新居関所跡
あらいせきしょあと (Arai Sekisho[Barrier] Ruins)
【R-SZ034】探訪日:2023/11.25
静岡県湖西市新居町新居1227ー5
【MAP】
〔駐車場所〕見学者用専用駐車場がある。
1600(慶長5)年、徳川家康によって開幕以前に、五街道のなかでも最も往来の多かった東海道の舞坂宿と新居宿の間に設置された。江戸時代には今切関所といわれ、浜名湖西岸の今切口に面した標高約2mの低地に立地していた。新居付近は幕領となり、新居(今切)関所は、幕府から派遣された新居奉行が管理していた。
新居関所は、現在よりも東の向島の地に建てられていたが、1699(元禄12)年に高潮被害のため西に移転。さらに、1707(宝永4)年の宝永地震により、倒壊と3回の津波の大被害をうけたとされ、「関所跡かたなし」との記事が残っている。
翌1708(宝永5)年、さらに西の現在地に移転した。新居関所の移転により今切の渡しの航路が長くなり不便になった。今切関所は移転後も浜名湖の湖口に面し、船着場も併設されていた。
この間の1702(元禄15)年、三河吉田藩主・久世重之が、自預五万石の内の五千石を幕領であった新居付近と交換し関所の管理が命ぜられ、以後今切関所は幕府直轄から吉田城主に移っている。
1854(安政元)年11月4日には安政東海地震があり、新居,舞坂は津波による大きな被害をうけ、関所も大破したが、1858(安政5)年までに改築された。
1869(明治2)年、関所廃止令により全国の関所は廃止されたが、今切関所の中心をなす面番所は小学校校舎,旧新居町役場として利用され、主要街道の関所建物としては唯一現存する建物である。母屋は南に正面を向いた平屋建てで、構造は入母屋造、屋根は本瓦葺である。形状は東西に長く、前面が上之間,中之間,次之間に分かれ、奥には御書院間,御用達場,上番勝手台所があった。さらに、下番勝手同休息所として桟瓦葺の3棟が取り付いていた。今日では御用達場と上番勝手台所の棟は失われており、それ以外にも部分的な改変の跡が確認されている。面番所は小学校舎や旧新居町役場として使用された時代に間取りが変更されており、1971(昭和46)年の解体修理で江戸時代の姿に復元する工事が行われている。
1667(寛文7)年の『今切御関所改次第』には番人の勤仕規定のほか、「入鉄砲に出女」を改めることが記され、長持の検閲,関東方面への通過・関西方面への通過に対し婦女子,手負人,死骸等の手形を調査した。鉄砲に関しては1711(正徳元)年5月の高札で方針が示され、江戸へ入る下りの鉄炮は老中証文が必要とされたが、江戸から出る鉄炮は対象外であった。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(1921年3月指定)・国特別史跡(1955年8月22日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 |
安土桃山時代 |
江戸時代:前期 | 江戸時代:後期 | 明治時代 |
関連年号 |
1600年 |
1699年・1702年 | 1854年 |
1869年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
徳川家康 | TG01 |
新居関所構内案内図〔整備イメージ図〕(現地パンフレットより)