泉龍院
せんりゅういん(Senryu-in Temple)
【T-AC098】探訪日:2023/5.5
愛知県新城市豊栄6 <📲:0536-22-1045>
【MAP】
〔駐車場所〕 参詣者用駐車場がある。
1460(寛正元)年、龍渓院2世・盧岳洞都禅師の命を受け聞庵道見禅師が入山し、螺貝にまつわる山のいわれとそのおもむきに心動かされて草庵を営み、1464(寛正5)年に諸堂が完就すると山号を「螺貝山」と命名し、1470(文明2)年、龍渓院より盧岳禅師を勧請し開山した。本尊は釈迦如来。螺貝にまつわる話として、聞庵道見禅師が吉水の洞窟で坐禅を続けていたところ、山獄ごと震動して崩れ洞中から螺貝が吹き出し、加えて里人から聞いた「螺貝山」という山の名称に法華経でいわれる大法螺貝に因縁を感じたという。仏法を営むに好適地とみた聞庵道見禅師は、沼を埋めて草庵を構えカヤの実を常食としてひたすらに打坐し悟りを開いた。
以来熱心な布教によって帰依する者が増え、7世の代には全国各地に270余寺の門葉寺院を擁するに至った。住職を、5世・光国派,6世・希聲派,7世・琴室派の3派のうち輪住格をもつ末寺からの輪番制をとり、開山より175代の住職により継承されてきたが、明治維新の改革で輪番制が廃止され、独住制となり現在に至る。
なお、1539(天文8)年、野田城初代城主・菅沼定則は開山以来長い年月で傷んだ伽藍を改築、1544(天文13)年には大門前に「不春禅学敲門道場」を建立し住した。1547(天文16)年2月14日、本院で死去し葬られている。子の菅沼定村が大洞村を新設して全域を院領としたことにより、山号を「大洞山」と改めた。
1573(元亀4)年、武田信玄が来攻した野田城の戦いで伽藍を焼失したが、野田城主3代目・菅沼定盈が大檀那となり院を修復している。その際、定盈は本尊釈迦牟尼仏を寄進して戦死した父・菅沼定村の追福とした。
境内には、開山の盧岳洞都大和尚石像,野田菅沼氏の墓碑,龍神池があり、開山堂では徳川家代々の位牌を安置し奉祀している。