岡崎城跡

おかざきじょうあと(Okazaki Castle Ruins)

【C-AC007】探訪日:2019/8.29

【C-AC007】岡崎城跡 愛知県岡崎市康生町561-1

【MAP】

〔駐車場所〕見学者用駐車場がある。

   三河守護職となった仁木義長に従って九州より三河国へ移った西郷氏は仁木氏失脚後も三河に留まり、やがて松平氏と争うようになる。明大寺城主であった西郷稠頼,頼嗣父子は1455(康正元)年頃に松平信光の侵攻に備えて菅生川と矢作川の合流地点にある竜頭山に砦(龍燈山城)を築いたのが始まりである。
 文明年間(1469~87年)、西郷頼嗣は松平信光に敗れ、信光の5男・光重を養子に迎えて家督を継がせた。しかし、光重の子・親貞は跡継ぎがないまま没したため、西郷頼嗣の実子である松平昌安が家督を継ぎ、西郷信貞と名乗った。1524(大永4)年、信貞は松平清康と争ったが敗れ岡崎城を清康に引き渡して明大寺城へと退いた。1531(享禄4)年頃、清康が岡崎城を改修拡張整備して移っている。
 1542(天文11)年には城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。当時は櫓や門の屋根も茅葺で石垣などもなく、ただ堀を掘ってその土をかきあげて土塁としただけの城であった。1549(天文18)年に松平広忠が謀殺されると、岡崎城は今川家の支城として山田景隆,三浦義保らの城代が置かれた。
 1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康は岡崎城を取り戻し今川家から独立する。1570(元亀元)年には徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城には子の松平信康を入れた。信康自刃後は、重臣の石川数正,本多重次らが城代を務めた。
 1590(天正18)年、家康が関東移封となると、豊臣家臣の田中吉政が入り、家康に対する抑えの拠点の一つとして城は拡張され、強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備された。
 江戸時代に入ると、家康誕生の城として重要視され本多氏,水野氏など譜代大名が歴代の城主を務めている。1617(元和3)年に本多康紀が3重の天守を、1644(正保元)年に本多忠利が石垣を完成させている。1873(明治6)年、廃城令によって廃城処分となった。
 本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、それに本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていた。現在は一切の建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪,隠居曲輪,風呂谷等の曲輪と石垣,堀などの遺構を残すのみで、敷地は龍城神社と岡崎公園として整備されている。天守は1959(昭和34)年3月に復興された。

【史跡規模】

【指 定】 

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 江戸時代:前期
関連年号

1455年

1524年・1531年・1542年・1549年・1560年・1570年・1590年 1617年・1644年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
西郷稠頼 F628 西郷頼嗣 F628 松平信光 MT01
松平光重 MT07 西郷信貞(松平昌安) MT07 松平清康 MT01
松平広忠 MT01 徳川家康 TG01 山田景隆 ****
三浦義保 H*** 松平信康 TG01 石川数正 G393
本多重次 F535 田中吉政 **** 本多康紀 F536
本多忠利 F529

 

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二の丸御殿の井戸跡 持仏堂曲輪(左)・本丸腰巻石垣(右) 空堀 空堀 空堀 本丸埋門石垣 本丸埋門北袖石垣 龍城堀 龍城堀 風呂谷曲輪 風呂谷曲輪 風呂谷門跡 本丸復元天守 家康公遺言 復元天守 龍城神社 坂谷門跡 坂谷邸跡 産湯の井戸 えな塚 東隅櫓 東隅櫓 東曲輪の切岸 菅生川端石垣