大樹寺
だいじゅじ (Daiju-ji Temple)
【T-AC008】探訪日:2005/1/8・2016/3/6・2021/4/26
愛知県岡崎市鴨田町広元5-1 <📲:0564-21-3917>
【MAP】
〔駐車場所〕 専用駐車場がある。
1475(文明7)年、戦死者供養のために松平親忠が開基となり、勢誉愚底の開山により創建された。
1467(応仁元)年8月23日、尾張国品野,三河国伊保の軍勢多数が井田野に攻め寄せ、安城松平家当主の松平親忠は5百余騎で迎え撃ち、これを撃破,追撃して潰走させた(井田野の戦い)。親忠は塚を築いて戦死者を葬り首塚あるいは千人塚とも呼んだ。しかし、9年を経た1475年になって、戦死者達の亡霊が騒ぎ出し、塚がしきりに鳴動して鬨の声が絶えることなく、近辺に悪病が蔓延するなどの事態となった。そこで親忠は塚のほとりに念仏堂を建て、碧海郡宇祢部郷福林寺の住職・勢譽愚底(増上寺開山・聖聡の孫弟子で後に知恩院23世)を招いて7日間の別時念仏を修し亡霊を鎮めた。念仏堂は後の鴨田西光寺となり、その後、親忠は松平郷の高月院にあった松平親氏,泰親,信光の墓から分骨して、安城松平氏の菩提寺として大樹寺を建立し、勢譽愚底を開山とした。「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して、勢誉愚底により命名されたと伝わる。
1535(天文4)年には岡崎城主の松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔(国重文)が建立された。
また、寺の言い伝えによれば、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで総大将・今川義元を失った今川軍は東へと潰走し、松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに当寺に逃げ込んだ。寺を囲んだ織田軍に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害する決意を固め、第13代住職・登誉天室に告げた。しかし、登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土(戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目)」の教えを説き諭した。これによって元康は、生き延びる決意を固め、教えを書した旗を立て、約500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させたという(ただ、松平勢に対し織田勢が追撃戦を行ったという記録は存在しない)。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。
家康の死に際しては、17代住職の了譽が同席している。家康の死後は、その遺言に従い位牌が納められた。以降、歴代徳川将軍の等身大位牌が大樹寺に納められている。現存する位牌は尾張藩主・徳川義直が1628(寛永5)年に調進したものとされる。
境内北西には、松平親氏から徳川家康までの松平氏八代の墓所がある。
【史跡規模】 |
【指 定】【国 宝】 |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1475年 |
1535年・1560年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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松平親忠 | MT01 | 勢誉愚底 | **** | 松平清康 | MT01 |
松平元康 | TG01 | 登誉天室 | **** | 了誉 | **** |
徳川義直 | TG11 |
歴代将軍の位牌 | 位牌高さ(改葬時の遺骨調査からの推定身長) |
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1)家康 159.0cm |
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▲三門
▲三門
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▲大樹寺三門~総門~岡崎城が一直線に並ぶ
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▲総門
▲山門~総門から見える岡崎城
▲鐘楼
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▲南西にある多宝塔へ
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▲多宝塔
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▲本堂
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▲本堂
▲本堂
▲本堂
▲本堂内
▲本堂内
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▲開山堂
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▲開山堂
▲開山堂
▲松平氏八代墓所
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▲松平氏八代墓所
▲松平氏八代墓所