矢並下本城跡
やなみしもほんじょうあと(Yanami-shimohonjo Castle Ruins)
【C-AC671】探訪日:2023/10.25
愛知県豊田市矢並町桑原田
【MAP】
〔駐車場所〕少し離れているが、鞍ヶ池公園駐車場に停めることができる。
築城年は定かではないが、文治年間(1185~90年)に三河鈴木氏の始祖とされる鈴木重善(善阿弥)によって築かれたと伝わる。重善は紀州国藤白郷に生まれ、長子の重友,次男・重延,3男・重基と共に矢並に来住した。源義経が奥州へ逃れる際、甥の鈴木重家,重清が従ったため、1189((文治5)年、自身も奥州へ下ろうと試みたが、途中、三河国矢作辺りで足を痛め、数日逗留している間に源義経や甥たちの討死を聞いて下向を諦め、矢並に永住することを決めたという。その後、出家して善阿弥と称した。しかし、実際には1188(文治4)年にすでに光恩寺を創建しており、鎌倉側の包囲網のため義経追従を断念してこの地方に土着したか、西国での平氏討伐の功により鎌倉側よりこの地を所領として与えられたと考えるのが妥当である。
善阿弥以降の鈴木氏は高橋庄地頭の挙母金谷城の中條氏の家臣として矢並から勢力拡大していく。
矢並には平時の善阿弥屋敷と、戦時に備えての上本城,下本城とが在る。
矢並下本城は南北に延びる尾根筋に築かれていたが、現在は東海環状自動車道により大半が破壊されており、わずかに残された主郭と西側の鞍ヶ池ハイウェイオアシスのバス停前の2ヶ所に石碑は建てられている。
自動車道建設に際しての発掘調査結果では、主郭平坦部は隅丸長方形を呈し、標高は約190mで西から東に緩やかに傾斜し、規模は南北66m,東西18mを測る。主郭の南北は幅6m,深さ1mほどの堀切があり土橋状の高まりも確認された。主郭の北東角付近の一段下がったところに最大幅20mほどの小さなⅢ郭が付随している。主郭北東から土橋を渡ったところには馬出し状のⅡ郭がある。また、尾根の東西の斜面部には自然地形なのか竪堀なのか判然としない幅2mほど溝が数条確認できている。