旧見付学校
きゅうみつけがっこう (Mitsuke School Historical Site)
【R-SZ018】探訪日:2021/1/15
静岡県磐田市見付2452
【MAP】
〔駐車場所〕
1872(明治5)年の学制発布を受け、翌年8月に宣光寺,省光寺などを仮校舎として見付学校が開校したが、仮校舎は江戸時代の寺子屋同然で、西洋風の近代的な校舎を建築しようとする機運が高まっていった。国学者・大久保忠尚の門下生である古沢脩が建設を主導し、淡海國玉神社神官の大久保忠利が寄進した境内に本校舎建設を計画。名古屋の堂宮大工・伊藤平右衛門(後の9代目伊藤平左衛門)に委嘱され、1874(明治7)年10月に工事着手し翌年8月7日に落成、開校式が行われた。1883(明治16)年8月には3階部分を増築し、今日の5階建となった。
5階建校舎の小学校としての役割は1922(大正11)年で終える。その後は見付中学校(現・静岡県立磐田南高等学校),大日本見付連武館,私立見付高等裁縫女学校,准教員養成所などに利用され、1945(昭和20)年1月には浜松陸軍病院見付臨時分院となり負傷兵士や戦災者の治療が行われた。また、戦後の1946(昭和21)年5月には国民健康保険組合立磐田病院(磐田市立磐田病院の前身)となっている。1953(昭和28)年9月に磐田市立郷土資料館となり、1992(平成4)年1月に磐田市旧見付学校に改称された。開校から1922(大正11)年まで使用された建物が旧見付学校と呼ばれている。
現在、館内は教育資料の展示や授業風景を再現している。また、1572(元亀3)年の三方原の戦いの際に浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられる「酒井之太鼓」も展示されている。1910(明治43)年まで5階の楼上で生徒の登下校や正午の時報に鳴らされていたという。
建物は遠江国横須賀藩の横須賀城から払い下げを受けた石垣を基礎とし、間口12間,奥行き5間の木造擬洋風建築である。玄関にはエンタシスの飾り柱が配されており、左右対称の2つの入口が設けられている。
また、前出の大久保忠尚は淡海國玉神社の神官であるが、国学の祖・賀茂真淵の流れを汲む国学者でもあり、私塾を開き、1864(元治元)年には淡海國玉神社境内に磐田文庫を設立していた。見付学校も神社境内に置かれた。
現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である旧見付学校と隣接する磐田文庫は、「旧見付学校附磐田文庫」として国の史跡に指定されている。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(1969年4月12日指定):磐田文庫含む |
関連時代 | 明治時代 | 大正時代 | 昭和時代:後期 |
関連年号 | 1875年・1883年 | 1922年 | 1953年・1992年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
大久保忠尚 | F6** | 古沢 脩 | **** | 大久保忠利 | F6** |
伊藤平右衛門 | **** |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
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▲明治時代の授業風景再現
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▲酒井之太鼓
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▲【Wikipediaより転載】淡海國玉神社
▲【Wikipediaより転載】磐田文庫
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