大豆戸古戦場(承久の乱)

まめど こせんじょう(じょうきゅうのらん)(Historic Battlefield of Mamedo [the Jokyu War])

【B-GF008b】探訪日:2024/2.8

【B-GF008b】大豆戸古戦場 岐阜県各務原市前渡

【MAP】

〔駐車場所〕

   1221(承久3)年6月5日、承久の乱における大井戸渡の戦いに続き、鎌倉幕府軍と朝廷軍が激戦を繰り広げた場所である。
 同年5月15日、後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の院宣を出すと、19日には上皇挙兵の報が鎌倉に届けられ、鎌倉幕府軍は三手(東海道軍,東山道軍,北陸道軍)に分かれて京都に進軍する。これに対し、朝廷軍はこれを迎え撃つべく木曽川沿いに兵力を分散させて広く配置した(兵力分散が敗因となった)。
 6月5日、武田信光率いる東山道軍5万余騎が上流の大井戸渡で大内惟信率いる朝廷軍2000騎に圧勝し、下流の鵜沼渡に向けて進軍を開始すると、総大将・藤原秀康率いる1万余騎の朝廷軍に対峙していた北条泰時を総大将とする幕府東海道軍10万余騎も浅瀬のある摩免戸(大豆戸)の地で木曽川を渡り、攻撃を仕掛けた。大井戸の敗戦を知った朝廷軍は動揺を隠せず、藤原秀康,三浦胤義らは早々に京での防戦に備えるとして退却してしまった。6月6日の早朝、北条時氏・有時が大江佐房,阿曽沼親綱,小鹿島公成,波多野経朝,三善康知,安保実光らとともに摩免戸を打ち渡った。ほとんどの兵が敗走する中、山田重忠と鏡久綱は留まって戦ったが、美濃源氏・重宗流の重忠には美濃国で同じ美濃源氏の国房流に迫害を受けているのを挽回したい思いがあったとされる。しかし、最後には重忠も退却せざるを得ず、鏡久綱だけは名を残したいとその場で姓名を記した旗を高くそびえたつ岸に立て置き、しばらくは幕府軍の兵をあしらっていたが、やがて「臆病な秀康に付き従ったため、思うように合戦することができず、非常に後悔している」と言い残して自害した。6日夕方の朝廷方本陣には1人もいなかった。
 大豆戸の戦いの戦死者の供養塔が矢熊山中腹に祀られている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代
関連年号 1221年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
北条泰時 H171 三浦義村 H511 北条時氏 H172
大江佐房 OE07 波多野経朝 F957 三善康知 MS**
藤原秀康 **** 三浦胤義 H510 小野盛綱 ON**
佐々木広綱 G742 山田重忠 G604 鏡 久綱 G742

 

【B-GF008b】大豆戸古戦場
  

 

【B-GF008b】大豆戸古戦場

 

承久の乱での鎌倉幕府軍進路(各務原市歴史民俗資料館パンプレットに加筆)

 

承久の乱  尾張川(木曽川)の戦い(1221年6月5,6日)

合戦地

大井戸渡

鵜沼渡

板橋

気勢(池瀬)

大豆戸(摩免戸)

上瀬

墨俣

幕府軍

東山道軍:5万余騎

東海道軍:10万余騎

50,000余騎

100,000余騎

武田信光

小笠原長清

小山朝長

結城朝光

毛利季光

野村宗茂

足利義氏

狩野宗茂

北条泰時

三浦義村

北条時氏

大江佐房

波多野経朝

三善康知

北条時房

朝廷軍

2万余騎

2,000余騎

1,000余騎

1,000余騎

1,000余騎

10,000余騎

1,000余騎

大内惟信/惟忠

蜂屋入道/三郎

五条有長

糟屋久季

斎藤親頼

神地頼経

荻野景員

山田重継

朝日頼清

関 政綱

土岐国衡

関田重国

藤原秀康

三浦胤義

小野盛綱

佐々木広綱

山田重忠

鏡 久綱

源 翔

藤原秀澄

山田重忠

赤字はこの戦いでの戦死者。このほか、稗島,食渡,市河前では朝廷軍は戦わずして退却

【B-GF008b】大豆戸古戦場 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

矢熊山山頂からの古戦場 古戦場から見た矢熊山 木曽川北側(朝廷軍側) 手書きの看板 前渡の渡し跡 木曽川北側(朝廷軍側)から幕府軍側を見る 木曽川北側(朝廷軍側)から幕府軍側を見る 木曽川南側(幕府軍側)から朝廷軍側を見る 木曽川南側(幕府軍側)から朝廷軍側を見る 草井渡址 草井渡址