旧川上貞奴邸跡
きゅう かわかみさだやっこ てい(Residence Ruins of Kawakami Sadayakko)
【R-AC078】探訪日:2025/2.24
愛知県名古屋市東区白壁3丁目10 <📲:052-936-3836>
【MAP】
〔駐車場所〕
日本の女優第1号とされる川上貞奴(本名:小山貞)が女優引退後に電力王と呼ばれた福沢桃介と暮らした邸宅。もとは現在地から北西へ約850mのところにあった約2,000坪もの敷地に立つ豪奢な家で、当時の地名・東二葉町から「二葉御殿」と呼ばれていた。1918(大正7)年に着工し、1920(大正9)年に完成。貞奴と桃介が二葉御殿でともに暮らしたのは、完成から1924(大正13)年までの5年間である。
川上貞奴は、1871(明治4)年に東京日本橋で生まれ、父の死により芸者置屋の養女になった。芸妓になると、たちまち売れっ子となって“奴”と呼ばれるようになり、伊藤博文,井上馨ら政財界の大物たちに贔屓にされたという。その後、オッペケペー節で知られる俳優で興行師の川上音二郎と結婚。1899(明治27)年に川上一座として渡ったアメリカで初めて舞台に立ち、パリ万博での公演でも成功を収めて“マダム貞奴”と称された。日本の女優第1号といわれる。
音二郎の死後、7回忌を経て女優を引退し、名古屋大曽根に、輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立し、名古屋に居を構えた。旧知の仲(初恋の人とも言われる)である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活した。
その後、1933(昭和8)年には岐阜県鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立し、1946(昭和21)年、熱海の別荘で膵臓癌のため死去。享年75。亡骸は貞照寺に埋葬された。
一方、福沢桃介は1868(明治元)年8月13日に、武蔵国横見郡荒子村の岩崎紀一の次男として生まれたが、家は貧しかったという。しかし、桃介は学問好きということで、やがて16歳のとき福澤諭吉の慶應義塾へと入学する。運動会で諭吉の妻の目に留まったことで、諭吉の次女の房との結婚を前提に福沢家への養子入りが決定し福沢桃介となった。
1887(明治20)年のアメリカ留学帰国後、北海道炭坑鉄道会社に入社するも肺結核になり退社。日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなして事業家への道を歩み始める。1913(大正2)年、名古屋電燈株式会社の取締役に就任すると、電力会社を合併し、大同電力株式会社を設立する。社長として名古屋を拠点に木曽川水系の電力開発に乗り出し、名古屋の二葉御殿では、川上貞奴の協力のもとに政財界の接客を行い、事業の推進を図った。日本初のダム式発電である大井発電所など木曽川に7ヶ所の発電所を建設し、電力王と呼ばれた。
1926(大正15)年、事業が軌道に乗り出すと後進に道を譲り、自身は東京に戻り隠居。1938(昭和13)年2月15日に渋谷の自宅にて死去した。享年69。
その後、二葉御殿は貞奴の養子であった広三夫婦の住まいとなり、その後、土地を分割して売却されると、建物の大部分は名古屋の企業の常務が買い取った。そして社員の保養施設として1996(平成8)年まで使われていた。老朽化から取り壊しの話も持ち上がったが、所有企業と名古屋市の間での話し合いで2000(平成12)年に建物が名古屋市に寄付され、場所を移しての保存が決定した。敷地が分割売却された際に一部が取り壊されるなどしたが、写真,新聞や雑誌の文献等を参考に2005(平成17)年、復元にこぎつけた。和室もある2階建ての洋館部分と、平屋建ての和館部分がつながった和洋折衷の建物となる。華やかなステンドグラスが目を引く。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】登録有形文化財 |
関連時代 | 大正時代 |
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関連年号 | 1920年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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小山 貞(川上貞奴) | **** | 福沢桃介 | **** | 川上音二郎 | **** |
福沢桃介と川上貞奴(写真はWikipediaより転載)
旧川上貞奴邸の内部(神野栄子さんの「LIFULL HOME'S」記事より写真転載)