鷲津砦跡〔桶狭間古戦場〕
わしづとりであと〔おけはざまこせんじょう〕 (Washizu Fort Ruins[Historic Battlefield of Okehazama])
【C-AC028】探訪日:1988/4/24・2021/3/11
愛知県名古屋市緑区大高町鷲津山
【MAP】
〔駐車場所〕
1559(永禄2)年、織田信長は今川方重臣の岡部元信が守る鳴海城を囲むように丹下砦,善照寺砦,中島砦の三つの砦を築き、さらに、今川方の鵜殿長照が守る大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦,鷲津砦を築いた。鷲津砦の守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれた。大高城の南側には正光寺砦,氷上砦,向山砦を築いたともされる(下図では省略)。
1560(永禄3)年5月19日早朝、尾張に侵攻した今川義元軍先鋒隊は鷲津砦と丸根砦の攻撃を開始した。その報せを受けた信長は清洲城から出陣したが、熱田神宮に差し掛かったときには、すでに両砦は落とされていた。丘陵の麓にあった長祐寺(現在の長寿寺)も鷲津砦の兵火により焼失したという。篭城戦を試みた飯尾定宗,織田秀敏は討死、飯尾尚清は敗走した。このとき鷲津砦を攻撃した今川方の武将は朝比奈泰朝と松平隊の本多忠勝,本多忠真とされる。しかし、その日の桶狭間の戦いで義元は討ち死にし、鷲津砦が再び使われることはなかった。
大高城の北東約700mの丘陵上に築かれ、東西25m,南北27mの規模だったという。