太田宿本陣・脇本陣跡
おおたじゅくほんじん・わきほんじんあと(Ota Honjin and Waki-Honjin Ruins)
【R-GF021】探訪日:2024/3.15・3.27
岐阜県美濃加茂市太田本町3丁目3-34
【MAP】
〔駐車場所〕
太田宿は尾張藩領の中山道51番目の宿場(中山道六十九次)で、東に伏見宿,西に鵜沼宿があり、特に太田の渡しは、中山道の難所の1つであった。本陣1軒,脇本陣1軒が配置され、1843(天保14)年当時は旅籠20軒,戸数108軒,人口505人との記録がある。本陣は江戸時代以降に定められた大名や旗本,幕府役人,勅使,宮門跡ら身分が高い者が宿泊する建物で、宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、その近くには本陣に次ぐ格式の宿として脇本陣があった。太田宿には、現在は本陣門(美濃加茂市指定文化財)と脇本陣であった林家住宅の一部(国重要文化財)が残されている。なお、林家住宅の主屋は個人宅として使われており非公開であるが、隣接する隠居家は見学可能である。
本陣門は1861(文久元)年、和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かうときに新築された。一間の薬医門で両袖に半間の塀が付く格式のある端正なつくりである。
脇本陣は本陣と往還通りを挟んだ向かいに位置し、林家初代の市左衛門が1769(明和6)年に現位置に屋敷を構えて以来、脇本陣のほか庄屋,尾張藩勘定所のご用達も務め、質屋や味噌醤油の製造販売も営んでいた旧家である。主屋切妻の両端にはりっぱなうだつが設けられ、この家の権威と格式を示している。1882(明治15)年、板垣退助が岐阜で暴漢に襲われる前日には、この屋敷に逗留していた。
脇本陣に隣接して太田宿の歴史を説明する太田宿中山道会館がある。
なお、脇本陣の後方(南)は、1221(承久3)年、木曽川の両岸に鎌倉幕府軍と後鳥羽上皇の朝廷軍が対峙し、承久の乱の口火となった大井戸の戦いが始まった場でもある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】旧太田脇本陣林家住宅(1971年12月28日指定) |
関連時代 | 江戸時代:中期 | 江戸時代:後期 |
関連年号 | 1769年 | 1861年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
林 市左衛門 | **** |
隠居家の奥へ進むと説明員の方がみえ、いろいろと説明してくださった。水琴窟,鬼瓦の話、板垣退助の岐阜で暴漢に襲われる前日には林家主屋へ宿泊しており、その記念に天目烏薬の木を植えたこと、また、木曽川の氾濫の際には家の床が浮かび上がる構造になっていることなど興味深い説明を受けることができた。
太田宿本陣・脇本陣(林家住宅)平面図(現地パンフレットを編集)