稲生原古戦場
いのうがはらこせんじょう (Historic Battlefield of Inogahara)
【B-AC005】探訪日:2016/5/15
愛知県名古屋市西区名塚町1丁目124
【MAP】
〔駐車場所〕
織田信秀の死後、那古野城主の信長が跡を継いだが、信長の後ろ盾であった斎藤道三の死や自らの素行の悪さから同族内での争いや今川氏への寝返りが起きた。このような状況下で、信長による織田弾正忠家の統率は困難と考えた宿老の林秀貞とその弟林通具,信行老臣の柴田勝家らは、信長を排除し信長の同母弟である信行に家督を継がせようとした。そして、信行自身も織田家代々の名乗りである弾正忠を自称し、信長の直轄領である篠木などを押領し、砦を構えるなどして反抗の意思を示した。
これに対し、1556(弘治2)8月22日、信長は佐久間盛重に命じ名塚砦を築かせた。8月24日、稲生原での合戦に至る。信長軍が清洲から南東の於多井川(現在の庄内川)を越えたところで、東から来た柴田軍と、南から来た林軍との戦いが始まった。信長方の手勢わずか700人たらず(佐久間盛重,森可成,佐久間信盛,前田利家,丹羽長秀,織田信房ら)に対し、信行方は柴田勝家が1000人,林秀貞が700人の合計1,700人を擁していた。正午頃、信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかったが、主だった家臣が次々に討たれるなど苦戦を強いられ、信長の目前まで敵が攻め寄せた。しかし、織田信房,森可成の両名が前線に立って戦い奮戦した。そのとき、信長が敵に対して大声で怒鳴ると、身内同士の争いだったこともあり、柴田軍の兵たちは逃げていったという。
勢いを取り戻した信長軍は、次いで林軍に攻めかかり、林美作守が黒田半平と切り結んで息が切れたところに信長が打ちかかり、槍で突き伏せて討ち取ったのを始めとして、鎌田助丞・富野左京進・山口又次郎・橋本十蔵・角田新五・大脇虎蔵・神戸平四郎ら、信行方の主だった武将を含む450人余りを討ち取った。これにより、信行方は崩れ、敗走し末森城,那古野城に篭城したところを信長は両城の城下を焼き払った。
敗将である信行は、信長と信行の母である土田御前の取りなしにより助命され、清洲城で信長と対面して許された。また、信行方の有力武将であった林秀貞と柴田勝家,津々木蔵人も信長に謝罪、忠誠を誓った。後に信行は再度謀反を企むが、信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺された。
なお、信長は、20年以上後の1580(天正8)年に林秀貞を追放しているが、稲生の戦いで叛いたことを原因のひとつに挙げている。
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▲「稲生原古戦場跡」説明板
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