深溝城跡A

ふこうずじょうあとA (Fukozu Castle Ruins A)

【C-AC072】探訪日:2014/9/13

【C-AC072】深溝城跡A 愛知県額田郡幸田町深溝里前

  【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC072】深溝城跡A

   築城年代,築城者は定かではないが、一説に大庭朝満が1231(寛喜3)年に足利氏に縁の深い額田郡深溝に移住して城館を築き、1332(正慶元)年頃に大庭朝泰によって本格的な城が築かれ始めたといわれる。
 1465(寛正6)年、額田郡南部一帯を地盤とする地侍たちの一揆が勃発。深溝の大庭次郎左衛門は鎌倉公方足利成氏の命令と称して、丸山中務父子らと共に井ノ口城を拠点に街道を封鎖して年貢米などを強奪した。これに対し幕府は松平信光と戸田宗光に討伐を命じ、丸山中務は大平郷にて戸田宗光に、大庭次郎左衛門は本拠の深溝で松平忠景によって討ち取られたとされ、松平氏には恩賞として深溝の地を与えられた。忠景は次男松平忠定を深溝城に入れた(ただし、忠定が1524年に奪取したという説もある)。いずれにせよ、深溝城は松平氏の居城となり、この後、吉良氏との戦いの拠点となった。
 1561(永禄4)年、2代目の松平好景のとき、三河統一を進める松平元康と吉良義昭との間に戦が起き、好景は吉良領の善明堤で討死する(詳細は鎧ヶ淵古戦場の項参照)。跡を継いだ松平伊忠は徳川家康のもと、1570(元亀元)年の姉川の戦いなどで数々の軍功を挙げたが、1575(天正3)年の長篠の戦いで討死した。4代目松平家忠は1590(天正18)年の家康の関東移封に伴い、武蔵忍城に1万石で入城することになる。その後、5代目の松平忠利は家康からの常陸国での大幅加増をを断り、1万石の深溝西郡藩を望んだ。
 1612(慶長17)年、忠利が3万石に加増され吉田城に移ると深溝城は廃城となり、以後は陣屋と称して明治維新まで続く。
 現在は、民間工場用地となっており、その一角に城址碑が建つのみである。

 

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 鎌倉時代 室町時代 戦国時代 江戸時代:前期

関連年号

1231年・1332年 1465年 1561年・1575年 1612年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
大庭朝満 H*** 大庭朝泰 H*** 大庭次郎左衛門 H***
松平信光 MT01 戸田宗光 F529 松平忠景 MT09
松平忠定 MT09 松平好景 MT09 松平元康 TG01
吉良義昭 G361 松平伊忠 MT09 松平家忠 MT09
松平忠利 MT10

 

 

 

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