久留倍官衙遺跡
くるべかんがいせき(Kurube Kannga [Government Office] Ruins)
【R-ME010】探訪日:2024/10.2
三重県四日市市大矢知町2267-8
【MAP】
〔駐車場所〕
弥生時代から中世に至る遺構が残る複合遺跡で、伊勢湾に向けて東流する朝明川と海蔵川の間、垂坂丘陵(標高30m)の北東端に位置する。1999(平成11)年以降、国道1号北勢バイパスの建設工事に際して調査が実施され、朝明郡衙の遺構が確認された。なお、延喜式による朝明駅ではないかとする説も存在している。
『続日本紀』によれば、740(天平12)年に聖武天皇が朝明郡に行幸したとある。
遺跡は、地形的には、郡衙の政庁があった丘陵上部の平坦面,正倉院があった東側の斜面,関連建物群があった北東の丘陵裾部の3地区に分かれ、遺跡内には約80棟の掘立柱建物跡が検出されている。これらの建物の存続期間,建て替えの前後関係,各建物の性格などを整理すると、遺跡の変遷は大きく3期に分けられる。
I期:7世紀末から8世紀前半、丘陵上部に東を正面とする政庁が建てられた。正殿とその手前左右(南北)の脇殿がコの字形に並び、これらの東側正面に本柱の前後に控柱が4本ずつ(計8本)立つ八脚門があった。政庁区域の規模は、東西42m,南北51m。また、丘陵裾部にも掘立柱建物群跡が見出される。7世紀末から8世紀初めに建てられ、8世紀前半のうちに廃絶したとみられる。
II期:8世紀前半から後半、丘陵上部の政庁に替わって、南正面・東西棟の長大な建物が建てられた。ほぼ同規模の建物が南北2棟あり、南の建物は政庁の北脇殿の跡に建っていた。南の建物は桁行14間×梁間3間で実長は29.4m×6.9m、北の建物は桁行14間×梁間3間で実長は30.0m×6.75m。
III期:8世紀後半から9世紀末、東斜面に正倉院が営まれた。当初は丘陵上部まで正倉院と区画溝が延びていたが、後に丘陵上部と東斜面の間に区画溝が造られ、正倉院の区域は東斜面のみになる。建物の方位はふたたび東向きになっている。溝からは8世紀後半の土器が出土するため、この頃に正倉院が成立し、9世紀末か10世紀初めには溝が埋められ廃絶したとみられる。
建物の中には、上記の聖武天皇の朝明行幸との関連が推測されるものもあるが、確かなことは不明である。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡:朝明郡衙関連施設の遺構(2006年7月28日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 奈良時代 |
関連年号 | 740年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
聖武天皇 | K308 |