大蔵幕府跡
おおくらばくふあと (Okura Shogunate Ruins)
【R-KN001】探訪日:2008/4/30
神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目6−26
【MAP】
〔駐車場所〕
1180(治承4)年10月、鎌倉入りした源頼朝は拠点として鎌倉大蔵郷に邸宅(大蔵御所,大倉御所)を構え、御所内には御寝所などの私的な区域と政務を行う公的な区域を設けた。館の建設は大庭景義が担当したとされ、一般的な貴族の寝殿造であったが、頼朝配下が控えていた侍所は貴族の邸宅のそれの2倍の大きさ(約37.8m)、厩も約31.5mと奥州の名馬30頭を収容できる規模であったという。政務は公文所,問注所や評定を行う西中門廊,内厩侍上などで行われた。
大蔵御所(大蔵幕府,大倉幕府)は1180(治承4)年から3代将軍・源実朝の1219(承久元)年までの39年間、政治の拠点であった。御所は1191(建久2)年,1213(建保元)年に焼失し、そのたびに同一敷地に再建されたが、1219(承久元)年12月24日の焼失後は再建されず、その後の将軍御所は北条義時大倉亭内南方の二階堂大路仮御所に移されたという。ただし、1219年降も同一敷地に再建され大蔵幕府を1225(嘉禄元)年までの45年間とする説もある。その後は、4代将軍・藤原頼経が執務した宇都宮辻子幕府[1225~36(嘉禎2)年]、そして最後の9代将軍・守邦親王までの若宮大路幕府[1236~1333(元弘3)年]と変遷していく。
大蔵幕府は鶴岡八幡宮の東側一帯の地域にあったとされる。鎌倉時代初頭の遺構検出面は地下3mとされるため大規模発掘調査は行われていないが、これまでの調査結果では、御所の東端は現在の清泉小学校東辺にあたる東御門川(暗渠化)、西端は横国大附属鎌倉小学校の校舎と校庭との境(暗渠化した西御門川が流れている)であることがほぼ確定している。