桧ヶ根合戦地跡〔小牧長久手古戦場〕
ひのきがね かっせんちあと〔こまきながくてこせんじょう〕
(Hinokigane Battlefield Ruins [Historic Battlefield of Komaki-Nagakute])
【B-AC002b03】探訪日:2020/9/5・2020/9/12
愛知県長久手市坊の後113
【MAP】
〔駐車場所〕
1584(天正12)年4月9日早朝、総大将の三好信吉(のちの豊臣秀次,当時17歳)率いる第4陣が白山林の戦いで徳川軍先遣隊の奇襲に遭い総崩れになったという知らせを、第3陣の堀秀政隊が知ったのは約2時間後であった。
堀隊は直ちに引き返し、三好勢の敗残兵を組み込んで桧ヶ根に陣を敷いて迫り来る徳川軍を待ち構えた。当時の桧ヶ根は標高81.2mで頂上からは敵の進軍動向と、南に先行する味方の池田,森隊の両軍が同時に見渡せる場所であった。
三好勢を撃破して勢いに乗った大須賀康高,榊原康政らの軍は敵陣に突入してしまい、後退できず返り討ちにされて逆に追撃されてしまう。徳川軍先遣隊の死者は280余とも500人ともいう。
岩作城方向に敗走する大須賀,榊原の兵を一旦は追撃した堀軍であったが、徳川家康が御旗山に金扇の馬印を掲げたのを確認すると、これ以上の追撃は不利になると察し、楽田城に向かい軍を引き上げた。
これにより、第1陣・池田恒興隊と第2陣・森長可隊は取り残される形となり、家康は全軍をまとめて南下して仏ヶ根に集結させた。