井平氏居館跡
いだいらしきょかんあと (Idaira's Residence Ruins)
【R-SZ008】探訪日:2019/2/2・2022/4/2
静岡県浜松市北区引佐町伊平
【MAP】
〔駐車場所〕
1245(寛元3)年、井伊家から分家した井平四郎左衛門直時が井伊谷領の北にある井平,花平地域を治め、ここに居館を構えた。また、直時は居館の北の高地に井平城を築いた。約330年の間、主家の井伊谷城の井伊家を支え、井平安直の娘は井伊直平の妻、井平直郷の娘は井伊直虎の祖父にあたる井伊直宗の妻となっている。
1572(元亀3)年の武田信玄の西上作戦において、信玄とは別の三河侵攻ルートをとった山県昌景の別働隊は武節城,長篠城を攻略した後、柿本城を攻撃し遠江に侵攻して井平城に向かった。当時の城主・井平直成は柿本城へ入っていたが、井平城へと戻り、約800m離れた竹馬寺近くの仏坂で武田勢を迎え撃つこととした。三方ヶ原の戦いのほぼ2ヶ月前の10月22日のことである(仏坂の戦い)。近藤康用,菅沼忠久,鈴木重好,井平直成ら井伊家の主力が山県昌景軍と戦ったが、井平直成ら88名が討死するなど大敗し、残兵は山中に3日間隠れたのち、浜松城の徳川家康に合流したとされる。
井平氏は一時途絶えたが、1573(天正元)年、井伊直平の末子・直種が井平氏を継ぎ、殿村に居館を築いた(殿村居館跡)。しかし、1590(天正18)年、直種の嫡男・弥三郎は井伊直政の家臣として小田原攻めに参加し、18の若さで討死し井平氏は断絶した。近くに井平直種夫婦,弥三郎の墓所、また、仏坂には井平直成らの墓所(ふろんぼ様)がある。