織田信長居館跡
おだのぶなが きょかんあと(Residence Ruins of Nobunaga Oda)
【R-GF001】探訪日:2015/9.5・2024/2.24
岐阜県岐阜市千畳敷下257
【MAP】
〔駐車場所〕
1567(永禄10)年、かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城の城下に侵攻し、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。「天下布武」の朱印を用いるようになったのもこの頃である。
歴代城主の館は齋藤道三に始まる斎藤氏三代の頃に造られ、金華山の西麓の千畳敷下,槻谷にあり、信長は大規模な改修を行った。信長居館は槻谷の奥に中枢施設が存在し、その周辺の複数の平坦地に建物群が立ち並んでいたと考えられている。巨石を並べた入口、池や滝のある庭園、金箔瓦を施した4階建ての壮麗な建物など、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「宮殿」「地上の楽園」と称している。
谷川の北側にある平坦地(下図のA地区)には、巨大な岩盤を背景にした2条の滝は流れ落ちる庭園跡で平坦地の中央には大きな池があり、その南と北側に建物があった。館の東奥(下図のB地区)は、谷川と石垣で区画された3つの段差のある空間に茶室などの奥座敷,庭園跡などが見つかっている。また、谷川の南にある一番広い平坦地(下図のC地区)は、館の中心建物があったと考えられている。火災によって焼けた壁土,建築に使用された部材,金箔の痕跡のある瓦や陶磁器が出土している。金箔瓦は濃姫の屋敷のものではないかともいわれている。東端では巨大な石を背景とした庭園も見つかった。
なお、居館跡北にある三重塔は大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として1917(大正6)年に建築されたものである(国登録有形文化財)。