正法寺跡
しょうぼうじあと(Shobo-ji Temple Ruins)
【T-GF010】探訪日:2024/2.27
岐阜県岐阜市薬師町24
【MAP】
〔駐車場所〕
薬師如来を本尊とする臨済宗の寺院である。山号は霊薬山。同市にある金鳳山正法寺(大仏町),五光山正法寺(小野),慈雲山正法寺(向加野)とは、縁起の異なる別の寺院である。守護館である川手城の敷地ないし隣接地にあったとされ、船田合戦を経て廃寺となった。
1353(正平8/文和2)年、美濃国守護・土岐頼康が川手城を築城した際に無本覚心(法灯禅師)の法嗣・嫩桂正栄を招いて建立した。その後は開山の法嗣・信中自敬が2世として襲いでいる。土岐氏の外護のもと、七堂伽藍を備え、塔頭も雲門庵,石門庵,法喜庵,三世庵,常春庵,慈光院,利名院,大亀院など多数建てられ、美濃屈指の禅刹であった。
1467(応仁元)年以降、京都が応仁の乱により荒廃した際には、土岐氏の招きにより足利義視,一条兼良が訪れ、その他にも雪舟等楊や万里集九,宗祇など文人墨客も正法寺で活動をして、川手には一大文化圏が形成された。
しかし、1495(明応4)年の斎藤妙純と石丸利光が戦った船田合戦では、妙純の弟・斎藤利綱が村山利重らを率いて正法寺に入り、同時に利光の弟・石丸利元も間道から正法寺に移り、1つの寺で斎藤軍が北、石丸軍が南に対陣した。戦いでは斎藤軍が勝利し、石丸利元は船田城へ逃れたが(正法寺の戦い)、戦場となったことで伽藍,塔頭は焼失、さらに1509(永正6)年頃には、守護所が長良川北岸へと移転したことで荒廃していった。跡地に残った土塁も、1602(慶長7)年の加納城築城の際に取り去られたという。
現在は、跡地に薬師堂が建てられている。