梁川星巌邸跡

やながわせいがん ていあと(Residence of Seigan Yanagawa)

【R-GF020】探訪日:2024/2.27

【R-GF020】梁川星巌邸跡 岐阜県大垣市曽根町1丁目

【MAP】

〔駐車場所〕

   幕末の勤王志士で日本の李白といわれた漢詩人の梁川星巌の邸宅跡である。遺構は残されていない。
 1789(寛政元)年6月18日、大垣藩郷士・稲津長高の嫡男として、曽根城の一角でもあるこの地に生まれた。幼名を善之丞長澄といい、星巌は号である。7歳の時に大叔父でもある華渓寺7世・太隨和尚から厳格な指導を受け、19歳で江戸に出て山本北山の弟子となり、奚疑塾に学んでいる。
 江戸から故郷に帰った星巌は、村の子供たちを集めて、「梨花村草舎」と称する塾を開いたが、その中に又従兄妹にあたる紅蘭がいた(当時14歳)。紅蘭は星巌の才学,人となりを慕って、進んで妻になることを父に請うたといわれている。星巌32歳、紅蘭17歳の1820(文政3)年に結婚をする。妻・紅蘭も女流漢詩人となっている。
 星巌の主張は尊王の大義を説くもので、頼山陽,藤田東湖,佐久間象山など高名な文化人・学者とも交友し、明治維新の成立に多大な影響を与えた。安政の大獄では、大獄実施のため江戸に向かっていたかつての門弟であった老中・間部詮勝と会見して懐柔を計画する。星巌は梅田雲浜や頼三樹三郎,吉田松陰,橋本左内らと交流があったために安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前にコレラに罹り急死した。星巌は死にあたって、男子たるもの女人の傍らで死するは名折れである、として妻を近づけず、頼三樹三郎ら門弟に看取られての最期であったという。捕縛直前の死は、詩人であることにちなんで、「死に(詩に)上手」と評された。1858(安政5)年9月2日死去。
 出身地にある華渓寺には梁川星巌記念館があり、星巌直筆の漢詩や書簡,肖像画などが展示されている。また、近くの曽根城公園には妻・紅蘭と全国を吟遊行脚する姿の銅像が建てられている。

【史跡規模】

【指 定】大垣市指定史跡(1968年6月20日指定)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 江戸時代:中期 江戸時代:後期
関連年号 1789年 1858年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
稲津長高 **** 梁川星巌 **** 紅蘭 ****

 

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