設楽原決戦場:馬防柵〔長篠古戦場〕
したらがはらけっせんじょう:ばぼうさく〔ながしのこせんじょう〕
(Shitaragahara Decisive Battlefield;Horse Fence [Historic Battlefield of Nagashino])
【B-AC004b05】探訪日:2015/8/15・2019/4/6
愛知県新城市大宮字清水
【MAP】
〔駐車場所〕
1575(天正3)年5月21日、設楽原の決戦において、当時最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するために織田信長が考えたとされる馬防柵がある所。馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ兵士に一本ずつ持ち運ばせたとされる。馬防柵は、南端(右端)が勝楽寺前激戦地の北側の連吾から、北端(左端)は名高田前激戦地の北側の浜田まで築かれていた。また、馬防柵には、騎馬軍団に対する防御のほかに、簡易的な野戦築城を装って騎馬軍団を逆に油断させ、誘き寄せて鉄砲で迎え撃つ意図があったとも考えられている。
土屋昌次は、三重に廻らされた柵の第二柵まで突破し、第三柵に辿り着くところで一斉射撃を受け戦死した(土屋昌次戦死の地)。
馬防柵は「設楽原をまもる会」が中心となって、概ね5年に一度、柵木を造り直して再現している。
【史跡規模】 |
【指 定】新城市指定史跡(1972年3月1日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
関連年号 | 1575年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
織田信長 | OD04 | 土屋昌次 | **** |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲設楽原歴史資料館の屋上から見た馬防柵
▲柳田前激戦地から見た馬防柵
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▲長篠設楽原合戦屏風絵図
▲「馬防柵」説明板
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▲柵内土塁から見た土屋昌次戦死の地
▲土屋昌次戦死の地
▲馬防柵から見た柳田前激戦地
▲正面から見た馬防柵
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▲大宮前激戦地から見た馬防柵
▲丸山砦から見た馬防柵
▲馬防柵北端
▲馬防柵北端