明大寺城跡
みょうだいじじょうあと (Myodaiji Castle Ruins)
【C-AC383】探訪日:2021/4/26
愛知県岡崎市明大寺町川端
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、永享年間(1429~41年)に大草城主であった西郷弾正左衛門稠頼が築いた城館とされる。
足利尊氏の側近で三河守護職となった仁木義長に従って九州より三河国へ移った西郷氏が嫡流の絶えた大草氏の後を受けて大草城主となる。仁木義長失脚後も西郷氏は三河に留まり、一色氏が三河守護の時に守護代となり、やがて松平氏と争うようになる。西郷稠頼は永享年間に明大寺城を築き、さらに1455(康正元)年頃には松平信光の侵攻に備えて竜頭山に砦(龍燈山城:後の岡崎城)を築いた。この頃、明大寺城は西郷氏の隠居城として「東城」と呼ばれ、隠退した稠頼や父の盛頼,子の頼嗣が居城した。
文明年間(1469~87年)、西郷頼嗣は松平信光に敗れ、信光の5男・光重を養子に迎えて家督を継がせた。しかし、光重の子・親貞は跡継ぎがないまま没したため、西郷頼嗣の実子である松平昌安が家督を継ぎ、西郷信貞と名乗った。1524(大永4)年、信貞は山中城を拠点に松平清康と争ったが敗れて岡崎城を清康に引き渡し、自身は明大寺城へと退いた。その後、1527(大永7)年頃に清康が明大寺城へ入り、信貞は最終的に大草城に隠退した。1531(享禄4)年頃には清康が岡崎城を改修拡張整備して移り、明大寺城は自然廃城となったとされる。
城域は明確ではないが、現在の東岡崎駅北東から六所神社鳥居前,参道近辺とされている。