館・屋敷

北海道・東北(北海道・青森県・岩手県・秋田県・山形県・宮城県・福島県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐HD001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐AM001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定

西磐井郡
平泉町

R‐IW001 高館義経堂 平泉に再び落ち延びた源義経はこの高館に居館を与えられたが、1189年に藤原泰衡の急襲に遭い、この地で妻子とともに自害した。
奥州市 R‐IW002 館跡
(安倍頼時,貞任館跡)
安倍頼時,貞任父子の居館跡と伝えられ、安倍氏勢力の中心舞台であった。
R‐IW003 小松館跡 安倍貞任の叔父良照(安倍則任)の居館であったと伝えられる。
R‐IW004 並木屋敷跡
(衣川柵跡)
前九年の役で安倍貞任が撤退までの18年間、安倍氏の政庁が置かれていた。また、その後の清原武則,武貞,真衡の三代の政庁もしくは居館もここに置かれた。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐AT001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐YG001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
多賀城市 R‐MG001 館前遺跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐FS001

 

関東(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐TK001

 


所在地 No. 史跡名

ワンポイント・メモ

指定
鎌倉市 R‐KN001 大蔵幕府跡 1180年10月、源頼朝は大蔵郷に邸宅を構え、御寝所などの私的区域と政務を行う公的区域を設けた。大蔵御所(大蔵幕府)は3代将軍・源実朝の1219年(1225年説あり)まで政治の拠点であった。鶴岡八幡宮の東側一帯の地域にあったとされる。
R‐KN002 土佐坊昌俊邸跡 1185年10月17日、京の堀川館にいる源義経に夜襲をかけたが返り討ちにあった土佐坊昌俊の館跡と伝わる。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐ST001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐CB001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐IR001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐TG001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐GM001

 

甲信越(山梨県・長野県・新潟県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐YN001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定

木曽郡
木曽町

R‐NN001 木曽義仲屋敷跡 工事中
R‐NN002 中原兼遠屋敷跡 工事中
R‐NN003 樋口兼光屋敷跡 工事中
飯田市 R‐NN004 旧小笠原家書院 1624年頃の建造とされ、伊豆木小笠原氏の居館のうち唯一現存するもの。

下伊那郡
高森町

R‐NN005 竹ノ内家住宅 1799年に建築された本棟造の民家である。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐NG001

 

東海静岡県愛知県岐阜県三重県

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
浜松市 R‐SZ001

松下嘉兵衛屋敷跡
(頭陀寺城)

1551年頃から約3年間、無名の木下藤吉郎が松下嘉兵衛の屋敷で奉公したことが知られている。1574年には虎松(井伊直政)を養子とし家康に謁見させている。
R‐SZ006 旧高山家住宅 安政年間(1854~60年)頃、浜名湖沿東岸の村櫛で漁業,農業を営んでいた高山家の古民家を蜆塚公園に移築公開しているものである。
R‐SZ007 気賀関所跡 17世紀初め、江戸幕府が本坂通(姫街道)の往来を監視したために設置した関所である。気賀近藤氏が明治維新まで関所を監理した。本坂通を挟んで北に本番所、南に向番所と2層の望楼があった。現在は観光施設として復元されている。
R‐SZ008 井平氏居館跡 1245年、井伊家から分家した井平直時がここに居館を構えた。1572年の仏坂の戦いで井平直成が討死し井平氏は一時途絶えたが、翌年に井平直種が井平氏を継ぐ。しかし、1590年、嫡男が小田原攻めで討死し井平氏は断絶した。
R‐SZ009 鈴木家住宅 静岡県西部から愛知県東三河にかけて分布していた分棟型釜屋建形式の数少ない農村民家であり、分棟型民家の展開を示すものとして重要である。建築年代の1821年頃とほぼ明らかであることから、釜屋建民家の発展過程を理解する上で高い価値が認められる。
R‐SZ010 浜崎居館跡 1500年頃に縣氏(安形氏)がこの地に移り住んだものとされ1630年頃まで続いたという。現在は住宅地となって遺構は残っていないが、案内板によれば井戸が残っているという。
R‐SZ011 大谷代官屋敷跡 江戸在住の大谷近藤家に代わり、事実上領内を支配していた大野家の屋敷で現在も子孫の方が居住している。土地の人々は大野家を「お代官様」、屋敷を[代官屋敷」と呼んでいた。
R‐SZ012 大谷陣屋跡 1629年、大谷近藤家の近藤用行のときに気賀近藤家より分家して三千石の旗本となり、ここに陣屋を築いた。1842年までの約210年間この地を支配した。現在は遺構は残されておらず果樹園となっている。
R‐SZ013 志都呂陣屋跡 1698年、五井松平家の松平忠明が敷知郡内に采地を移され、ここに陣屋を構えた。今切関所奉行を勤めていた。現在、高台の跡地には志都呂幼稚園の建つ。
R‐SZ014 大久保陣屋跡 1619年、服部政信が遠江国の今切関所(新居関所)奉行の要職に就き、采地もこの地に移され陣屋を構えた。服部氏は大久保のほか、古人見,大人見,神ヶ谷,伊佐治,上石田,山崎など3千5百石を領していた。現在は大窪神社となっており、石垣は当時のものとされる。
R‐SZ015 平賀屋敷跡 近世初頭、公文庄屋の平賀助太夫の屋敷があったとされる。現在、遺構は残されていない。
R‐SZ016 加賀爪甲斐守屋敷跡
(掛塚陣屋跡)
1641年頃に加賀爪直澄によって築かれた。直澄は、書院番頭・大番頭などの要職を歴任した。養嗣子の直清に家督を譲るが、直清は領地問題で争いを起こし改易となった。屋敷の門が民家に移築されている。
R‐SZ017 堀江陣屋跡 1569年、徳川家康から和睦を引き出した大沢基胤,子の基宿は家康のもとで功績をあげ、江戸時代には高家旗本となり堀江陣屋を構えて明治までこの地を治めた。現在、遺構は残されていない。
R‐SZ021 殿村居館跡 1572年、仏坂の戦いで当時の井平城主・井平直成が討死し井平氏は一時途絶えた。翌年、井伊直平の末子・直種が井平氏を継ぎ、ここ殿村に新に居館を築いた。
R‐SZ022 鵜殿兵庫頭屋敷跡
推定地
『浜松御在城記』には、鵜殿兵庫頭氏長の屋敷が鴨江観音堂の北築地跡にあったと記されている。現在の浜松市立西小学校の辺りとされるが、遺構は残されていない。
R‐SZ023 山家三方衆屋敷推定地 とは、奥三河に割拠した作手城の奥平氏,長篠城の菅沼氏,田峰城の菅沼氏の山家三方衆の屋敷推定地とされる。現在の浜松市の秋葉神社の辺りとされている。
R‐SZ024 奥平信昌邸跡 築造年は定かではないが、1570年以前に徳川家康の家臣であった奥平貞昌(のちに信昌)の屋敷があったところとされる。浜松秋葉神社内に碑が立つ。1570年、城の裏鬼門(西南)にあたるとして秋葉神社が建立された。
R‐SZ025 岡本氏屋敷跡 浜名県氏一族の岡本氏の屋敷跡とされる。1460年頃より岡本四郎左衛門,岡本七郎太夫,岡本信久の名が残る。現在は内部が墓地になり、南,北,東には高さ2mほどの土塁が残されている。
R‐SZ026 鵺代居館跡 平安時代末期に猪鼻氏によって築かれ、鎌倉時代以降は浜名氏が居住したとされる。北朝方の浜名清政は一時期は遠江を離れたが、南朝方が衰退すると、この地に戻った。居館跡は隣海院と八柱神社辺り一帯とされる。
R‐SZ027 尾奈居館跡 平安時代中期には神宮神領となり、荘官下司の居住地であったとされ、室町時代には松井氏が代官を置いた。永禄年間(1558~70年)、大屋政頼の一族がこの地に住んだとされる。現在はみかん園,宅地となっている。
R‐SZ028 本坂源兵衛屋敷跡 戦国時代に設置されていた本坂関所の番を勤めた後藤氏の一族・本坂源兵衛の屋敷跡とされる。現在はみかん園や畑となっている。
R‐SZ029 本坂居館跡 関ケ原の戦い後、本坂関所の関守を勤めた後藤実久と子・兵庫の居館跡とされる。徳川家康の遠州侵攻の際の功績で日比沢城主となったのち、関東へ移ったが旧領の本坂へ復帰した。居館跡は大月寺の区域とされる
R‐SZ030 本坂関所跡 1600年の関ヶ原の戦い後に本格的に機能し、関守は後藤実久および子の兵庫が勤めた。1624年頃には気賀関所の設置により廃止となった。説明板が立つのみで遺構は残されていない。
R‐SZ031 堂崎居館跡 1380年、浜名利正によって築かれた。1387年には敷地内に利正院が創建された。1405年の洪水によって崩壊。1540年頃になって浜名氏の子孫の大屋光政が修築して住んだという。
R‐SZ032 大城戸館跡 遠江小国一宮に参向する勅使の御座所で、出雲国造家の分脈とされる北嶋孫左衛門家があったとされる。東西70m×南北115mほどの規模であったと考えられている。白髭神社,勅使井戸がある。
R‐SZ033 土屋氏地代官屋敷・北嶋仲右衛門家屋敷跡 宝暦年間(1751~63年)、北嶋吉道が当所に分家したのに始まる。4代目・吉泰のとき、旗本の土屋氏から地代官に取り立てられ陣屋の財政運営などに勤めた。天保年間(1830~43年)初の長屋門が残る。
湖西市 R‐SZ034 新居関所跡 1600年、東海道の舞坂宿と新居宿の間に設置された関所。面番所は関所建物としては唯一現存する建物。「入鉄砲に出女」を改めた。高潮,津波被害で元の位置からは西に移転している。 国特別
磐田市 R‐SZ004 長者屋敷遺跡 東西約100m,南北約80mのほぼ長方形で土塁に囲まれた奈良時代の遺跡である。地方官衙跡あるいは地方豪族の居館跡と推定される。土塁区画の内側には複数の建物跡が発見されている。
R‐SZ005 匂坂館跡 築造年代は定かではないが、現在の岩田小学校の南側にある水田地帯にあったとされる。1571年3月の武田信玄の遠江侵攻時に匂坂城の落城とともに焼失した可能性が高い。遺構は残っておらず、館跡に匂坂城の城址碑が建てられている。
R‐SZ018 旧見付学校 1875年、大久保忠尚の門下生・古沢脩が建設を主導し、淡海國玉神社境内に落成した。小学校のほか様々な用途に使われたが、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎として忠尚設立の磐田文庫とともに国の史跡に指定されている。
袋井市 R‐SZ002 貫名氏館跡(妙日寺) 現在の妙日寺境内一帯が貫名氏の邸宅跡とされる。4代・貫名重忠は安房国小湊へ配流され、配流先で誕生したのが日蓮聖人である。1332年、邸宅跡に妙日寺が創建された。貫名氏三代の墓,日蓮の両親の供養塔がある。
周智郡森町 R‐SZ035 飯田陣屋敷跡 築造年は定かではないが、飯田城の西側に位置し、「彦兵衛屋敷」とも呼ばれ、城番を務めた鈴木彦兵衛という人物が居住していたと伝えられる。敷地西端には高さ約1ⅿの土塁が残る。
R‐SZ036 村松五郎馬屋敷跡 築造年は定かではないが、高坂信太朗が飯田下郷に移住・築造し、江戸前期になって五郎助が村松に改名したという。現在は廃墟状態,一部果樹園となっている。
掛川市 R‐SZ037 糟屋氏屋敷跡 築造年は定かではないが、地元豪族の糟屋氏の居館である。50m四方ほどの規模で周囲に土塁を巡らせ、大手口は南、北側には食違虎口が見られる。高さ0.6~1.5mの土盛りがある。
R‐SZ038 大石氏屋敷跡 高天神城の南に位置する大石氏の屋敷跡である。1574年、武田勝頼の高天神城攻めで大石義久は討死。子の久末は西退組として馬伏塚城へ退いた。武田氏滅亡後、久末は大坂村に帰農した。
R‐SZ039 渥美源五郎屋敷跡 元々は今川氏家臣の大石五郎左衛門の屋敷であったが、高天神城攻防戦の際に渥美氏がはいった。渥美源五郎勝吉は大須賀康高配下として活躍した。屋敷の東西,北側に土塁が残る。
菊川市 R‐SZ003 黒田家代官屋敷 永禄年間(1558~69年)、本多助久の代官となった黒田義則が現在地に縄張りを行い居住したのが始まりと伝わる。宅地は周囲に濠をめぐらし、南に長屋門を開き、その東脇に米蔵が建つ。
牧之原市 R‐SZ019 大鐘家 約300年前の建築物で主屋と長屋門が国の重要文化財である。大鐘貞綱が1597年に遠州相良に移り住み、江戸時代は旗本として徳川家に仕えた後、18世紀初めに大庄屋となって大鐘館を築いた。
藤枝市 R‐SZ020 志太郡衙跡 8世紀前半から9世紀前半にかけての奈良・平安時代の郡役所跡である。1977年からの発掘調査で掘立柱建物30棟をはじめ、門や板塀,土壙,柵,土塁、井戸・石敷道路などの遺構が発見された。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
名古屋市 R‐AC018 御所屋敷跡 持萩中納言の屋敷跡とされるが、のちに同じ御器所村出身の豊臣秀吉の生母仲(大政所)の屋敷跡と称されるようになった。
R‐AC019 木下長嘯子(木下勝俊)宅跡 豊臣秀吉の甥の木下勝俊の屋敷跡とされる。
R‐AC020 小出秀政宅跡 豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政の屋敷跡で出生地でもある。1540年にこの地に生まれ、妻は大政所(秀吉の母)の妹を娶った。現在は遺構はなく石碑が建つのみである。
R‐AC021 丹羽長秀邸跡 織田信長の重臣であった丹羽長秀の屋敷跡であり出生地でもある。1535年にこの地に生まれた。現在は遺構はなく石碑が建つのみである。
R‐AC022 旧志水家玄関車寄 もと名古屋城三之丸にあった尾張藩家老の志水甲斐守屋敷玄関車寄せ部を譲り受け、大矢家本宅の表門として移築改造したもの。向唐破風のついた素木造りの江戸時代建築である。裏側には庭園茶亭「風信亭」も保存されている。
R‐AC023 山田重忠館跡 1192年に源頼朝によって尾張国山田庄の地頭に任じられた山田重忠の館跡とされる。
R‐AC056 加藤高明少年時代住居地跡 第24代内閣総理大臣となった加藤高明が1867年から少年時代を過ごした住居地跡である。現在はビルや駐車場などとなり、遺構は残されていない。
R‐AC057 加藤図書助屋敷跡 熱田の豪族・加藤順盛の屋敷跡とされる。1547年、松平竹千代が人質として駿府へ送られる途中、戸田康光により織田氏へ送られ、この加藤図書助屋敷に幽閉された。順盛は竹千代を手厚く養った。現在は説明板が立つのみである。
R‐AC058 長者屋敷跡 平安時代中頃にあった鳴海長者・太郎成高の屋敷跡とされる。笠覆寺縁起によると、藤原兼平が、この長者に仕える観音像を笠で覆っていた娘を見初めて妻とし、のちに笠覆寺を建てたという。屋敷跡には戦国時代に瑞泉寺が再建された。
江南市 R‐AC011 生駒屋敷跡 生駒家広の時、応仁の乱の戦乱から逃れ大和国平群郡生駒から尾張国丹羽郡小折へ移り生駒屋敷を構えたとされる。

あま市
 

R‐AC024 蜂須賀正勝旧宅跡 蜂須賀正勝の邸宅趾とされるが、規模については不明。石碑が建つのみである。石碑の数10m北には蜂須賀城跡がある。
小牧市 R‐AC013 余語氏館跡 室町時代に岩倉城主・織田敏定に仕えた近江国の余語盛政の館跡とされる。応仁の乱の際、盛政は織田の陣所へ駆けつけ、戦功を挙げて春日井郡に館を構えた。現在、土塁跡の上に社が祀られ、碑が建つ。
R‐AC030 岸田家住宅 19世紀初頭に主屋が建てられたとされる。一般の町家として建てられた建物が庄屋や脇本陣として使えるように改造されている。天保年間(1830~43年)に改装増築を行い、明治時代初期には再び改装された。
R‐AC031 小牧御殿跡
小牧代官所跡
小牧御殿は、1625年に徳川義直によって建てられ、明治維新まで尾張徳川家の御殿として利用された。1782年には、敷地の一部に小牧代官所の陣屋が設けられた。現在は遺構などはほとんど残されていない。
稲沢市 R‐AC008 浅野長勝宅跡 安井城を居城とし織田信長に仕えていた浅野長勝の屋敷跡。浅野城完成までの仮の屋敷の可能性がある。長勝は浅野長政,ねねの義父。
R‐AC009 長束正家邸跡 築造年は定かではないが、長束正家の屋敷跡とされる。実際の屋敷跡は北へ550mほどの所といわれる。現在は住宅地となっている。長束正家の出身地として尾張国説と近江国説がある。

丹羽郡
大口町

R‐AC010 堀尾氏邸宅跡 鎌倉時代に尾張国へ下向した堀尾氏によって築かれたとされる。戦国時代の堀尾吉晴までの堀尾家代々の邸宅跡であり、現在の八劔神社一帯に築かれていた。神社北に「裁断橋」が復元されている。
瀬戸市 R‐AC048 水野代官所跡 1781年、尾張藩の藩政改革により設置され、春日井郡と愛知郡を中心とする111ヶ村を統括した。初代代官は水野正恭である。水野小学校の校門横に石碑が建つ。
東海市 R‐AC041 尾張藩横須賀御殿跡 1666年、尾張藩主の徳川光友が御殿「臨江亭」を築いた。その後、1785年に代官屋敷が置かれた。一旦廃止されたが、1811年には復活し明治維新まで続いた。現在は工場,店舗,住宅などに変わり遺構はない。
半田市 R‐AC055 新美南吉生家 1913年7月30日、童話『ごん狐』などの文学作家として有名な新美南吉の生家である。半田市が購入し南吉が住んでいた当時の間取りに復元して1987年から公開している。

知多郡
武豊町

R‐AC032

 岩田氏居館跡
〔武雄神社〕

鎌倉時代に岩田朝弘が当地にきて館を構え、武士と神官を兼ねた。現在は武雄神社となる。

知多郡
美浜町

R‐AC045 長田屋敷跡 平治年間の長田忠致,景致父子の屋敷跡と伝えられる。野間大坊の東側に位置する。現在は宅地,田畑となり遺構は残されていない。

知多郡
南知多町

R‐AC075 鎌田政清屋敷跡
〔正法寺〕
平安時代後期、源義朝の第一の郎党で平治の乱で敗退し東国を目指す途中、尾張国野間内海荘の長田忠致の館で殺害された鎌田政清の屋敷跡であり、現在は正法寺が建つ。
R‐AC076 千賀屋敷跡

1602年、もと幡豆崎城主だった千賀重親が築いた城館である。関ヶ原の戦いで東軍方に付き、旧領の師崎を中心に1,500石を与えられた。
廃城となっていた幡豆崎城の古材を利用して築いた。

刈谷市  R‐AC015 重原陣屋跡 陸奥福島藩の板倉勝長が三河国に1万石の所領を得ることとなり、1792年に下重原村に陣屋を築いた。
R‐AC043 加藤与五郎生家跡 加藤与五郎は1872年、刈谷市野田町西屋敷の農家に生まれた。生涯約300件の特許を取得し、特に、フェライト磁石,フェライト製コア,アルミナは加藤の世界的な三大発明とされる。「フェライトの父」と賛辞され、「日本のエジソン」とも呼ばれる。
R‐AC046 椎の木屋敷跡 刈谷城本丸の東の高台にある。於大の方が岡崎城の松平広忠に嫁ぎ、竹千代を出産した後、離縁され刈谷に戻った際にこの屋敷に一時住んだとされる。江戸時代には禁足地扱いされていた。
R‐AC047 文礼館跡 1783年、刈谷藩主の土井利徳が美濃国の儒学者の秦子恭を招聘して開いた藩校である。一時期途絶えたが、1868年に再興されて1871年まで続いた。現在は刈谷市立亀城小学校となっている。
岡崎市 R‐AC012 奥殿陣屋跡 1711年、松平乗真のときに藩庁を大給陣屋から移転し、1863年に信濃国佐久郡に龍岡城に移転するまで奥殿藩の中心となった。1985年に「奥殿陣屋」の名でオープン。石垣と土塁が残る。
R‐AC033 西大平藩陣屋跡 大岡忠相が西大平1万石の大名となり設置した陣屋跡。明治時代に復元。
R‐AC034 土呂陣屋跡 1705年、旗本・山口直安が3,000石の知行所を領し、ここに陣屋を構え、7代が明治まで存続した。跡地は岡崎市立福岡小学校となり、陣屋の庭に植えられていたクロマツが今も残る。
R‐AC052 中島陣屋跡 1697年、小笠原長定が構えた陣屋である。小笠原長功の1869年まで存続した。現在は宅地化されて、陣屋にあった常夜灯が近隣の八幡社に移設されている。
R‐AC069 豊阿弥屋敷跡
(宇頭城跡)
室町時代末期に豊阿弥という長者が住んでいた屋敷とされる。詳細は不明。現在は福山通運(株)の敷地となり、名鉄名古屋本線の線路近くに井戸跡が残るという。

愛知郡
東郷町

R‐AC042 達智屋敷跡 1389年頃に祐福寺の再建に尽力した達智賢了上人の屋敷跡である。位置は定かではないが、東郷町ふれあい広場辺りかと考えられている。遺構は残されていない。
豊田市 R‐AC001 松平氏館跡 松平氏,徳川氏発祥の地である。初代松平親氏はこの居館を拠点として勢力を拡大した。松平信広は宗家と分かれ、この地で太郎左衛門家を継ぐ。現存する水濠や石垣は9代の尚栄によって築かれた。1619年には松平東照宮を祀った。
R‐AC002 今朝平村古屋敷跡
(今朝平城跡)
築城年は定かではないが、原田権左衛門によって築かれたとされる。四段の削平地のうち一番下の段(曲輪)には八幡神社があり、後醍醐天皇の皇子・行良親王が袈裟を掛けたと伝える「袈裟掛け岩」がある。
R‐AC003 旧鈴木家住宅 1776年に主屋が建設された足助市街地の中ではもっとも古い建築物である。主屋や本座敷など16棟の建物が建ち、土地とともに重要文化財に指定されている。
R‐AC016 代官屋敷跡 築造年代は定かではないが、板東作右衛門の居館とされる。1571年あるいは1574年の武田氏の来襲により落城したとされる。南へ張り出した比高20mの丘陵先端頂部に築かれ、主郭とその下は帯曲輪状の緩斜面がある。
R‐AC017 則定陣屋跡 1600年に鈴木重次によって則定川北岸に築かれた陣屋の跡。
R‐AC035 保久陣屋跡 1651年に近江膳所城主石川忠総の7男の石川総氏によって築かれた陣屋の跡。
R‐AC036 酒呑陣屋跡 1625年に酒呑城主の鈴木友之助重氏が構えた陣屋の跡。現在は民家が建つ。
R‐AC070 善阿弥屋敷跡 文治年間(1185~90年)に三河鈴木氏の始祖とされる鈴木重善(善阿弥)によって平時の住居として築かれた。屋敷の前の畑に説明板と井戸跡がある。
R‐AC071 内藤屋敷跡 築造年は定かではないが、上野下村城主・内藤氏関連の屋敷とされる。1590年の徳川家康関東移封に伴い、内藤氏も上総国へ移ったため、その際に廃されたと思われる。遺構は残されていない。
R‐AC072 高正館跡 室町時代に神谷高正によって築かれたと伝わる。高正の子・高朝は館の西に隣接する地に幸福寺を建立して父の菩提を弔った。館跡は宅地や畑地となり遺構は残されていない。
R‐AC073 旧松本家長屋門 寺部領主・渡邉半蔵家の家臣であった松本家に残された江戸時代後期の長屋門である。番所と馬屋が並ぶ。松本家は浅利(松本)兵左衛門から渡邉重綱に仕え、家老職,普請奉行を務めた。
R‐AC074 遊佐家長屋門 寺部領主・渡邉半蔵家の家臣であった遊佐家に残された江戸時代後期の長屋門である。遊佐家は佐香実清から初代領主・渡邉守綱に仕える重臣で、普請奉行を務める家格であった。
西尾市 R‐AC004 旧近衛邸 江戸時代後期に島津斉彬の養女が摂家筆頭の近衛忠房に嫁いだ縁で、島津家によって京都御所の北に建てられたものを1995年に移築した。書院と茶室から成る。
R‐AC005 岡山陣屋跡 天正年間の吉良義定の居館が始まりであるが、関ヶ原の戦いで東軍に属し高家筆頭の家格を付与され義弥が構えた陣屋の跡。
R‐AC040 姫山陣屋跡 慶長年間に吉良義定によって岡山陣屋とともに支所として築かれた。元禄事件により吉良家が断絶した後は、津田氏に引き継がれ、岡山陣屋に統合されて廃屋となった。石垣の一部が残るのみである。
R‐AC049 貝吹陣屋跡 1854年、陸奥国福島藩の板倉勝顕が三河国の飛地に設立した陣屋である。代々、名倉氏が代官を務め明治維新を迎えた。現在も名倉氏の住居となっており、県道側には黒塀が続いている。
R‐AC050 下永良陣屋跡 1705年、諏訪頼秋が幡豆,碧海,宝飯の22ヶ村5000石を賜り、この地に構えた陣屋で明治まで存続した。実務は代官が行ったとされる。現在は民家に変わり周囲に石垣が残る。
R‐AC051 小牧陣屋跡 1703年、上総国大多喜藩主となった大河内松平正久が、ここ小牧に陣屋を構えた。現在は畑地,住宅に変わり遺構は残されていないが、一画に石で築かれた冠木門と説明板が設けられている。
蒲郡市 R‐AC062 蒲形陣屋跡 1612年、吉田藩主・松平忠清の弟の松平清昌によって築かれた。忠清は若くして急死したため除封となったが、幕府は清昌に三河国宝飯郡5,000石を与え交代寄合の旗本とした。土塁と復元大手門が残る。
安城市 R‐AC037

保科正直屋敷跡
(正法寺)

保科正直は当初武田信玄に仕えたが、武田滅亡後は北条氏に帰属し、さらに徳川家康に仕えて1584年頃に山崎村に知行地を与えられた。現在の正法寺の境内にあたる。
R‐AC038 安城陣屋跡 1698年、旗本の久永信豊が安城村に陣屋を構えた。1871年の廃藩置県までの173年間、久永領の行政の中心地であった。
R‐AC039 石川丈山屋敷跡 1530年頃に石川信治が三河国碧海郡泉郷の地を得て屋敷を築いたとされる。信治の後、正信,信定,信英が居住し1590年に廃屋となった。石川丈山はここで生まれ、跡地は丈山苑となっているが遺構は残されていない。
豊川市 R‐AC014 豊川海軍工廠跡 1939年12月の開廠以降、太平洋戦争時には従業員56,400名と東洋一の規模の工廠となる。1945年8月7日、B-29爆撃機による爆撃を受け、約2,500名が犠牲となり廃止された。旧第一火薬庫,旧第三信管置場などをみることができる。
R‐AC025 御油宿本陣跡 東海道五十三次の35番目の宿場で鈴木半左衛門が営んでいた本陣の跡。
R‐AC063 巨勢陣屋跡 1782年、5,000石を領した旗本・巨勢利喬によって標高86mの丘陵裾に築かれた陣屋である。代官には稲葉善右衛門,渡辺郷右衛門の名がある。明治維新に領地を返上して、建物の一部は立信寺の庫裏として移築された。
R‐AC064 赤坂代官所(陣屋跡)跡 1601年から天領となった赤坂の地に陣屋が置かれた。寛政年間(1789~1801年)以後は、遠江国中泉陣屋の出張陣屋となり、明治維新には三河県役所に改められ、廃藩置県により廃止となった。旧・赤坂保育園の地とされる。
R‐AC065 大橋屋(旧旅籠鯉屋) 1649年創業の東海道赤坂宿の旅籠で、歌川広重の「東海道五十三次・赤坂宿舎招婦図」のモデル。建物は、1806年の赤坂宿大火以降に再建されたもので、2階建ての主屋だけが残る。2015年まで営業が続けられていた。
R‐AC066 東上代官所跡 彦坂代官屋敷とも。1600年頃、彦坂定次が代官を務めた屋敷で1609年まで存続したという。現在は石碑が立つのみで遺構は残されていない。
R‐AC068 赤坂宿本陣跡 赤坂宿は江戸日本橋から数えて36番目の宿駅として開設された。1711年の町並図では本陣は4軒存在し、ここ松平彦十郎家は江戸時代初期からの本陣を務めた。
豊橋市 R‐AC059 下条館跡 東三河十七騎の一人・白井麦右衛門、もしくは星野修理の居館とされる。規模は金西寺を東端とする西側一帯とされ、複数の郭から成る。現在は金西寺,下条保育園,宅地や田畑となっている。
R‐AC060 堀内村古屋敷跡 1573~74年の2年間、野田城落城後に移住した菅沼定盈の居館とされる。ただ、居館位置は比売天神社,比売天神社北の乗運寺の前辺り,南の霊江寺付近など特定できていない。
R‐AC061 下地館跡 鎌倉時代初期に石田為久が当地に移り住み、下地郷の土豪的神職になったという。戦国時代には今川家臣で東三河十七騎の一人・石田友利の居城であった。館跡は豊麻神社の西の区画とされる。
田原市 R‐AC026 一色七郎邸跡 渥美郡の領主だった一色政照が応仁の乱後に渥美に戻り隠居屋敷を築いた。
新城市 R‐AC027 嶋田氏陣屋跡 1625年に旗本の嶋田成重が三河国設楽郡中市塲を拝領した際に旧代官屋敷を陣屋とした。
R‐AC028 野田館跡 11世紀末頃、藤原季兼が依田氏を滅ぼし野田館を築いて千秋氏を名乗った。その後、千秋氏に代わり富永親兼に始まる三河富永氏が入る。
R‐AC029 設楽氏居館跡 994年に伴助高が八名,設楽両郡の郡司となり設楽氏を名乗り、鎌倉時代に居館を築いた。
R‐AC067 木和田古屋敷跡

戦国時代に築かれた屋敷とされるが、城主には涯田三郎左衛門,桜井与右衛門の名があるが定かではない。1561年に松平元康勢に攻められた。
光林寺跡の下段に曲輪跡が残る。

北設楽郡
 設楽町

R‐AC006 万場庄司館跡 築造年は定かではないが、名倉荘の荘官の居館と伝えられている。館跡には現在民家が建っている。館跡の後方高台に大屋敷と呼ばれる削平地が在る。
R‐AC007 道満館跡 1559年頃、岩尾から移り住んだ菅沼道満の屋敷跡とされる。道満は1575年の長篠設楽ヶ原の戦いで討死したという。のちに稲荷神社の境内となっていたが、現在は鳥居だけが残っている。
R‐AC053 荒尾館跡 1435年頃、菅沼満成が岩古谷山山頂に岩古谷城を築いたが、平時は西麓の荒尾館に居住したといわれる。現在の館跡は菅沼満直が祀った円覚稲荷となっており、満直の石碑と宝篋印塔がある。

北設楽郡
豊根村

R‐AC054 熊谷家住宅 18世紀前半に建てられた(1744年以降の祈祷札が残されている)もので江戸時代に庄屋を務めた熊谷家の住宅である。つて酒造業を営んでいた商家でもある。主屋,穀倉,新倉土蔵は国の重要文化財に指定されている。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
高山市 R‐GF002 高山陣屋 工事中
岐阜市 R‐GF001 織田信長居館跡 1567年、織田信長が本拠地を稲葉山城に移し、歴代城主・齋藤氏の舘を大規模改修した。槻谷の奥に中枢施設が存在し、その周辺には複数の建物群,庭園が並んでいた。
R‐GF007 切通陣屋跡
(長森城跡)
1185年、長森城は地頭の渋谷金王丸が築いたと伝わる。1339年、美濃守護職の土岐頼遠が移り城郭化した。その跡地には陸奥磐木平藩藩主の安藤信成が1803年に切通陣屋を築いた。切通観音の所に案内板と石碑が建つ。
大垣市 R‐GF012 西高木家陣屋跡 1601年、旗本の高木貞利によって築かれ1868年まで存続した。伊勢街道側の段丘崖を中心に石垣群が構築され、埋門も整備されている。下屋敷御門を移築した長屋門が残されている。
R‐GF013 北高木家陣屋跡 1601年、高木貞俊が1,000石を与えられ北高木家の祖となり14代貞栄の明治時代まで続く。東高木家陣屋との境の旧伊勢街道沿いに石垣が残る。
R‐GF014 東高木家陣屋跡 1601年、高木貞友が1,000石を与えられ東高木家の祖となり11代貞嘉の明治時代まで続く。唯一の現存建物として白壁造りの土蔵が残されている。
R‐GF015 桑原家住宅 関ヶ原の合戦後に尾張藩の在郷武士となった桑原氏が住宅を建て代々名主を勤めた。
R‐GF019 青木氏陣屋跡 築造年は定かではないが、江戸時代前期に旗本・青木可直によって設けられた。現在は宅地や田畑となって遺構は残されておらず、民家の脇に小さな石碑が建てられている。
R‐GF020 梁川星巌邸跡 幕末の勤王志士で日本の李白といわれた漢詩人の梁川星巌の邸宅跡である。遺構は残されていない。

本巣郡
北方町

R‐GF003 北方陣屋跡 1668年、旗本戸田光直(光賢)に分知された5,000石の陣屋で明治まで存続した。現在の大井神社の南一帯といわれている。役所を中心に米庫,道場,学問所などがあり、その周囲に奉行,代官などの家臣の屋敷が置かれていた。
安八郡安八町 R‐GF018 墨俣宿本陣・脇本陣跡 墨俣宿本陣は江戸時代、大名や旗本のほか朝鮮通信使,琉球王使,御茶壺道中が休憩や宿泊をしたという。脇本陣は安藤守就の子孫が代々、本陣役を勤めた。本正寺に移築された門が残る。
土岐市 R‐GF004 妻木城士屋敷跡 1601年、妻木頼忠はこの地域を与えられ、妻木城北麓に屋敷群を建てた。3代頼次が跡継ぎの無いまま死去したため妻木氏本家は断絶し屋敷も放棄された。緩斜面に3段に普請された石垣と上段の城主居館に残存する井戸跡,庭園跡,門跡が残されている。
瑞浪市 R‐GF005 小里陣屋跡 御殿場とも呼ばれ小里城の北麓にある。
R‐GF016 一日市場館跡 美濃源氏土岐氏一族発祥の地とされる。築造年代は定かではないが、源頼朝に従い仕えた源光衡が土岐氏の祖となって一日市場館を築いたとされる。現在は八幡神社境内となり、北側に土塁が残されている。
恵那市 R‐GF017 明知陣屋跡 1615年、明知遠山氏の遠山方景によって築かれた。1678年の遠山伊清の代には江戸定府の旗本とされたため、以降は村上氏が代官として明治に至った。大手門脇に水堀が残り、村上氏の屋敷と土蔵が残っている。
多治見市 R‐GF009 多治見国長邸跡 美濃守護土岐頼貞の一族である多治見次郎四郎国長の館跡。国長は正中の変で討死。
美濃加茂市 R‐GF011 根本御殿屋敷跡 工事中
R‐GF021 太田宿本陣・脇本陣跡 中山道51番目の宿場・太田宿に残る本陣門と脇本陣であった林家住宅の一部が残されている。本陣門は1861年築造、脇本陣は林家初代の市左衛門が1769年に現位置に屋敷を構えた。
R‐GF022 太田代官所跡 1782年4月、尾張藩が美濃国中部・東部の直轄領支配のために設置した代官所である。1868年には北地総管所と改名された。
可児市 R‐GF006 千村陣屋跡 浪人となっていた千村良重が関ヶ原の戦いで功を挙げ4400石を与えられ旗本となり久々利に陣屋を構えた。
R‐GF008 徳野陣屋跡 平岡頼勝は浪人した後に徳川家康に仕え一万石を賜り、1604年に徳野に陣屋を構えた。
R‐GF010 岡田将監屋敷跡 関ヶ原の戦いで家康に味方し加藤清正の軍で戦功をあげ、下切城の東の麓に屋敷を構えた。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
いなべ市 R‐ME008 市場寺尾屋敷跡
R‐ME010 春澄善縄卿宅跡 参議であった春澄善縄卿の邸宅があった地とされる。その後、彼の偉業をしのぶ郷土の人々によって春澄社が祀られ、現在は「春澄善縄卿宅址碑」が建つ。
四日市市 R‐ME009 久留倍官衙遺跡
津市 R‐ME001 北畠氏館跡 1342年に北畠顕能によって築かれた居館である。
R‐ME005 六田館跡(東御所)跡 北畠氏の別邸ないし一族の館とみられているが築造年代,館主は定かではない。館跡の一角に雪姫伝説の大明神が祀られている。
伊賀市 R‐ME004 松尾芭蕉生家 1644年に生まれ、29歳まで過ごしたとされる松尾芭蕉の生家である。
鈴鹿市 R‐ME006 白子代官所跡 1634年、紀州藩によって伊勢国18万石の所領のうちの約5万石を支配するために奉行所が設けられ、1799年5月には代官所となった。現在の白子小学校付近に築かれていたが、遺構は残されていない。
亀山市 R‐ME003 野元坂館跡 鎌倉時代に辺法寺に居住した平家一族の伊藤景清の屋敷跡とされる。
松阪市 R‐ME007 蒲生氏郷邸宅跡 1584年、蒲生氏郷は伊勢国12万3千石を与えられ、近江国日野城から松ヶ島城に入城した。その頃に住した邸宅跡と思われる。遺構は残されていない。

 

北陸(福井県・石川県・富山県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
福井市 R‐FU001 一乗谷朝倉館跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
輪島市 R‐IK001 上時国家 工事中
R‐IK002 下時国家 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐TY001

 

近畿滋賀県京都府奈良県和歌山県大阪府兵庫県

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
大津市 R‐SG006 源満仲館跡 源満仲が971年から10年余りを過ごしたとされる館跡と伝えられる。
R‐SG007 堅田藩陣屋跡 1698年に堀田正高が入封し堅田に陣屋を構えた。約130年間にわたり堅田藩主の陣屋がここにあった。
高島市 R‐SG002

足利義晴館跡
(秀隣寺庭園)

工事中
R‐SG004 朽木陣屋跡 工事中
R‐SG010 大溝陣屋跡 1619年に分部光信によって築かれた。陣屋の惣門がただ一つ現存する遺構である。

蒲生郡
日野町

R‐SG005 西大寺藩主市橋家邸跡 1620年に市橋長政が近江国蒲生,野洲両郡と河内国内に合わせて2万石を与えられ、かつての日野城跡に仁正寺陣屋を設置した。
東近江市 R‐SG008 伊庭御殿跡 徳川家光が京都へ上洛する際に休憩所として設けられた施設である。
彦根市 R‐SG009 大久保忠隣幽居跡 大久保忠隣小田原から京都へ出向いた途中、突如改易を申し渡され、近江国に配流されて井伊直孝に御預けの身となった。佐和山城跡の登り口にある。
野洲市 R‐SG001 妓王屋敷跡 平清盛の寵をえた白拍子である妓王(祇王)の生誕の地。
長浜市 R‐SG011 下坂氏館跡 下坂庄の国人領主であった下坂氏の館。浅井氏滅亡後に下坂氏は帰農するが、現在も下坂氏の子孫が居住する。
R‐SG012 三田村氏館跡 三田村氏の館であるが、姉川の合戦の際には越前から援軍として駆けつけた朝倉景建軍の本陣が置かれた。
R‐SG013 石田三成出生屋敷跡 1560年、石田三成はここで石田村で誕生した。石田屋敷の堀の一部遺構と伝えられる堀端池がある。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
京都市 R‐KT001 桂宮邸跡 工事中
R‐KT002 一条邸跡 工事中
R‐KT003 近衛邸跡 京都御苑内にある五摂家の1つである近衛家の屋敷跡である。当時は御苑にある池の西側に大きな屋敷を構えていた。この地にあった近衛邸の建物は現在、愛知県西尾市の西尾城跡歴史公園に移築されている。
R‐KT004 有栖川宮邸跡 工事中
R‐KT005 鷹司邸跡 工事中
R‐KT006 西園寺邸跡 工事中
R‐KT007

中山邸跡
(明治天皇生誕地)

工事中
R‐KT008

皇女和宮生誕地
(橋本家跡)

工事中
R‐KT009 学習院跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
奈良市 R‐NR001 柳生藩陣屋跡 1642年、徳川幕府より1万2千石の所領を与えられた柳生宗矩により3年の歳月をかけて建設された。宗矩の死後、一旦、旗本となったが、柳生宗冬のとき大名に復帰。1747年に全焼し、現在は公園と整備されている。
R‐NR002 柳生藩家老屋敷跡 1848年、国家老・小山田主鈴が隠居宅とした武家屋敷である。主屋は創建当時の姿を残す。作家・山岡荘八が一時期所有し、その後は資料館として公開されている。
R‐NR005 藤原仲麻呂屋敷跡 奈良時代、平城京の左京四条二坊九坪辺りに藤原仲麻呂の邸宅(田村第)があったとされる。のちに孝謙天皇が長逗留したことから「田村宮」とも呼ばれた。第1号街区公園に説明板が設置されている。

吉野郡
吉野町

R‐NR004 吉野西行庵 工事中

生駒郡
平群町

R‐NR006 松永屋敷跡 松永久秀が信貴山城主郭の北に築いた平時の際の屋敷跡である。南北方向に段状の平坦地を造り、西側を土塁などで防御している。東側には複数の門を配している。
明日香村 R‐NR003

甘樫丘
〔蘇我蝦夷,入鹿邸宅跡〕

工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐WK001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐OS001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐HG001

 

中国(岡山県・広島県・鳥取県・島根県・山口県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐OY001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐HS001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐TT001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐SN001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐YC001

 

四国(徳島県・香川県・愛媛県・高知県)


所在地 No. 史跡名

ワンポイント・メモ

指定
板野郡
藍住町
R‐TS001 勝瑞城館跡 三好実休の居館跡と推定される。大規模な濠で区分けされた複数の曲輪からなる複郭式の館跡である。

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐KG001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐EH001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
高知市 R‐KC001 山内容堂公邸跡 公邸跡は、現在、鷹匠公園となっており石碑が建つのみで遺構は残されていない。1867年2月17日、当邸で西郷隆盛との会見があった。東側に旧山内家下屋敷長屋がある

 

九州・沖縄(福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県)

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
太宰府市 R‐FK001 大宰府政庁跡 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐SA001

 


所在地 No. 史跡名

ワンポイント・メモ

指定
長崎市 R‐NS001 大浦天主堂 工事中
R‐NS002 グラバー邸 工事中

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐OT001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐KM001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐MZ001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐KS001

 

所在地 No. 史跡名 ワンポイント・メモ 指定
R‐OK001