末森城跡
すえもりじょうあと (Suemori Castle Ruins)
【C-AC071】探訪日:2014/9/6
愛知県名古屋市千種区城山町2丁目88
【MAP】
〔駐車場所〕
1548(天文17)年、標高43mの東山丘陵末端に織田信秀によって築城された。三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えたもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものであった。信秀は、これまでの古渡城を放棄して末森城を居城としたが、4年後に死去している。その後、末森城主になったのは嫡男の織田信長ではなく弟の信行(信勝)であった。
1556(弘治2)年、信行は林秀貞,柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる。この際、信行は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放った。このときは末森城内にいた母・土田御前の介入で信行は赦免され、末森城は陥落を免れている。しかし、1558(永禄元)年、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信長は仮病を装って信行を清洲城へ招き謀殺した。これにより末森城は廃城となったとされる。なお、1584(天正12)年の小牧長久手の戦いの際、織田信雄が再び末森城を使用したという。
城は地形を利用して斜面の中腹に幅10~16m,深さ7mほどの空堀を備えていた。そのうちの内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。馬出や総構えの構造が見られることから、現在みられる遺構は、織田信雄が小牧長久手の戦いに備えて整備したものと考えられている。
城内の城山八幡宮は、城主の信行が1553(天文22)年に加賀の白山比咩神社から分霊を迎え白山社を祭ったのが始まりで、廃城後も近隣の人々の信仰を受けて維持され、明治になって近隣の神社と合祀されたものである。また、城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は桃巌寺で信行とともに供養されている(織田信秀,信行墓所)。