後鳥羽天皇大原陵
ごとばてんのう おおはらのみささぎ(Ohara Mausoleum of Emperor Gotoba)
【K-KT003】探訪日:1991/10.16
京都府京都市左京区大原勝林院町
【MAP】
〔駐車場所〕
1239(延応元)年2月22日、配所の隠岐にて宝算60で崩御した第82代・後鳥羽天皇〔在位:1183~1198年〕の陵である。崩御時は法皇。 火葬は隠岐で行われた(隠岐海士町陵)。遺骨の一部は、翌年、西蓮(藤原能茂)が摂津国の水無瀬殿に移し、1241(仁治2)年には、後鳥羽上皇の後宮であった修明門院(藤原重子)の計らいで水無瀬殿の一部を大原に移して法華堂が建立され納骨された。その法華堂は1736(享保21)年に類焼したため、幕末の修陵の際には、現在の石造十三重塔が天皇陵として治定されたという。
後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子で、母は坊門信隆の娘・殖子(七条院)。諱は尊成。後白河天皇の孫であり、安徳天皇の異母弟に当たる。
源平争乱の中、天皇になるまでにも後白河法皇と公卿の間では意見が対立した。平和的な交渉によって安徳天皇と神鏡剣璽を帰還させるか、それとも神器無きまま新帝践祚するか、さらには誰を天皇にするかであった。結局、4歳の尊成親王が剣璽渡御なきまま後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、即位式も同様であった。皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま登極した後鳥羽にとっては、これが引け目となり、逆に内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。
1198(建久9)年1月、土御門天皇に譲位し、以後、土御門,順徳,仲恭と1221(承久3)年まで、3代23年間に亘り太上天皇として院政を敷いた。1202(建仁2)年頃には、朝廷を主導していた関白・九条兼実が出家し、土御門通親が急死、既に後白河法皇,源頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。
上皇は、頼朝死後も台頭する鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じたが、幕府側からの親王将軍構想のあたりから次第に亀裂が生じ、大内守護・源頼茂自害に伴う大内裏が焼失するという事件が発生すると、上皇は幕府を含む各方面に再建のための賦課を求めたが非協力的であり、朝廷と幕府の緊張は次第に高まった。
1221(承久3)年5月15日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討の官宣旨と院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗(大井戸渡古戦場・大豆戸古戦場など)。7月13日、上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流された(直前に出家して法皇となっている)。父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。
なお、『明月記』の記録によると、1235(文暦2)年の春頃には摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。
崩御の3ヶ月後には「顕徳院」と諡号が贈られたが、正式に院号が「後鳥羽院」とされたのは、後嵯峨天皇が即位し、後高倉皇統の断絶した1242(仁治3)年7月である。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 鎌倉時代 |
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関連年号 | 1239年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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後鳥羽天皇 | K331 | 藤原能茂(西蓮) | F*** | 藤原重子 | F079 |