一言坂古戦場
ひとことざかこせんじょう (Historic Battlefield of Hitokotozaka)
【B-SZ002a】探訪日:2019/2/3
静岡県磐田市一言
【MAP】
〔駐車場所〕
三方ヶ原の戦いの前哨戦の地である。1572(元亀3)年、武田信玄は西上作戦を発動する。天竜川を渡らせたくない徳川家康は、本多忠勝,内藤信成を偵察に先行させ、同年10月14日に自身も3,000の軍勢を率いて出陣し天竜川を渡河した。
しかし、武田軍は家康の予想よりも早く進軍しており、先行していた偵察隊は武田の先発隊と遭遇する。偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始め、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まるが、徳川軍は兵の多寡もあり、家康は撤退を決める。本多忠勝と大久保忠佐は徳川本隊と内藤隊を逃すために殿を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取った。急戦で陣形もままならぬ本多隊を武田軍先鋒の馬場信春隊が突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段までを打ち破った。また、信玄の近習である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけた。これに対し、忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃走を図る。死を覚悟した本多隊に対し、左近はこれを迎え撃たず、道を空け本多隊を見逃す。このとき、忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われる。こうして本多忠勝の働きによって家康率いる本隊は天竜川を渡り切ることに成功し、撤退戦を完了させた。
徳川軍は無事に浜松城まで撤退できたものの、武田軍は12月19日に二俣城を陥落させ(二俣城の戦い)、さらに、12月22日には三方ヶ原の戦いで徳川軍を撃退した(三方ヶ原の戦い)。
一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場した。これは小杉左近が書いたと言われる。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
関連年号 | 1572年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
武田信玄 | G425 | 徳川家康 | TG01 | 本多忠勝 | F504 |
内藤信成 | F909 | 大久保忠佐 | F647 | 馬場信春 | G*** |
小杉左近 | **** |
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▲上り坂側
▲下り坂側
▲「一言坂戦跡」説明板
▲説明板近くの上り坂