篠原古戦場
しのはら こせんじょう(Historic Battlefield of Shinohara)
【B-IK001】探訪日:1990/10.13
石川県加賀市柴山町63-69
【MAP】
〔駐車場所〕
1183(寿永2)年6月1日、源義仲軍5,000騎と平維盛率いる40,000余騎との間で行われた治承・寿永の乱の戦闘の一つで、平氏軍は壊滅的打撃を受けた。
20日前の倶利伽羅峠の戦いでの敗北により、平維盛が率いる平氏軍は京方面へ北陸道を上って、加賀国篠原で人馬を休息させようと陣を布いた。義仲軍は同地で平氏軍を捉えた。5000騎にも満たない義仲軍に対して、平氏側の軍勢は4万騎ではあったが、合戦が終わってみれば甲冑を付けた武士はわずか4,5騎で、その他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てて山林に逃亡したが、ことごとく討ち取られた。平家一門の平知度が討死し、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊,藤原景家,忠経(藤原忠清の子)らは一人の供もなく逃げ去った。
『平家物語』には「実盛最期」として、かつて源義仲の命を助けた斎藤実盛の件がある。
1155(久寿2)年、武蔵国をめぐる争いで源義朝の子・源義平は、叔父の源義賢を急襲してこれを討ち取った(大蔵合戦)。そのとき、実盛は義賢の遺児・駒王丸(のちの義仲)を木曾へと逃がした。その後、平氏軍の老将となった斎藤実盛は、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、最後こそ若々しく戦いたいと白髪の頭を黒く染めて戦に臨んていた。そして、味方が総崩れとなる中、老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。首実検の際、実盛を知る樋口兼光から話を聞いた義仲が付近の池で首を洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついに実盛であることが確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。
古戦場には、義仲が実盛の亡骸を手厚く葬ったという実盛塚と、首を洗ったされる首洗池がある。