採用した古墳のひとつである。築造は古墳時代中期後葉(5世紀後半)、削られているが、本来は帆立貝形古墳あるいは円墳とされる。穴観音(古墳)とも呼ばれる。 | 市 | |
K‐AC183 | 松井氏墓所〔正龍寺〕 | 吉良庄領主の東条吉良家に仕えた三河松井氏の墓所である。松井忠次(松平康親)の祖先の墓所となる。 | ||
K‐AC184 | 富永忠元墓所〔大通院〕 | 1561年、藤波畷の戦いで討死した東条吉良家の家老・富永忠元(伴五郎)の墓所である。死地から400mほど西の大通院にある。 | ||
K‐AC185 | 酒井氏先祖墓所 | 酒井五郎左衛門とその娘、長阿弥と酒井広親の墓がある。酒井五郎左衛門の娘と長阿弥の子・世田良親氏(のちの松平親氏)の間に生まれたのが酒井広親である。 | ||
K‐AC246 | 吉良満義・一色有義墓所〔安休寺〕 | 1356に死去した西尾城主の吉良満義と、その次男で吉良流一色氏の始祖となり1383年に没した一色有義の墓所である。安休寺の墓地にある。 | ||
額田郡 幸田町 |
K‐AC023 | 丸山古墳 | 古墳時代中期5世紀後半築造で大岩山から北に延びる丘陵のひとつを利用して築いた二段築成の直径約40mの円墳である。石材の厚さから横穴式石室と推測される。被葬者は不明である。 | |
K‐AC024 | 西郷稠頼,高力清長墓所 | 西郷氏の菩提寺である正楽寺にある。西郷稠頼は正楽寺を建立し、のちの岡崎城となる砦を築き14世紀後半に亡くなっている。高力清長は三河三奉行の一人として活躍した。「仏高力」の異名をつけられた。1608年に亡くなっている。 | ||
K‐AC025 | 夏目吉久,吉信,吉為墓所 | 明善寺にある三方ヶ原の戦いで徳川家康の身代わりとなって戦死した夏目吉信と父・吉久,長男・吉為の墓である。 | ||
K‐AC188 |
深溝松平氏墓所 |
西御廟所と東御廟所に分かれる。西御廟所には、初代・松平忠定から4代・家忠と5代・忠利の肖影堂、松平好房の孝子廟、11代・松平忠恕の廟がある。東御廟所には歴代島原藩主の神殿型墓標が建つ。 | 国 | |
岡崎市 | K‐AC004 |
石川数正墓所 |
1592年に文禄の役(朝鮮出兵)に参戦のため肥前国へ向かい、その陣中で亡くなった石川数正の墓所である。本宗寺にある。 | |
K‐AC005 |
久世広長墓所 |
久世広長は三河額田郡の豪族であった小野高広の子。母が足利将軍家の臣久世十郎藤原永次の娘だったことから久世を称した。徳川家康の祖父・松平清康と父の広忠2代に仕え戦功をたてた。下総関宿藩藩主久世家の祖。1546年10月8日死去。 | ||
K‐AC006 |
大久保家墓所 |
1547年6月、大久保家の初代・大久保忠茂が長福寺に葬られて以来、長福寺が大久保家の菩提寺となり、忠俊,忠員、そして、「三河物語」を残した大久保彦左衛門忠教も「死後は長福寺に葬るべし」との遺言により、この寺に葬られている。 | ||
K‐AC045 | 大給松平奥殿藩主廟所 | 奥殿陣屋跡の南にある大給松平奥殿藩主を中心とした廟所である。家祖・松平真次から8代を除く10代・乗利までの大給藩主,奥殿藩主の五輪塔,笠塔婆が並ぶ。 | 市 | |
K‐AC046 |
松平親氏,泰親,信光墓所 |
松平宗家3代松平信光が1451年に岩津城の南に創建した信光明寺にある。向かって左より初代松平親氏,2代松平泰親と松平信光の墓が並ぶ。なお、松平宗家の墓所はこのほかにも大樹寺など各所に存在する。 | ||
K‐AC100 | 近藤勇首塚 | 1868年4月25日に江戸板橋で斬首された近藤勇の首は京都に運ばれ三条大橋西詰に晒された。伝承によると、近藤の首は新京極裏寺町の宝蔵寺住職・称空義天の許に届けられたとされるが、称空義天が直前に法蔵寺の住職となっていたため、ここに届けられたという。 | ||
K‐AC101 | 松平家と三方ヶ原合戦忠死者墓所 | 松平広忠,松平忠政をはじめとする松平家の墓10基と、夏目吉信,鳥居忠広はじめ1572年の三方ヶ原合戦での戦死者の墓16基、そのほかにも他の戦いでの戦死者の墓が並ぶ。 | ||
K‐AC102 |
〔妙源寺〕 |
1545年9月20日、安祥城をめぐる織田信秀との第二次安城合戦で、本多忠豊は敗北した松平広忠を逃がすために殿軍を務めて討死した。三河国乗子の大中寺に葬られたが、後に妙源寺に改葬された。戦死地にも本多忠豊墓碑が建てられている。 | ||
K‐AC103 |
本多忠高墓所 |
1549年3月、第三次安城合戦で先鋒となった本多忠高は大久保忠俊らとともに夜襲をかけ戦果を収めたが、翌日の戦いで城の主郭まで深入りし敵の矢に当たって討死した。戦死地にも本多忠高墓碑が建てられている。 | ||
K‐AC104 |
高木清秀墓所 |
高木清秀は水野信元,佐久間信盛,織田信長に仕えた後、徳川家康と主従関係を結び、徳川十六神将の一人に数えられた。1610年7月13日に没し妙源寺に埋葬された。 | ||
K‐AC105 |
安藤直次墓所 |
安藤直次は幼少期より徳川家康に仕え多くの戦いで活躍した。また、家康の側近として初期幕政を取り仕切り、徳川頼宣付の家老も務めた。遠江掛川城主,紀州田辺城主となった後、1635年5月13日に没し妙源寺に埋葬された。 | ||
K‐AC106 | 鳥居忠宗墓所 | 1547年、織田信秀と結んで宗家乗っ取りを企てた松平信孝と宗家松平広忠との渡の戦いで奮戦し討死した。鳥居忠宗の墓は渡城跡西の鳥居氏一族発祥地にあり、横には1601年に没した鳥居重久の墓が並ぶ。 | ||
K‐AC107 |
〔聖徳寺〕 |
正長年間に中根盛清が築いた箱柳城跡近くの聖徳寺の一画にある。1990年8月に山に散在していた墓石を拾い集めて調査した結果、鎌倉時代の豪族の墓と判明したため、中根氏祖の墓所として本尊であった観音堂前に祀り供養した。 | ||
K‐AC108 | 奥平貞勝墓所 | 今川・織田・徳川・武田の4勢力に囲まれ、波乱に満ちた戦国時代を生き抜いた奥平貞勝の墓である。1570年秋の久保城の密談で貞勝は少数派とともに武田氏服属を決定するが、武田氏滅亡で三河額田郡に隠棲し出家し1595年に享年84で没した。 | ||
K‐AC109 | 松平乗清墓所 | 三河国加茂郡滝脇を領し滝脇松平家の祖となった松平乗清の墓。1526年、麻生城を子の親正に譲り没したとされる。江戸時代後期にはその所在は不明となっていたが、探索の結果、ここ杉の平で発見されたという。 | ||
K‐AC110 |
松平正忠墓所 |
阿弥陀寺には乗清から麻生松平氏4代目の松平正忠とその奥方,長男の正秀の墓がある。正忠は1584年の小牧長久手の戦いでの蟹江城合戦にて討死した。 | ||
K‐AC111 | 松平助十郎御先祖墓所 | 麻生松平氏の最後の領主で1615年の大坂夏の陣で討死した助十郎正勝はじめ、30余基の墓石が並ぶ。阿弥陀寺の記録では、この墓所は1617年に家臣の小畑叉左衛門が建立したと伝えられる。 | ||
K‐AC112 |
奥平一族墓所 |
今川・織田・徳川・武田の四勢力に囲まれ、一族でも敵味方となりながら戦国時代を生き抜いた奥平氏の墓所である。広祥院後方の小高い個所に向かって右から奥平貞昌(のちの信昌),貞勝,貞直(貞勝の弟),貞能(貞勝の子)の五輪塔が並ぶ。 | ||
K‐AC113 |
〔広忠寺〕 |
1562年に松平元康が父・松平広忠の菩提を弔うために創建した広忠寺にある。広忠の墓を挟んで側室・於久の方(大給松平乗正娘)とふたりの子である松平忠政の墓が並ぶ。 | ||
K‐AC114 |
大沼城主供養塔 |
代官屋敷内にある大沼城主に関する供養塔である。この中の二基は大沼城主の松平近清が建立したものといわれ、松平親忠,松平乗正の供養塔である。ほかの一基は近清の嫡子近正のもので、後世に地元の方によって建立されたものとされる。 | ||
K‐AC115 |
〔蓮性院〕 |
蓮性院には細川城主の細川義季,細川頼之,松平親忠,松平信乗らの墓所がある。足利義季は、承久の乱後、上野国から三河国額田郡細川郷に移り、地名から細川義季と名乗り細川家の始祖となった。 | ||
K‐AC116 |
大給松平氏墓所 |
松明院境内に大給松平氏の墓石が3つ並ぶ。大給松平氏の始祖となった松平乗元、松明院を大給から細川郷へ移転させた5代の松平真乗の墓である。松平乗元の墓は大給城跡にも建てられている。 | ||
K‐AC117 | 保久城主山下家墓所 | 万福寺の東北の裏山裾の道路沿いに宝篋印塔が20基ほど並ぶ。山下氏は義道(義通)のときに下野国から三河国に移り、足利将軍家奉公衆の三河四人衆の一家となる。子の義村が山下姓に改め初代となった。一連の宝篋印塔には関東型と関西型が見られる。 | 市 | |
K‐AC159 | 酒井広親石宝塔 | 酒井氏の始祖とされる酒井広親の石宝塔。基壇の一面に1459年3月12日の銘文が残されている。岡崎市立岩津小学校の西に建つ。 | 市 | |
K‐AC160 | 酒井正親墓所 | 1576年6月6日、56歳で病死した酒井正親の墓所。龍海院の本堂裏の丘の中腹にある。正親は松平清康,広忠,徳川家康の3代に仕えた。 | ||
K‐AC161 | 真喜の方墓所 | 戸田康光の娘で、松平広忠が於大の方と離縁後に広忠の後室すなわち徳川家康の継母となった真喜の方の墓所。1572年3月30日に亡くなった。龍海院の本堂裏の丘の中腹にある。 | ||
K‐AC186 |
松平氏八代墓所 |
大樹寺に在る、初代・松平親氏から8代・松平広忠の墓所である。松平親忠が大樹寺創建の際、高月院の3代の墓から分骨した。徳川家康,徳川秀忠,柳沢保申が墓所の再建,修築を行っている。 | 市 | |
K‐AC215 | 菅沼定貴・定満,近藤彦七墓所 | 1556年8月の雨山合戦緒戦で戦死した菅沼定貴・定満兄弟と近藤彦七の墓が古戦場西の林の中にある。 | ||
K‐AC216 | 雨山合戦戦死者墓所 | 1556年8月の雨山合戦で戦死した名も知れぬ者たちの墓が20基、古戦場西の県道382号線沿いに並べられている。 | ||
K‐AC217 | 石筒ヶ根合戦戦死者墓所 | 1573年の石筒ヶ根合戦で戦死した者たちの自然石でつくられた墓である。峠の合戦地跡から300mほど南東に下ったところである。 | ||
K‐AC221 | 山本勘助墓所 | 永井城城址碑の前にある1561年の第4次川中島の戦いで討死した山本勘助の墓とされる。 | ||
K‐AC222 | 本多秀清・早乙女一族墓所 | 碧海郡土井村を賜り1498年に没した本多秀清と土井利勝が養子に入ったこの地の豪族・早乙女一族の墓とされる。 | ||
K‐AC223 | 松平義春墓所 | 青野城跡とされる来迎院境内の一角にある松平義春の墓所である。その没年は定かではないが、1556年の日近合戦で戦傷死した子息の松平忠茂と相前後して病死したともいわれる。 | ||
K‐AC224 |
長沢松平家一族墓所 |
円福寺西側の墓地には、円空立信,教然良頓、そして長沢松平家の始祖・松平親則をはじめとする長沢松平家一族とその流れを汲む大河内松平家一族の墓が並ぶ。 | ||
K‐AC225 |
松平久子墓所 |
1561年に亡くなった松平清康の妹でその養女となった松平久子の墓所である。西林院の東側の墓地の一角にある。 | ||
K‐AC226 |
築山御前首塚 |
1579年8月29日、織田信長の命により遠江国小藪村で殺害された築山御前の首を埋葬した塚である。1646年に祐傳寺から八柱神社の境内に改葬された。 | ||
K‐AC227 |
松平信康首塚 |
1579年9月15日、織田信長より武田勝頼内通の疑いをかけられ二俣城で自刃した松平信康の首塚である。信長の首実検後に投村根石原に埋められ、翌年に若宮八幡宮として祀られた。 | ||
K‐AC228 | 神明宮第1号古墳 | 直径約19m,高さ約2.9mの円墳である。埋葬施設は南西方向に開口し横穴式石室で全長約11.6mにおよぶ複室構造をとる。古墳時代後期の6世紀後半から7世紀初めの築造とみられる。 | 県 | |
K‐AC229 |
武茂泰藤墓所 |
三河における大久保氏の祖となった武茂泰藤の墓所である。南北朝時代に下野国の豪族・宇都宮氏の支族である武茂泰藤が三河国の上和田郷に移り住み、忠俊のときに大久保氏に改めた。 | ||
K‐AC230 |
妙春尼墓所 |
三河の本願寺教団の赦免と再興に尽力し、1599年に亡くなった妙春尼(妙西尼)の墓である。遺髪をもって墓としている。 | ||
K‐AC231 |
浄瑠璃姫墓所 |
誓願寺にある浄瑠璃姫の墓所である。『浄瑠璃物語』のよれば、浄瑠璃姫は14歳のとき、京から奥州へ向かう牛若(源義経)と恋に落ちるが、その別れの悲しみで菅生川に入水したという。なお、他の伝説も残る。 | ||
K‐AC232 |
浄瑠璃姫墓所 |
成就院にある浄瑠璃姫と侍女・十五夜(冷泉尼)の墓所である。兼高長者が寄進したとされる如来像が並ぶ。姫の菩提を弔うために、十五夜が出家して冷泉寺を建て、後に成就院となる。 | ||
K‐AC233 |
浄瑠璃姫墓所 |
岡崎城北東の南切り通し付近にある菅生川に入水した浄瑠璃姫の墓所である。国道1号線沿いに、奥州に向けて建てられている。 | ||
K‐AC234 | 岩津第1号墳 | 岩津古墳群6基のうち、唯一残る第1号墳である。直径18m,高さ3mほどの円墳である。複室型の横穴式石室で、多くの副葬品が出土している。6世紀後半の築造で、7世紀初頭まで追葬が行われていた。 | 県 | |
K‐AC242 | 松平信孝墓所 | 1548年、耳取縄手で討ち死した三木城主・松平信孝の墓所である。浄珠院の墓地片隅にある。 | ||
K‐AC247 | 甲山1号墳 | 甲山に分布する甲山古墳群の1つで、円墳または前方後円墳とされる。近年では前方後円形とする説があり、2号墳を前方部と見立てると墳丘長120mと三河地方では最大規模の前方後円墳となる。 | 市 | |
豊田市 | K‐AC001 | 在原松平氏墓所 | 松平氏,徳川氏の原点となる松平郷の在原氏の墓所。中央に松平信盛、右に信重、左に水女(1426年没)の墓塔が建つ。 | |
K‐AC002 | 松平太郎左衛門家墓所 | 松平郷にある当墓所には松平太郎左衛門家11代の松平信和以降の当主が葬られている。 | ||
K‐AC013 | 足助鈴木氏五代墓所 | 香積寺から飯盛城跡へ向かう登山道の途中に、足助氏が去った後に足助を支配した鈴木氏の五輪塔または宝篋印塔墓が5基並ぶ。家祖鈴木忠親,2代重政,3代重直,4代信重,5代康重の墓である。 | ||
K‐AC014 | 鈴木重氏墓所 | 江戸時代前期の椎城主の一人・鈴木重氏の墓所であり、椎城二の丸跡にある。事績についてははっきりしない。 | ||
K‐AC015 | 装束塚および成瀬一族墓所 | 1331年、関白・二条良基は京都の戦乱から逃れるために足助重範のもとに身を寄せた。二条が足助に滞在中、重範の娘・滝野は良基の子(のちの成瀬基久)を身籠る。滝野は京都へ帰った良基が亡くなると形見の装束を埋めて装束塚とした。同所には足助重範,滝野,成瀬基久,成瀬基直の墓がある。 | ||
K‐AC042 |
〔隣松寺〕 |
初代の細川義季とその弟の戸賀崎義宗、2代細川俊氏、3代の細川公頼の墓が並ぶ。足利義季は、承久の乱後、上野国山田郡広沢から三河国額田郡細川郷に移り細川城山城を築き、地名から細川義季と名乗り細川家の始祖となった。 | ||
K‐AC043 |
〔隣松寺〕 |
隣松寺境内に細川家三代墓所と並んで内藤清長の墓所がある。内藤清長は松平清康,広忠に仕えた武将である。1564年に幸田の萩城にて没している。 | ||
K‐AC044 |
〔隣松寺〕 |
1604年、松平忠吉は病に侵され一時危篤状態に陥るが投薬により蘇生する。しかし、1607年に江戸で家康,秀忠と面会した数日後の3月5日に死去、享年28。忠吉の墓所は東京都の増上寺,名古屋市の性高院にも建てられている。 | ||
K‐AC049 |
滝脇松平氏墓所 |
大給城主・松平親乗に攻められ1556年正月に戦死にした松平正乗と同年3月の再襲撃で戦死した初代乗清,2代乗遠および1575年にその仇を果たした3代乗高の墓が長松院に並ぶ。 | ||
K‐AC053 | 宮口古墳群 | 狭い範囲に4基の古墳が形成されている。被葬者については不明であるが、非常に密接な間柄であったと想像される。過去の出土須恵器類から6世紀後半の築造と考えられている。 | 市 | |
K‐AC054 | 戸田又兵衛直矣墓所 | 1615年5月7日、大坂夏の陣において松平忠直の軍に属し大坂城内で戦死した岩倉城主・戸田直矣の墓所である。 | ||
K‐AC138 | 鴛鴨松平氏墓所 | 松平親光を始祖とする松平氏の庶流。親光,親康,親久と続き、4代目の忠久のときに徳川家康の命令で西尾城主である酒井正親に属し子孫は酒井氏の家老となった。同所には、榊原長政の墓所と、忠久の娘で松平忠吉の養母となった於美津の墓所も並ぶ。 | ||
K‐AC139 | 榊原清長,長政墓所 | 榊原清長,長政は徳川家康の四天王として知られる榊原康政の祖父と父にあたる。清長は1545年、長政は1562年に亡くなっている。 | ||
K‐AC140 | 於美津墓所 | 1610年2月4日、駿府にて死去。遺命により菩提所隣松寺に遺骨を納め、この地が廟所と定められた。於美津は徳川家康の4男福松丸(のちの忠吉)の養母となり、人望厚い忠吉の素地を形成した。 | ||
K‐AC157 | 城塚古墳 | 7世紀後半に築造された直径20~30m,高さ3mの円墳である。発掘調査では須恵器,大甕,碗の陶片が発見されている。 | ||
K‐AC174 |
松平氏墓所 |
高月院本堂の北西に位置し、中央が松平氏初代松平親氏、向かって右側が第2代松平泰親、左側が松平氏第4代松平親忠夫人(鈴木重勝娘:閑照院皎月尼)の墓塔と伝えられる。 | 国 | |
K‐AC175 | 根川古墳群 | もともとは3基からなる古墳であったが、3号墳は県道建設により消滅。1号墳(6世紀中頃築造)と2号墳(6世紀後半築造)は共に直径17mの円墳で、3号墳は直径13mの円墳で6世紀前半の築造と推定される。 | ||
K‐AC239 |
鈴木重延墓所 |
1189年に龍興寺を創建した鈴木重延の墓所である。没年は不明。龍興寺の裏手(北側)にある。 | ||
K‐AC240 |
渡邉家墓所 |
守綱寺本堂裏手にある寺部領主の初代渡邉守綱から13代・綱聰とその一族の墓所である。特徴的なのは、あらゆる墓塔が直方体であること。 | 市 | |
K‐AC241 |
宇都宮三郎墓所 |
1902年、死去した洋学者,軍学者,化学工学者で「日本の近代化学の父」と称される宇都宮三郎氏の墓所である。幸福寺裏手の墓所にある。 | ||
蒲郡市 | K‐AC016 | 三月田第2,3古墳 | 三月田古墳群の2基が並んで築造されている。いずれも円墳で第2号墳は直径約14m、第3号墳は直径約13m。横穴式石室を持ち、7世紀半ば,末の築造と推定される。 | |
K‐AC189 |
安達藤九郎盛長墓所 |
三河国の初代守護代で長泉寺を中興開山した安達藤九郎盛長の墓所である。1200年にこの地で没したという。享年66。墓所は長泉寺境内の龍田稲荷の後方に五輪塔が建つ。 | 市 | |
K‐AC190 |
五井松平氏墓所 |
五井城の初代・松平忠景から2代・松平長勝,3代・松平信長,4代・松平忠次,5代・松平景忠の墓所である。長泉寺の墓地北側にある。 | ||
K‐AC208 | 田の神古墳 | 7世紀頃築造の円墳で、主体部は横穴式石室であるが、古墳を覆っていた土が失われて天井石が露出している。石室を利用して田の神神社が祀られている。 | ||
豊川市 | K‐AC062 |
〔大聖寺〕 |
1560年、桶狭間の戦いで敗死した今川義元の胴塚である。家臣達が義元の遺体を背負って駿河へ帰る途中、この地に葬り、手水鉢を置いて墓石とした。氏真は父の三周忌を大聖寺で営んだ。 | |
K‐AC063 |
一色時家墓所 |
大聖寺の境内の今川義元墓所(胴塚)の横に建てられている。一色時家は永享の乱に敗れて三河一色氏を頼り東三河に落ち延びた。この地に長山一色城を築くが、1477年、家臣によって討たれてしまう。 | ||
K‐AC064 | 船山古墳 | 現在はかなり削り取られているが、東三河最大級の前方後円墳である。造出では食物供献儀礼遺物が検出されている。5世紀後半の築造と推定され、被葬者に穂国造の菟上足尼を比定する説がある。 | ||
K‐AC201 | 権現山1号墳 | 権現山尾根線上に築造された全長38.4mの前方後円墳である。後円部中心に竪穴式石槨が存在し、葺石,二重口縁壺の破片が出土している。4世紀後半頃の築造と推測される。 | 県 | |
K‐AC202 | 権現山2号墳 | 権現山尾根線上に築造された全長33mの前方後円墳である。主体部(埋葬施設)は不明であり、葺石,埴輪もみられない。土師器の高坏の出土や墳形,立地上から3世紀後半頃の築造と推測される。 | 県 | |
K‐AC206 | 勝山1号古墳 | 馬越長火塚古墳の北西、白山神社横の丘陵上にある全長44mの前方後方墳である。埋葬施設は不明。前方部が後方部に比べかなり低いことから古墳時代前期の築造と推定される。 | ||
K‐AC209 | 関口刑部墓所 | 廃寺となっている慶忠院跡に残る五輪塔は登屋ヶ根城主だった関口刑部の墓(供養塔)とされる。最後の城主・関口教兼の墓と思われる。 | ||
K‐AC210 | 船山古墳 | 前方部を南西に向ける全長37mの前方後円墳である。後円部墳頂には盗掘跡とみられるくぼみが残る。築造時期は6世紀中頃以前と推定されている。 | 市 | |
K‐AC211 | 五社稲荷古墳 | 菟足神社の北東に位置する直径約32.5m,高さ約4.75mの円墳である。墳頂には五社稲荷神社が建つ。明確ではないが、古墳時代中期の築造と考えられている。 | ||
K‐AC212 | 糠塚古墳 | 五社稲荷古墳の北東、奥の院の東にある直径約17.5mの円墳である。 | ||
K‐AC213 | 伊奈城主本多家墓所 | 「お松見」と呼ばれている伊奈城主・本多家のうち第6代城主・本多忠俊とその妻,嫡子・本多光忠とその妻、および第7代城主・本多忠次の計5名、4基の墓碑がある。 | ||
K‐AC219 |
伊奈城主本多氏五代墓所 |
東漸寺にある伊奈城主・本多家のうち初代から5代城主の墓所である。大正時代初期に舞々辻の多数の宝篋印塔や五輪塔が東漸寺に納められ、墓所として再建した。 | ||
K‐AC220 | 佐脇刀祢太夫墓所 | 佐脇城の最後の城主で、1575年の長篠設楽原の戦いで討死した佐脇刀祢太夫の墓とされる。 | 市 | |
豊橋市 | K‐AC200 | 久太夫塚古墳 | 上地1号墳とも呼ばれる。直径10mほどの円墳で南側に両袖型横穴式石室の開口部がある。羨道部はほとんど失われている。7世紀頃の地方有力者の墓と推定される。 | |
K‐AC203 | 馬越長火塚古墳 | 6世紀末葉築造の全長70ⅿの東三河最大級の前方後円墳である。馬越長火塚古墳群のひとつ。横穴式石室は3室構造で穂国造の墓に比定されている。棘葉形杏葉(馬具)が出土している。 | 国 | |
K‐AC204 | 大塚南古墳 | 馬越長火塚古墳群に属する直径19mの円墳である。調査の結果、側壁の石が吉田城の石垣に使われた可能性もある。馬越長火塚古墳に続く首長の墓と考えられ、7世紀初頭の築造とされる。 | 国 | |
K‐AC205 | 口明塚南古墳 | 馬越長火塚古墳群の1基で直径23mの円墳である。全長約10mの大型横穴式石室が発見されている。穂国造の最後の首長墓と考えられている。築造時期は6世紀後半から7世紀前半と推測される。 | 国 | |
K‐AC207 | 神山古墳 | 賀茂神社の境内に立地する直径約28m,高さ約3.5mの円墳で6世紀頃の築造とされる。主体部は不明。被葬者は豊橋市北部の有力な首長と推定される。 | ||
新城市 | K‐AC030 |
鳥居強右衛門勝商墓所 |
1575年5月、鳥居強右衛門勝商は武田軍に包囲攻撃された長篠城から岡崎城に援軍要請に走り、長篠城へ引き返ところを武田軍の兵に捕らえられた。長篠城兵に向かって援軍が来るまで持ちこたえろと叫び、その場で殺された。合戦後、亡骸は新昌寺に埋葬された。 | |
K‐AC031 |
馬場信房墓所 |
馬場信房は1575年の長篠の戦いで武田勝頼退却の殿を務め、橋詰の辺りで勝頼の姿が見えなくなったのを見届けたのち、反転して追撃の織田軍と激戦の末、戦死。享年61。首級は長篠城付近まで運ばれ、この地に埋められた。 | ||
K‐AC032 |
真田信綱,昌輝兄弟墓所 |
1575年5月21日の設楽原での決戦では、西の連吾川と東の五反田川に挟まれた丘陵地に馬場信房,土屋昌次らとともに右翼に構えた。織田軍の佐久間信盛が守る丸山砦での戦いで討死した。 | ||
K‐AC033 |
〔長篠古戦場〕 |
1575年5月の設楽原の決戦では天王山に陣を張り柳田前激戦地で織田徳川連合軍と激戦を繰り返した。武田勝頼を戦場から逃すため天王山の陣地に退き、最後は朝比奈泰勝により討ち取られた。 | ||
K‐AC034 |
山本信供墓所 |
山本勘蔵信供は武田の軍師であった山本勘助晴幸の子で20歳の若さで長篠設楽原の戦いに臨んだ。 |
||
K‐AC035 |
高坂昌澄墓所 |
山本信供とともに長篠城を取り囲む城監視隊長としての役割を果たした。5月21日、鳶ヶ巣山の守備隊を壊滅させた酒井忠次率いる別働奇襲隊は有海村駐屯軍へも襲い掛かり、25才の若さで討死した。 | ||
K‐AC036 |
土屋昌次墓所 |
土屋昌次は、1575年5月21日の設楽原決戦の大宮前激戦地にて、連合軍の三重に廻らされた柵の第二柵まで突破し、第三柵に辿り着くところで一斉射撃により戦死した。 | ||
K‐AC037 |
〔長篠古戦場〕 |
1575年5月21日の設楽原決戦では、山県昌景らとともに100騎の侍大将として左翼隊に属し徳川軍に対した。当初、勝楽寺前から竹広激戦地へと奮戦したが、柳田前激戦地近くの庄屋屋敷門扉に寄りかかり立ったまま切腹したという。 | ||
K‐AC038 |
〔長篠古戦場〕 |
陣場奉行であった原昌胤は、1575年5月21日の設楽原決戦では他の武将とともに武田勝頼に撤退を進言したが容れられず、内藤昌豊らと共に徳川本隊を目指して攻撃し、敵の銃弾を浴びて討死にした。 | ||
K‐AC039 |
〔長篠古戦場〕 |
5月21日の決戦では、左翼隊の主力として徳川方の大久保忠正隊を攻撃、弾正山の徳川家康本陣へ向かって突入したが戦死した。戦死の様子については定かでないが、遺体は胴切山に葬られている。胴切山には、昌景とともに子も昌次,従士名取道忠の墓が並ぶ。同所には高坂助宣の墓もある。 | ||
K‐AC040 |
〔長篠古戦場〕 |
小幡信貞は、父の小幡憲重や弟と共に1575年の長篠の戦いに参戦している。ただし、信貞自身は戦死せず、古戦場にある墓は戦死した父の墓とも弟のものともいわれるが明確ではない。 | ||
K‐AC055 | 奥平貞盛墓所 | 亀山城を築いた奥平貞俊の次男で、和田城を築き和田奥平氏と呼ばれた奥平貞盛の墓である。宝篋印塔二基と石祠が祀られており、宝篋印塔は室町時代の建立と推測されている。 | ||
K‐AC056 | 松平親盛墓所 | 1530年、松平清康の宇利城総攻撃の際に大手で戦死した清康の叔父・松平親盛の墓所である。 | ||
K‐AC061 |
近藤家墓所 |
1802年に金指近藤寿用が再建した。右端から近藤家の先祖とされる近藤秀乗(秀兼?),乗満,直満,満乗の4名を祀った石塔、宇利城主となった近藤満用とその子息の乗直,忠用の4つの石塔が並ぶ。 | ||
K‐AC065 | 断上山古墳 | 第9号,第10号古墳は丘陵の先端部に位置する。第9号古墳は直径約17m,高さ3mの円墳、第10号古墳は古式の前方後方墳である。築造は4世紀前半と考えられ、東三河地域最初期の古墳である。 | ||
K‐AC066 |
〔長篠古戦場〕 |
1575年5月21日の設楽原の決戦で戦死。山県昌景,山県昌次,従士名取道忠の墓と並ぶ。また、新昌寺にも高坂助宣と伝えられる墓がある。 | ||
K‐AC067 |
〔長篠古戦場〕 |
いずれも1575年の長篠設楽原の戦いで武田軍として討死した武将である。墓碑はもともと各々別の場所にあったが、新東名高速道路の建設のために、ここ新昌寺本堂裏に移設された。向かって右から和気宗勝,高坂助宣,横田康景,小山田昌晟の墓碑である。隣には、鳥居強右衛門勝商墓所がある。 | ||
K‐AC068 |
禰津是広,常田春清,鎌原之綱墓所 |
1575年5月21日の設楽原での決戦において、真田信綱,昌輝兄弟とともに奮戦し戦死した禰津是広,常田春清,鎌原之綱の墓である。真田信綱,昌輝兄弟の墓と並び建てられている。 | ||
K‐AC069 |
岡部竹雲斎,岩手胤秀墓所 |
1575年の設楽原の戦いでは東弾正山を守る岡部盛久,小山田信茂,小笠原長忠,岩手胤秀,城和泉守らに対し、徳川軍の大須賀康高,菅沼定政,三宅康定,戸田忠次,高力康長らが押し寄せ、壮絶な白兵戦となった。岡部竹雲斎が大須賀勢に討たれ、次いで岩手胤秀が三宅の手に討たれたといわれている。 | ||
K‐AC070 |
川窪詮秋,土屋直規,望月重氏墓所 |
1575年の設楽原の戦いで討死した川窪詮秋,土屋直規,望月重氏の墓である。3名は中央軍に属していたが、戦局が悪化し大敗が濃厚となると武田勝頼の退却を援護し、最後は死を覚悟した壮絶な戦いの末に討死した。 | ||
K‐AC071 |
五味貞氏墓所 |
五味貞氏は長篠の戦いでは武田方の浪人組の将として名和無理之助らとともに中山砦に布陣していた。5月21日早朝、織田徳川連合軍別働隊の酒井忠次らの奇襲攻撃に遭い討死したという。 |
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K‐AC072 |
横田綱松墓所 |
横田綱松(康景)は1575年の設楽原の戦いで息子3人とともに討死した。遺された子の横田尹松は武田氏が滅亡すると、家康の家臣となり使番・軍監に任じられ、江戸幕府開幕後は旗本となっている。 | ||
K‐AC073 |
米倉正継墓所 |
1575年5月21日の設楽原での決戦では、馬防柵を乗り越えて織田軍内に突入して討ち死にしたとされるが、詳細は不明である。 | ||
K‐AC074 |
堀無手右衛門墓所 |
1575年5月21日の設楽原の決戦では武田勝頼の叔父・一条信龍の家臣として戦い、勝頼軍が大敗したとき、殿りを務め奮戦して戦死。戦死した場所は不明であるが、墓は五反田川の甲田橋近くにある。 | ||
K‐AC075 |
笠井満秀墓所 |
1575年5月21日の設楽原の決戦で武田軍が敗走して出沢の橋詰まで来たとき、笠井満秀は勝頼の馬が疲弊したのを知ると、自分の馬を勝頼に勧めてここを立退かせ、自らは「我こそは勝頼」と名乗って、瀧川助義と組討ち、刺し違えて戦死した。墓は龍泉寺横の道路沿いにある。 | ||
K‐AC076 |
三枝守友,守義兄弟墓所 |
1575年の長篠の戦いでは、三枝兄弟は姥ヶ懐砦の守備を担当していた。5月21日早朝、奇襲隊副将格の本多広孝の軍勢に高所から攻め掛けられ奮戦したが、守友は守義,守光らとともに戦死した。 | ||
K‐AC077 |
〔長篠古戦場〕 |
高森恵光寺快川は、武田信実の指揮下に入っており、当初、鳶ヶ巣山砦を守備していたようであるが、酒井忠次の奇襲攻撃を受け壊滅状態となり、下山して設楽原の武田勢と合流したと考えられる。しかし、子の恵光寺快川はじめ、主従ことごとく戦死し、ここに葬られた。 | ||
K‐AC078 |
〔長篠古戦場〕 |
1575年5月21日の設楽原の戦いでは敗走する武田軍を追撃し橋詰まで来たとき笠井満秀を組討ちしたが、自身も深手を負い、翌日、瀧川屋敷で亡くなった。墓は新城総合公園北の亦谷中世墓地にある。 | ||
K‐AC079 |
〔長篠古戦場〕 |
1575年5月21日の設楽原の決戦で敗北濃厚となった武田軍が甲斐へ敗走し出沢まで来た時、殿として馬場信房らとともに戦い、戦死したものと思われる。 | ||
K‐AC080 |
樋口兼周墓所 |
1575年5月21日に設楽原での決戦で大敗した武田勝頼軍が、才の神から甲田,宮脇,浅木,出沢,銭亀へと向かう退路に位置する。墓所は、もとは鳥居田の中にあったが、圃場整備でこの地に移された。 | ||
K‐AC081 | 山本信供墓所 | 1575年5月21日に20歳の若さで長篠設楽原の戦いで討死した山本信供の墓が父・晴幸の墓と並ぶ(向かって左が信供の墓)。子孫の方が建てられた墓所がある。 | ||
K‐AC082 |
〔甘泉寺〕 |
1575年5月、鳥居強右衛門勝商は武田軍に包囲攻撃された長篠城から岡崎城に援軍要請に走り、長篠城へ引き返ところを武田軍の兵に捕らえられた。長篠城兵に向かって援軍が来るまで持ちこたえろと叫び、その場で殺され、亡骸は新昌寺に埋葬された。その後、織田信長は彼の功績を称え、ここに丁重に葬ったとされる。横には夫人がともに眠る。 | ||
K‐AC083 |
亀姫墓所 |
奥平信昌の正室として新城城に迎えられた。亀姫は熱心な浄土宗の信者で、当地に大善寺を建立し、母の築山御前の法要や長篠の戦いの戦死者の供養を行っている。のちに岐阜加納に移り1625年に死去したが、4男の松平忠明が母の供養のため五輪塔を建立した。 | ||
K‐AC084 |
菅沼家歴代墓所 |
初代新城藩主の菅沼定実から11代定長までの菅沼家歴代の墓がある。宗堅寺は1648年に菅沼定実が丹波亀山から新城城に移封されたときにこの地に移したものである。寺には1573年の武田軍の野田城攻めの際、鳥居三左衛門が信玄を狙撃したとされる火縄銃「信玄砲」が保存されている。 | ||
K‐AC085 | 山本勘助晴幸墓所 | 工事中 | ||
K‐AC214 | 奥平貞寄墓所 | 和田家祖・奥平貞盛の子で、岩波城主となった奥平貞寄の墓所とされる。貞寄の事績についてははっきりしない。墓所は岩波城跡の北東300mほどの県道436号線沿いにある。 | ||
K‐AC218 | 野田菅沼氏墓所 | 泉龍院境内にある野田城初代城主の菅沼定則,2代・菅沼定村,3代・菅沼定盈、そして丹波亀山城主となった菅沼定芳の墓碑である。 | ||
K‐AC191 | 丸根古墳 | 直径11m,高さ約2mの円墳で、横穴式石室は全長4.31m,玄室長1.52m,幅1.15m,羨道長2.79m。羨道は埋まっていて玄門上部が開口している。出土遺物から7世紀初頭の築造とされる。 |
美濃地方 | 岐阜地域 | 岐阜市・羽島市・瑞穂市・本巣市・山県市・各務原市・本巣郡北方町・羽島郡岐南町・羽島郡笠松町 |
西濃地域 | 大垣市・海津市・養老郡養老町・安八郡輪之内町・安八郡安八町・安八郡神戸町・不破郡関ヶ原町・不破郡垂井町・揖斐郡池田町・揖斐郡大野町・揖斐郡揖斐川町 | |
中濃地域 | 関市・美濃市・美濃加茂市・郡上市・可児市・加茂郡坂祝町・加茂郡富加町・可児郡御嵩町・加茂郡川辺町・加茂郡七宝町・加茂郡八百津町・加茂郡白川町・加茂郡東白川村 | |
東農地域 | 多治見市・土岐市・瑞浪市・恵那市・中津川市 | |
飛騨地方 | 下呂市・高山市・飛騨市・大野郡白川村 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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不破郡 関ケ原町 |
K‐GF001 | 常盤御前墓所 | 1186年、常盤御前は侍女と共に源義経を追いかけ関東へ向かう途中に、この辺りで土賊に襲われ命を落としたのだという。亡骸は村人たちによって埋葬された。 | |
岐阜市 | K‐GF002 | 琴塚古墳 | 全長115m、後円部直径69m,高さ10.5m、前方部幅74.2m,高さ7.5mと岐阜県内では3番目の規模の前方後円墳。5世紀頃の築造と推定され、被葬者は景行天皇の后の五十琴姫命と伝えられており、琴塚の名もこれに由来する。 | 国 |
K‐GF019 |
土岐成頼墓所 |
1497年4月3日、享年56で死去した第8代美濃守護・土岐成頼の墓所である。瑞龍寺本堂の西側山麓にあり、家臣であった斎藤妙椿の墓と並ぶ。墓石はなく、わずかに60cmの土盛りがある。 | 県 | |
K‐GF020 |
斎藤妙椿墓所 |
1480年2月21日、享年70で病死した斉藤妙椿の墓所である。瑞龍寺に葬られた。美濃国守護で主君の土岐成頼の墓と並んでいる。墓石はなく、60cmの土盛りがある。 | 県 | |
K‐GF024 |
悟渓宗頓墓所 |
1500年10月9日、妙心寺四派の一つである東海派の開祖となった臨済宗の僧・悟渓宗頓の墓所である。の山門の西側にある。墓には墓石はなく、高さ約40cmほど土盛りされている。 | 県 | |
K‐GF025 | 斎藤道三供養塔 | 1556年、嫡子・斉藤義龍との長良川の戦いで討たれた斎藤道三の供養塔である。菩提寺の常在寺境内に建てられている。 | ||
本巣市 | K‐GF022 | 宗慶大塚古墳 | 全長63mの前方後円墳であるが、加工を受け原形をとどめていない。出土遺物から古墳時代初頭(3世紀後半)の築造と推測されている。埋葬者は一説には本巣国造の神大根王あるいはその子孫ともいわれている。 | 県 |
各務原市 | K‐GF023 | 承久の乱合戦供養塔 | 1221年6月5日の承久の乱における摩免戸(大豆戸)の戦いでの鎌倉幕府軍,朝廷両軍の戦没者供養のための五輪塔群である。昭和30年代に矢熊山に移転安置された。 | 市 |
大垣市 | K‐GF003 |
土岐康貞墓所 |
土岐頼清の子で美濃守護・土岐頼康の弟である土岐康貞の墓所。墨俣城近くにある明台寺の墓地の東側にある。 | 市 |
K‐GF014 |
島津豊久墓所 |
1600年、島津豊久は関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて島津軍の殿を務めながら退却したが烏頭坂で深手を負い白拍子谷で自刃した。墓所は瑠璃光寺の東にある。 | ||
K‐GF021 |
斎藤利藤墓所 |
1498年、2年前の船田合戦で敗北し失意の内に世を去った美濃守護代・斎藤利藤の墓である。長良川西の明台寺にある。 | 市 | |
安八郡安八町 | K‐GF018 | 源 義円墓所 | 1181年3月10日、墨俣川の戦いで源行家軍に加わって戦死した源義円の墓である。享年27。義円は単騎敵陣に夜襲を仕掛けようと試みるが失敗し討ち取られた。 | 市 |
可児市 | K‐GF004 | 千村家墓所 | 工事中 | |
K‐GF005 | 八坂入彦命墓所 | 美濃国を開拓し長きにわたって統治していたとされる八坂入彦命の墓。大萱古墳とも呼ばれている。八坂入彦のふたりの娘、姉の八坂入姫と妹の弟姫と景行天皇との伝承が泳宮に残されている。 | ||
K‐GF006 |
明智一族墓所 |
明智城跡のある山の麓にあり、明智一族の菩提寺とされる天龍寺の一画にある。小さな墓石群であり、明智城跡にあったものを集めて整備したといわれ、明智氏のものである確証はないらしい。 | ||
K‐GF007 | 身隠山御嶽古墳 | 隣接する身隠山白山古墳と合わせて身隠山古墳群と呼ばれている。築造年代は古墳時代前期末頃4世紀後半とされ、身隠山白山古墳よりやや遅い時期と考えられている。推定直径約36m,高さ約4.5mの二段築成の円墳である。 | 県 | |
K‐GF008 | 身隠山白山古墳 | 隣接する身隠山御嶽古墳と合わせて身隠山古墳群と呼ばれている。築造年代は古墳時代前期後半4世紀後半とされ、同市内の長塚古墳と同時期、身隠山御嶽古墳よりやや早い時期と考えられている。推定直径約42m,高さ約4.5mの二段築成の円墳である。 | 県 | |
K‐GF009 | 熊野古墳 | 墳丘規模は直径約30m,高さ約5mの円墳で、7世紀前半の後期古墳であったと推定されている。可児地域屈指の巨石を利用した石室や納められた金銅装大刀から判断して、この地域の首領級の墳墓であると考えられる。石室上部が大きく露呈している。 | 県 | |
K‐GF010 | 長塚古墳 | 隣接する野中古墳,西寺山古墳とともに「前波の三ツ塚」と俗称されている。西寺山古墳→野中古墳→長塚古墳の順に築造されたと考えられている。本古墳は全長81m,高さ5.9mと東濃地方では最も大きい古墳時代中期(4世紀後半)築造と推定される前方後円墳である。 | 国 | |
K‐GF011 | 西寺山古墳 | 「前波の三ツ塚」のひとつ。埋葬者は4世紀に可児地域に大きな権力を持った首長であろう。全長60m,前方部26m,後方部34mの前方後方墳である。 | 市 | |
K‐GF012 | 野中古墳 | 「前波の三ツ塚」のひとつ。全長62m,後円径38.4m,頂径9m,前方幅36.5m,前方長30mと推定される前方後円墳である。現在は、墳丘の1/4程度しか残されていない。 | ||
加茂郡富加町 | K‐GF026 | 井高一号古墳 | 古くから「火塚」と呼ばれている直径約20mの円墳、一辺約23mの方墳、もしくは上円下方墳とされている。埋葬施設は横穴式石室で玄室が複室構造となっている。7世紀頃の築造と推定される。 | 町 |
美濃加茂市 | K‐GF013 | 夕田茶臼山古墳 | 墳丘長39.5m、後円部は不整形な円形で直径24.5m,くびれ部幅10.5m、前方部は長さ15m,前面幅15.1mの左右非対称な前方後円墳である。3世紀前半頃の築造と推定される県下最古級の遺跡といわれ、早い段階にこの夕田付近に権力を持つ有力者が誕生していたことがうかがわれる。 | 県 |
恵那市 | K‐GF015 | 明智光秀御霊廟 | 龍護寺の山門の手前に設けられている。1582年、落命したとされる明智光秀の供養塔である。光秀に関する碑は「悲痛な思い」でことごとく割れるという通説があり、この供養塔も斜めに大きくひびがはいっているという。 | |
K‐GF016 | 遠山氏累代墓所 | 二座の如意輪観音菩薩像と遠山景行はじめ初代ら10代までの明智領主遠山氏の墓所である。龍護寺境内にある。 | ||
K‐GF017 | 於牧の方墓所 | 1579年に丹波国で磔にされたとする明智光秀の母・於牧の方の墓所である。1743年に建てられた。 |
北勢 | 桑名郡木曽岬町・桑名市・いなべ市・員弁郡東員町・三重郡菰野町・三重郡朝日町・三重郡川越町・四日市市・鈴鹿市・亀山市 |
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伊賀 | 伊賀市・名張市 |
中勢 | 津市・松阪市・多気郡明和町・多気郡多気町・多気郡大台町 |
南勢 | |
東紀州 | 北牟婁郡紀北町・尾鷲市・熊野市・南牟婁郡御浜町・南牟婁郡紀宝町 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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桑名市 | K‐ME003 | 久松松平家一統墓所 | 照源寺裏手に桑名城藩祖・松平定勝(1624年没)はじめ、松平定綱(1652年没),松平定信(1829年没)など久松松平家の藩主,その夫人,息女および関係者の供養塔が並ぶ。 | 県 |
K‐ME007 | 松平定良墓所 | 市 | ||
K‐ME009 | 高塚山古墳 | 桑名市街地の西部丘陵頂部に築造された墳丘長約56m程度の前方後円墳である。墳丘表面では円筒埴輪,形象埴輪,土師器が検出されている。埋葬施設は明らかでない。4世紀末葉頃の築造と推定される。 | ||
いなべ市 | K‐ME006 | 麻績塚古墳群 | 久保院境内に存在する2基の古墳。1号墳は墳長約43mの北勢地方唯一の前方後方墳となっている。2号墳は直径16m,高さ1.5mの円墳である。4世紀中葉の築造と考えられ、埋葬者は麻績氏と伝えられる。 | 市 |
三重郡菰野町 | K‐ME008 | 菰野藩主土方家墓所 | ||
津市 | K‐ME001 | 土田御前墓所 | 1594年1月7日に亡くなった織田信秀の継室で信長,信行,秀孝,信包,於市,於犬の生母の墓である。津市の塔世山四天王寺にある。1590年に信雄が改易された後は伊勢国安濃津の信包のもとに引き取られ同地で死去した。 | |
K‐ME005 | 藤堂高虎久芳夫人墓所 | 津市の塔世山四天王寺にある一色義直の娘で藤堂高虎の室となった久芳院の墓所である。1616年8月20日、津城で亡くなり四天王寺に葬られた。 | ||
松阪市 | K‐ME002 | 六代墓所 | 工事中 | |
K‐ME004 | 滝之川古墳 | 真性寺山に築城された石室が片袖式の横穴式石室墳である。被葬者は定かではないが、かま,こしき一式などが出土したことから渡来系氏族の可能性もある。手前の1号石組は祭祀遺跡と推測される。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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大野市 | K‐FU001 | 朝倉義景墓所 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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珠洲市 | K‐IK001 | 平時忠墓所 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐TY001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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大津市 | K‐SG001 | 弘文天皇長等山前陵 | 工事中 | |
K‐SG002 | 今井兼平墓所 | 工事中 | ||
K‐SG003 |
源義光墓所 |
工事中 | ||
K‐SG006 | 天海大僧正廟所 (慈眼堂) |
1643年、一説には108歳で没したとされる天海大僧正を祀る廟所、慈眼堂である。徳川家光によって1646年に滋賀院門跡の南西に建立された。 | ||
K‐SG010 |
明智光秀一族墓所 |
近江国坂本の西教寺境内にある明智光秀の供養塔と明智一族の墓所である。明智一族としては光秀の正室で細川ガラシャの母でもある明智熈子の墓がある。また、熈子の出である妻木一族の供養碑が建てられている。 | ||
K‐SG011 |
長谷川藤広墓所 |
江戸幕府長崎奉行を勤めて対外貿易の管理とキリスト教の取り締まりにも腕を振い、1617年10月26日死去した長谷川藤広の墓所である。同郷の真盛上人が西教寺を中興している。 | ||
K‐SG012 | 穴太野添古墳群 | 6~7世紀頃の群集墳で152基が確認されている。すべてが円墳で内部主体は一部を除き横穴式石室である。出土遺物から渡来人の墓だったのではないかと考えられている。 | ||
K‐SG017 | 真野古墳 | 工事中 | ||
K‐SG018 |
真盛上人廟所 |
1486年、中興の祖といわれる真盛が入寺する。晩年の10年を西教寺の復興と布教に努め、1495年に旅先の伊賀国で死去している。御廟は西教寺中心伽藍を見下ろす高台にある。 | ||
近江八幡市 | K‐SG004 | 瓢箪山古墳 | 全長134mを測る前方後円墳。埋葬施設は、後円部に竪穴式石室3基、前方部に箱式石棺2基が確認されている。4世紀中葉頃の築造と推定され、狭狭城山君との関連が指摘されている。 | 国 |
野洲市 | K‐SG019 | 1185年6月22日、平宗盛はじめ嫡男・平清宗らが処刑された所で胴塚が建てられている。近くには首洗い池があった。 | ||
東近江市 | K‐SG005 | 市辺押磐皇子墓所 | 安康天皇3年10月に大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)に殺された市辺押磐皇子と佐伯部売輪の墓として管理されている。子の顕宗天皇が置目老嫗の案内から亡父の遺骨の所在を知り、改めて陵を築いた。 | |
米原市 | K‐SG007 |
土肥元頼墓所 |
1284年、8年前の落雷により焼失した法隆寺を当地の地頭で鎌刃城主・土肥元頼が、一向俊聖を招いて堂塔を再興し蓮華寺と改称した。元頼は、1288年9月18日逝去し、蓮華寺の墳墓に葬られた。 | |
K‐SG008 |
北条仲時一行墓所 |
1333年、足利尊氏に攻められた六波羅探題北方の北条仲時は東国へ落ち伸びる途中、佐々木道誉に行く手を塞がれ、やむなく蓮華寺へ至り本堂前で一族郎党432名とともに自刃した。 | ||
犬上郡 |
K‐SG009 |
佐々木道誉墓所 |
1373年、勝楽寺にて卒去した佐々木道誉の墓所である。足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒し室町幕府成立に尽力し、事実上の幕府の最高実力者として君臨した。婆娑羅大名のひとりとしても知られる。 | |
高島市 | K‐SG013 | 打下古墳 | 明神崎北麓の日吉神社背後の山腹に築造された古墳である。石棺のみが発見され、古墳形状は不明。頭骨などが残存する。被葬者は明神崎を支配した豪族と推定されている。 | |
長浜市 | K‐SG014 | 茶臼山古墳 | 全長約95m,全高約9mの原形を保つものの中では湖北最大の前方後円墳。4世紀後半の築造で長浜平野および湖北一帯を最初に掌握した豪族の首長墓と推定される。 | |
K‐SG015 |
遠藤直経墓所 |
1570年の姉川の戦いに際し、浅井勢の遠藤直経は味方の首級を一つ提げ織田勢に偽装して信長本陣深くまで攻め入ったが、竹中重矩に見破られ討死した。 | ||
K‐SG016 | 石田三成一族,家臣供養塔 | 八幡神社の奥は石田神社とされ、そこに建つ。1941年に神社の地中から故意に破壊された五輪塔の残欠が発掘された。刻まれた文字から石田三成の先祖に関係するものと推測された。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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京都市 | K‐KT001 | 建礼門院陵 | 工事中 | |
K‐KT002 | 小督塚 | 工事中 | ||
K‐KT003 | 後鳥羽天皇大原陵 | 工事中 | ||
K‐KT004 | 順徳天皇大原陵 | 工事中 | ||
K‐KT006 | 禎子内親王陵 | 工事中 | ||
K‐KT007 | 堀河天皇後円教寺陵 | 工事中 | ||
K‐KT008 | 光孝天皇後田邑陵 | 887年8月26日、58歳で崩御した第58代・光孝天皇の陵である。宮内庁上の形式は円丘。小松山陵とも呼ばれる。別に、北方の御室陵墓参考地も光孝天皇が被葬候補者に想定されている。 | ||
K‐KT009 | 円融天皇御火葬所 | 工事中 | ||
K‐KT010 | 後冷泉天皇円教寺陵 | 工事中 | ||
K‐KT011 | 後朱雀天皇円乗寺陵 | 工事中 | ||
K‐KT012 | 後三条天皇円宗寺陵 | 工事中 | ||
K‐KT013 | 一条天皇円融寺北陵 | 工事中 | ||
K‐KT014 | 宇多天皇大内山陵 | 工事中 | ||
K‐KT015 | 藤原乙牟漏高畠陵 | 工事中 | ||
K‐KT016 |
法然上人廟所 |
1212年、法然上人は大谷の禅房で入滅され、門弟たちによって建てられた廟堂に遺骨が奉安された。現在の御廟は、1613年に常陸国土浦藩主の松平信一の寄進を得て改築されたものである。拝殿は1710年に建て添えられた。 |
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K‐KT017 |
千姫墓所 |
1666年2月6日、数奇な運命をたどり江戸で死去した千姫の墓所である。享年70。墓所は小石川伝通院と天樹院弘経寺にあり、知恩院には分骨され宝塔に納められた。 |
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K‐KT018 |
坂本龍馬墓所 |
霊山護国神社にある坂本龍馬の墓である。中岡慎太郎の墓と並ぶ。1867年11月15日、四条河原町の近江屋で陸援隊の中岡慎太郎とともに襲撃され即死。享年33。 |
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K‐KT019 |
中岡慎太郎墓所 |
霊山護国神社にある中岡慎太郎の墓である。坂本龍馬の墓と並ぶ。1867年11月15日、四条河原町の近江屋で海援隊の坂本龍馬とともに襲撃され、2日後の17日に死亡した。享年30。 |
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K‐KT020 |
高杉晋作墓所 |
霊山護国神社にある高杉晋作の墓である。奇兵隊など諸隊を創設して長州藩を倒幕に方向付けた。肺結核の療養中、1867年4月14日に死去。享年29。 |
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K‐KT021 | 池田屋事件殉難烈士墓所 |
1864年6月5日の池田屋事件の殉難者たちの墓碑が京都霊山護国神社にある。尊攘派の古高俊太郎,宮部鼎蔵,吉田稔麿,北添佶摩ら志士たちが戦死した。 |
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K‐KT022 | 明智光秀首塚 |
1582年6月13日、本能寺の変後の山崎の戦いに敗れ、坂本城へ落ち延びる途中に小栗栖の竹藪で落ち武者狩りに殺害された明智光秀の首が埋葬されているとの伝承がある。 |
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K‐KT023 |
文覚上人墓所 |
1205)年、対馬国へ流罪となる途中に鎮西で客死した文覚上人の墓所である。再興に尽力した神護寺に在る。北面武士から出家し、3度の配流を経験するなど波乱に満ちた生涯であった。 |
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K‐KT024 |
性仁法親王墓所 |
後深草天皇の皇子で神護寺に入り、その興隆に尽した性仁法親王の墓所である。1304年、後深草法皇と同年に亡くなっている。 |
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K‐KT025 | 紫式部墓所 |
『源氏物語』の作者で日本文学史を代表する一人として有名な紫式部の墓所である。没年は定かではないが、1019年までは存命したとされる。紫式部の墓の隣には小野篁の墓がある。 |
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K‐KT026 | 小野篁墓所 |
852年12月22日に51歳で亡くなった参議・小野篁の墓所である。紫式部と同所に存在する。 |
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K‐KT027 | 媞子内親王火葬塚 | 工事中 | ||
K‐KT028 |
本阿弥光悦墓所 |
光悦寺内に本阿弥光悦,光瑳,光甫ほか一族の墓所がある。光悦は1637年、81歳でこの世を去り、光悦の屋敷は日蓮宗の光悦寺となった。 |
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K‐KT029 | 朱雀天皇醍醐陵 |
952年に崩御した第61代朱雀天皇の陵である。治世中には平将門の乱,藤原純友の乱が起きている。このほか富士山の噴火や地震,洪水などの災害変異が多かった。952年に出家し仁和寺に入り、同年、30歳で崩御した。 |
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K‐KT030 | 醍醐天皇後山科陵 |
930年9月29日に崩御した第60代・醍醐天皇の陵である。親政を行って数々の業績を収めたため、「延喜の治」と謳われた。しかし、菅原道真を大宰府に左遷して以降、皇族,藤原氏の不幸が続き、心労が重なり崩御した。宝算46。 |
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K‐KT031 | 桓武天皇柏原陵 | 806年3月17日に崩御(宝算70)した桓武天皇の陵である。ただ、柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となっており、確かな場所は不明とされる。 | ||
K‐KT032 | 明治天皇伏見桃山陵 |
1912年7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御し、遺言により伏見城の本丸跡地である桃山の地に9月14日埋葬された。墳丘は古式に範を採った上円下方墳で火葬されていない。 |
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K‐KT033 | 昭憲皇太后伏見桃山東陵 |
明治天皇伏見桃山陵の東に位置する明治天皇皇后・昭憲皇太后の陵。1914年4月9日、狭心症のため沼津御用邸にて崩御(64歳)。 |
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K‐KT034 | 光明天皇大光明寺陵 | 1380年7月26日に宝算60で長谷寺にて崩御した北朝第2代・光明天皇の陵である。崇光天皇陵,治仁王墓と同兆域である。 | ||
K‐KT035 | 崇光天皇大光明寺陵 | 1398年1月31日に宝算65で崩御した北朝第3代・崇光天皇の陵である。光明天皇陵,治仁王墓と同兆域である。 | ||
K‐KT036 | 伏見宮治仁王墓所 | 1417年2月12日に48歳で亡くなった栄仁親王の子で伏見宮第2代当主・治仁王の墓所である。光明天皇陵,崇光天皇墓と同兆域である。 | ||
K‐KT037 | 仁明天皇深草陵 | 850年5月6日に41歳で崩御した第54代・仁明天皇の陵である。ただ、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。 | ||
K‐KT038 | 仲恭天皇九條陵 | 1234年5月20日に17歳で崩御した第85代・仲恭天皇の陵である。践祚後、即位礼を行う前に承久の乱によって皇位を廃されたため、歴代天皇の中で在位期間が78日と最も短い天皇である。 | ||
K‐KT039 | 皇嘉門院月輪南陵 | 1181年12月4日に61歳で崩御した皇嘉門院(藤原聖子)の陵である。皇嘉門院は摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女で第75代・崇徳天皇の皇后(中宮)となった。 | ||
K‐KT040 | 梨本宮守脩親王墓所 | 1881年9月1日、63歳で亡くなった梨本宮初代の守脩親王の墓所である。泉涌寺内にあり、朝彦親王墓と淑子内親王墓が隣接する。 | ||
K‐KT041 | 桂宮淑子内親王墓所 | 1881年10月3日、53歳で亡くなった仁孝天皇の第三皇女で世襲親王家の桂宮第12代当主であった淑子内親王の墓所である。泉涌寺内にあり、朝彦親王墓と守脩親王墓が隣接する。 | ||
K‐KT042 | 久邇宮朝彦親王墓所 | 1891年10月25日、67歳で亡くなった久邇宮初代当主の朝彦親王の墓所である。激動の幕末,明治への時代を生きた親王である。 | ||
K‐KT043 | 賀陽宮・久邇宮墓地 | 明治以降に亡くなった賀陽宮家,久邇宮家の皇族の円墳である。朝彦親王第2王子の邦憲王(初代賀陽宮),第5王子の多嘉王とそれぞれの王妃、多嘉王の子どもたち3名の計7名が葬られている。 | ||
K‐KT044 | 後堀河天皇観音寺陵 | 1234年8月6日に宝算23歳で崩御した第86代・後堀川天皇の陵である。泉涌寺内にある円丘である。 | ||
K‐KT045 | 冷泉天皇櫻本陵 | 1011年11月21日に62歳で崩御した第63代・冷泉天皇の陵である。『日本紀略』には桜本寺の山傍に遺骨を埋葬したと記され、桜本寺の遺址から明治期に現陵に治定された。 | ||
K‐KT046 | 後一条天皇菩提樹院陵 | 1036年5月15日に数え29歳で崩御した第68代・後一条天皇の陵である。死因は糖尿病とされる。後冷泉天皇皇后となった娘の章子内親王とともに合葬されている。 | ||
K‐KT047 | 章子内親王菩提樹院陵 | 1105年9月17日に享年80で崩御した章子内親王の陵である。章子内親王は後冷泉天皇中宮となる。陵墓には父の後一条天皇とともに合葬されている。 | ||
K‐KT048 | 後水尾天皇髪歯塚 |
1653年、後水尾上皇は再建した大塔の上層部の柱心に落飾時の髪と歯を納めていた。1788年の天明の大火で焼失した後、大塔跡に髪歯塚が造られた。相国寺境内にある。 |
||
K‐KT049 | 陽成天皇神楽岡東陵 | 949年年10月23日、81歳で崩御した第57代・陽成天皇の陵である。宮内庁上の形式は八角丘である。陽成は長命を保ち、上皇歴65年は歴代1位である。 | ||
K‐KT050 |
山名宗全墓所 |
1473年3月18日、応仁の乱の西軍総大将として知られ、乱の最中に病死した山名持豊(宗全)の墓所である。南禅寺塔頭の真乗院内にある。 | ||
K‐KT051 | 後白河天皇法住寺陵 | 工事中 | ||
K‐KT052 | 四条天皇月輪陵 | 1242年1月9日、12歳で不慮の事故により崩御した第87代・四条天皇の陵で、泉涌寺内の月輪陵にある。形態は九重塔。 | ||
K‐KT053 | 後水尾天皇月輪陵 | 1680年8月19日、85歳で崩御した第108代・後水尾天皇の陵で、泉涌寺内の月輪陵のひとつ。形態は九重塔である。 | ||
K‐KT054 | 明正天皇月輪陵 | 1696年11月10日、宝算74で崩御した第109代・明正天皇の陵である。泉涌寺内の月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT055 | 後光明天皇月輪陵 | 1654年9月20日、痘瘡により宝算22で崩御した第110代・後光明天皇の陵である。泉涌寺内の月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。大葬の際、土葬の制が採用された。 | ||
K‐KT056 | 後西天皇月輪陵 | 1685年2月22日、宝算49で崩御した第111代・後西天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT057 | 霊元天皇月輪陵 | 1732年8月6日、宝算78で崩御した第112代・霊元天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT058 | 東山天皇月輪陵 | 1710年12月17日、宝算36で天然痘にかかって崩御した第113代・東山天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。追号の「東山」は泉涌寺山号にちなむ。 | ||
K‐KT059 | 中御門天皇月輪陵 | 1737年4月11日、宝算36で崩御した第114代・中御門天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT060 | 桜町天皇月輪陵 | 1750年4月23日、宝算31で脚気衝心により崩御した第115代・桜町天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT061 | 桃園天皇月輪陵 | 1762年7月12日、宝暦事件後に宝算22で崩御した第116代・桃園天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT062 | 後桜町天皇月輪陵 | 1813年閏11月2日、宝算74で崩御した最後の女帝である第117代・後桜町天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT063 | 後桃園天皇月輪陵 | 1779年10月29日、病気がちで宝算22で崩御した第118代・後桃園天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT064 | 光格天皇後月輪陵 | 1840年11月18日、宝算70で崩御した最後の太政天皇でもある第119代・光格天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT065 | 仁孝天皇後月輪陵 | 1846年1月26日、宝算47で崩御した第120代・仁孝天皇の陵である。泉涌寺内にある月輪陵のひとつ。形式は石造九重塔。 | ||
K‐KT066 | 陽光太上天皇月輪陵 | 1586年7月24日、正親町天皇の嫡男で即位前に薨去し、遺児の和仁親王が後陽成天皇となったことから、陽光太上天皇の尊号を追贈された誠仁親王の陵である。泉涌寺内の月輪陵にある。 | ||
宇治市 | K‐KT005 | 源頼政墓所 | 1180年5月26日、以仁王の挙兵に際し以仁王に与した源頼政は平氏の追っ手に対し平等院に籠って抵抗するが、扇之芝にて渡辺唱の介錯で腹を切って自刃した。享年77。墓所は最勝院境内にある。 | |
木津川市 | K‐KT067 | 和泉式部墓所 | 平安時代の中古三十六歌仙のひとりで『和泉式部日記』『和泉式部集』などの歌集を残した和泉式部の墓と伝わる。没年は不明。ただ生誕地含め死所についても諸説あり、墓といわれるものは全国に数多くある。 | |
K‐KT068 |
平重衡墓所 |
安福寺に建つ平重衡の墓と伝わる十三重石塔である。1185年7月23日、木津川の河原で処刑が行われた。享年29。遺骸と首は妻の輔子が引き取り荼毘に付した。墓は平重衡塚,高野山に、供養塔は般若寺にもある。 |
北部地方 | 市部 | |
郡部 | 山辺郡山添村・生駒郡平群町・生駒郡三郷町・生駒郡斑鳩町・生駒郡安堵町・磯城郡川西町・磯城郡三宅町・磯城郡田原本町・宇陀郡曽爾村・宇陀郡御杖村・高市郡高取町・高市郡明日香村・北葛城郡上牧町・北葛城郡王寺町・北葛城郡広陵町・北葛城郡河合町 | |
南部地方 | 吉野郡吉野町・吉野郡大淀町・吉野郡下市町・吉野郡黒滝村・吉野郡天川村・吉野郡野迫川村・吉野郡十津川村・吉野郡下北山村・吉野郡上北山村・吉野郡川上村・吉野郡東吉野村 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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奈良市 | K‐NR005 | 鑑真和上御廟 | 763年5月6日、日本で波乱の生涯を閉じた唐代の僧人・鑑真和上の御廟である。753年に6回目の渡航計画で渡日が叶い、東大寺大仏殿前で聖武太上天皇らに菩薩戒を授けた。御廟は唐招提寺の北東にある。 | |
K‐NR006 | 重源上人墓所 | 東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺を復興し、1206年に86歳で入滅した俊乗房重源上人の墓所である。 | ||
K‐NR016 | 垂仁天皇菅原伏見東陵 | 宝来山古墳は宮内庁より第11代・垂仁天皇の陵に比定されている。全国第20位の規模を誇る前方後円墳で、4世紀半ば頃の築造と推定される。濠内には田道間守の墓とされる小島がある。 | ||
K‐NR044 |
柳生一族墓所 |
芳徳寺の北にある柳生宗矩を中心に12代・俊順までの藩主および一族の墓所である。墓石,供養塔が86基並んでいる。墓所への道の途中に芳徳寺の第一世住職・列堂和尚の墓がある。 | 市 | |
K‐NR045 | 光仁天皇田原東陵 | 宮内庁により782年に崩御した第49代・光仁天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。当初は広岡山陵に葬られ、786年に田原陵に改葬された。遺跡名は田原塚ノ本古墳で、直径45m,高さ6.5mで幅7mの周濠をもつ。 | ||
K‐NR046 | 太安万侶墓所 | 723年7月6日に卒去した太安万侶の墓所である。1979年に発見され、決め手は木櫃とともに出土した墓誌であった。墳丘は直径4.5mの円墳と推定され木炭槨であった。安万侶は『古事記』『日本書紀』の編纂に関わった。 | 国 | |
K‐NR062 | 聖武天皇佐保山南陵 | 宮内庁により756年6月4日に崩御した第45代・聖武天皇の陵に治定されている。宝算56。宮内庁上の形式は山形。遺跡名は法蓮北畑古墳。東には光明皇后が埋葬されている佐保山東陵がある。 | ||
K‐NR063 | 仁正皇后佐保山東陵 | 760年7月23日、60歳で亡くなった聖武天皇の天平応真仁正皇太后(通称、光明子,光明皇后)の陵である。聖武天皇陵の東に位置する。 | ||
K‐NR064 | 元正天皇奈保山西陵 | 宮内庁により748年5月22日に崩御した第44代・元正天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は山形。独身で即位した初めての女性天皇である。 | ||
K‐NR065 | 元明天皇奈保山東陵 | 宮内庁により721年12月29日に宝算61で崩御した第43代・元明天皇の陵と治定されている。藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造などを行った。 | ||
K‐NR066 | 平城天皇楊梅陵 (市庭古墳) |
宮内庁により824年に51で崩御した第51代・平城天皇の陵と治定されている。遺跡名は市庭古墳で形状は前方後円墳。築造時期は5世紀前半と見られ、平城天皇の時代とは合致しない。 | ||
K‐NR067 | 成務天皇狹城盾列池後陵 (佐紀石塚山古墳) |
宮内庁により第13代・成務天皇の陵に治定されている。遺跡名は佐紀石塚山古墳。古墳は全長218.5mの前方後円墳で古墳時代前期末頃の築造と考えられている | ||
K‐NR068 | 称徳天皇高野陵 (佐紀高塚古墳) |
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により770年に崩御した第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇重祚)の陵に治定されている。遺跡名は佐紀高塚古墳で、墳丘長127mの前方後円墳である。 | ||
K‐NR069 | 日葉酢媛命陵 (佐紀陵山古墳) |
佐紀盾列古墳群の1つで全国32番目の大きさ(全長)の前方後円墳である。築造時期は4世紀末頃とされ、宮内庁により垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている。 | ||
K‐NR070 | 磐之媛命陵 (ヒシアゲ古墳) |
佐紀盾列古墳群の1つで全国24番目の大きさ(全長)の前方後円墳である。築造時期は5世紀中葉~後半とされ、宮内庁により仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されている。 | ||
K‐NR071 | コナベ古墳 (小奈辺陵墓参考地) |
佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つで全国31番目の大きさ(全長)の前方後円墳である。築造時期は東のウワナベ古墳よりやや古い5世紀前半とされ、宮内庁により仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵墓参考地に治定されている。 | ||
K‐NR072 | ウワナベ古墳 (宇和奈辺陵墓参考地) |
佐紀盾列古墳群の1つで全国13番目の大きさ(全長)の前方後円墳である。築造時期は5世紀中頃とされ、宮内庁により仁徳天皇皇后八田皇女の陵墓参考地に治定されている。 | ||
K‐NR073 | 大山守命那羅山墓 (境目谷古墳) |
大山守命は応神天皇の皇子で仁徳天皇,菟道稚郎子の異母兄に当たる。応神天皇の崩御後、密かに皇位を奪おうと謀り皇太子を殺害しようとしたが、皇太子の計略によって水死した。遺骸は那羅山に葬られたという。陵墓は円墳。 |
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K‐NR074 | 崇道天皇八島陵 | 光仁天皇の皇子で桓武天皇の同母弟にあたる早良親王の陵。785年の藤原種継暗殺に連座した疑いを受け、無実を訴えるため絶食し薨去された。のちに崇道天皇と追諡された。 | ||
K‐NR075 | 佐紀瓢箪山古墳 | 佐紀盾列古墳群の1つで全長96mの古墳時代中期前半の前方後円墳である。佐紀盾列古墳群にあって見学可能な大型古墳3基のうちの1基である。 | 国 | |
K‐NR076 | 塩塚古墳 | 佐紀盾列古墳群の1つで築造時期は5世紀前半から中頃と推定される。墳丘全長105mの前方後円墳である。前方部では奈良時代の瓦が出土していることから、後世に削平されて建物が建てられていた可能性がある。 | 国 | |
K‐NR077 | 開化天皇春日率川坂上陵 (念仏寺山古墳) |
宮内庁により第9代・開化天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は念仏寺山古墳といい、墳丘長約100mの前方後円墳である。古墳域は大規模に改変されていると考えられる。 | ||
K‐NR078 | 島左近墓所 |
1600年、関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍として戦い討死した島左近の墓所である。ここ三笠霊苑東大寺墓地のほかに、立本寺教法院,木川墓地などがある。 |
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K‐NR079 | 安康天皇菅原伏見西陵 | 宮内庁により第20代・安康天皇の陵に治定されている。直径約40mの大型円墳である。安康天皇は『宋書』『梁書』の「倭の五王」の興に比定されて、暗殺されたと明確に記された最初の天皇である。 | ||
K‐NR080 | 神功皇后狹城盾列池上陵 (五社神古墳) |
宮内庁により第14代・仲哀天皇の皇后である神功皇后の陵に治定されている。遺跡名は五社神古墳といい、全国第12位の規模の前方後円墳で4世紀末葉頃の築造と推定される。 | ||
橿原市 | K‐NR011 | 孝元天皇劔池嶋上陵 | 宮内庁により孝元天皇の陵に治定されている。中山塚1~3号墳と呼ばれ、円墳2基,前方後円墳1基の三つの墳丘からなっており、そのうちの前方後円墳が治定陵。石川池の脇に半島のように突き出している。 | |
K‐NR037 | 神武天皇畝傍山東北陵 | 宮内庁により日本の初代天皇とされる神武天皇の陵に治定されている。遺跡名は俗称「四条ミサンザイ」という。陵が現在の位置に治定されたのは幕末の頃であり、1940年には、『延喜式』に記された面積の10倍に大拡張されている。 | ||
K‐NR038 | 綏靖天皇桃花鳥田丘上陵 | 宮内庁により第2代・綏靖天皇の陵に治定されている。神武天皇陵の北東に位置し、かつては神武天皇陵の候補地にもなっていた。欠史八代の一人に数えられ、実在性については諸説ある。即位33年に崩御。 | ||
K‐NR039 | 安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵 | 宮内庁により俗称「アネイ山」が第3代・安寧天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は山形。欠史八代の一人に数えられ、実在性については諸説ある。即位38年にて崩御。 | ||
K‐NR040 | 懿徳天皇畝傍山南繊沙渓上陵 | 宮内庁により俗称「マナゴ山」が第4代・懿徳天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は山形。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。 | ||
K‐NR041 | 丸山古墳 | 全長318mの大規模な前方後円墳であり、後円部墳頂は宮内庁により天武天皇,持統天皇の陵墓参考地に治定されている。築造は6世紀後半と推定される。埋葬施設は全長28.4mと全国第1位の規模の横穴式石室である。 | 国 | |
K‐NR081 | 宣化天皇身狹桃花鳥坂上陵 (鳥屋ミサンザイ古墳) |
宮内庁により第28代・宣化天皇および皇后の橘仲皇女の合葬陵に治定されている。遺跡名は鳥屋ミサンザイ古墳で墳丘長138mの前方後円墳である。宣化天皇は満69歳で即位し3年後の539年に崩御したとされる。 | ||
K‐NR082 | 桝山古墳 | 工事中 | ||
K‐NR104 | 新沢千塚古墳群 | 畝傍山の南方に広がる東西2km,南北約2km余りの越智岡丘陵に位置する、径約10~15mの円墳など総数600基以上の群集墳である。これらの墳墓は4世紀末から7世紀にかけて造営され、特に5世紀半ばから6世紀末まで盛んに造られた。 | 国 | |
K‐NR136 | 小谷古墳 | 墳丘封土流失により円墳か方墳か明らかではない。埋葬施設は両袖式横穴式石室で刳抜式家形石棺が据えられている。7世紀後半の築造と推定され、被葬者は大王クラス,皇族を含めた有力氏族の墓と考えられる。 | 県 | |
K‐NR137 | 沼山古墳 | 6世紀後半頃築造の直径約18m,高さ約5.5mの円墳である。埋葬施設は右片袖式の横穴式石室で南方向に開口する。玄室のドーム状の天井部やミニチュア炊飯具のセットの検出から渡来人の墓とする説がある。 | ||
K‐NR168 | 菖蒲池古墳 | 2段築成の方墳である。両袖式の横穴式石室で玄室内部には刳抜式家形石棺2基が据えられる。7世紀中頃の築造と推定され、付近で巨大方墳の小山田古墳が発見されたことから、蘇我蝦夷,入鹿の墓に比定する見方が有力視されている。 | 国 | |
K‐NR169 | 植山古墳 | 東西40m,南北27mの長方墳で東西に2つの横穴式石室が並ぶ双室墳である。築造時期は6世紀末~7世紀前半と推定され、被葬者は山田高塚古墳へ改葬される前の推古天皇と子息・竹田皇子といわれている。 | 国 | |
天理市 | K‐NR010 | 景行天皇山辺道上陵 (渋谷向山古墳) |
宮内庁では景行天皇の陵に治定しているが、実際の被葬者は明らかでない。巨大前方後円墳で後円部の先端を山辺の道が通る。4世紀後半頃(または4世紀中頃)の築造と推定される。 | |
K‐NR018 | 崇神天皇山辺道勾岡上陵 (行燈山古墳) |
柳本古墳群を構成する前方後円墳の1つ。宮内庁により崇神天皇の陵に治定されているが、実際の被葬者は明らかでない。全国では第16位の規模で4世紀前半頃の築造と推定される。 | ||
K‐NR020 | 手白香皇女衾田陵 (西殿塚古墳) |
宮内庁により第26代・継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されている。遺跡名は西殿塚古墳で巨大前方後円墳。築造時期は3世紀後半頃と推定され、手白香皇女の時代とは食い違い、箸墓古墳に後続する大王墓の可能性が指摘されている。 | ||
K‐NR035 | 上の山古墳 | 柳本古墳群に属し景行天皇陵の陪塚のひとつとされる前方後円墳である。景行天皇陵前方部の北に位置し、前方部を南南東に向ける。4世紀後半の築造と推定されている。古墳西側のくびれ部付近には水口神社が建つ。 | ||
K‐NR047 | 櫛山古墳 | 柳本古墳群の一つで行燈山古墳の東に位置する双方中円墳である。中円部の西側に前方部、東側に後方部を備え、墳丘全長は152m。埋葬施設は中円部の頂上に竪穴式石室が発掘されている。4世紀後半の築造とされる。 | ||
K‐NR048 | 黒崎古墳 | 柳本古墳群に属する全長約134mの前方後円墳である。後円部の竪穴式石室からは三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が副葬当時に近い状態で発見された。築造時期を4世紀初頭から前半とも3世紀中葉~後葉とも見られている。 | 国 | |
K‐NR049 | 中山大塚古墳 | 大和古墳群の枝群である萱生古墳群に属する全長約130mの前方後円墳。墳丘構造,石室や埴輪などから古墳時代前期初頭の築造と判断され、箸墓古墳に次ぐ最古級と推定されている。埋葬施設は、後円部の中央に竪穴式石室が築かれ、石室の中からは割竹形木棺が確認された。 | 国 | |
K‐NR050 | 西山古墳 | 前方部を西に向けた三段築成の前方後方墳であるが、1段目のみが前方後方墳の形でその上に前方後円墳が載る形となっている。全長183mで前方後方墳の中で国内最大級である。後方部墳頂に竪穴式石室があるが、すでに盗掘を受けている。 | ||
K‐NR051 | 西乗鞍古墳 | 杣之内古墳群の1つで東から西に延びる丘陵の麓を切断して築造された大型前方後円墳である。主体部の埋葬施設は明らかではないが、横穴式石室の可能性が指摘される。築造時期は5世紀末葉頃と推定され、被葬者は物部氏の首長墓とする説がある。 | ||
K‐NR052 | 小墓古墳 | 杣之内古墳群を構成する前方後円墳の1つ。墳丘長80.5mの三段築成で周囲には盾形の周濠が巡らされており、円筒埴輪,形象埴輪のほか、木製品が多数検出されている。6世紀前半頃の築造と推定され、物部氏の首長墓とする説がある。 | ||
K‐NR053 | 燈籠山古墳 | 大和古墳群を構成する4世紀前葉築造の前方後円墳で、現在は後円部(東側)は果樹園に、前方部(西側)は墓地になっている。埋葬施設は不明だが、後円部に竪穴式石室の部材と見られる板石が採集され、前方部にも割竹形埴質棺や埴製枕が出土している。 | ||
K‐NR108 | 峯塚古墳 | 杣之内古墳群を構成する大型円墳である。墳丘は3段築成で墳丘全体としては高さ約5m。周囲には周濠の可能性が指摘される。主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で岩屋山式石室になる。7世紀前半~中葉頃築造と推定され、被葬者は斉明天皇期に活躍した人物,物部氏首長が想定される。 | ||
K‐NR109 | 保昌塚古墳 |
現状直径約16.8mの円墳である。墳丘の復元規模は直径約36.5mと予測されている。また、周濠の存在も考えられるが、詳細は不明。築造時期,被葬者ははっきりしていない。 |
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K‐NR110 | 東乗鞍古墳 | 杣之内古墳群を構成する6世紀前半頃築造の前方後円墳である。墳丘長83m,二段築成で、主体部の埋葬施設は後円部の右片袖式の横穴式石室で玄室内には刳抜式家形石棺1基と組合式家形石棺1基が据えられる。物部氏の首長墓とする説がある。 | ||
K‐NR111 | 西山塚古墳 | 大和古墳群の萱生支群を構成する古墳の1つで萱生町集落西端の傾斜面地に築造された大型前方後円墳である。墳丘長114mで前方部が北面となっている。6世紀前半頃の築造と推定され、手白香皇女の真陵に比定する説が有力視されている。 | ||
K‐NR112 | 西ノ塚古墳 | 直径約35mの円墳である。築造は古墳時代中期と考えられており、須恵器が出土している。二段築成とみられ、墳丘はみかん畑となっている。 | ||
K‐NR113 | ホックリ塚古墳 |
下池山古墳の東側に存在する直径約25mの円墳である。未調査であり詳細は不明。現在、墳丘上は果樹園となっている。 |
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K‐NR119 | 下池山古墳 | 大和古墳群に属する4世紀前半の長さ約120mの前方後方墳である。後方部で合掌形の竪穴式石室が見つかり、内部からは割竹形木棺や鉄製品等が出土した。石室の北西側の小石室では大形内行花文鏡が一面出土している。 | 国 | |
K‐NR120 | 波多子塚古墳 | 西向きに延びる墳長140mの前方後方墳である。前方部が極端に細長いが、後世の改変によるものと判明している。埋葬施設は竪穴式石室だったと推定され、周濠部からは出土された埴輪片から4世紀初頭の築造と推定される。 | ||
K‐NR121 | クラ塚古墳 | 直径32mの円墳である。調査が行われていないため詳細は不明である。 | ||
K‐NR122 | ヒエ塚古墳 | 大和古墳群の萱生支群を構成する前方後円墳である。墳丘長は約129m。築造時期は、墳形や出土土器などから3世紀後半から4世紀前半頃と推定されている。初期ヤマト王権と関わりの深い有力者の墓と想定される。 | ||
K‐NR123 | ノムギ古墳 | 大和古墳群の中山支群に属する東西を主軸にとる墳長63mの前方後方墳である。後方部の東側に幅10~14mの周濠跡が検出されている。周濠跡からは大量の古式土師器や鰭付円筒埴輪が出土しており3世紀後半から4世紀の築造と推定される。 | 国 | |
K‐NR124 | マバカ古墳 | 大和古墳群の萱生支群南寄りに位置する西に向く全長約74mの前方後円墳である。墳丘西側に濠状の区画と池状の落ち込みが見つかっており、出土した土器破片から3世紀前半の築造の可能性が指摘されている。 | ||
K‐NR125 | 栗塚古墳 | 大和古墳群に属する主軸を南西方向とする全長120mの前方後円墳である。天理環状線沿いにあり前方部は削平されており、後円部は段築状の果樹園となっている。調査が行われておらず詳細は不明である。 | ||
K‐NR126 | 馬口山古墳 | 主軸を南北方向とする全長約110mの前方後円墳である。現在の墳丘は畑や果樹園に改変されている。前方部の南には周濠の一部と思われる池がある。墳丘上からは特殊器台型埴輪片が採取され、3世紀後半の築造された推定される。 | ||
K‐NR127 | フサギ塚古墳 | 大和古墳群に属する前方部を西に向ける全長110mの前方後方墳である。現在はくびれ部から前方部にかけて墳丘は大きく破壊,削平を受けており、一部は果樹園,畑として利用されている。築造時期は4世紀中頃の可能性が指摘されている。 | ||
K‐NR128 | 平塚古墳 | 大和古墳群に属する直径54mの円墳と考えられる。ただ墳丘部は高さ約1.5mと削平されてしまい、一面が果樹園となっている。築造時期ははっきりしないが、3世紀後半頃かとみられる。 | ||
K‐NR129 | 矢矧塚古墳 | 大和古墳群に属する前方後円墳である。全長約105mで主軸を西南西に向ける。現状は後円部の一部が上つ道で削られ、墳丘全体も大規模に削平され果樹園となっている。築造時期,埋葬施設ともに不明である。 | ||
K‐NR130 | マトバ古墳 | 大和古墳群を構成する直径50mの円墳である。現在は平坦な低地となり果樹園として利用されている。築造時期,埋葬施設,出土品など不明である。 | ||
K‐NR131 | 弁天塚古墳 | 大和古墳群西端に位置する全長約70mの前方後円墳である。発掘調査では、墳丘に埴輪の祖形とされる特殊器台,特殊壷の破片が多く出土している。現在、前方部は削平されている。 | ||
K‐NR132 | 小岳寺塚古墳 | 大和古墳群に属する前方後円墳である。規模は全長約45mとされるが、道路や果樹園によって改変されている。埋葬施設,出土遺物は不明である。古墳時代前期の築造と推定される。 | ||
K‐NR133 | 星塚古墳 | 大和古墳群に属する墳丘長70mの前方後方墳で大和神社の境内にある。墳形は南北2つの方形の墳丘がつながった独特の形状をしている。神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の御陵と伝承されるが確証はない。 | ||
K‐NR138 | 塚穴山古墳 | 西山古墳北側に築造された大型円墳で石室が露出している。規模は、直径63.4mを測り、墳丘周囲には周濠および外堤が巡らされている。両袖式の横穴式石室で、7世紀代の築造と推定され、物部大市御狩の墓に比定する説などがある。 | ||
K‐NR139 | 空路宮山古墳 | 大和古墳群に属する前方後円墳である。復元全長約100mで前方部を西に向ける。現在、後円部には菅原神社が建てられ、前方部も削平改変されている。埋葬施設は横穴式石室とされ、古墳時代後期の築造と考えられている。 | ||
K‐NR140 | ニノ瀬池古墳 | 二ノ瀬池の淵に位置する大和古墳群に属する前方後円墳である。前方部を北に向け、全長は約44mとされる。埋葬施設は横穴式石室といわれており、5世紀後半頃の築造と推定される。墳丘は果樹園となっている。 | ||
K‐NR141 | 火矢塚古墳 |
燈篭山古墳の北東部に位置する大和古墳群に属する小規模な前方後円墳である。規模は全長約49mで前方部を南に向ける。発掘調査は行われていないが、主体部は竪穴式石室と考えられ、古墳時代前期の築造と推測される。 |
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K‐NR142 | 東殿塚古墳 | 主軸を南北に取る標高約140mの高所傾斜地に築造された前方後円墳である。前方部は後円部の1.5倍と長い。出土した埴輪から4世紀初め頃の築造と推定される。出土した楕円形円筒埴輪にはヘラ書き船の絵を描かれている。 | ||
K‐NR143 | ノベラ古墳 | 柳本古墳群西端にある柄鏡式前方後円墳である。墳丘全長78m、前方部,後円部ともにかなり削平され、現在は墳丘は果樹園になっている。墳形から古墳時代前期の4世紀代の築造と推定されている。 | ||
K‐NR144 | 石名塚古墳 | 柳本古墳群の西端に位置する柄鏡式前方後円墳である。南北に主軸をもち、全長111mで前方部は池まで伸びていることが近年の調査で確認されている。4世紀頃の築造と推定されている。現状は宅地,果樹園に利用されている。 | ||
K‐NR145 | 椿井塚古墳 | 大和天神山古墳のすぐ南に位置する径約24mの円墳である。未調査であり、詳細は不明。 | ||
K‐NR146 | 丸山古墳 (景行天皇陵飛地ろ号) |
柳本古墳群に属し、景行天皇山辺道上陵(渋谷向山古墳)の陪塚のひとつとされる直径約35m(約20mとも)の円墳である。景行天皇陵の北東に位置する。 | ||
K‐NR147 | ヲカタ塚古墳 | 柳本古墳群に属し鎌砥池の西に隣接する前方後円墳である。発掘調査により、前方部は南西に末広がり、全長130m以上の可能性が指摘されている。墳丘の一部は池造成時に破壊を受けている。築造は出土遺物からは6世紀代と推定される。 | ||
K‐NR148 | シウロウ塚古墳 | 工事中 | ||
K‐NR149 | 大和天神山古墳 | 南向きの全長103mの前方後円墳で、県道拡張工事の際に東半分が削られ道路となった。埋葬施設は竪穴式石室で木櫃の周辺には銅鏡が20面と重量約41kgの水銀朱が納められていた。3世紀末から4世紀頃の築造と推定される。 | 県 | |
K‐NR170 | 冷泉為恭墓所 | 1864年に殺害された公家召抱えの復古大和絵の絵師である岡田為恭の墓所である。善福寺にある。江戸幕府側とも交流があったため尊王攘夷派から敵視され、逃亡生活を送るも殺害された。享年42。 | ||
K‐NR171 | エンド塚古墳 | ノベラ古墳と椿井塚古墳のほぼ中間にある円墳である。詳細については不明。 | ||
K‐NR172 | 柳本大塚古墳 | 全長約94mの前方後円墳である。後円部墳丘中央部の竪穴式石室に舟形の刳抜式木棺が置かれていた。小石室には径39.7cmの大型仿製内行花文鏡が納められていた。古墳時代前期前半の築造と推定される。 | ||
K‐NR173 | 新池古墳 | 工事中 | ||
K‐NR174 | 東大寺山古墳 | 和邇氏の拠点であった地に所在する全長約140mの前方後円墳である。埋葬施設から出土した中国後漢時代の鉄刀ほか一括して国宝に指定されている。古墳自体は4世紀中頃~後半の築造で、被葬者は和邇氏の可能性が高い。 | ||
K‐NR175 | 岩屋大塚古墳 | 前方部を東に向けた前方後円墳である。全長は約76m。墳丘の南側半分が大きく削平されている。埋葬施設も破壊されているが、前方部に巨大な横穴式石室が推定されている。6世紀前半の築造とされる。 | ||
K‐NR176 | ウワナリ塚古墳 | 石上・豊田古墳群平尾山支群に属する墳丘長110mの大型前方後円墳である。埋葬施設は後円部南側に両袖型の横穴式石室が開口し、巨石を用いた大型石室である。6世紀前半~中頃の築造と考えられ、物部氏の首長墓とする説がある。 | ||
K‐NR177 | 石上大塚古墳 | 石上・豊田古墳群に属する墳丘長107mの大型前方後円墳である。前方部を北方向に向け、周囲には周濠,外堤が巡らされる。左片袖式の横穴式石室は大きく破壊されており、現在は最下段の石のみを残す。6世紀後半頃の築造と考えられ、物部氏の首長墓とする説がある。 | ||
K‐NR178 | 豊田狐塚古墳 | 石上・豊田古墳群の南西端に位置する径20mほどの円墳である。埋葬施設は南に開口する両袖式の横穴式石室で3基の木棺が納められていた。小型鏡など多数の副葬品が出土し、6世紀中葉~後葉に築造されたと考えられ、物部氏の有力者の墓である可能性が高い。 | ||
K‐NR179 | 豊田トンド山古墳 | 石上・豊田古墳群の南西端に位置する径30mほどの円墳である。石室は両袖式の横穴式石室で南南西の方向に開口する。築造時期は7世紀前半の築造とされ、物部氏の首長墓の可能性もある。 | ||
K‐NR180 | 柘榴塚 (崇神天皇陵飛地い号) |
崇神天皇陵の後円部南側に位置する一辺15mほどの方墳である。崇神天皇陵のい号陪塚に指定されているが、陪塚の可能性は薄いともいわれている。 | ||
K‐NR181 | 百塚 (崇神天皇陵飛地ろ号) |
崇神天皇陵の南150mほどにある直径20mほどの円墳である。崇神天皇陵のろ号陪塚に指定されているが、陪塚の可能性は薄いとされる。龍王山古墳群のひとつともいわれている。 | ||
K‐NR182 | 南行燈山古墳 (崇神天皇陵飛地は号) |
崇神天皇陵拝所の南側に位置する墳丘長65mの前方後円墳である。崇神天皇陵のは号陪塚に指定されている。築造時期は行燈山古墳と同時期の4世紀前半と推定されている。 | ||
K‐NR183 | 北行燈山古墳 (崇神天皇陵陪塚) |
崇神天皇陵拝所の北側に位置する墳丘長120m,高さ9mの前方後円墳である。崇神天皇陵の陪塚とされる。埋葬施設は竪穴式石室と見られ、築造時期は行燈山古墳と同時期の4世紀前半と推定されている。 | ||
K₋NR184 | ハミ塚古墳 | 墳丘と羨道が破壊されているが、東西46.7m,南北推定44.1mの方墳で6世紀末頃の築造と推定される。埋葬主体は巨石によって構築された横穴式石室で家型石棺を納めていた。被葬者として和邇氏一族が有力視されている。 | ||
K₋NR185 | 赤土山古墳 | 東大寺山古墳群を構成する大型前方後円墳である。後円部東方先端部には突出部を有し、特異な双方中円形を呈する。突出部南側には家形埴輪祭祀遺構が認められる。4世紀末葉~5世紀初頭頃の築造で、和邇氏との関連が推測される。 | ||
K₋NR186 | 和爾下神社古墳 | 東大寺山古墳群に属し、前方部を北側とする前方後円墳である。墳丘西側に石棺材が残されているほか、円筒埴輪棺1基が見つかっている。4世紀末から5世紀初頭の築造とされ、被葬者として和邇氏が考えられる。 | ||
K₋NR187 | 櫟本墓山古墳 | 前方部を北西に向ける全長約64mの前方後円墳で、現在は全体が墓地として利用されており大きく改変されている。築造時期は6世紀前半と推測される。 | ||
K₋NR188 | 別所大塚古墳 | 前方部を北東に向ける全長125mの大型前方後円墳である。埋葬施設は後円部の横穴式石室であるが、南向きに大きく掘削・破壊されている。6世紀前半の築造と推定され、物部氏の首長墓とする説が挙げられている。 | ||
K₋NR189 | 別所鑵子塚古墳 | 別名「姫塚」という全長57mで前方部をほぼ北に向ける小型の前方後円墳である。埋葬施設は石棺直葬で後円部と前方部に石棺が確認されたという。築造時期は6世紀前半と推定される。現在は周辺が駐車場になっている。 | ||
K₋NR190 | 赤坂古墳 | 景行天皇陵の東側に位置し、宮内庁からその飛地として陪塚に治定されている一辺35m,高さ3mほどの方墳である。上山古墳とも呼ばれている。周濠は見られず、埋葬施設,出土品は不明。 | ||
K₋NR191 | クノボ古墳 | 古墳時代前期の前方後円墳とされるが、墳形含め詳細は不明である。 | ||
桜井市 | K‐NR003 | 大伴皇女忍坂内墓 | 外鎌山南斜面上にある大伴皇女の墓所とされ、宮内庁により管理されている。古墳時代終末期の7世紀後半(飛鳥時代)の円墳と考えられ、横穴式石室の可能性が高い。 | |
K‐NR012 | 箸墓古墳 (倭迹迹日百襲姫墓所) |
古墳時代前期の前方後円墳である。宮内庁により倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。築造年代については一般的には、3世紀後半以降と考えられている。卑弥呼の墓とする説もあるが、可能性は低いとされる。 | 国 | |
K‐NR014 | 舒明天皇押坂内陵 (段ノ塚古墳) |
641年に49歳で崩御とされる第34代・舒明天皇の陵である。宮内庁により段ノ塚古墳が押坂内陵に治定されている。上円部の基礎は八角形をなす上八角下方墳である。明治天皇陵以降の陵形のモデルになっている。 | ||
K‐NR017 | 崇峻天皇倉梯岡陵 | 592年に蘇我馬子によって暗殺された第32代・崇峻天皇の陵墓に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。1889年、この地に天皇の位牌を祀る金福寺があったことから現在の陵に改定された。 | ||
K‐NR032 | 文殊院東古墳 | 安倍文殊院内の阿部丘陵の斜面に築造された古墳。古来から閼伽井窟と呼ばれていた。築造時期は古墳時代終末期(飛鳥時代)の7世紀前半頃と推定され、円墳または方墳と推定される。現在では玄室に不動明王が祀られている。 | 県 | |
K‐NR033 | 文殊院西古墳 | 安倍文殊院内の阿部丘陵の西端部に築造された古墳である。径約25m,高さ約6mほどの円墳であったと推定される。7世紀中頃の安倍(阿倍)氏一族の墓とほぼ確実視されている。 | 国特別 | |
K‐NR054 | 鏡女王忍阪墓 | 天智天皇の妃となった鏡女王の墳墓(円墳)である。683年7月5日に亡くなったと記されている。この墳墓は宮内庁管理ではない。 | ||
K‐NR055 | 藤原鎌足墓所 | 『多武峯略記』に基づき、669年に享年56で逝去した藤原鎌足の墓所とされる。一方、阿武山古墳からの出土人骨が藤原鎌足の可能性が高いとみられている。 | ||
K‐NR056 | 艸墓古墳 | 安倍山丘陵の東斜面に位置する方墳である。現在は東西南の三方を住宅に囲まれており、墳裾の形状は改変されている。古墳の築造時期は石室の構造や石棺の形式などから7世紀中頃と考えられる。 | ||
K‐NR057 | メスリ山古墳 | 鳥見山古墳群に属する前方後円墳である。墳丘長224m(復元規模は250m)と全国第14位の規模である。埋葬施設は後円部頂上の中央に竪穴式石室があるが、盗掘によりほとんど遺物は残されていない。副石室が遺品庫になっているのが特徴。築造時期は4世紀初頭と考えられ、絶大な権勢を誇った首長の墳墓と考えられる。 | 国 | |
K‐NR058 | 珠城山古墳群 | 3基の前方後円墳から成る。1号墳は後円部の横穴式石室を主体とし、極めて高位の被葬者が考えられる。第2号墳は本古墳群中最大の規模で最も早く営まれたものと推察される。第3号墳は前方部の先端が残存するのみであるが2つ横穴式石室があった。 | 国 | |
K‐NR059 | 茅原大墓古墳 | 前方部を北北東方向に向けた帆立貝形古墳で、墳丘長は約86m,後円部は直径約71mを測る。墳丘表面で検出された盾持人埴輪は最古の人物埴輪として注目される。古墳時代中期初頭の4世紀末葉頃築造と推定される。 | 国 | |
K‐NR060 | 巻野内石塚古墳 | 帆立て貝形前方後円墳である。現状は径40mの円墳状であり、当初は円墳と思われたが、ホケノ山古墳と同じく纒向型の前方後円墳と考えられている。築造年代はホケノ山古墳と同じ3世紀中頃と推定される。 | ||
K‐NR061 | 赤坂天王山古墳 | 赤坂天王山古墳群を構成する3段築成の大方墳である。主体部は両袖式の横穴式石室で、玄室中央には刳抜式家形石棺が置かれている。本古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初頭とみられ、崇峻天皇の陵として有力視されている。 | 国 | |
K‐NR098 | 秋殿南古墳 | 尾根の南端斜面を掘り込んで築造された古墳である。形状は方墳で一辺約26mを測る。主体部は両袖式の横穴式石室で花崗岩の巨石の切石に近いものが使用され、岩屋山古墳と同様の特徴を有する。7世紀前半頃の築造と推定される。 | ||
K‐NR099 | 兜塚古墳 | 前方部を西方向に向けた前方後円墳で、5世紀末葉頃の築造と推定される。墳丘は基壇の上に築造されている。主体部の埋葬施設は後円部中央における竪穴式石室で刳抜式家形石棺が据えられる。 | ||
K‐NR100 | ホケノ山古墳 | 3世紀中頃~4世紀前半の纒向型前方後円墳ともいわれるホタテ貝型の前方後円墳である。後円部部中央に石囲い木槨が出土している。前方部くびれ部には木棺直葬墓があり、さらに、主体部西側に6世紀末頃の横穴式石室がある。 | 国 | |
K‐NR101 | 越塚古墳 | 直径約43m,高さ約7m,2段築成の大型円墳である。主体部の埋葬施設は横穴式石室で花崗岩の巨石が使用されており、桜井市内では赤坂天王山古墳に次ぐ規模になる。6世紀末葉頃の築造と推定されるが、被葬者は不明である。 | 県 | |
K‐NR105 | 野見宿禰塚跡 | 十二柱神社の南東350mほどの田の中に野見宿禰塚跡の碑が建つ。実際の塚は1883年までここから西南約150mのところに在り、直径20m以上の塚で、その上に巨大な五輪塔が置かれていたという。 | ||
K‐NR106 | 野見宿禰五輪塔 | 1883年まで野見宿禰塚の上に置かれていた野見宿禰の五輪塔で鎌倉時代初期の建立といわれる。1883年に農地整理のため塚が取り壊された際に十二柱神社へ移された。 | 市 | |
K‐NR107 | 用明天皇磐余池上陵 | 587年4月、疱瘡のため在位わずか2年足らずで崩御した第31代・用明天皇が最初に葬られた陵と伝わるところである。593年9月に河内磯長原陵に改葬された。 | ||
K‐NR114 | コロコロ山古墳 | メスリ山古墳から傾斜する丘陵上に築造された大型方墳で、1984年に発見され、メスリ山古墳の裾部に移築保存されている。主体部は両袖式横穴式石室で南方向に開口し、石室内の様相からは追葬が認められる。6世紀末葉~7世紀初頭頃の築造と推定され、阿倍氏との関係性が指摘される。 | ||
K‐NR115 | 桜井茶臼山古墳 | 墳丘長207mで前方部が細長く、全体が柄鏡形を呈する柄鏡式古墳である。築造は3世紀末葉から4世紀初頭と考えられている。後円部の頂上には矩形壇があり、その下に長さ6.7mの長大な木棺を納めた竪穴式石室が確認されている。斜縁二神二獣鏡,三角縁神獣鏡など推計81枚以上の膨大な銅鏡が副葬されており、国内最多である。 | 国 | |
K‐NR116 | 谷首古墳 | 寺川左岸の阿部丘陵西辺に築造された方墳である。現在は墳丘上に八幡神社が鎮座する。主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で花崗岩の巨石を使用した規模の大きいものである。7世紀初頭~前半頃の築造と推定され、阿倍氏との関係性が指摘されている。 | 県 | |
K‐NR150 | 立石古墳 | 景行天皇陵の東280mほどのところにある墓地の奥、東側の高みが古墳と考えられる。墳形含め詳細は不明である。 | ||
K‐NR151 | 立子塚古墳 | 工事中 | ||
K‐NR152 | 纒向勝山古墳 | 纒向古墳群に属する古墳時代前期初頭3世紀前半の前方後円墳である。全長は約115mで比較的浅い周濠が確認されている。葺石や埴輪は認められない。埋葬施設も詳細不明である。 | 国 | |
K‐NR153 | 纒向矢塚古墳 | 纒向古墳群に属する古墳時代前期初頭3世紀中頃以前の纒向型前方後円墳である。全長約96mで比較的浅い周濠が確認されている。墳頭部に板石が露出していることから竪穴式石室または箱式石棺が考えられる。 | 国 | |
K‐NR154 | 纒向石塚古墳 | 纒向古墳群に属する古墳時代前期初頭の全長約96mの前方後円墳である。纏向遺跡内では最古の3世紀初頭の築造で、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。太平洋戦争末期に削平されている。 | 国 | |
K‐NR155 | 東田大塚古墳 | 纒向古墳群に属する古墳時代前期初頭3世紀後半の纒向型前方後円墳である。全長は約120mで周濠が確認されている。葺石や埴輪は認められない。埋葬施設として周濠外堤部1基の甕棺が出土している。 | 国 | |
K‐NR156 | 勝山東古墳 | 一辺約25mの方墳だったとされる。現在は宅地となり墳丘は消滅している。詳細は不明。 | ||
K‐NR157 | 宮の前古墳 | 国津神社の裏にある直径約15m,現高さ2mほどの円墳である。未調査のため、埋葬施設,遺物,築造年代などいずれも明らかではない。 | ||
K‐NR158 | 堂ノ後古墳 | ホケノ山古墳のすぐ西側に位置する南東方向に前方部をもつ全長63m以上の前方後円墳である。出土遺物から5世紀後半の築造と推定されている。 | ||
K‐NR159 | 茶ノ木塚古墳 | 纒向古墳群に属し復元直径35mの円墳である。墳丘は大きく削平され、埋葬施設は確認されていない。周濠から出土した遺物から、築造時期は5世紀後半と考えられている。 | ||
K‐NR160 | 北口塚古墳 | 纒向古墳群に属し、径25×36m,高さ3mの円墳状であるが、前方後円墳の可能性もある。調査未実施のため、墳形,埋葬施設,副葬品など明らかではない。 | ||
K‐NR161 | サシコマ古墳 | 現状直径約13mの円墳である。高さは2mほどで、塚の上は牛を捌き皮を剥ぐ場所であったと伝えられており、この塚を掘ったものは死ぬとの言い伝えも残っている。 | ||
K‐NR162 | 小川塚西古墳 | 纒向古墳群の箸中支群に属し、すぐ東に隣接して小川塚東古墳がある。墳形については明確ではないが、天理大学歴史研究会による探査では一辺41mの方墳とする。埋葬施設や遺物は不明。 | ||
K‐NR163 | 小川塚東古墳 | 纒向古墳群の箸中支群に属する。東西に長い不整形の墳丘であるが、墳形については直径約34mの円墳とする説、約48mの円墳とする説、さらに全長約66mの前方後円墳の可能性も示唆されている。 | ||
K‐NR164 | 石神塚古墳 | 纒向古墳群に属する東西17m,南北23m,高さ1.8mほどの円墳である。調査未実施のため、埋葬施設,副葬品,築造時期など明らかではない。 | ||
K‐NR165 | ツヅロ塚古墳 | 纒向古墳群に属する円墳とされるが、纒向型前方後円墳とする説もある。墳丘は削平され果樹園となっている。調査では6世紀の埴輪片が採取されている。 | ||
K‐NR166 | シクロ塚古墳 | 纒向古墳群に属する直径10mほどの円墳であるが、北半分は削られて半円状になっている。調査未実施のため、埋葬施設,副葬品,築造時期など明らかではない。 | ||
K‐NR192 | 慶運寺裏古墳 | 慶運寺の本堂裏にある纒向古墳群を構成する直径約15mの円墳である。石室は南に開口する両袖式の石室。石室の造りから6世紀後半から末頃の築造と推測されている。 | ||
K‐NR193 | 平塚古墳 | 東西径25m,南北径45m,高さ1.5mほどのすこし歪な円墳である。詳細は不明であるが、埴輪が出土しており古墳時代後期の築造と考えられている。 | ||
K‐NR194 | 茅原狐塚古墳 | 三輪山西麓に7世紀前半頃に築造された一辺約40mの大型方墳である。墳丘は大きく削平を受けており、封土が殆ど失われ石室がむき出しになっている。埋葬施設は両袖式横穴式石室で南方向に開口する。 | ||
K‐NR195 | 弁天社古墳 | 古墳時代後期築造とされる南向きに開口する両袖式横穴式石室の古墳である。封土は消失し玄室が露出している。玄室内の家形石棺も既に破壊されている。石室上部には富士神社,厳島神社の祠が建てられている。 | ||
K‐NR196 | 狛大石古墳 | 道路沿いにほぼ南向きに開口した横穴式石室である。しかし、民家の石垣と道路の拡張により破壊され、玄室一部と奥壁だけが残された状態で墳形も判明しない。 | ||
K‐NR197 | 梶山古墳群 | 倉橋溜池造成による水没を免れた呼称15C-30と5C-32の2基が倉橋ため池ふれあい公園の雑木林の中に残されている。ともに円墳で両袖式の横穴式石室である。6世紀後半頃の築造と考えられる。 | ||
K‐NR198 | ムメサカ1号古墳 | 工事中 | ||
高市郡 明日香村 |
K‐NR001 | 石舞台古墳 | 国内最大級の方墳であるが、封土を失われ横穴式石室が露出している。墳丘は一辺約55mで周囲に堀と外提がめぐる。被葬者は蘇我馬子とする説が有力である。 | 国特別 |
K‐NR004 | 大伴夫人墓所 | 大伴咋の娘で中臣御食子に嫁ぎ、中臣鎌足の生母となった大伴智仙娘の墓所で円墳とされる。 | ||
K‐NR007 | 吉備姫王墓 | 『延喜式』に基づき吉備姫王墓と治定されている。直径8m程度の円墳と推測される。墓内には、江戸時代に近くの水田で発見された猿石と呼ばれる石造物4体が置かれている。 | ||
K‐NR008 | 欽明天皇檜隈阪合陵 | 周濠をめぐらせた前方後円墳で全長が140mと明日香村内では最大級。欽明天皇は571年4月に崩御、9月に檜隈坂合陵に埋葬されたという。 | ||
K‐NR015 | 南淵請安墓所 | 南淵請安は遣隋使・小野妹子に従い隋へ留学し、帰国後に隋,唐の進んだ学問知識を日本に伝え開塾した。中大兄皇子と中臣鎌子も請安の塾に通っていた。 | 村 | |
K‐NR019 | 高松塚古墳 | 藤原京期(694~710年)に築造された二段式の円墳である。横口式石槨に鮮やかに彩色された壁画が発見されている。壁画は東壁,西壁,北壁(奥壁),天井の4面に人物像,日月,四方四神および星辰(星座)が描かれている。被葬者には天武天皇の皇子説など諸説ある。 | 国特別 | |
K‐NR022 | 天武・持統天皇檜隈大内陵 (野口王墓) |
野口王墓が檜隈大内陵として第40代・天武天皇,第41代・持統天皇の合葬陵に治定されている。墳形は八角形の五段築成。天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められている。1235年に盗掘に遭っている。 | ||
K‐NR024 | 中尾山古墳 | 対辺長約19.5m,高さ4m以上の八角墳である。主体部の埋葬施設は横口式石槨で、中央部に火葬骨の蔵骨器が納められたと見られる。8世紀初頭頃の築造と推定され、被葬者は文武天皇とする説が有力視されている。 | 国 | |
K‐NR027 | 都塚古墳 | 方墳と見られ横穴式石室を持っている。石室は長さ12.2mの花崗岩を積み上げた両袖式。玄室の天井が手前から中央に向けて高くなり、奥で下がるドーム状になっている。 | ||
K‐NR029 |
文武天皇桧隈安古岡上陵 |
宮内庁により栗原塚穴古墳が707年6月15日に崩御した第42代・文武天皇の陵に治定されている。ただし、八角墳で横口式石槨を持つ中尾山古墳を真の文武天皇陵とする説が有力である。飛鳥岡で火葬のうえ葬られたとされる。 | ||
K‐NR034 | 蘇我入鹿首塚 | 645年6月12日、中大兄皇子,中臣鎌足らによる乙巳の変で、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された蘇我入鹿の首塚とされる。 | ||
K‐NR036 | キトラ古墳 | 阿部山の南斜面に築かれた二段築成の円墳である。石室内壁には四神の青龍,白虎,朱雀,玄武と天文図が描かれている。壁画はカビなどの被害が発生したため剥ぎ取られて保存されている。築造は7世紀末から8世紀初め頃とみられ、被葬者については諸説あるが未だ判然としていない。 | 国特別 | |
K‐NR042 | 真弓鑵子塚古墳 | 直径約40m,高さ8m以上の2段築成の円墳。埋葬施設は南に開口する片袖型の横穴式石室である。北側に奥室を有する。築造年代は6世紀中頃から後半頃と推定され、被葬者は渡来系氏族の東漢氏が候補に挙がる。 | ||
K‐NR043 | 牽牛子塚古墳 | 2009年からの発掘調査によって、661年に崩御した第37代・斉明天皇の陵である可能性が高い。墳丘は三段築成の八角墳。横口式石槨で巨岩をくりぬいて2つの墓室を設けており、天皇と娘の間人皇女の合葬墓とする説がある。 | 国 | |
K‐NR083 | マルコ山古墳 | 真弓丘陵にある二段築成の六角形墳である。墳丘は版築で築かれ凝灰岩の切石で作られた横穴式石室がある。墳丘,石槨,木棺,出土遺物などから7世紀末〜8世紀初頭に築かれたと考えられ、被葬者は皇族であることにほぼ間違いないとされる。 | ||
K‐NR102 | 岩屋山古墳 | 1辺約45m前後,高さ12m規模の2段築成された方墳である。また、上段部を八角形に築いた八角墳ではないかとの指摘もある。本体部は両袖式の横穴式石室で内面には切石加工が施されている。7世紀中葉前後の築造と推測される。 | 市 | |
K‐NR103 | 越塚御門古墳 | 牽牛子塚古墳の南東に隣接する7世紀後半の一辺約10mの方墳である。2010年10月に発見された。埋葬施設は巨岩を刳り抜いた蓋板と床板から構成され、大田皇女の墓である可能性が高いといわれている。 | 国 | |
K‐NR167 | 小山田古墳 | 近年発見され、古墳域には奈良県立明日香養護学校が立地する。7世紀中頃の築造と推定され、当時としては最大級の方墳である。石室の羨道跡が検出されているが玄室部分は未判明。舒明天皇の初葬地、蘇我蝦夷の墓とする説が挙げられている。 | ||
高市郡 高取町 |
K‐NR084 | 束明神古墳 | 春日神社境内に残る7世紀後半築造の八角形墳である。発掘調査の結果、対角長約30m,高さ2m以上であったことがわかっている。横口式石槨をもち草壁皇子の陵墓として有力視されている。 | |
K‐NR085 | 斉明天皇越智崗上陵 (車木ケンノウ古墳) |
宮内庁により661年に崩御した第35代・皇極天皇、重祚して第37代・斉明天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名を車木ケンノウ古墳といい、直径約45mの円墳である。 | ||
K‐NR086 | 大田皇女越智崗上墓 | 宮内庁により大海人皇子の妃で667年に薨去した大田皇女の墓に治定されている。しかし、斉明天皇陵として有力視される牽牛子塚古墳のそばから新たに越塚御門古墳が発見され、こちらが大田皇女墓の可能性は高いとされている。 | ||
K-NR096 | 市尾宮塚古墳 | 全長約44mの6世紀中頃築造と考えられる前方後円墳である。埋葬施設は後円部北側に開口する両袖型の横穴式石室で全長11.6m、刳貫式家形石棺が納められている。追葬の木棺が安置された可能性も指摘される。被葬者は定かではないが、巨勢氏が候補に挙げられる。 | 国 | |
K-NR117 | 与楽乾城古墳 | 与楽古墳群を構成する古墳の1つ。一辺36m,高さ10mを測る二段築成の方墳で、主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室。天井はドーム状を呈し、石室高さは5.3mと非常に高い。副葬品にミニチュア炊飯土器等が検出されることから、被葬者として渡来系氏族の東漢氏とする説がある。築造時期は6世紀末葉~7世紀前半頃と推定される。 | 国 | |
K-NR118 | 市尾墓山古墳 | 6世紀初頭から前半にかけての前方後円墳である。全長は約66m、二段築成で周濠と堤を備えている。後円部上段南南西側に開口する横穴式石室が発見され、巨大な刳貫式家形石棺も確認されている。被葬者は定かではないが、巨勢男人などが候補に挙げられる。 | 国 | |
K-NR134 | 与楽鑵子塚古墳 | 貝吹山の南西丘陵に位置する直径28m,高さ9mの円墳である。玄室は高さ4.5m以上と高くドーム状であることやミニチュアの炊飯具などの出土遺物の特徴から、築造時期6世紀後半の渡来系氏族の墓である可能性が高い。 | 国 | |
K-NR135 | 寺崎白壁塚古墳 | 三段築成の方台形を呈した古墳である。墳丘背面は掘削されている。埋葬施設は南面開口の横口式石槨で全長約11mに達する。7世紀前半の築造と考えられ、渡来系氏族の首長または舒明天皇に関係する人物の墓と推定される。 | 国 | |
大和郡山市 | K‐NR021 | 筒井順慶墓所 | 1584年8月11日、36歳で病死した筒井順慶の墓所である。順慶を供養する五輪塔や一周忌に寄進された石燈篭は、桁行1間,梁間1間の宝形造りの覆堂に護られている。 | |
御所市 | K‐NR087 | 孝安天皇玉手丘上陵 | 孝安天皇は欠史八代の一人で実在性については諸説あるが、宮内庁により陵は玉手丘陵上に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。即位2年には、室秋津島宮に都を移した。即位102年、崩御。 | |
K‐NR088 | 日本武尊琴弾原白鳥陵 | 宮内庁により日本武尊の陵に治定されている。日本武尊は東征ののち、伊勢国能褒野で薨じ能褒野墓に葬られるが、能褒野から白鳥となって西へ飛び、ここ大和国琴弾原に降り留まったため陵を造った。白鳥はさらに飛び立った。 | ||
K‐NR090 | 孝昭天皇掖上博多山上陵 | 宮内庁により第5代・孝昭天皇の陵に治定されている。欠史八代の一人で実在性については諸説ある。 | ||
K‐NR094 | 室宮山古墳 | 葛城地方では最大、全国では第18位の規模の前方後円形墳で5世紀初頭頃の築造と推定される。古くから後円部には八幡神社が祀られている。被葬者としては、葛城襲津彦に比定する説が有力視される。 | 国 | |
K‐NR095 | 室ネコ塚古墳 | 室宮山古墳の周濠の外にある周堤に築かれた陪塚で国内4位の巨大方墳である。5世紀初頭から前半の築造とみられる。被葬者は定かではないが、葛城襲津彦に近い武具の管理者とも考えられている。 | ||
K‐NR097 | 葛城氏墓所 | 工事中 | ||
香芝市 | K-NR092 | 顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵 | 宮内庁により第23代・顕宗天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。また、奈良県大和高田市築山にある築山古墳では、顕宗天皇が被葬候補者に想定されている。 | |
K‐NR093 | 武烈天皇傍丘磐坏丘北陵 | 宮内庁により508年10月?に奉葬された第25代・武烈天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は山形。また、奈良県北葛城郡広陵町大塚にある新山古墳では、武烈天皇が被葬候補者に想定されている。 | ||
葛城市 | K‐NR002 | 大津皇子墓所 | 工事中 | |
K‐NR009 | 首子古墳群(首子塚) | 工事中 | ||
K‐NR023 | 鳥谷口古墳 | 二上山から東に延びる尾根の先端部付近の南斜面に築造された小方墳である。7世紀後半頃の築造と推定され、大津皇子の墓に比定する説が知られる。主体部の埋葬施設は横口式石槨で南方向に開口する。 | ||
K‐NR091 | 飯豊天皇埴口丘陵 (北花内大塚古墳) |
宮内庁により第22代・清寧天皇の崩御後に一時政務を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる飯豊青皇女の陵に治定されている。遺跡名は北花内大塚古墳で、墳丘長90mの前方後円墳である。 | ||
生駒郡 平群町 |
K‐NR025 | 長屋王墓 | 729年2月12日、対立する藤原四兄弟の陰謀によって自殺に追い込まれた長屋王の墓とされる。直径約15mの円墳。北西約120mのところには、妻の吉備内親王の墓がある。 | |
K‐NR026 | 吉備内親王墓 | 729年2月12日、藤原四兄弟の陰謀によって自殺に追い込まれた長屋王とともに自殺した吉備内親王の墓とされる。南東約120mのところには、夫の長屋王の墓がある。 | ||
K‐NR089 | 西宮古墳 | 一辺約35.6m,高さ約7.2m以上を測る方墳である。埋葬施設は両袖式横穴式石室で石室内には刳抜式家形石棺の棺身が遺存する。7世紀中葉から後半頃の築造で山背大兄王の墓とする説がある。 | 県 | |
生駒郡 斑鳩町 |
K‐NR030 | 山背大兄王墓所 | 工事中 | |
吉野郡 吉野町 |
k‐NR013 | 後醍醐天皇陵 | 工事中 | |
K‐NR028 | 村上義隆墓所 | 工事中 | ||
K‐NR031 | 横川覚範首塚 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐WK001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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堺市 | K‐OS013 | 宮内庁により仁徳天皇の陵に治定されているが、実際の被葬者は明らかではない。子の履中天皇陵古墳よりも後に築造されている。日本一の規模の巨大古墳であり、堺市はクフ王ピラミッド及び秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称している。 | 世遺 | |
K‐OS014 | 宮内庁により履中天皇陵に比定されているが、被葬者は確定されていない。百舌鳥古墳群に属する古墳で仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ巨大前方後円墳。父とされる仁徳天皇陵によりも築造年数が古いとされており5世紀前半頃に造られたことがわかっている。 | 世遺 | ||
K‐OS015 | 百舌鳥古墳群では7番目の大きさの前方後円墳で、5世紀中頃の造築と推定される。なお百舌鳥耳原三陵のなかでも他の2つ(大山古墳,上石津ミサンザイ古墳)と比べてかなり規模が小さいことから、宮内庁もより大きいニサンザイ古墳を反正天皇の陵墓参考地としている。 | 世遺 | ||
K‐OS016 | ニサンザイ古墳 | 全国でも7番目に大きい前方後円墳。百舌鳥古墳群の中で最も新しく、5世紀後半に造造された古墳である。田出井山古墳のほぼ4倍の大きさであり築造時期もほぼ同じであることから、こちらを反正天皇陵と考える説もある。 | 世遺 | |
K‐OS017 | 御廟山古墳 | 墳丘長約203mの前方後円墳。百舌鳥古墳群では4番目の大きさである。築造は5世紀後半と推定され、応神天皇陵の第2候補(陵墓参考地)として宮内庁が管理している。 | 世遺 | |
K‐OS018 | いたすけ古墳 | 百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置する前方後円墳。百舌鳥古墳群では8番目の大きさである。5世紀前半に築造されたと考えられる。1955年頃に土取り工事で破壊の危機に瀕したが、市民運動で保存が決まった。 | 世遺 | |
K‐OS019 | 永山古墳 | 仁徳天皇陵古墳の陪塚と考えられている前方後円墳。内部構造や副葬品の内容は不明であるが、築造時期は5世紀と推定される。 | 世遺 | |
K‐OS020 | 丸保山古墳 | 百舌鳥古墳群で最大の規模を誇る帆立貝形古墳で、仁徳天皇陵古墳の陪塚と考えられている。採集された円筒埴輪から5世紀後半頃に造られたものと推定される。 | 世遺 | |
K‐OS021 | 竜佐山古墳 | 仁徳天皇陵古墳の陪塚と考えられている前方後円墳。内部構造については不明であるが、5世紀後半の築造と推測される。 | 世遺 | |
K‐OS022 | 収塚古墳 | 帆立貝形前方後円墳。遺物から築造年代は5世紀中頃から後半とされる。 | 世遺 | |
K‐OS023 | 孫太夫山古墳 | 百舌鳥古墳群のほぼ中央の前方後円墳で仁徳天皇陵古墳の陪塚と考えられる。築造時期の5世紀中頃とみられる。現在、後円部は宮内庁管理、前方部と周濠は堺市管理となっている。 | 世遺 | |
K‐OS024 | 善右ヱ門山古墳 | 一辺28m,高さ3mの二段築成の方墳である。いたすけ古墳の外堤と接するように築造されていることから同古墳の陪塚で、いたすけ古墳の被葬者と関係の深い人物が葬られていると考えられる。 | 世遺 | |
K‐OS025 | 銅亀山古墳 | 大山古墳の陪塚とされ、宮内庁によって「仁徳天皇陵に号飛地」として管理されている。二段築成の百舌鳥古墳群の中では数少ない方墳の一つである。築造は大山古墳の築造最終段階の5世紀中頃にあわせて完成されたと推測される。 | 世遺 | |
枚方市 | K‐OS029 | 王仁墓所 | 王仁の墓所は1731年に建立されたものである。王仁は応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来したとされる伝承上の人物で実在を疑問視する説も多数存在する。 | |
高槻市 | K‐OS001 | 今城塚古墳 | 工事中 | |
四條畷市 | K‐OS007 | 楠木正行墓所 | 工事中 | |
羽曳野市 | K‐OS005 | 源 頼義墓所 | 源頼義は河内古市郡壺井村の香炉峰の館で生まれ、平忠常の乱や前九年後三年の役の鎮圧にあたった。1075年に87歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。 | |
K‐OS039 | 河内大塚山古墳 | 墳丘長335mを誇る全国第5位の巨大前方後円墳である。宮内庁により「大塚陵墓参考地」として被葬候補者に雄略天皇が治定されている(諸説あり)。6世紀後半に築造。 | ||
K‐OS040 | 雄略天皇丹治高鷲原陵 (島泉丸山古墳) |
宮内庁により島泉平塚古墳と合わせて第21代・雄略天皇の陵に治定されている。古市古墳群の北西部に築造された大型円墳である。出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される。 | ||
K‐OS043 | 峯ヶ塚古墳 | 古市古墳群を構成する古墳の1つ。6世紀初頃の築造とみられる墳丘長さ96mの前方後円墳である。発掘調査では大規模な二重濠が検出され、大王級の墓と推測される。 | 国・世遺 | |
K‐OS044 | 宮内庁により484年?に崩御した第22代・清寧天皇の陵に治定されている。遺跡名は白髪山古墳といい、前方後円墳である。前方部の幅が後円部の幅の約2倍あるのが特徴である。 | |||
K‐OS045 | 日本武尊白鳥陵古墳 (軽里大塚古墳) |
宮内庁により日本武尊の陵に治定されている。全長約190mの前方後円墳で、古市古墳群で7番目の大きさである。出土品や墳形上の特徴から5世紀後半の築造と推定されている。白鳥の三陵のひとつ。 | 国・世遺 | |
K‐OS046 | 安閑天皇古市高屋丘陵 (高屋築山古墳) |
宮内庁により安閑天皇の陵に治定されているほか、合葬の神前皇女の墓に治定されている。6世紀初頭に築造されたが、室町時代後半に高屋城の本丸が置かれ改変されている。 | ||
K‐OS047 | 墓山古墳 | 古市古墳群を構成する古墳の1つで応神天皇陵の南西に位置し、宮内庁により応神陵の陪冢に治定されている。全長約225mの前方後円墳。5世紀前半の築造と考えられる。 | 国・世遺 | |
K‐OS048 | 応神天皇恵我藻伏崗陵 (誉田御廟山古墳) |
宮内庁により第15代・応神天皇の陵に治定されている。遺跡名は誉田御廟山古墳といい、仁徳天皇陵に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳である。周りには二重の堀をめぐらしている。 | 国・世遺 | |
K‐OS053 | 小口山古墳 | 径30mの規模をもつ円墳で石槨の型式からみて7世紀の第4四半期、古墳時代終末期の築造と推測される。被葬者は不明。1912年に開墾によって発見された。 | ||
藤井寺市 | K‐OS041 | 仲哀天皇恵我長野西陵 (岡ミサンザイ古墳) |
宮内庁により恵我長野西陵として14代・仲哀天皇の陵に治定されている。古市古墳群を構成する前方後円墳である。近年では第21代・雄略天皇の真陵とする説が有力視されている。 | 世遺 |
K‐OS042 | 仁賢天皇埴生坂本陵 (ボケ山古墳) |
宮内庁により第24代・仁賢天皇の陵に治定されている。遺跡名はボケ山古墳といい、6世紀前半に築造されたものと考えられている。墳丘長さ122mの前方後円墳である。 | ||
K‐OS049 | 大鳥塚古墳 | 古市古墳群を構成する古墳の1つで、5世紀前葉頃に築造された墳丘長110mの大型前方後円墳である。北側の赤面山古墳はその陪塚と推測されている。 | 国・世遺 | |
K‐OS050 | 仲津山古墳 | 宮内庁により仲津山陵として第15代・応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。全国で9番目の大きさを誇る前方後円墳である。仲哀天皇の陵墓とする説もある。 | 国・世遺 | |
K‐OS051 | 古室山古墳 | 古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する前方後円墳。出土した埴輪の特徴から、仲津山古墳とほぼ同時期の4世紀後半から5世紀前半の築造と考えられる。 | 国・世遺 | |
K‐OS052 | 允恭天皇恵我長野北陵 (市ノ山古墳) |
宮内庁により「惠我長野北陵」として允恭天皇の陵に治定されている。市ノ山古墳は古市古墳群を構成する古墳の1つで、墳丘長は227mで全国20位。築造年代は5世紀後半とされる。 | 世遺 | |
茨木市 | K‐OS026 | 継体天皇三嶋藍野陵 | 工事中 | |
南河内郡 |
K‐OS003 |
厩戸皇子廟所 |
厩戸皇子は622年2月22日に薨去され、生前に定められていたこの地に埋葬され、叡福寺が建立されたと伝わる。巨大な円墳で石室の入口部分には御霊屋が覆っている。石室内には皇子のほかにも母の穴穂部間人皇女と妻の膳部臣菩岐々美郎女が埋葬されている。 | |
K‐OS004 | 源 頼信墓所 | 源頼信は968年に摂津国多田の地に生まれ、関白の藤原道兼,藤原道長に仕えた。河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てた。1048年に没し通法寺跡に頼義墓所,義家墓所と共にある。 | ||
K‐OS006 | 源 義家墓所 | 源義家は1039年に香炉峰の館に生まれる。石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と号し、前九年・後三年の役にも介入した。延暦寺悪僧の追討などの功績により院の昇殿を許されたが、一族の不祥事が相次ぎ中、京の邸宅で死去し、通法寺南東の丘陵に葬られた。 | ||
K‐OS009 | 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では孝徳天皇の陵に治定している。これまでに本格的な調査はなされていない。654年に難波長柄豊埼宮で孤独のうちに崩御され、大坂磯長陵に葬られた。 | |||
K‐OS010 | 推古天皇と子の竹田皇子との合葬陵墓で方墳または長方墳である。近くの二子塚古墳を真陵に比定する説もある。推古天皇は頭脳明晰な人で豪族の反感を買わぬように巧みに王権の存続を図った。628年3月7日、75歳で小墾田宮において崩御された。 | |||
K‐OS030 | 二子塚古墳 | 推古天皇陵の東方約200mにある二基の方形の墳丘を西南方から東北方に並列につなぎ合わせた双方墳である。地元には推古天皇と竹田皇子の合葬陵とする言い伝えがある。 | 国 | |
K‐OS031 | 敏達天皇河内磯長中尾陵 (太子西山古墳) |
宮内庁により585年に崩御した第30代・敏達天皇と石姫皇女の合葬陵に治定されている。遺跡名は太子西山古墳といい、磯長谷に分布する磯長谷古墳群のうちでは唯一の前方後円墳になる。 | ||
K‐OS032 | 用明天皇河内磯長原陵 (春日向山古墳) |
宮内庁により587年に崩御した第31代・用明天皇の陵に治定されている。形状は大型方墳。遺跡名は春日向山古墳という。用明天皇は一旦、磐余池上陵に葬られ、593年に河内磯長陵に改葬された。 | ||
K‐OS033 | 小野妹子墓所 | 科長神社南側にある小高い丘の上にある小野妹子の墓所。小野妹子の生年,没年は詳しいことはわかっていない。607年、厩戸皇子が随の国と外交を開く際、遣隋使として派遣された。 | ||
K‐OS034 | 仏陀寺の境内にあり、蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられる。一辺約10mの方墳で墳丘はほとんど崩れている状態であり、内部は長さ約1.92mの横口式石槨が露出している。 | |||
K‐OS036 | 尼ヶ谷古墳 | 磯長谷に存在していた6世紀後半に築造された円墳もしくは方墳である。2000年の道路造成工事に伴う発掘調査で発見され、叡福寺東に移築されたものである。 | ||
K‐OS037 | 松井塚古墳 | 磯長谷に古墳時代終末期の7世紀中葉頃に築造された方墳とみられる横穴式石室の石棺である。民家の井戸掘削に伴い発見され、石棺のみが叡福寺東に移築されている。 | ||
K‐OS038 | 大僧正隆光墓所 | 1724年、大和国にて没した大僧正・隆光の墓所(分骨墓)である。5代将軍・徳川綱吉の寵を受け大僧正となったが、綱吉の死去とともに失脚し故郷にて没した。本墓は奈良の超昇寺跡にある。 | ||
南河内郡 |
K‐OS027 | 西行墓所〔弘川寺〕 | 俗名は佐藤義清で1140年に23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。心の赴くまま奥羽,四国,関東と巡り諸所に草庵を営み、多くの和歌を残した。1189年、弘川寺に庵居し、翌年春にこの地で入寂した。享年73。 | |
K‐OS028 | 似雲墓所〔弘川寺〕 | 1709年、出家し法号は初め如雲と称したが、のちに似雲に改めている。西行を慕って弘川寺に西行堂を建立した。1753年7月8日入寂、享年81。西行と同じく弘川寺に葬られている。 | ||
K‐OS035 | 金山古墳 | 6世紀末~7世紀初頭頃に築造された古墳である。形状は双円墳で円墳2基が並列して連接される。双円形の周濠を含めた古墳総長は104mとなる。被葬者には厩戸皇子の子・三枝王とする説がある。 | ||
南河内郡 |
K‐OS008 | 楠木正儀墓所 | 工事中 | |
河内長野市 | K‐OS011 | 後村上天皇檜尾陵 | 工事中 | |
K‐OS012 | 阿野廉子墓所 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐HG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐OY001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐HS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐TT001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐SN001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐YC001 |
所在地 | No. | 史跡名 |
ワンポイント・メモ |
指定 |
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板野郡 藍住町 |
K‐TS001 |
三好氏歴代墓所 |
勝瑞城跡,見性寺内にある。江戸時代中期に各所にあった墓をここに移転してきたものである。三好之長,元長,実休,長治の墓が並ぶ。 | 町 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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高松市 | K‐KG002 | 生駒親正墓所 | 1603年2月13日に78歳で高松城にて死去した生駒親正の墓所のひとつである。1595年には讃岐国17万1800石を与えられ高松城,丸亀城を築き城下町を整えた。 | |
K‐KG004 | 石清尾山2号墳 | 石清尾山古墳群のなかで両袖型の横穴式石室をもつ直径約10m,高さ約2mの円墳である。古墳時代後期の6世紀末~7世紀初頭の築造と推定される。 | 国 | |
K‐KG005 | 猫塚古墳 | 石清尾山古墳群の中で全長約96m,高さ約5mと最大規模を誇り、かつ古墳時代前期4世紀前半の築造と最も古い。種類は全国でも非常に珍しい双方中円墳の積石塚である。 | 国 | |
K‐KG006 | 姫塚古墳 | 石清尾山古墳群に属する全長約43m,高さ約3.6mの積石塚の前方後円墳である。首長の娘の墓という伝承があり、4世紀前半の築造と推定される。 | 国 | |
綾歌郡 |
K‐KG003 | 聖通寺山古墳 (積石塚古墳) |
古墳時代前期(約4~5世紀)頃の築造と推定される円墳である。現状規模は直径約12m,高さ約2m。積み石による積石塚で全国的にも特にこの讃岐に多く分布する。被葬者はこの地域に関係の深い有力首長と推定される。 | 町 |
さぬき市 | K‐KG001 | 富田茶臼山古墳 | 四国で最大規模の前方後円墳である。築造時期は5世紀前半頃と推定され、畿内色が強く、ヤマト王権と強く結び付いた被葬者が東讃地域に強い勢力を有するようになったことを示唆する。 | 国 |
K‐KG007 | 平賀源内墓所 | 平賀源内は1780年12月18日に投獄中に破傷風により獄死したとされる。墓所は浅草橋場にあった総泉寺に設けられたが、ここは源内の義弟によって建てられた墓と伝えられる(異説あり)。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐EH001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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高知市 | K‐KC001 | 板垣退助墓所 | 1919年7月16日に83歳で死去した板垣退助をはじめとする板垣家,乾家の先祖,親族の墓所である。退助はもともと東京都の旧高源院に葬られたが、1968年に分骨され、板垣山に埋葬された。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐FK001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐SA001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐NS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐OT001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐KM001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐MZ001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐KS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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K‐OK001 |