加納城跡
かのうじょうあと(Kano Castle Ruins)
【C-GF022】探訪日:1990/8/16・2015/9/5・2024/2.24・2.27
岐阜県岐阜市加納丸之内7
【MAP】
〔駐車場所〕城跡南側に駐車場がある。
1445(文安2)年、斎藤利永が川手城の支城として築いたのが始まりとされる。1495(明応4)年の船田合戦では、石丸利光の一族・石丸利定が斎藤妙純の加納城を包囲したが、長井秀弘の反撃に遭い、利定ほか多くの死傷者を出し敗走した。1538(天文7)年頃に一旦廃城となっている。
1601(慶長6)年、徳川家康は、織田秀信(信長孫)が本拠地としていた岐阜城を廃城とし、翌1602(慶長7)年7月から加納城を築き、9月には家康の義理の息子である奥平信昌を入れた。その後、奥平氏に嫡子がなく改易されると、大久保忠職,戸田光重,安藤信友が城主となる。時代が下って1755(宝暦5)年に永井直陳が加納藩主となって以降、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。
加納城の縄張は家康自身が行ったとされ、建材は主に解体した岐阜城天守や櫓の部材,石垣等を移築転用している。加納城は2重の堀をもつ南北に細長い(南北約550m,東西約400m)城であり、大手門は北側にあり外枡形となっていた。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、少なくとも北堀は障子堀であった。外堀は東側が荒田川、北側が清水川、西側が長刀堀である。主要な部分は本丸を中心に東に二ノ丸、北に厩曲輪,三ノ丸、南に大藪曲輪があった。本丸は方形をなし、そこから外枡形が突出している。これは初期徳川系城郭の特徴のひとつで「加納城型」とも呼ばれる。『加納城修理絵図』には、本丸北西隅に天守台,北東,南東,南西の隅に2重の隅櫓、南西隅櫓と天守台の間に二重櫓が1棟が描かれている。天守は上げられず、代わりに二ノ丸北東隅に独立式層塔型三重四階の御三階櫓が建てられていた。
1872(明治5)年の廃城令により城の建物は破却され、城門などは売却された。