井田野古戦場
いだのこせんじょう (Historic Battlefield of Idano)
【B-AC011a】探訪日:2021/4/26
愛知県岡崎市鴨田町向山39-11
【MAP】
〔駐車場所〕
勢力を拡大しつつあった松平氏が4代・親忠の応仁の乱のときから9代・元康の桶狭間の戦いに至る約100年間に数回の激しい戦場となったところ。岩津,大樹寺方面とここ西光寺の辺りの広範囲を指す。
1467(応仁元)年8月23日、松平宗家3代・信光と子の親忠が尾張の品野と三河の伊保の兵と井田野で戦い勝利した。
1493(明応2)年10月2日には、加茂郡挙母城の中條出羽守が碧海郡上野城の阿部孫次郎,加茂郡寺部城の鈴木日向守,伊保城の三宅加賀守,八草城の那須宗左衛門の軍勢(総数4,000)とともに松平領に侵攻し、親忠は兵2,000をもって大樹寺南方の井田野でこれを迎え撃退したという。この戦いで親忠は一族内での地位を高めることになった。
戦国時代に入ると、1533(天文2)年12月に松平7代の清康が三河に攻め入った信濃の軍勢をを井田野で撃破している。
その清康が森山崩れで亡くなると、1536(天文5)年2月、尾張の織田信秀が3,000騎を率いて大樹寺に陣取り岡崎城に攻め寄せたが、8代・広忠(当時10歳)の伯父の松平信孝,松平康孝兄弟が兵800を率いて井田野で食い止め撃退した。
また、1560(永禄3)年5月19日、桶狭間の戦いで敗れ大樹寺に逃げ込んだ松平元康を追ってきた織田の兵と500の寺僧が戦い、多くの死者を出しながらも織田軍を撃退した。
井田野には戦死者達の霊の苦悶の声が聞こえるとして、魂魄野や魂場野とも呼ばれていたという。
松平親忠は2度の戦いの戦死者を敵味方区別なく埋葬した塚を造った(千人塚)。また、大樹寺に逃げ込んだ松平元康を守って戦死した僧兵たちを埋葬した大衆塚が西光寺本堂の裏にある。
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▲西光寺
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