野田菅沼氏墓所〔泉龍院〕
のだすがぬまし ぼしょ〔せんりゅういん〕(Graves of Noda-Suganuma Clan [in Senryu-in Temple])
【K-AC218】探訪日:2023/5.5
愛知県新城市豊栄6
【MAP】
〔駐車場所〕 泉龍院参詣者駐車場がある。
泉龍院境内にある野田城初代城主の菅沼定則,2代・菅沼定村,3代・菅沼定盈,丹波亀山城主となった菅沼定芳の墓碑である。
菅沼定則は菅沼定忠の3男であったが、設楽郡の支配者であった富永氏から後嗣を望まれ、野田菅沼氏初代となる。富永氏の居館・野田城から移転すべく新たな野田城を築き、今川氏,松平氏,再び今川氏と戦乱の世を渡り、晩年は泉龍院の伽藍改築を行い、10世・泰年全継住職に帰依して不春居士号を授けられた。翌年には、梵鐘を寄進し、1544(天文13)年に菅沼定村に家督を譲ったのち泉龍院大門前に「不春禅学敲門道場」を建立し住した。1546(天文15)年、病に臥せると11世住職・光国舜玉は願いを聞き入れ当院に止錫し、翌春2月14日に逝去した際には10世・泰年全継,11世・光国舜玉,12世・海岩俊智の3導師により「永昌院殿不春玄休大居士」が呈せられ、泉龍院に葬られた。
定則の跡を継いだ菅沼定村は1556(弘治2)年、雨山合戦で馬上から下知していたところを左喉から耳を貫かれ、落馬絶命。墓は雨山にあったが、江戸時代に泉龍院に移された(雨山には台座だけが残る)。
3代・菅沼定盈は野田菅沼氏という一族の支流ながら、武田軍に捕らわれることがあっても一度も家康に弓を引くことが無かったため、その功績が高く評価され、家康の関東移封では上野阿保に1万石で配されている。徳川政権下においても子孫は一族中最も繁栄している。1604(慶長9)年に死去。
菅沼定芳は定盈の6男として三河設楽郡野田で生まれ、徳川家康,徳川秀忠に仕えた。長島藩の初代藩主であった兄の定仍が死去したため家督を継いで長島藩2代藩主となったのち、近江膳所藩主を経て1634(寛永11)年、4万1000石で丹波亀山藩へ移封された。1643(寛永20)年1月17日、57歳で死去した。