所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐HD001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐AM001 |
所在地 | No. | 史跡名 |
ワンポイント・メモ |
指定 |
---|---|---|---|---|
西磐井郡 |
B‐IW001 |
衣川古戦場 |
工事中 | |
B‐IW002 | 1189年、衣川館で藤原泰衡が源義経主従を襲撃し自害させた。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
B‐AT001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
B‐YG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
B‐MG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐FS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐TK001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐KN001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐ST001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐CB001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐IR001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐TG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐GM001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐YN001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐NN001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐NG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
浜松市 | B‐SZ001a | 三方ヶ原古戦場: 古戦場碑 |
1572年12月22日夕刻、三方ヶ原で繰り広げられた武田軍27,000と浜松城から出陣した徳川家康軍,織田信長援軍11,000の戦いを記した石碑である。実際の主戦場は特定されていない。 | |
B‐SZ001b | 三方ヶ原古戦場: 犀ヶ崖 |
1572年12月22日夜、三方ヶ原の戦いで大敗を期した徳川軍が一矢報いようと、犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させた。布橋の逸話が残る。能性が高い。「犀ヶ崖の戦い」自体も後世に江戸幕府によって編纂された史料が初出である。 | 県 | |
B‐SZ001c | 三方ヶ原古戦場: 本多忠真碑 |
徳川家康の退却の際に自ら殿を買って出て追走する武田軍に斬り込み討死した本多忠真の碑。 | ||
B‐SZ001d | 三方ヶ原古戦場: 夏目吉信碑 |
夏目吉信は敗走中の徳川家康の身代わりとして討死した。三河一向一揆のときの家康の寛大な処置に対する恩を返した。 | ||
B‐SZ003 | 仏坂古戦場 | 1572年10月22日、山県昌景軍4,000と鈴木重好,鈴木重俊,井平直成ら井伊勢500が仏坂の地で激突した。井平直成と鈴木重俊が鉄砲で撃たれ戦死するなど双方88人の武将が戦死したとされる。 | ||
磐田市 | B‐SZ002a | 一言坂古戦場 | 三方ヶ原の戦いの前哨戦の地。家康の撤退に際し本多忠勝と大久保忠佐が殿を務めた。 | |
B‐SZ002c | 大日堂古戦場 | 本多忠勝が武田軍の動静を監視していた所。大日堂は大日如来を祀る寺社で高台にある。 | ||
袋井市 | B‐SZ002b | 木原畷古戦場 | 1572年、武田軍は木原付近に布陣したが、徳川方の偵察隊を察知し猛攻をかける。偵察隊はひたすら退却した。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
名古屋市 | B‐AC001a01 | 【C-AC028】鷲津砦跡参照 | 国 | |
B‐AC001a02 | 【C-AC029】丸根砦跡参照 | 国 | ||
B‐AC001a03 | 【C-AC032】善照寺砦跡参照 | |||
B‐AC001a04 | 【C-AC083】丹下砦跡参照 | |||
B‐AC001a05 | 【C-AC084】中島砦跡参照 | |||
B‐AC001a06 | 1560年5月19日、織田信長軍2,000が突撃の機を窺って身を潜めたところ。大雷雨が止んだ頃に一気に今川本陣の右翼に攻め込んだ。現在の大学駐車場が釜ヶ谷で、信長軍が駆け上った坂は「信長坂」と名づけられている。 | |||
B‐AC001a21 | 1560年5月19日、沓掛城を出立した今川義元本隊4,000のうち約1,500人がおけはざま山の中腹に本陣を置いた。本陣跡は石碑がある坂の上方とされるが、位置は確定できているわけではない。 | |||
B‐AC001a22 | 1560年5月17日、今川義元の本陣設営のために瀬名氏俊の先発隊約200が着陣した所。陣所はこれより奥の東西約15m,南北約38mの高所にあったとされる。現在、遺構は残されていない。 | |||
B‐AC001a23 | 1560年5月19日、桶狭間に着いた今川軍のうち井伊直盛隊1,000余名が陣を張った丘陵である。織田軍に取り巻かれたことから「巻山」と名付けられた。井伊直盛はこの戦いで戦死した。 | |||
B‐AC001a24 | 1560年5月19日、今川軍のうち松井宗信隊約1,500は前衛として高根山から幕山にかけて陣を張った。また、中島砦から陽動作戦で出てきた佐々政次,千秋季忠ら300の兵と激戦の末、両将の首をあげている。高根山には有松神社は建つ。 | |||
B‐AC001b01 | 1560年5月19日、今川義元が討たれたところとされる。服部小平太が一番槍をつけたが、義元に膝を斬られた。そこへ助太刀に入った毛利新介が義元を組み伏せ首級を挙げた。義元の戦死により織田軍の勝利に終わった。 | |||
B‐AC001c01 | 1560年5月19日、桶狭間の戦いで今川方の瀬名氏俊が部将を松の根元に集めて戦いの評議を行った所とされる。現在の松は植樹された3代目のものである。 | |||
B‐AC001c02 | 1560年5月19日、桶狭間の戦い後、織田軍に捕らえられた今川義元に仕える茶坊主の林阿弥が、今川方武将の首検証を命じられた場所とされる。長福寺の境内にある。 | |||
B‐AC001c03 | 1560年5月19日、桶狭間の戦い後、織田軍が血の付いた刀をこの池で濯いだとされる。長福寺の境内にある。 | |||
B‐AC001c04 | 1560年5月19日、桶狭間の戦いでの戦死者を埋葬した所。山裾の沿って七つの穴が一列に掘られたため七ツ塚または石塚と呼ばれたという。現在は塚の一つが残る。 | |||
B‐AC006 | 稲生原古戦場 | 1556年に織田信秀の跡を継いだ信長とそれを不服とする弟の信行,林秀貞,柴田勝家らが戦った所。 | ||
豊明市 | B‐AC001c05 | 1560年の桶狭間の戦いで戦死した2,500余人を埋葬供養した塚とされる。また、織田信長が部下に今川軍の死者を検分され、その遺骸を集めさせた塚ともいわれる。 | 国 | |
B‐AC001b02 | 桶狭間古戦場伝説地 | 1560年5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した所とされる。史跡として七石表,弔古碑などがある。今川義元の墓碑は、通りかかる旅人が弔古碑を墓と間違えるため、1876年にあらためて建てたものという。 | 国 | |
一宮市 | B‐AC005 | 浮野古戦場 | 1558年に織田信長,織田信清と織田信安が戦った所。信長勢の勝利に終わり、信安勢を岩倉城まで追い詰めている。 | |
犬山市 | B‐AC002b01 | 1584年の小牧長久手の戦いにおける緒戦の地。徳川軍の勝利に終わる。 | ||
B‐AC002c01 | 八幡林の戦いで大敗した森長可の退却にあたって奮戦し壮絶な死を遂げた野呂助左衛門宗長と子の助三郎宗政を顕彰する塚。 | |||
B‐AC002a01 | 大型前方後円墳であるが、羽柴方の森長可が改修し砦として使用した。 | |||
尾張旭市 | B‐AC002b02 | 第4陣・羽柴秀次隊が白山林で朝食をとっていたところを追走してきた徳川軍が奇襲し秀次勢は潰滅した。 | ||
小牧市 | B‐AC002a02 | 秀吉方の日根野備中守弘就,弟の弥次右衛門以下2千の兵が布陣した砦。小牧山城に対する最前線に位置する。 | ||
B‐AC002a03 | 羽柴方の堀長政,蒲生氏郷,加藤光泰らが守備した砦。三ツ山古墳群跡が利用された。 | |||
B‐AC002a04 | 羽柴秀次,丹羽長重を守将とする8千の兵が布陣する秀吉軍の主陣地であった。 | |||
B‐AC002a05 | 秀吉方の丹羽長秀,蜂屋頼隆,金森長近ら3千の兵が布陣した砦。 | |||
B‐AC002a06 | 秀吉方が岩崎山を利用して築いた砦で稲葉一鉄,貞通親子らが4千の兵を率いて布陣した。 | |||
B‐AC002a07 | 徳川家康,織田信雄方が丹羽長秀が建てた屋敷を修復して築いた砦。守備は交番とした。 | |||
B‐AC002a08 | 徳川家康,織田信雄方が築いた砦である。松平氏の兵1500が布陣した。現在は住友理工(株)敷地内。 | |||
春日井市 | B‐AC002a09 | 徳川方が築いた東端に位置する砦。池田恒興によって攻め落とされた犬山城からの敗走兵らが守備した。 | ||
長久手市 | B‐AC002a10 | 岡崎侵攻する秀吉方を追って進軍してきた家康,信雄本軍が陣を置き、軍議した所。 | ||
B‐AC002a11 | 徳川家康は戦況を見て御旗山に進軍し頂上に金扇の馬標を立てた。後年、富士浅間神社が祀られている。 | |||
B‐AC002a12 | 第3陣だった堀秀政が兵3千を率いて東進中に第4陣の秀次隊の壊滅を知り、引き返して陣を敷いた所。 | |||
B‐AC002b03 | 秀次勢を撃破し突入してきた徳川軍を堀秀政隊が返り討ちにした。秀吉方が勝利した唯一の合戦地。 | |||
B‐AC002b04 | 孤立した第1陣・池田恒興隊と第2陣・森長可隊が徳川軍と激戦を繰り広げた決戦の地。秀吉方の主将が討死している。 | |||
B‐AC002c02 | 池田恒興は永井直勝の槍を受けてこの地で討死した。 | |||
B‐AC002c03 | 池田之助は父の恒興の戦死を知り、敵陣へ突入し安藤直次にこの地で討たれた。 | |||
B‐AC002c04 | 森長可は井伊直政隊と激突し鉄砲足軽の狙撃で眉間を撃ち抜かれこの地で即死した。 | |||
B‐AC002c05 | 木下勘解由利匡は徒歩で敗走する羽柴秀次に自分の馬をへ与え、自らは追ってきた敵と奮戦し戦死した。 | |||
B‐AC002c06 | 伴盛兼は徳川方の武将で仏ヶ根の決戦で討死。墓碑は色金山の中腹に領地であった遠州気賀の方を向けて建立されている。 | |||
B‐AC002c07 | 安昌寺の雲山和尚は里人達と共に敵味方の別なく屍を集めて埋葬し塚を築いて供養した。 | |||
B‐AC002c08 | 勲功の証としてそぎ取られた討死者の耳を埋めて供養した塚とされる。 | |||
B‐AC002d01 | 仏ヶ根の決戦後に渡辺半蔵守綱らが血の付いた刀や槍を洗った池。現在は池はなく公園となっている。 | |||
B‐AC002d02 | 徳川軍が血の付いた刀や槍を「血の池」で洗うときに鎧(甲冑)を掛けた松とされる(4代目)。 | |||
西尾市 | B‐AC009a | 善明堤(鎧ヶ淵)古戦場 | 1561年に今川氏から独立した松平元康が三河統一過程において吉良義昭と戦った所。吉良の勝利に終わる。 | |
B‐AC009b | 松平好景戦死の地 | 1561年、善明堤の戦いで深溝城主の松平好景が戦死した場所とされる。秋葉山常夜燈から100mほど先の「継植松碑銘」の辺りとされる。 | ||
B‐AC009c | 板倉好重戦死の地 | 1561年の善明堤の戦いで、板倉好重が深溝城主・松平好景とともに吉良義昭の軍に包囲され戦死した場所とされる。 | ||
B‐AC010a | 藤波畷古戦場 | 1561年、吉良義昭は藤波畷で家老の富永忠元を討取られたことで戦意を失い、松平元康に降伏し東条城を明け渡した。 | ||
B‐AC010b | 富永忠元一族討死の地 | 1561年、藤波畷の戦いで吉良家の家老・富永忠元の一族が、松平方の本多広孝の兵に討取られた場所。1717年に村民たちにより伴五郎地蔵が祀られている。 | ||
豊田市 | B‐AC013 | 車坂古戦場 | 1563年、松平元康は三河平定の一環として2,000の兵を率いて寺部を攻め、車坂,水間で鈴木日向守と会戦した。元康は、烏帽子岩に掛けて采配を振るったともいう。 | |
岡崎市 | B‐AC003 | 小豆坂古戦場 | 三河側の今川氏,松平氏連合と尾張から侵攻してきた織田氏の間で1542年と1548年の2度にわたって繰り広げられた小豆坂の戦いの所。 | |
B‐AC007 | 渡古戦場 | 1547年、三ツ木城主の松平信孝と織田信秀の連合軍が岡崎城主の松平広忠軍と渡河原で戦った。 | ||
B‐AC008 | 雨山古戦場 | 1556年、雨山領主の阿知定直が今川氏に叛いて織田氏に寝返ったため今川方の本多忠俊らと戦いになった。 | 市 | |
B‐AC009c | 板倉好重戦死の地 | |||
B‐AC010a | 井田野古戦場 | 勢力を拡大しつつあった松平親忠の応仁の乱のときから松平元康の桶狭間の戦いに至る約100年間に数回の激しい戦場となったところ。岩津,大樹寺方面,ここ西光寺の辺りの広範囲を指す。 | ||
B‐AC010b | 松平親忠が1467年と1493年の井田野の戦いでの戦死者を敵味方区別なく埋葬した塚。低い円墳状の地の墳頂に約2mの石碑と、そのほかに小さな碑や墓が20基ほど建てられている。 | 市 | ||
B‐AC012 | 石筒ヶ根古戦場 | 1573年、亀山城主・奥平貞能は、武田方から離反し徳川方に味方することに決め、8月20日夜、一族は夜陰に乗じて滝山城へと向かった。これを知った武田方の甘利晴吉軍と亀山城から石筒ヶ根辺りまでの広範囲で戦いが続いた。 | ||
新城市 | B‐AC004a01 | 長篠城攻めの陣城として医王寺の裏山に築いたものとされる。武田勝頼本軍はここに3s千の陣を配置した。 | 市 | |
B‐AC004a02 | 馬場信房の陣所。同志の内藤昌豊,山県昌景,土屋昌次を同道して決戦での奮闘を誓い今生の別れとして泉の水を酌み交わして出陣した。 | |||
B‐AC004a03 | 一条信龍,土屋昌次,真田信綱,昌輝兄弟ら兵2千が陣を構えたところ。医王寺山本陣の南、大通寺山陣地の西に位置する。 | |||
B‐AC004a04 | 1575年5月、武田勝頼は多くの忠臣の決戦回避の進言を聞き入れずに寒狭川を渡ってこの清井田へ進撃し、ここを戦地本陣とした。 | |||
B‐AC004a05 | 武田勝頼は設楽原決戦の開戦時に連吾川を見下ろすこの才ノ神の赤禿山から観戦した。 | |||
B‐AC004a06 | 内藤昌豊が陣を張った所であり、戦中には武田勝頼が自らここへ陣を移して昌豊と共に指揮をとったとされる。 | |||
B‐AC004a07 | 【C-AC256】鳶ヶ巣山砦跡参照 | |||
B‐AC004a08 | 【C-AC257】中山砦跡参照 | |||
B‐AC004a09 | 【C-AC258】久間山砦跡参照 | |||
B‐AC004a10 | 【C-AC259】姥ヶ懐砦跡参照 | |||
B‐AC004a11 | 【C-AC260】君ヶ臥床砦跡参照 | |||
B‐AC004a12 | 設楽原に軍を進めた織田信長が最初の本陣を置いたところ。 | |||
B‐AC004a13 | 織田信長は設楽原の戦いに備えて、最初の本陣極楽寺跡で軍議を開いた後、茶臼山に本陣を移した。 | |||
B‐AC004a14 | 織田信忠は父信長が戦地本陣を置いた茶臼山の南側の野邊神社に陣所を置いた。 | |||
B‐AC004a15 | 羽柴秀吉は織田信長戦地本陣の北側、織田徳川連合軍の最左翼に陣を構えた。 | |||
B‐AC004a16 | 徳川家康は自ら最前線の弾正山(断上山)に本陣を置いた。 | |||
B‐AC004a17 | 設楽原での決戦が始まると、武田軍が一望できる八剣山の物見塚へ移り陣頭指揮指揮をとった。 | |||
B‐AC004a18 | 岡崎(松平)信康は石川数正や平岩親吉と共に松尾神社に布陣した。 | |||
B‐AC004a19 | 大久保忠世,忠佐兄弟は徳川軍の最右翼に布陣した。 | |||
B‐AC004a20 | 北畠(織田)信雄は織田徳川連合軍の最後尾の位置となる高台に本陣を置いた。 | |||
B‐AC004a21 | 設楽越中守貞通は鳶ヶ巣山陣地奇襲部隊に加わり、樋田に陣を構えて鳶ヶ巣山陣地から敗走してくる武田の敗残兵を討った。 | |||
B‐AC004b01 | 織田徳川連合軍の援軍派遣を知らせに戻った鳥居強右衛門が武田の兵に捕らえられ磔になった場所。 | |||
B‐AC004b02 | 松平伊忠は鳶ヶ巣山砦の残敵追撃戦で前線に出過ぎ、武田軍の小山田昌行の兵から猛反撃を受けて戦死した。 | |||
B‐AC004b03 | 勝楽寺の南方、設楽原の最南端に位置する田園地帯で決戦の口火が切られた戦場。馬防柵はない。 | |||
B‐AC004b04 | 武田の騎馬軍団に対抗するために織田信長が考えたとされる馬防柵がある所。 | |||
B‐AC004b05 | 馬場信房,土屋昌次らの武田軍右翼と佐久間信盛,滝川一益らの主に織田軍が激戦を繰り広げた場所。 | |||
B‐AC004b06 | 武田軍右翼に陣した馬場信房,土屋昌次らと織田軍最左翼の水野信元,佐久間信盛らの激戦が繰り広げられた場所。 | |||
B‐AC004b07 | 徳川軍の馬防柵のほぼ正面にあたり、武田軍の武田信廉,内藤昌豊,甘利信康らが激戦を繰り広げた場所。 | |||
B‐AC004b08 | 徳川家康と山県昌景の陣地の間に位置する。設楽原の戦いの中でも最も激しい戦いが繰り広げられた。 | |||
B‐AC004b09 | 武田軍が総崩れとなり、武田勝頼を甲州へ帰還させるために馬場信房や笠井満秀などが殿となって織田徳川連合軍と最後の戦いを繰り広げた場所。 | |||
B‐AC004b10 | 笠井満秀は武田勝頼に自分の馬を勧めた後にここを自ら勝頼と名乗り瀧川助義と組討ち刺し違えて戦死した場所。 | |||
B‐AC004b11 | 織田軍佐久間信盛6千が守る砦を武田軍右翼の馬場信房が手勢7百で攻撃し攻め取った。 | |||
B‐AC004b12 | 土屋昌次は三重に廻らされた柵の第二柵まで突破し、第三柵前で一斉射撃により戦死した。 | |||
B‐AC004b13 | 殿を努めた馬場信房は勝頼が無事に豊川を越えて落ち延びていくのを見届けた後、敵の河井三十郎に手柄にせよと自ら首を差し出し戦死した。 | |||
B‐AC004b14 | 山本信供は武田軍の総崩れとともに徳川軍の追撃をかわしつつ退いたが渡辺半蔵守綱に討たれた。山本勘助の子。 | |||
B‐AC004c01 | 長篠の戦いの後、戦死者の首を洗ったという池。 | |||
B‐AC004c02 | 長篠設楽原の戦いの戦死者を埋葬した塚とされる。主戦場となった竹広村の住民たちによって葬られた。 | |||
B‐AC004c03 | 戦死者を葬った場所。おびただしい蟻が出て村人を苦しめたため医王寺の住職が供養したと伝えられる。 | |||
B‐AC004c04 | 設楽原の決戦に先立ち、武田軍の馬場信房,内藤昌豊,山県昌景,土屋昌次の四人が訣別の盃を交わした場所。 | |||
B‐AC004c05 | 武田勝頼が捨てたとされる武田家伝来の「諏訪法性の甲」が発見された場所。 | |||
B-AC004c06 | 鳥居強右衛門と鈴木金七郎重政は雁峰山を登り50Km先の岡崎城にたどり着いた。 | |||
B‐AC004c07 | 織田信長が長篠城を死守した奥平貞昌を呼び寄せ、その戦功を称え信長の「信」の一字を与えた。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
岐阜市 | B‐GF007 | 船田合戦終焉の地 | 1495~96年、美濃守護・土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光との戦いが船田合戦である。城田寺辺りが決戦の地となり、舎衛寺に「船田合戦終焉の地」の碑が建つ。 | |
安八郡安八町 | B‐GF006 | 森部古戦場 | 1561年5月13日、長良川西岸の森部での西美濃への侵攻を開始した織田信長軍と迎え撃った斎藤龍興軍の戦い。少数精鋭1,500の織田軍が6,000の斎藤軍を破り、斎藤軍の宿老クラスが戦死している。 | 町 |
大垣市 | B‐GF003 | 墨俣川古戦場 | 1181年3月10日、墨俣川(長良川)にて源行家の軍と平氏軍の戦いが行われたところ。行家軍の奇襲が見破られ、大敗に終わる。源義円ら多くの源氏一門の諸将が戦死した。 | 市 |
B‐GF004 | 杭瀬川古戦場 | 1600年9月14日、関ヶ原の戦いの前哨戦として、西軍の島清興が伏兵を用い東軍の中村,有馬勢にに奇襲攻撃をかけ勝利した戦い。川筋は変化するため渡河場所などは特定されていない。 | ||
各務ヶ原市 | B‐GF005 | 米野古戦場 | 1600年8月22日、関ヶ原の戦いの前哨戦として、岐阜城主・織田秀信が率いる西軍と岐阜城へ向かう池田輝政率いる東軍とが木曽川西岸で激突した戦いである。東軍が圧勝。 | |
B‐GF008b | 承久の乱 大豆戸古戦場 |
1221年6月5日、承久の乱における鎌倉幕府軍と朝廷軍が激戦を繰り広げた場所である。北条泰時を総大将とする幕府軍10万余騎が総大将・藤原秀康率いる1万余騎の朝廷軍を破った。 | ||
不破郡 |
B‐GF001c03 | 1600年、関ヶ原の戦いに敗れ退却途中、烏頭坂で深手を負った島津豊久は樫原村に入り匿われたが、傷は深く退却の足手まといになるのを恥じて白拍子谷で自刃したと伝えられる。 | ||
可児市 | B‐GF008a | 承久の乱 大井戸古戦場 |
1221年6月5日、承久の乱における鎌倉幕府軍と朝廷軍の戦いの火ぶたが切られた合戦場である。武田信光率いる幕府軍5万余騎が大内惟信率いる幕府軍2000騎に圧勝した。 | |
恵那市 | B‐GF002 | 大将陣跡 | 1575年の岩村城攻めで織田信忠が本陣を構えた場所である。逆磔された秋山信友,おつやの方ら計5人の首を葬った大将塚もある。 | 市 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
B‐ME001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
B‐FU001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
加賀市 | B‐IK001 | 篠原古戦場 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
小矢部市 | B‐TY001 | 倶梨伽羅峠古戦場 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
---|---|---|---|---|
長浜市 | B‐SG001a | 姉川の戦い直前に織田信長と徳川家康が本陣を置いた曲輪の跡。 | ||
B‐SG001b | 織田信長の本陣跡。信長は姉川北岸の浅井・朝倉軍の展開を知り、この地に本陣を移した。 | |||
B‐SG001c | 徳川家康の本陣跡。家康は姉川北岸の浅井・朝倉軍の展開を知り、この地に本陣を移した。 | |||
B‐SG001d | 越前から援軍として駆けつけた朝倉景建軍の本陣が置かれ、徳川軍と対峙して戦端が開かれたとされている。 | |||
B‐SG001e | 8千の軍勢を率いる浅井長政本陣があった場所と伝えられている。 | |||
B‐SG001f | 朝倉景健軍1万と徳川家康軍6千の中間にあたる激戦地。両軍の戦死者の血に染まったことから「血原」と呼ばれるようになった。 | |||
B‐SG001g | 浅井長政軍8千と織田信長軍2万3千の間で繰り広げられた激戦の地。 | |||
B‐SG001h |
織田軍によって追撃された浅井軍の将兵の血で染まったと伝えられる血川が流れていた。現在は流路はなくなっている。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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京都市 | B‐KT001 | 宇治川古戦場 | 工事中 | |
B‐KT002 | 蛤御門の変 | 1864年7月19日、京都御所の蛤御門付近で勃発した長州藩兵と会津・桑名藩兵,薩摩藩兵の武力衝突。長州藩が敗退し、京都市中約3万戸が焼失した。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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吉野郡 |
B‐NR001 | 佐藤忠信花矢倉 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐WK001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐OS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐HG001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐OY001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐HS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐TT001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐SN001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐YC001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐TS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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高松市 | B‐KG001a | 源平屋島古戦場:全景 | 工事中 | |
B‐KG001b | 平屋島古戦場:段古嶺 | 工事中 | ||
B‐KG001c | 源平屋島古戦場:血の池 | 工事中 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐EH001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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高知市 | B‐KC001 | 大高坂城古戦場 (吉野朝廷時代古戦場) |
1340年1月、土佐での北朝方・細川定禅軍と南朝方・大高坂松王丸,満良親王らの軍が激戦を繰り広げた場所とされる。北軍は升形近辺に砦を築いていた。 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐FK001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐SA001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐NS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐OT001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐KM001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐MZ001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐KS001 |
所在地 | No. | 史跡名 | ワンポイント・メモ | 指定 |
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B‐OK001 |