善阿弥屋敷跡
ぜんあみやしきあと(Zenami Residence Ruins)
【R-AC070】探訪日:2023/10.30
愛知県豊田市矢並町向田418
【MAP】
〔駐車場所〕
築造年は定かではないが、文治年間(1185~90年)に三河鈴木氏の始祖とされる鈴木重善(善阿弥)によって築かれた。重善は紀州国藤白郷の出身であるが、源義経が奥州へ逃れる際、甥の鈴木重家,重清が従ったため、1189((文治5)年、自身も奥州へ下ろうと試みたが、途中、三河国矢作辺りで足を痛め、数日逗留している間に源義経や甥たちの討死を聞いて下向を諦め、長子の重友,次男・重延,3男・重基と共に矢並に永住することを決めたという。その後、重善は出家して善阿弥と称した。しかし、実際には1188(文治4)年にすでに光恩寺を創建しており、鎌倉側の包囲網のため義経追従を断念してこの地方に土着したか、西国での平氏討伐の功により鎌倉側よりこの地を所領として与えられたと考えるのが妥当である。
平時の屋敷はこの地に築き、戦時に備えて矢並上本城,矢並下本城を築いた。善阿弥は屋敷の片隅に井戸を掘り、熊野より持参した藍玉を使って紺屋を業とするようになったという。井戸跡には現在も清水が湧き出ている。
屋敷跡は矢並下本城跡の東側、八柱神社の参道をそのまま東に進み矢並川を渡っていちばん奥のお宅(高所)の辺りとされる。前の畑に説明板と井戸跡がある。