雨山古戦場
あめやまこせんじょう(Historic Battlefield of Ameyama)
【B-AC008】探訪日:2020/3.15・2023/5.2
愛知県岡崎市雨山町
【MAP】
〔駐車場所〕 雨山ダム西側に駐車場がある。
1556(弘治2)年、雨山領主で奥平氏と姻戚関係にあった阿知波修理定直が今川氏に叛いて織田氏に寝返ると、今川義元は伊奈城の本多忠俊,二連木城の戸田宣光,野田城の菅沼定村など東三河の七将に雨山城の攻撃を命じた。これを聞いた奥平貞能,菅沼定継らは急ぎ雨山城の救援に駆けつけ、8月3日、雨山合戦が始まる。はじめは先鋒の菅沼定村,定貴,定満の3兄弟を破って優勢であったが、後続の本多忠俊らに破れ、今川離反の首謀者であった奥平貞勝は降伏し再び今川氏の配下となった。8月21日、事実上の孤軍となった菅沼定継も菅沼一門による鎮圧軍の反撃に晒され、定継たち造反軍は蜘蛛の子を散らしたように遁走した。しかし敗走兵への追撃は執拗で、田峯城までは逃れきれぬと悟った定継は、僅かな供回りとともに布里の黒ヌタ(現在場所不明)という所で自刃して果てたとされる。
雨山ダム駐車場の100mほど手前右手に雨山合戦跡の石碑、50mほど手前の左上に雨山合戦戦病死者供養塔と菅沼定村の宝筐印塔がある(なお、定村の墓は江戸時代に泉龍院に移され、台座のみがある)。また、雨山川を渡った林の中に近藤彦七,菅沼定貴・定満の墓所が、すこし西に行ったところに雨山合戦戦死者の20基の墓がある。