大久保忠隣幽居跡

おおくぼただちか ゆうきょあと (Residence Ruins Tadachika Okubo Confined within)

【R-SG009】探訪日:2016/10/16

【R-SG009】大久保忠隣幽居跡  滋賀県彦根市古沢町1100

【MAP】

〔駐車場所〕

【R-SG009】大久保忠隣幽居跡

   大久保忠隣は三河国額田郡上和田(大久保氏一族発祥地)に生まれ、徳川家康に仕えて相模国小田原藩初代藩主となり、さらに老中に就任し第2代将軍・秀忠の政権有力者となったが、 嫡男の大久保忠常の病死後、暗雲が立ち込める。1614(慶長19)年1月19日、京都の藤堂高虎の屋敷で突如、改易を申し渡され、居城の小田原城は本丸を除き破却され、忠隣は近江国に配流されて井伊直孝に御預けの身となった。
 改易の理由は、政務欠席が続いたことや山口重政が幕府の許可無く忠隣の養女を子の重信に娶らせたという無断婚姻、馬場八左衛門による忠隣謀反計画の訴えが挙げられるが明確ではない。また、本多正信・正純父子による陰謀説や豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説もある。
 忠隣はその後、出家して渓庵道白と号し、1628(寛永5)年6月27日に死去した。享年75。将軍家の許しが下ることはついになかった。
 幽居は近江龍潭寺の境内の一画、佐和山城跡の登り口にある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 江戸時代:前期
関連年号 1614年・1628年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大久保忠隣 F652 井伊直孝 F443

 

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