船田城跡
ふなだじょうあと(Funada Castle Ruins)
【C-GF072】探訪日:2024/2.24
岐阜県岐阜市水主町1丁目
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、室町時代に美濃国守護職の土岐家によって守護所を設けた革手城の支城として築かれ、重臣の石丸利光が城主を務めた。斎藤妙純(利国)の居城である加納城の南に位置し、約200m四方の城館ではなかったかと推測されている。
石丸利光は、斎藤妙椿とともに各地で戦功を挙げ、妙椿が死去すると、守護代・斎藤利国(妙純)とともに守護・土岐成頼を補佐するが、やがて斎藤利藤(妙純の異母兄)と組んで次第に妙純と対立するようになり、次期守護職をめぐってその対立は武力衝突へと発展していく。1494(明応3)年12月、石丸利光の妙純暗殺計画が未遂に終わり、一旦和睦するも、妙純は自身の加納城の増強を進め、1495(明応4)年、ついに両軍は開戦に至った(船田合戦)。
4月11日、両軍は正法寺の北と南に対陣した。5月11日には石丸方は次期守護に推す土岐元頼を船田城に入城させた。気勢を上げた石丸軍は19日に利光の一族・石丸利定が妙純方の安養寺を急襲、さらに加納城を包囲したが、反撃に遭って利定は戦死、死傷者500名を出して敗走した。斎藤軍は勝利に乗じて21日に正法寺へ入り、石丸方は船田城へ逃れた。
その後も両軍に援軍が加わり合戦が続いたが、利光は度重なる敗戦で戦意を喪失、7日に船田城を焼き払い、元頼と毘沙童(利藤の末子)ら500騎を連れて近江へ逃れた(その後の経過は【B-GF007】船田合戦終焉の地を参照)。
船田城の遺構は残されておらず、正確な位置もはっきりしないが、わずかに周囲から微高地である水主町辺りと推測され、確証はないが、一部に堀跡らしき地形はみられる。