船田合戦終焉の地

ふなだがっせんしょうえんのち(The Place Funada Battle Settled)

【B-GF007】探訪日:2024/2.8

【B-GF007】船田合戦終焉の地 岐阜県岐阜市城田寺

【MAP】

〔駐車場所〕舎衛寺,白山神社前に駐車場がある。

   船田合戦とは、1495(明応4)年に始まった美濃守護・土岐成頼の後継者を巡る土岐政房を推す守護代・斎藤妙純(利国)と土岐元頼を推す石丸利光との近隣国も巻き込んだ戦いである。この城田寺辺りが決戦の地となり、舎衛寺境内へ向かう坂の途中に「船田合戦終焉の地」の碑が建つ。
 応仁・文明(1467~86年)の頃には美濃守護・土岐氏の権力は衰え、代わりに守護代の斎藤氏が台頭し、守護の後継を決めるまでになっていた。土岐成頼の代にも実権は斎藤妙純が握っており、妙純の重臣に石丸利光がいた。妙純は斎藤妙椿の養子であり、異母兄の斎藤利藤とは文明美濃の乱で争った後、和睦していた。
 やがて、守護の土岐成頼は嫡男の政房より末子の元頼を寵愛するようになり、1493(明応2)年閏4月には単独で上洛し、後継者として元頼を伝えた。この成頼の意向に、権力奪回を図る斎藤利藤と出世を目論む石丸利光は、次期守護を元頼で同調し、嫡男・政房を推す妙純の排除を図る。
 1494(明応3)年12月、石丸利光は、郡上郡の大宝寺開堂式に出席することになっていた妙純を道中で暗殺しようとしたが悪天候で延期され失敗、次の日に居城の船田城で兵を集め、直接、妙純のいる加納城を奇襲しようとしたが、西尾直教の密告で発覚してしまう。成頼の仲介で一旦、両者は和睦し、西尾直教は追放された。しかし、妙純は加納城の増強に努め、1495(明応4)年3月、両軍は開戦に至った。
 4月11日、妙純の弟・斎藤利綱は村山利重らを率いて正法寺に入ったが、利光の弟・石丸利元も間道から正法寺に移り、1つの寺で斎藤軍が北、石丸軍は南に対陣した。5月11日には石丸方は土岐元頼を船田城に入城させた。気勢を上げた石丸軍は19日に利光の一族・石丸利定が妙純方の安養寺を急襲、加納城を包囲したが、長井秀弘の反撃に遭い利定は戦死、死傷者500名を出して敗走した。斎藤軍は勝利に乗じて21日に正法寺へ入り、石丸利元は船田城へ逃れた(正法寺の戦い)。
 22日に尾張の上四郡守護代・織田寛広が妙純方として援軍を出し、安養寺近くに布陣した。7月1日に妙純は石丸方の西郡の古田氏討伐に弟の長井利安,利綱ら3000人の兵を派遣した。利光も一族の石丸利信を将とした1000人の救援軍を派遣、両軍は合戦に及んだ。この戦いで石丸軍は石丸利信を始め130余名が戦死、斎藤軍は56名であり、斎藤軍の勝利に終わった。
 度重なる敗戦で利光は戦意を喪失、7日に船田城を焼き払い元頼と毘沙童(利藤の末子)ら500騎を連れて近江へ逃れた。9月に成頼も政房に家督と守護職を譲り、剃髪して舎衛寺(城田寺城)に隠居し、戦乱はいったん終結した。
 翌年になると、尾張の上四郡守護代織田家(妙純方)と尾張下四郡守護代織田家(石丸方)は和睦する。
 一方、近江にいた石丸利光は再起を図り、1496(明応5)年4月に管領・細川政元に兵糧代を送って幕府の支援を頼み、六角高頼と伊勢の梅戸貞実の支持を得て南近江で兵を集めて美濃侵入を窺った。両織田氏は和睦したため情勢は不利だったが息子の石丸利高に押し切られて美濃侵攻を決行した。石丸軍は土岐元頼を総大将、毘沙童を副将として伊勢から尾張津島へ入り、竹ヶ鼻に到着した。また、別の一軍は多芸郡に入って放火、威嚇した。
 妙純は急遽墨俣に利綱率いる軍を派遣したが、5月10日に石丸軍は斎藤軍を破って北上、成頼がいる城田寺城に迫った。成頼は始め門を閉ざして石丸軍を入れようとしなかったが、利光の使者から元頼が一緒に従軍していること、および幕府の支持を取り付けたことを聞くと門を開き、石丸軍は城田寺城に入った。
 この事態に妙純は守護・土岐政房の命令を受けて城田寺城へ向かい、合わせて婿の朝倉貞景と京極高清に支援を要請した。京極氏は10日に美濃と近江の国境にある弥高山に着陣して援軍に浅井氏・三田村氏を鵜飼(岐阜市黒野)に派遣した。斎藤軍は14日に長良川を渡り、15日から16日にかけて城田寺城を包囲、17日に織田寛広が派遣した尾張軍が到着、26日に朝倉貞景が派遣した越前の軍勢が到着、包囲網に加わった。六角高頼は城田寺城へ救援に向おうとしたが、国境に遮る京極軍に敗れて500余名を失った。梅戸貞実も妙純方の長野氏に妨害されて美濃へ行けなかった。
 敗北を悟った利光は29日に自分の切腹と引き換えに成頼と毘沙童の助命を書いた降伏の書状を包囲軍に送り、承諾されると翌30日に利高と共に切腹した。毘沙童は13歳という幼少だったため罪を許され、後に出家し日運と改名している。成頼は政房の説得を受けて6月16日に城を出た。そして20日に成頼を加納城に奉じる一方で、城田寺城に火が放たれ、残された元頼は観念して自殺、1年に渡る合戦は終結した(城田寺城の戦い)。
 石丸方を支援した斎藤利藤は6月に隠居させられ、復権できないまま2年後の1498(明応7)年に亡くなった(斎藤利藤墓所)。また、前守護の成頼も斎藤妙椿が建立した瑞龍寺にて1497(明応6)年に死去した(土岐成頼墓所)。
 その後も土岐氏はお家騒動を起こし、やがて斎藤道三が台頭することになる。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1495年・1496年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
土岐成頼 G135 土岐政房 G135 斎藤利純 F864
土岐元頼 G135 石丸利光 F*** 斎藤利藤 F862

 

【B-GF007】船田合戦終焉の地
 本来(当時)の舎衛寺は本堂池の辺りと想定すると、そこを中心とした東側背後の丘陵が城田寺城とも考えられるため、登ってはみたが、曲輪っぽい平坦地はあるものの土塁や堀跡,堀切などの遺構は確認できなかった。後世に加工が加えられた形跡もあり、城田寺城跡の特定はむずかしい(本サイトでは「城跡」としては記載せず)。

 

【B-GF007】船田合戦終焉の地

船田合戦(1495年3月~1496年6月20日)

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掲示板に貼られた説明文 「船田合戦終焉之地」碑 舎衛寺 白山神社 白山神社東側 白山神社東側 本堂池の東側の丘陵地 本堂池の東側の丘陵地 本堂池の東側の丘陵地 本堂池の東側の丘陵地 本堂池の東側の丘陵地 本堂池の東側の丘陵地