仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

ほとけがね けっせんちあと〔こまきながくてこせんじょう〕

(Hotokegane Final Battlefield Ruins [Historic Battlefield of Komaki-Nagakute])

【B-AC002b04】探訪日:1989/12/23・2014/8/31・2020/9/5

 愛知県長久手市武蔵塚204

  【MAP】

〔駐車場所〕

   1584(天正12)年4月9日早朝、白山林の戦いで三好信吉(のちの豊臣秀次)率いる第4陣の奇襲に成功した大須賀康高,榊原康政らの軍が、桧ヶ根の戦いで第3陣の堀秀政隊に逆襲され追撃されてしまう。しかし、堀軍が御旗山の徳川家康の金扇の馬印を見て、楽田城へ軍を引き上げると、9時半頃、家康は全軍をまとめて御旗山から南下して仏ヶ根,前山に陣を敷いた。
 一方、第1陣・池田恒興隊と第2陣・森長可隊は三好勢の大敗を聞いて引き返すが、布陣を敷いた徳川軍と対峙することとなる。徳川軍は、右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人と織田信雄勢3,000人。一方、池田,森勢は右翼に恒興の嫡男・池田之助(元助),次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢3,000人、後方に恒興勢2,000人が陣取った。
 午前10時頃、両軍が激突し戦闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が狙撃されて討死し(武蔵塚)、徳川軍優勢となった。池田恒興は自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死(勝入塚)。父の戦死を知った之助も敵陣へ斬り込み安藤直次に討ち取られた(庄九郎塚)。池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、退却したという。やがて池田,森勢は追撃されながら潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わった。この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人という。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1584年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
徳川家康 TG01 井伊直政 F442 織田信雄 OD05
池田恒興 KI18 森 長可 G398 池田之助(元助) KI18
池田輝政 KI18 永井直勝 H303 安藤直次 G508

 

 

 

 

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕 ※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

▲長久手の古戦場を模した丘

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

▲仏ヶ根と御旗山

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

▲桧ヶ根

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

▲勝入塚

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

▲庄九郎塚

【B-AC002b04】仏ヶ根決戦地跡〔小牧長久手古戦場〕

▲武蔵塚