高月院
こうげついん (Kogetsu-in Temple)
【T-AC004】探訪日:1989/5/16・2021/8/11
愛知県豊田市松平町寒ケ入44 <📲:0565-58-1623>
【MAP】
〔駐車場所〕
山号を本松山、院号を高月院、寺号を寂静寺と称する知恩院末寺で、本尊として阿弥陀如来を祀る。
寺伝によれば、1367(貞治6/正平22)年の創建で松平郷の主であった在原信重(松平太郎左衛門尉信重)を開基とし、その庇護を受けた見誉寛立(俗名を足助重政)を開山とする。寂静寺草創の翌年1368(応安元/正平23)年に太郎左衛門家の婿となって松平郷に入郷した松平親氏は寛立に深く帰依し松平氏の菩提寺とすることを約したという。ただ、『浄土伝灯総系譜』によれば、見誉寛立の師とされる酉誉聖聡が1366(貞治5/正平21)年の生まれであることから本院の創建年には疑問が残る。
事実上の開山は、中興とされている第7世超誉存牛である。超誉は松平親忠の5男といわれ、寺伝では岩津の信光明寺開山の釈誉存冏のもとで得度し、信光明寺第3世,知恩院第25世を相続、信光明寺住持に復職後、1545(天文14)年に当院第7世住持となり、1549(天文18)年に死去したとされる。なお、超誉は元々の松平親氏,泰親の廟塔に、母親である閑照院皎月尼の墓塔を建てた(松平氏墓所)。
1549(天文18)年暮れ、今川氏の人質として駿府へと向かう途上にあった8歳の竹千代(後の徳川家康)は当院に立ち寄り、祖廟を参拝したほか、超誉からは十念や説法を拝受したり親しく清談を交わすなどしたといわれ、この時に竹千代が残した『花月一窓』という掛け軸が「伝家康八歳の書」として当院に伝わる。竹千代改め松平蔵人元康は1560(永禄3)年にも当院を訪れ、中門の下に松の木を一本植え、山号である本松山の根本であると称したという。
江戸時代には幕府からさまざまな優遇を受け、保護され続けている。堂宇の修復はおよそ20年に1度のペースであったとみられる。また、朝廷からも厚遇され、東山天皇からは僧職の最高位である常紫衣の綸旨を発給されている。