川手城跡
かわてじょうあと (Kawate Castle Ruins)
【C-GF012】探訪日:2015/9.05・2024/2.25
岐阜県岐阜市正法寺町33
【MAP】
〔駐車場所〕
1353(文和2)年、土岐頼康は、信濃国,伊予国平定の功により美濃国,尾張国,伊勢国の3ヶ国の守護職となり、手狭となった長森城に代わり革手城を築城した。以降、第11代土岐頼芸までの9代にわたり土岐氏の本拠地となる。旧木曽川(現・境川)と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれた城郭であった。城郭といっても、広大な敷地に神社,仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物で住居としての城であった。
1467年(応仁元年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになり、西の山口(大内氏)・東の川手と言われたほど当時の繁栄はかなりのものであった。
しかし、1494(明応2)年、土岐氏の相続争いを発端とする船田合戦により、城は焼失。後に再建されるが、1530(享禄3)年、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となる。城下町である川手は廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師等がその繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われてしまった。