善明堤(鎧ヶ淵)古戦場
ぜんみょうつつみ(よろいがふち)こせんじょう (Historic Battlefield of Zenmyotsutsumi[Yoroigafuchi])
【B-AC009a】探訪日:2020/11/17
愛知県西尾市吉良町岡山鎧
【MAP】
〔駐車場所〕
1561(永禄4)年、今川氏から独立した松平元康(のちの徳川家康)は三河統一過程において吉良義昭と敵対する。義昭は、自らの居城である西尾城を家人に任せ、東条城に入った。この城の正面になったのが深溝松平好景の深溝城であった。松平好景は中島城へ入り、東条城を牽制する形をとった。
1561(永禄4)年2月には元康自ら義昭の東条城を攻めたが、落とすことはできなかった。
同年4月15日、吉良義昭は一計を案じ、富永忠元に数百騎を授けて酒井忠尚の守る上野城を攻めさせた。家康から指示を受けた好景は、松平康忠と嫡男伊忠を出動させ、自らは深溝城へと戻った。義昭はその隙を突いて、中島城を攻めると、好景はすぐに留守の一族,家臣僅か50余騎を率いて、中島へ向かった。散々に敵を蹴散らした後、敗走する吉良軍を追撃したが、吉良方の富永忠元の策にはまり、逆に好景らはその退路を断たれてしまう。好景勢は、吉良領の善明堤近くで伏兵に行く手を遮られ、吉良勢に囲まれた。好景はじめ一族21人、家臣ら34人は淵に追い落とされるなど全員が倒れ、生還する者はなかったという。
その後、淵の底に沈んだ将兵の鎧や武具がしばしば引き上げられたことから、この善明堤はやがて鎧ヶ淵古戦場とも呼ばれるようになった。
なお、元康は、後に藤波畷の戦いで吉良氏の排除に成功し、さらに鵜殿氏など今川方の勢力や一向一揆の鎮圧を経て三河統一を果たす。松平好景の跡は伊忠が継いだが、長篠の戦いで敗走する武田軍を追撃しすぎ戦死している(松平伊忠戦死の地)。
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▲石碑
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▲鎧掛松と蛇枕石の碑
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▲黄金堤の場でもある