勝幡城跡

しょばたじょうあと (Shobata Castle Ruins)

【C-AC210】探訪日:2018/6/2

【C-AC210】勝幡城跡  愛知県愛西市勝幡町/稲沢市平和町六輪字城之内

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC210】勝幡城跡

   1504(永正元)年、織田弾正忠信定(信長の祖父)が大中臣安長の屋敷跡に築城したといわれる。二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定される。「勝幡村古城絵図」によると、本丸は東西29間,南北43間,幅3間の方形土塁と記されているが、現在は城郭の多くの部分が日光川に位置するため当時の縄張りは明確でない。
 1512(永正9)年、嫡男信秀が勝幡城で誕生した。信定の津島支配が不動のものとなったのは1525(大永5)年頃とされ、このときに勝幡城を信秀に譲ったと言われている。
 1532(天文元)年、信定の跡を継いだ信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に移り、勝幡城には家臣の武藤雄政を城代として置いた。翌年には公卿の山科言継が、信秀から勝幡城に招かれ、その城の規模と出来栄えに驚いたと『言継卿記』に記している。
 また、『尾州古城志』には、1534(天文3)年に信長がこの勝幡城で産まれたと記されている。那古野城という説もあるが、勝幡城説が有力になってきている。この年、信秀は古渡城を築いて移り、生後間もない信長に那古野城を与えたとされている。
 1555(弘治元)年、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤雄政を野府城へと移した。信秀,信長による尾張平定の進展にともなって、勝幡城はしだいに不要のものとなり、やがて廃城となったと思われる。

【史跡規模】

【指 定】稲沢市指定史跡(2005年10月3日指定)
【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1504年・1512年・1532年・1534年・1555年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
織田信定 OD03 大中臣安長 NT** 織田信秀 OD03
武藤雄政 F*** 山科言継 F877 織田信長 OD04

 

【C-AC210】勝幡城跡
  

 

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡 ※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡

【C-AC210】勝幡城跡