織田信秀,信行墓所〔桃巌寺〕
おだのぶひで,のぶゆき ぼしょ〔とうごんじ〕
(Graves of Nobuhide and Nobuyuki Oda[in Togen-ji Temple])
【K-AC123】探訪日:2020/7/5
愛知県名古屋市千種区四谷通2丁目16
【MAP】
〔駐車場所〕
織田信秀は1511(永正8)年、織田大和守家に仕える庶流として清洲三奉行の一人の織田信定の長男として勝幡城で生まれた。家督を継いだのちは、織田氏一族や北の斎藤氏,東の松平氏,今川氏との戦い,和睦を繰り返す。最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったとも指摘される。1548(天文17)年、末森城を築き居城したが、4年後の1552(天文21)年に死去。葬儀は萬松寺で僧侶300人を参集させ壮大に行われたという(萬松寺にも信秀の墓所がある)。その後、末森城主になったのは嫡男の織田信長ではなく弟の信行(信勝)であった。
1556(弘治2)年、信行は信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる。このときは末森城内にいた母・土田御前の介入で信行は赦免され、末森城は陥落を免れている。しかし、1558(永禄元)年、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信長は仮病を装って信行を清洲城へ招き謀殺した。
信秀の廟所は当初、末森城の西北山麓にあったが、ここ桃巌寺に移され、信行とともに供養されている。