八幡林合戦地跡〔小牧長久手古戦場〕
はちまんばやし かっせんちあと〔こまきながくてこせんじょう〕
(Hachimanbayashi Battlefield Ruins [Historic Battlefield of Komaki-Nagakute])
【B-AC002b01】探訪日:2020/9/12
愛知県犬山市大字羽黒八幡31-4
【MAP】
〔駐車場所〕
1584(天正12)年3月16日、小牧長久手の戦いにおける緒戦の地である。八幡林の戦いは羽黒の戦いとも呼ばれている。
美濃金山城主の森武蔵守長可が兵3,000を率いて出陣し、犬山城から南へ離れた八幡林に池田恒興軍の前にと突出した形で布陣した。森長可の要請を受けた郡上八幡城主の遠藤慶隆も兵600を引き連れて参陣した。また、羽柴秀吉家臣である尾藤甚右衛門が軍目付として共に出撃した。
森長可の動きを察知した徳川家康は、ただちに酒井忠次,榊原康政,奥平信昌,松平家忠ら5,000を八幡林に向かわせ、17日の夜明けとともに、酒井忠次が一斉に攻撃を仕掛け、森軍の本陣を急襲した。さらに、酒井忠次は、榊原康政らの別動隊を編成して森軍の後方に回り込むことで奥平信昌らの主力軍とで挟み撃ちにした。これにより、森軍の陣形は総崩れとなり、森軍は大敗を喫して犬山城や居城の金山城に敗走。森長可の退却にあたっては、家来の野呂助左衛門宗長が奮戦し壮絶な死を遂げている。その長子の宗政も初陣であったが、父を助けようとして討死した(野呂塚)。
この勝利の知らせを受けた家康は、深追いは危険と判断して兵を撤退させた。一方、森軍の敗北を聞いた後方の池田恒興は稲葉一鉄らとともに3,000の兵を率いて羽黒に進軍したが、家康も自ら羽黒に兵を進めたため、双方は戦闘を避けて兵を引いた。