野田城跡
のだじょうあと(Noda Castle Ruins)
【C-AC023】探訪日:2007/5/24・2015/8/15・2019/6/16
愛知県新城市豊島本城
【MAP】
〔駐車場所〕
1508(永正5)年、菅沼定則が富永荘の地頭・富永直郷の後継となり、ここに城を築いたとされ、子の菅沼定村,孫の菅沼定盈らが居城とした。城は南東に向かって半島状に伸びた台地の上に築かれ、南端に本丸、北に向かって二の丸,三の丸を配していた連鎖式である。本丸と二の丸を区画する空堀は大きく、土橋が架かっている。本丸はこの土橋に対して北東側が張り出しており横矢を掛ける構造であり、空堀に面した北と南に分厚い土塁が設けられ、南側にも空堀がある。また、井戸跡も残されている。
野田菅沼氏は今川氏に属していたが、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、三河の松平元康(のちの徳川家康)に属した。そのため、翌年には今川勢に攻囲され開城退去している(定盈は五葉城近くに退き高城砦を築いた)。しかし、その翌年、定盈は夜襲で野田城を奪回するも損壊が激しく修築に刻を費やされたため、仮本拠を大野田城に定めた。
1571(元亀2)年、武田氏の遠江,三河侵攻において山県昌景,小笠原信嶺らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたという。
1573(天正元)年、武田信玄の東三河攻略が始まり、菅沼定盈は籠城戦を戦ったが、金山衆によって水の手を断たれて開城降伏した。この戦いでは、信玄が城兵村松芳休の笛の音に聞き惚れ、城に近づたところを鳥居三左衛門の火縄銃に撃たれ、重傷を負って甲斐国に引き上げる途中で亡くなったという伝説がある。本丸の西側に「武田信玄を狙撃した場所」と伝えられる所、その対岸にあたる法性寺の上の所に「武田信玄が狙撃された場所」と伝える場所がある。法性寺の山門は野田城の城門を移築したものだと伝えられる。
1590(天正18)年、 徳川家康の関東移封によって、野田城主菅沼定盈も上野へ移封となり、野田城は廃城となった。
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▲「野田の戦い」説明板
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▲二の丸跡
▲二の丸跡
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▲二の丸と本丸の土橋
▲空堀跡
▲空堀跡と土橋
▲空堀跡
▲本丸跡
▲城址碑
▲[伝]信玄公狙撃場所
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▲井戸
▲井戸内部
▲土塁
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▲空掘跡
▲空堀跡
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