米野古戦場
こめの こせんじょう(Historic Battlefield of Komeno)
【B-GF005】探訪日:2024/1.14
岐阜県羽島郡笠松町米野
【MAP】
〔駐車場所〕
1600(慶長5)年8月22日、関ヶ原の戦いの前哨戦として、岐阜城主・織田秀信が率いる西軍と岐阜城へ向かう池田輝政率いる東軍とが木曽川西岸で激突した戦いである。
8月21日、清須城に集結した東軍の池田輝政,浅野幸長,山内一豊率いる東軍18,000は美濃国羽栗郡河田島村(現・各務原市)付近に進軍し、木曽川を渡り西軍の織田秀信が守る岐阜城へと向かおうとしていた。
これに対し織田秀信は、羽栗郡米野村に百々綱家,飯沼長資ら約3,200を配置、さらに、秀信は厚見郡川手村に本陣を置き、羽栗郡中屋村,各務郡新加納村にも布陣し、二重の防戦網を張った。総数9,000だったという。
8月22日明方、東軍は木曽川を渡河、西軍は鉄砲隊で応戦した(米野の戦いと区別して「河田木曽川渡河の戦い」と呼ばれる)。同日昼には、木曽川を渡った東軍は米野村で西軍と激突する。ただ、米野村には西軍は3,000程の兵しか布陣しておらず、東軍18,000との戦力差は歴然としており、その日の夕方には戦いは終わり、飯沼長資は戦死(飯沼長資の墓は岐南町指定文化財)、百々綱家ら残存兵は岐阜城へ後退した。
戦場は米野村を中心に、羽栗郡平島村(現・岐南町)一帯とされる。なお、池田家の家臣が後に記録した文書では、西軍とは新加納の砦で戦い打ち破ったと記述されており(米野は戦場ではなく)、その後に岐阜城へ向かったという。
翌8月23日には、東軍の福島正則を大将とするもう一隊と合流して、わずか1日で岐阜城を攻め落としている。
【史跡規模】 |
【指 定】笠松町指定史跡(1989年7月25日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1600年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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池田輝政 | KI13 | 浅野幸長 | G148 | 山内一豊 | F944 |
織田秀信 | OD04 | 百々綱家 | **** | 飯沼長資 | **** |
米野の戦い(1600年8月22日)