則定陣屋跡
のりさだじんやあと(Norisada Jinya Ruins)
【R-AC017】探訪日:2017/10.8・2023/10.30
愛知県豊田市則定町本郷5(則定小学校)
【MAP】
〔駐車場所〕則定町集会所の駐車場に停めさせていただく。
1600(慶長5)年、鈴木重次によって則定川北岸にある高台に築かれた。現在は則定小学校が建っているが、石垣の一部と石積された門坂が残る。
鈴木重次は椎城,則定城を居城としてこの地を支配していたが、1590(天正18)年に徳川家康に従って関東に移ってのち、関ヶ原合戦後に500石を領して則定に陣屋を構えた。
重次の長男・鈴木正三は関ヶ原合戦では信濃国上田城の合戦で初陣し、大坂の陣の後、1615(慶長20)年に200石を領して別家を興した。1620(元和6)年、家督を嫡子の重長に譲り出家し、三河に戻って修行を積み、1642(寛永19)年には島原の乱後の天草復興に尽力している。
鈴木重次の家督は弟の重成が継ぎ、島原の乱に従軍した後に初代天草の代官となる。重成は天草復興に尽力し、年貢半減を幕府に訴え続けたが聞き入れられず、1653(承応2)年、訴状を残して自刃した。家督を継いだ鈴木重辰もその遺志を継いで幕府に訴え続け、ついに石高が半減された。この尽力に感謝した天草の人々は各地に鈴木塚を築いて祀ったという。