森部古戦場
もりべ こせんじょう(Historic Battlefield of Moribe)
【B-GF006】探訪日:2024/2.8
岐阜県安八郡安八町森部2831
【MAP】
〔駐車場所〕
1561(永禄4)年5月13日、長良川西岸の森部での西美濃への侵攻を開始した織田信長軍と迎え撃った斎藤龍興軍の戦い。
信長の岳父・斎藤道三の仇である岐阜城主・斎藤義龍が5月11日に急死。その知らせを得ていたかどうかは定かではないが、2日後に信長は約1,500の兵で木曽川,長良川を越え、斎藤所領の西美濃へ侵攻した。これに対し斉藤方は、後継に嫡男の斎藤龍興(当時14歳)を大将に据え、墨俣砦より、長井甲斐守衛安,日比野下野守清実ら約6,000が出撃し、両軍が森部の地で対峙した。
翌5月14日、信長は前年の桶狭間の戦い同様に雨の中、決戦に挑んだ。斉藤軍は鶴翼の陣を取っていたが、信長は隊を3つに分けて挟撃し、やがて長井衛安,日比野清実,神戸将監,足立六兵衛ら主将クラスや豪傑はじめ320兵が討たれ、織田軍の美濃での初勝利に終わった。
なかでも足立六兵衛は「首取り足立」と恐れられた豪傑であったが、まだ謹慎中で無断で出陣した前田利家(当時は犬千代)が足立を討ち取り、信長の首実検において、「この猛将を討ち取るは城一国の価値あり」として帰参を赦されたという。利家にとっては出世の門出となる戦いであった。
首実検は薬師堂の前で行われ、戦死者が祀られている。その際に、信長が鎧を掛けたとされる松が「鎧かけの松」として伝えられている(現在2代目)。また、利家が出世した場所として「出世の松」が植樹されている。