二俣城跡
ふたまたじょうあと (Futamata Castle Ruins)
【C-SZ017】 探訪日:2017/8/17
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、戦国時代初頭に遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、文亀年間(1501~04年)に斯波義雄が北東の平坦地に城館を構えたのが始まりとされる(笹岡古城)。二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり水運に恵まれた地であると同時に信濃から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、気賀まで抜ければ浜名湖の東側に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。
その後、今川領となり、瀬名一秀,二俣昌長らが城主となる。1559(永禄2)年、松井宗信の時代、城の位置を変更し天竜川を見下ろす小山に築城したといわれるが確実な史料はない。宗信は1560(永禄3)年5月の桶狭間の戦いで当主義元とともに討死している。1568(永禄11)年になると、徳川家康に攻撃され降伏する。家康は鵜殿氏長を城代として置き、武田勢の攻撃の危険が高まると譜代の家臣である中根正照に城代を交代させた。
1572(元亀3)年10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した。城代中根正照以下必死に抗戦したが、城内の水之手が天竜川に井楼を組んで汲み上げていることを知った武田勢は、上流から筏を流してこれを破壊した。水之手を断たれた城内は水不足となり開城を余儀なくされた。二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、12月23日に三方ヶ原の戦いに至る。
1575(天正3)年、長篠の合戦で武田氏を敗った徳川家康は、武田氏の家臣依田信守,信蕃父子が守る二俣城攻略に懸かり鳥羽山城に本陣を構えて、その周囲に毘沙門堂砦,蜷原砦,和田ヶ島砦を築いて包囲した。父信守が病死するなか信蕃が指揮して奮戦し、諏訪原城が攻略されても抵抗を続けたが、全ての城兵を助けることを条件として開城、信蕃は駿河田中城へ退去した。家康は家臣の大久保忠世を二俣城主とし、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。
1579(天正7)年、家康の嫡男松平信康とその生母築山殿に武田氏への内通の疑い有りとの報が織田信長にもたらされた。信長は家康にこの二人を処断するよう求め、家康はまず築山殿を殺害(御前谷太刀洗の池,西来院)、さらに9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた(切腹は家康や家臣団との対立という説も強い)。信康は享年21。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られ、翌年には家康によって同院に松平信康廟所が建立された。その後、家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせている。
1590(天正18)年、徳川家康の関東移封にともない大久保忠世も相模国小田原四万石の城主として移り、替わって浜松城主となった堀尾吉晴の弟堀尾宗光が二俣城主となり、関ヶ原合戦後、堀尾氏が出雲国広瀬へ転封となると廃城となった。
二俣城は北から北曲輪,本丸,二の曲輪,蔵屋敷,南曲輪と続く連郭式山城である。本丸は西側に天守台が残り、北東と南東に虎口を開く。北東の虎口は大きく改変されているが、南東虎口は桝形となる。南下にある二の曲輪は本丸に付属するもので、南にある蔵屋敷との間は空堀で区画している。北曲輪は本丸の北にあり旭が丘神社が鎮座している。北側に土塁が付いており、南北両側を空堀で区画している。また、井楼が清瀧寺に復元されている。
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▲【転載】登城口(Google Mapより)
▲【転載】駐車場はこの先(Google Mapより)
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▲城址碑
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▲食違い虎口
▲食違い虎口
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▲本丸跡
▲天守台
▲天守台
▲天守台
▲野面積みの石垣
▲野面積みの石垣
▲天守台上
▲天守台から見た本丸跡(ゲートボール中)
▲本丸跡
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▲追手虎口
▲追手虎口
▲追手虎口
▲二の曲輪跡
▲二の曲輪跡
▲二の曲輪跡
▲二の曲輪跡
▲二の曲輪跡
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▲枡形虎口
▲堀切
▲堀切
▲土塁
▲天竜川を見下ろす
▲腰曲輪跡
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▲旭が丘神社
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▲堀切
▲南側からの登り口
▲南側からの登り口